第12章:想いに名を刻んで ~黄昏の告白~
その夜、俺は窓際に座り、月を見上げて物思いにふけっていた。携帯を開くと、今夜も蓮からのメッセージが届いている。いつものように午後十時ちょうど。その規則性にも、蓮の執着の深さが表れている。
『先輩、今日も先輩の新しい表情を見つけました。
でも、今日は描けませんでした。
先輩の痛そうな表情を、僕の絵の中だけでも、消してあげたかったから。
でも、消せませんでした』
『先輩の痛みを消すことで、先輩の一部を失ってしまうような気がして。
僕は、先輩の全てが欲しいんです。痛みも、苦しみも、喜びも、全部。
先輩を傷つけた者の名前も、顔も、覚えています。
絶対に忘れません。』
俺の息が止まる。蓮は俺を傷つけた相手の顔まで覚えているというのか。その執念深さに戦慄を覚えると同時に、異様な安心感も覚える。これほどまでに俺を想ってくれる人間がいるのだと。
続くメッセージ。
『僕は、先輩の全てが欲しいわけじゃありません。
いえ、嘘です。欲しいです。先輩の全てを、僕だけのものにしたい。
ただ、先輩の傍にいて、守りたいだけなんです。それは、異常でしょうか?
先輩が誰かと話している時、胸の奥が苦しいんです。
これは、愛でしょうか?』
蓮の率直すぎる愛情表現に、俺の理性が揺らぐ。独占欲を隠そうともしない。むしろそれを愛の証として語る蓮の狂気に、俺は完全に心を奪われている。
画面が滲む。それは涙のせいだと気づくまでに、少し時間がかかった。なぜ涙が出るのか、自分でも理解できない。蓮の狂気的な愛に恐怖を覚えているのか、それとも感動しているのか。
守りたい、か。いや、それだけじゃない。蓮の言葉にある愛の深さが、俺の心の奥を揺さぶり続けている。
最後のメッセージが届く。
『先輩。もし僕が、普通じゃない愛し方しかできなくても、
それでも僕を受け入れてくれますか?
僕の全ての狂気を、受け入れてくれますか?
答えはいりません。ただ、僕はここにいます。いつまでも。』
月の光が部屋を照らす中、俺は携帯を握りしめていた。蓮の狂気的な愛が、俺の心を静かに侵食していく。それは恐ろしくもあり、同時に心地よくもあった。
普通じゃない愛し方――その言葉が俺の心に深く刻まれる。確かに蓮の愛は異常だ。執着的で、独占的で、時として恐怖を伴う。だが同時に、これほど純粋で深い愛情を向けられたことがあっただろうか。
俺は、蓮という毒に中毒していく自分を、受け入れようとしていた。その毒は甘く、危険で、そして抗いがたい魅力を持っている。蓮の狂気に飲み込まれることへの恐怖よりも、蓮を失うことへの恐怖の方が大きくなっていた。
月光に照らされた窓辺で、俺は静かに決意を固めていく。
明日、蓮に会いに行こう。そしてこの狂気的な愛に、正面から向き合おう。もう逃げるのはやめだ。
でも、あの夜のメッセージが、脳裏に焼き付いて離れない。
『先輩の全てが欲しいんです。痛みも、苦しみも、喜びも、全部』
普通なら、恐怖で身を竦ませるような言葉だった。
なのになぜか、あの言葉に救われた気がしていた。俺の中にある全ての醜い部分を、蓮は受け入れようとしてくれる。俺の弱さも、怒りも、恥ずかしい欲望も——全部抱えて立ち上がろうとしているのだ。
嘘から始まった関係だった。でも嘘で終わらせなかったのは、蓮の感情の方だった。
もう一度、会ってみたい。そう思った瞬間、胸の奥でくすぶっていた重いものが、ほんの少しだけ軽くなった。
◇
翌日の放課後、俺は図書室へ足を向けた。初夏の足音が空気に滲み始めた午後、重いドアを押し開く。
窓辺に一枚の紙が落ちているのを見つけた。拾い上げると、俺の後ろ姿が描かれている。図書室の窓辺で頬杖をつく姿——紙の端に小さな文字で添えられていた。
『先輩を見ていると、詩が読みたくなる。』
何度も読み返しても、単なる恋心とは違う響きがある。芸術的な憧れ、とでも言うべきか。同時に、これも蓮の仕組んだ罠なのかという疑念が首をもたげる。頭の奥でアラームが鳴り続けた。
足音が響き、振り向くと蓮が立っていた。
頬を薄紅色に染め、困惑したような表情を浮かべている。普段の計算高い眼差しではない。純粋な動揺が宿っている瞳に、俺の心拍が跳ね上がった。
「あ……それ……!」
「お前か」
俺はスケッチを握り締めたまま、蓮の瞳を注意深く見つめる。
窓の外では青葉が風に舞い、室内に木漏れ日の影が踊っている。光が二人の間に流れる時間をより鮮やかに彩る中、蓮の睫毛が陽光に透けて金色に輝いて見えた。
「これ、わざと落としたんだろ?」
蓮は黙って俺を見つめるだけだった。その瞳は揺れていたが、もう計算めいたものは見えない。ただ純粋な、切ない想いだけが宿っている。いつもの策略家の顔ではなく、一人の少年の顔がそこにあった。
