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第11章:青葉の憂鬱 ~夜気に沈む狂愛~

 放課後の図書室は静寂に包まれ、俺一人の世界となっていた。

 本棚の隙間を縫って歩くと、いつもの場所に『イリュミナシオン』が戻っている。


 ここから、全てが始まった。


 手に取ると、蓮が書き込んだ跡が薄っすらと残っている。

 あいつの繊細な文字が、まるで俺の心を読み解いているかのように見えた。


「『私は美しい顔の中に全てを閉じ込めることができる――あなたの欲望も、絶望も、愛も』」


 この一行を目にした瞬間、美術室で目撃した無数の肖像画が脳裏に蘇った。

 あの時感じた恐怖と、その奥底に潜んでいた得体の知れない感情。

 今ならその正体が分かる。恐怖じゃない。畏怖だった。

 蓮の才能に対する、そして蓮の俺への狂おしいまでの執着に対する。


 本を開いたまま、窓際の椅子に身を沈める。

 この場所で蓮は、いつも俺を待っていた。

 夕暮れ時が部屋を茜色に染める。

 あいつがここに座っていた時の体温が、まだ椅子に残っているような錯覚に陥る。


 蓮は図書委員だけど、最近は姿を見せない。

 きっと俺が来る放課後には遭遇しないよう気を使っているのだろう。


 携帯を開くと、蓮からの未読メッセージが並んでいる。

 あいつの言葉が優しすぎて、逆に底知れない。

 あの純粋な想いに触れるたび、自分の心がどこに向かっているのか見失いそうになる。

 最新のメッセージには、いつもの切なさとは違う、何か決意のようなものが滲んでいる。


『先輩、今日の練習試合、目が離せませんでした。

 あの接触プレーの瞬間、僕の心も痛みました。

 でも、それ以上に……強くて、美しい先輩の姿に魅せられて……。

 僕は、こんな自分が怖いです』


『先輩の痛みを見ていると、僕の心が壊れそうになります。

 先輩を傷つけた相手を、許せなくなる自分が……。

 あの選手の名前も、顔も、全部覚えています。

 僕の記憶から、絶対に消しません』


 携帯を握りしめる。

 これまで無視してきたメッセージの数々。

 その一つ一つに、蓮の想いが刻まれていたことに今更ながら気づいた。

 俺が怪我をした時、心配してくれていたのか。

 いや、それだけじゃない。


 蓮のメッセージには、病的な執着が潜んでいる。

 俺の痛みを自分のもののように感じるだけでなく、俺を傷つけた相手への憎悪まで。

 それは愛情なのか、それとも――。


「大和先輩?」


 突然の声に、携帯を落としそうになる。

 声の主は、図書委員の男子生徒だ。


「加賀見君、最近見かけませんね。美術室で絵を描いてる姿を見かけましたが、ちょっと様子が変わってしまって……」


 息を呑んだ。

 蓮の様子が変わっている?


「今日も、怪我した先輩のことを描きながら、同じ絵を何十枚も描いて……途中で破り捨てたりして。『こんなんじゃダメだ、もっと、もっと美しく……』『僕だけが先輩を癒してあげられるのに』って呟いて。あと、『あいつらを許さない』とか……正直、怖かったです」


