第14章:永遠の扉 ~狂気の愛~
美術室の窓に小雨が打ちつける音が響く。ステンドグラスを通り抜けた雫が虹色の光を放ちながら流れ落ちていく。二人の間に流れる沈黙は、時が止まったかのような確かな想いで満ちている。
俺は瞼をそっと伏せ、ゆっくりと言葉を紡いでいく。心の奥底で渦巻く感情を、どうにか形にしようと必死だった。
「俺さ……お前と初めて図書館で会った時のこと、今でも鮮明に覚えてる」
約7カ月前のあの日のことを思い出すと、不思議な感覚に包まれる。運命という言葉を信じたことはなかったのに、蓮との出会いだけは違った。まるで予め決められていたかのような、そんな必然性を感じていた。
「もっと普通に知り合いになれば良かったのかもなって思う時もある。でも、それじゃ、今のお前を知らないままだったんだなって……」
蓮の瞳が揺れる。その中に映る複雑な感情を読み取ろうとしながら、俺は続けた。
「お前の事、最初から気になってたんだ。あの時教えてくれた詩みたいに、何かが心の奥で引っかかってて……それが今、やっと分かった気がする」
教えてくれた蓮の詩を、俺は静かに口ずさんだ。その言葉が持つ意味を、今なら理解できる。
「『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる』」
声に出すと、詩の持つ狂気じみた美しさが、この状況にぴったりと当てはまることに気づく。
「今なら分かる。お前の狂おしいほどの想いが」
蓮の目に涙が溢れる。その一滴が頬を伝い落ち、月明かりに照らされて宝石のように輝いている。俺はその美しさに息を呑んだ。蓮という存在そのものが、まるで芸術作品のようだと感じる。
「この詩には続きがあるんです」
蓮は震える手で本を開き、詩を読み始める。その声は、まるで祈りのように神聖で、俺の心を深く揺さぶった。
「『しかし、愛は計算を超えて。私の心は、予定外の狂気に溺れていく』」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かが弾けた。これこそが、俺たちの関係を表す完璧な表現だった。
「僕は先輩を騙しました」
蓮の声が震える。その告白に、俺の心臓が激しく鼓動する。
「でも——」
蓮が一瞬言葉を切る。その間に、俺は蓮の心の奥にある真実を見つめようとした。
「でも騙している間に、僕自身がこの想いに溺れていました」
蓮が一歩近づく。その足音さえも、俺にとっては特別な音楽のように聞こえる。
「最初は美しい被写体としての興味でした。でも、いつの間にか……先輩の優しさに、強さに、全てに魅了されたんです」
蓮の告白を聞きながら、俺はかつて感じたことのない複雑な感情に包まれる。恐怖と安らぎ、不安と幸福が同時に存在している。これが愛というものなのか、と思う。
「でも、それだけじゃないんです」
蓮が別のキャンバスを指差す。俺はその方向を見て、息を呑む。
「これは……」
そこには、まだ現実には存在しない俺の姿が描かれていた。優しく微笑む表情。蓮の手を取る仕草。抱き締める瞬間。全て、蓮の想像の中だけに存在する情景。
その絵を見つめながら、俺は奇妙な感覚に襲われる。まるで未来の自分を見ているような、そんな不思議な既視感。
「僕の夢です。いつか先輩と、こんな時間を過ごせることを願って……ずっと描き続けています」
蓮の瞳に映る想いは、正気なのか狂愛なのか、もはや区別がつかない。そしてそれが、俺にとってはこの上なく魅力的に感じられる。
「計算外の恋か」
俺は苦笑いを浮かべながら呟いた。自分でも驚くほど、この状況をすんなり受け入れている。
「はい。完璧な計画の中で、唯一予測できなかったもの」
蓮の答えに、俺は深く頷く。愛というものが、どれほど予測不可能で危険なものなのか、今になって理解した。
「大好きです、先輩」
その言葉を聞いた瞬間、俺の心の奥にある最後の氷の要塞が音を立てて砕け散る。もう抵抗する理由など見つからない。
「お前は……本当に危険な奴だな」
俺は深い溜息をつきながら、蓮を見つめる。その表情には、諦めと同時に、どこか安堵のような感情も混じっていた。
「計算づくで近づいて、俺の心を完璧に掴んで……」
振り返ってみれば、蓮の戦略は見事なものだった。俺という人間を徹底的に研究し、最も効果的な方法で心を掴んでいく。そのプロセス自体が、ある種の芸術作品のようでもある。
「先輩……」
蓮が俺を呼ぶ声には、不安と期待が入り交じっている。
「そして最後に、この想いまで盗んで……もう逃げられない。お前の罠に、完全に嵌められたよ」
