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第13章:840枚の狂愛記録

 あの出会いから、半月が経過した。俺は蓮からの夜十時のメッセージを、もはや生活の一部として受け入れている。一通一通が詩のように麗しく、同時に狂気を孕んでいる。そして今朝、いつもと違うメッセージが届いた。


『今夜、美術室で先輩をお待ちしています。

 僕の愛の形を、全てお見せしたいんです。

 これが最後のお願いです。』


 最後の――その言葉の重みが胸に沈む。このメッセージには、いつもの切なさとは違う、何か決意のようなものが感じられた。終わりへ向かう序曲のような予感が背筋を駆け上がる。


 美術室へ向かう廊下で、俺はふと足を止める。窓から見える中庭の薔薇園では、初夏の暑さにも負けず、季節外れの薔薇が咲き誇っている。その棘のように、蓮の愛もまた美しく危険なものなのかもしれない。


 満月の光がステンドグラスを通して射し、幻想的な世界を作り出している。美術室のドアを開けると、イーゼルの前に立つ蓮の姿があった。月光に照らされた横顔が水無月の空のように儚げで、いつになく神々しい。


「来てくれたんですね、先輩」


 振り向いた蓮の表情には、不安と期待が交錯している。純白のシャツが月明かりに透けて、その姿はまるで幽玄な美の化身のようだ。だが、その瞳の奥には、いつもの異常なまでの執着が潜んでいるのが見て取れる。


「見せたいものがあるんだろう?」


 俺の声は、いつになく優しい響きを帯びている。その声に、蓮の肩が僅かに小刻みに揺れる。


「はい。描き終わったんです」


 蓮がキャンバスの白い布を外す。その仕草には、祈りを捧げるような丁寧さがあった。布が滑り落ちる瞬間、時が止まったような感覚に陥る。


 そこには、一枚の巨大な肖像画があった。いや、それは無数の小さな絵で構成された壮大なモザイク画だった。一枚一枚が、俺の異なる瞬間を切り取っている。


 本を読む横顔。友人と話す時の笑顔。物思いに沈む表情。雨の日の憂いを帯びた眼差し。全てが細部まで描き込まれ、息を呑むような執念を感じる。俺の知らない表情まで、そこには収められていた。


「840枚の絵で構成されています」


 蓮の声が震える。その瞳には、壊れそうなほどの一途な想いが渦巻いている。普通ではない。これは明らかに異常だ。なのに、なぜか恐怖よりも感動が先に立った。


「先輩の全ての瞬間です」


 蓮は儚げに微笑む。窓の外では、夜霧が薔薇園を包み込み、花びらに宿った露が月光に輝いている。まるで涙のように。


「これは……いつから?」


 声が掠れる。


「約7ヶ月間、先輩の一日を朝・昼・夕・夜の4つの時間帯に分けて描き続けました。朝の光に包まれた先輩、昼の穏やかさを纏った先輩、夕暮れの孤独を背負った先輩、夜の切なさに浸る先輩……全部で840枚になります」


 俺は驚愕する。7ヶ月間――まだ顔見知り程度だと思っていた時から、蓮は俺だけを見続けていたということか。しかも、これほどまでに詳細に。


 一枚一枚を見るたび、新しい発見がある。それは単なる記録ではなく、蓮の眼を通して切り取られた、愛の形そのものだった。偏執的で、理性を超えた愛情が滲んでいるのに、不思議なほど無垢だった。