「もういい加減にしろよ」
溜息が漏れる。遠くで雷鳴が、低く空気を震わせた。
「いつまで、こんな回りくどいことしてんだ。お前の気持ちは、ちゃんと伝わってるんだから」
心臓が激しく拍動する。認めたくない気持ちが胸の内で渦を巻いていた。
「先輩……僕は……」
「最初は怒ってた」
俺は蓮の言葉を遮った。本音を吐き出さずにはいられなくなっていた。
「お前に騙されたって思ってたんだ。でも、違ったんだよな?」
「え……?」
蓮の目が見開く。理解を求める切なさが表情に滲んでいた。
「お前は確かに俺を騙した。でも、お前自身も騙されてたんだ。自分の本当の気持ちに」
蓮が手でスケッチを取り返そうとする。だが俺は、それをそっとポケットに仕舞った。その瞬間、蓮の指先が俺の手に触れ、その場所に電流が走り、熱を帯びた。
「この絵、俺が預かる」
「どうしてですか……?」
声が震えている。その震えが俺の心にも波紋を広げていく。
「お前の純粋な想いが、この絵には描かれてるから」
その言葉に、蓮の目から一筋の涙が零れた。外では雨が降り出し、新緑の匂いが室内に満ちていく。
◇
その夜、俺は眠れずにいた。月光に照らされた天井を見つめながら、蓮との軌跡を辿っている。
図書室での最初の出会い。マッサージをしてくれた放課後の教室。美術室での衝撃の発見。そして今日の、あの切ない眼差し。
全て計算だったはずなのに——青嵐がカーテンを揺らす。計算外の感情が、確実にそこにあった。蓮の描いた絵を思い出すたび、心の深部で何かが軋む音を立てる。
翌日の放課後、俺は美術室に向かった。
ドアを開けると、画材の匂いの中で一人絵を描く蓮の姿があった。集中した横顔が美しい。無防備な瞬間を見ているような、妙な罪悪感を覚える。
「おい」
蓮の手が止まる。でも、まだこちらは向かない。肩が僅かに強張るのが見えた。
「人の痛がる顔なんか描くなよ」
意地悪く言ってしまう。自分でも理由が分からない。
「描くなら……」
その言葉に、ようやく蓮が顔を上げる。目が合った瞬間、全てを悟った。俺の心が音を立てて崩れていく。
怖かったのは、蓮の執着でも、異常な愛情でもない。この透明で純粋な深い眼差しに、全てを見透かされることだった。心の奥底まで見透かされているようで、背筋がぞくりとした。
「描くなら、俺の、ちゃんとした顔を描けよ」
「ちゃんとした……顔?」
蓮の声に困惑が滲む。その表情に、幼さと美しさが同居していた。
「そう」
俺は蓮の傍らまで歩み寄り、その肩に手を置く。華奢な肩が俺の手の下で小刻みに動く。体温が掌に伝わってきた。
「お前を見てる時の、俺の顔だよ」
その言葉を口にした瞬間、俺は自分の中の最後の迷いが消えるのを感じていた。
恐れていたのは、蓮の想いの強さではなく、自分もまた同じように惹かれていることだったのかもしれない。認めたくない真実がゆっくりと形を取る。
蓮の瞳が潤む。その涙が落ちる前に時を止めたくなった。
「本当に、いいんですか?」
その声には、まだ不安が滲んでいる。傷つくことを恐れる少年の声だった。
「僕のこの想いに、耐えられるんですか……?」
「計算で始まった想いだとしても」
俺は蓮の頬の涙を指で拭う。その肌の柔らかさに息が詰まる。
「今は、確かな愛になっている」
「先輩……」
「俺も同じだ」
はっきりと告げる。もう逃げられない。
「お前のこと考えて、気が狂いそうになるんだから」
蓮の瞳に、驚きと喜びと、そして何か危険な光が宿った。森で珍しい蝶を見つけた冒険家のような、美しくも恐ろしい光を。でも俺は、もうその光を恐れない。むしろその狂気に、自分も染まりたいと思っている。
夕陽が差し込む美術室。黄昏時は二人の心にも黄昏が差し込む。空気が甘い蜜のように濃密になっていく。
「描いていいですか?」
蓮の声が囁きになる。その声音に、俺の理性が溶けていく。
「先輩の、今のこの表情を」
「うん」
俺は微笑む。美術室の窓から差し込む夕陽が二人を包み込む。まるでこの瞬間を永遠に留めようとするかのように。
朝の鐘が鳴り響く中、俺は初めて、この想いに名前をつけようとしていた。
俺は自分の中の何かが、静かに、しかし確実に変化していくのを感じていた。
『先輩を見ていると、詩が読みたくなる』という蓮の言葉が、今更のように心に響いてくる。その言葉の真意を、ようやく理解できた気がした。
そして俺は、蓮の狂気的な愛に飲み込まれることを、心から受け入れていく自分を見つめていた。
もう逃げない。この異常で美しい愛に、最後まで付き合ってやろう。
これは愛だ。普通じゃない、歪んだ、狂気に満ちた愛。
でも間違いなく、俺たちだけの愛なのだ。