でも、それは罠というより、気づけば自分から飛び込んでいた檻のようでもあった。
俺は自分の敗北を認めながらも、それが敗北ではなく勝利のような気がしていた。これほど深く愛されることの幸福を、初めて味わっている。
「愛しています」
蓮の声が震える。その一言に込められた感情の深さに、俺は圧倒される。
「呼吸をするように、先輩を想い続けます」
その言葉の持つ重みを理解した時、俺の心の中で何かが決定的に変わった。これまで感じたことのない責任感と、同時に深い愛情が湧き上がってくる。
「もう、完敗だ」
俺の声が低く響く。自分でも驚くほど、その言葉には満足感が込められていた。
「降参する……」
蓮の目が大きく開く。まるで信じられないものを見るような表情で、俺を見つめている。
「本当に……?僕を受け入れてくれるんですか?」
その問いかけに、俺は迷わず答えた。
「うん」
俺は力強く頷く。もう迷いはない。
「こんなにも俺のことを想ってくれるやつ、他にいるはずがない」
蓮がさらに一歩近づき、俺の手に触れる。その瞬間、電気が走ったような熱に包まれた。夜の帳に浮かぶ蓮の瞳が、切なく、そして深い愛情を湛えて揺らめいている。
「先輩は……僕のものになってくれますか?」
その問いかけには、甘い支配欲と純粋な愛情が混在している。俺はその危うい魅力に、完全に心を奪われていた。
「いいよ。もうお前のものだ」
俺の答えに、蓮の表情が歓喜に変わる。しかし、その瞳の奥には、まだ不安の影が潜んでいる。
「息をするかぎり離れませんよ?」
蓮の声には、まだどこか不安が残っている。まるで夢から覚めることを恐れているかのような、儚い表情を浮かべている。
「うん」
俺の答えは簡潔だったが、その目には迷いがなかった。もう後戻りはできない。そして、後戻りする気もない。
「好きだから」
俺がその言葉を口にした瞬間、蓮の体が小刻みに震えた。まるで長い間待ち続けていた言葉を、やっと聞けたような安堵の表情を浮かべている。
「本当に……いいんですか?」
蓮の声は震えている。その不安な表情を見つめながら、俺は自分の気持ちを確認する。
「うん。いいよ」
俺は優しく微笑む。もう疑いの余地などない。
「僕の想いは、これからも変わらない。むしろ、もっと強くなるかもしれないですよ?」
蓮の警告めいた言葉に、俺の心は逆に高鳴った。その常軌を逸したの愛情の深さこそが、俺を惹きつける理由なのだろう。
「覚悟はしてる」
俺は優しく微笑みながら答える。
「お前の愛の深さを、全て受け止めてやる」
その言葉に、蓮の瞳が潤む。まるで長い間抱えていた重荷を、やっと降ろせたような表情を浮かべている。
蓮は少しずつ俺に近づいてくる。その一歩一歩に、俺の心臓は激しく鼓動した。
「愛しています」
蓮の囁きが、美術室に響く。その声は、もはや祈りのように神聖で美しい。
蓮の指が俺の頬を撫でる。その仕草には、芸術を愛でるような繊細さがあった。俺は目を閉じ、その感触を心に刻み込む。
蓮の指先が、そっと俺の唇をなぞる。その瞬間、俺の体を電流が走り抜けるような感覚があった。
「本当に……」
蓮が囁く。その声は、甘く、切なく、決意に満ちている。
蓮の瞳が潤む。その中に映る狂気と純愛が、不思議な調和を見せていた。俺はその美しさに、改めて心を奪われる。
「先輩が僕を受け入れてくれても、この狂気は消えません」
蓮が警告するように言う。その言葉には、甘い脅迫めいたものが含まれている。
「むしろ、もっと強い想いに変化するかもしれない」
その言葉を聞きながら、俺は奇妙な興奮を覚えていた。蓮の愛はもはや常軌を逸し、どこまで深く沈んでいくのか。その未知の世界への好奇心が、俺の心を捉えて離さない。
「分かってる」
俺は微笑みながら答える。
「その覚悟で、ここに来たんだ」
蓮の表情が、安堵と歓喜に変わる。
「先輩への想いは、息をするより大切だから」
蓮の瞳が危うく揺らめく。その中に映る想いは、もはや理性では測れないほどの深さを湛えていた。俺はその深淵を覗き込むような感覚に、ぞくぞくとした興奮を覚える。
「お前の愛は、本当に怖いよ」
俺が正直な気持ちを口にすると、蓮の表情が複雑に歪む。
「でも、その怖さが、なぜか心地良いんだ」
蓮の声が囁くように降り注ぐ。俺は震える息を漏らしながら、蓮の深い執着に飲み込まれていく感覚を味わう。戦慄と甘い期待が混じり合った、これまで経験したことのない感情。
夜の静寂が二人を包み込む。まるで俺たちを祝福するかのような、穏やかな空気が流れている。
――今夜、俺たちはどこまで堕ちていくのだろう。