「一番最初に描いた絵は……」


 蓮が左上角の一枚を指差す。その指先が、かすかに震えている。


「図書室で『イリュミナシオン』を読んでいた先輩です。あの時、先輩の横顔に心を奪われて……僕の人生が変わりました」


 それは全てのきっかけとなった日の絵。俺は、その時の自分が蓮の運命をどれほど変えたのか、今になって理解した。


「そこまで、俺のことを……」


「芸術家は、美しいものに執着します」


 蓮の声が甘く響く。その声音に、俺の理性が溶けそうになった。


「でも僕の場合、それは狂気じみた愛に変わってしまった。先輩の全てを見つめ、記録し、永遠に留めておきたかった。でも……」


 蓮がゆっくりと俺に近づく。その足取りには、獲物に忍び寄るような危険な優美さがあった。


「描けば描くほど、先輩への想いが制御できなくなってしまって……」


 俺は後退しない。むしろ、蓮の狂気に惹かれていく自分を感じている。この危険な魅力から逃れることができない。


「お前にとって、俺は何なんだ?」


 蓮の表情が歪む。甘くねじれた情念が滲んでいた。背筋が震えるほど完璧な、危うさがあった。


「最初は美しい鑑賞物としての興味でした。でも気づいたんです。先輩を描けば描くほど、その本質に近づけば近づくほど、僕は深く溺れていった」


 俺の鼓動が激しくなる。蓮の告白が、俺の心の奥深くまで響いてくる。


「なぜ、俺を描き続けるんだ?」


「芸術とは、対象の本質を捉えること。愛とは、相手の本質を理解しようとする試み。僕は先輩を描き続けることで、この二つが同じものだと気づいたんです」


 その言葉に、俺の心が大きく揺れる。哲学的で、詩的で、そして危ういほど無垢な感情に満ちている。蓮の思考の深さに圧倒される。


 俺に手を伸ばす蓮の指先が、月光に照らされ透けて見える。その手には、芸術家としての繊細さと、支配者としての強さが同居していた。この手に触れられたら、もう戻れない気がする。


「先輩は……僕の想いを、異常だと思いますか?」


 その言葉に、身が引き締まる。だが同時に、胸の奥が熱くなる。これほどまでに、誰かに愛されたことがあっただろうか。この一途すぎる愛執に、俺は完全に心を奪われている。


 俺は黙ってモザイク画を見つめる。梅雨空の下で読書する姿、五月晴れのグラウンドで友人と話す時の表情、一人で考え事をしている時の横顔。全てが細部まで丁寧に、狂おしいほどの愛情を込めて描かれている。


 蓮の声が震える。涙が溢れそうな瞳が、不安げに揺れていた。その不安さえも美しい。


「こんなふうに、ずっと見つめ続けて……気持ち悪いでしょうか」


「違う」


 俺はゆっくりと蓮の方を向く。遠雷が轟き、その振動が二人の間に漂う湿気を震わせる。


「感動した……」


 蓮の目が大きく開く。その瞳に、希望の光が宿る。


「今まで、こんなにも深く、誰かに想われたことがなかったから……」


 その言葉に、蓮の目から一筋の涙が零れる。月光に照らされ、その雫が宝石のように輝く。


 俺は一歩、蓮に近づく。床に落ちる二人の影が、月明かりに揺れる。距離が縮まるたび、蓮の体温を感じるようになる。


「最初は怖かった。お前の狂気じみた執着が」


 もう一歩。窓ガラスに、二人の姿が幻のように映る。


「でも今は分かる。これが本当の愛なんだって」


「先輩への想いは、もう止められません」


 蓮の声が囁くように降り注ぐ。普段の優しい表情が、微かに歪む。その歪みに、俺は完全に心を奪われる。


「先輩の全てを、この手の中に収めたい……」


 蓮の手が俺の頬に触れる。その瞬間、電撃のような感覚が全身を駆け巡る。


「蓮」


 俺は震える息を漏らし、蓮の頬に触れ、指で涙を拭う。そして、蓮の言葉の奥深さに俺は言葉を失う。それは芸術であり、愛の告白であり、人間の本質への探求でもあった。


「怖いか?」


 俺は問う。


「はい」


 蓮は素直に答える。その素直さに、心が震える。


「先輩に嫌われることが、怖いんです。でも、この感情を隠すことの方が、もっと怖い」


 その正直さに、俺の最後の理性が崩れ落ちる。


「俺も怖いよ」


 告白する。月光に照らされた美術室で、二人の影が重なろうとしていた。


「お前の狂気のような純愛に、完全に飲み込まれることが」


 その言葉が、雨上がりの夜気に溶けていく。そして俺は、その狂気に飲み込まれることを、心から望んでいることに気づく。840枚の絵が見つめる中で、俺たちの物語は新たな章を迎えようとしていた。


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