 俺は立ち上がった。

「俺、行くわ」


 立ち去ろうとした時、『イリュミナシオン』の間から一枚の紙が床に落ちた。

 それは俺の横顔のスケッチ。

 蓮が本の栞代わりに挟んでいたのだろう。

 汗で濡れた髪が風になびく瞬間を切り取った繊細な線。

 その技術は、もはや高校生のレベルを超えている。


 そしてその隅には、小さな文字で記されていた。


『この想いは、計算外でした。

 でも、それこそが本物なのだと気づきました。

 先輩の傍にいられなくても、この想いは消えません。

 むしろ、離れているほど燃え上がるんです。

 だから――先輩を、僕だけのものにしたい』


『そう思ってしまう自分が、怖いです。

 でも、もう止められません……先輩の全てを知りたい。

 先輩の痛みも、喜びも、全部僕だけが受け取りたい。

 他の誰にも、先輩に触れさせたくない。』


 続きは書かれていない。

 だが、その未完の言葉こそが、蓮の本心を物語っているようだった。

 計算から始まった関係が、いつの間にか蓮自身をも飲み込んでいる。


 窓から差し込む夕陽が、スケッチに描かれた俺の横顔を優しく照らしている。

 まるで、蓮の狂気じみた愛そのもののように。

 俺は、もう逃げる意味があるのか分からなくなった。


 蓮への恐れが、いつの間にか愛おしさへと変わっていく。

 その変化はもう止められなかった。

 俺の心は、既に蓮のものになりかけている。


 ◇


 数日後の朝、教室に向かう廊下で、朝日に照らされた窓際に蓮が立っていた。


「おはようございます、先輩」


 振り向いた蓮の表情には、先日の切なさは見えない。

 ただ、いつもの穏やかな微笑み。

 でも俺には、その笑顔の裏にある狂気じみた想いが、痛いほど伝わってくる。


「おう、おはよう」


 その言葉には、これまでにない温かみが混じっていた。

 自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。


「先日のこと……怖がらせてしまって、申し訳……」


 蓮が言いかける。

 その声が僅かに震えているのに気づく。

 あいつも、俺の反応を恐れているのか。


「怖くなんてない。それがお前なんだから」


 俺は蓮の言葉を遮った。


「お前の想いは、ちゃんと受け取った。ただ……」


 言葉を探す間、蓮の瞳が揺れる。

 その瞳の奥で、何かが燃えているのが見える。


「少し時間が欲しい。お前の気持ちの重さを、きちんと受け止めたいから」


「先輩が望むなら、僕はいつまでも待ちます」


 蓮は柔らかく微笑んだ。

 けれど、その瞳の奥には、どこか支配欲を感じさせる光が宿っている。

 待つと言いながら、俺を手放すつもりはない、という強い意志を感じた。


「俺が部活の時」


 俺は少し視線を逸らしながら言った。


「まだ、描き続けているのか?」


「はい。先輩の全ての表情が、僕にとっては宝物です。でも最近は……」


 蓮の声が微かに震える。


「先輩の苦しそうな表情を見ると、僕の中の何かが暴れ出すんです。その苦しみを全て僕が受け取りたい。先輩の痛みを、僕だけが癒してあげたい。そして……先輩を傷つけた者を、絶対に許せない……そう思ってしまう自分が、怖くて、でも止められないんです」


 その言葉に、俺の心臓が締め付けられた。

 真っ直ぐで、歪んだ想いを向けられることに、喜びを感じてしまう。

 でも、それ以上に、何かに取り込まれるようでゾッとした。


「そうか」


 俺は悪戯っぽく微笑む。


「なら、もっと近くで見てみるか?」


「え……?」


 俺は蓮の顔を覗き込むように近づいた。

 蓮の頬が赤らみ、その瞳が大きく見開かれる。

 蓮の吐息が俺の頬に触れ、その体温を感じる。

 俺は蓮の肩を軽く叩いて、その場を去った。


 振り返ると、蓮がその場に立ち尽くしている。

 その表情は、驚きと喜びと、そして何か危険な光を宿していた。

 まるで獲物を前にした肉食動物の、美しくも恐ろしい光を。


 ◇


 それから一週間、俺は蓮との距離をどう詰めればいいのか考え続けていた。


 放課後。

 バスケ部の練習が終わり、俺は部室で制服に着替えていた。

 肩に軽い痛みを感じる。

 昨日の練習試合での接触プレーの影響だ。


 あいつ、最近見かけない。

 美術室に籠っているのか。


 そんな事を考えながら、携帯を開く。

 既読をつけたまま返信できないでいる、夜の十時のメッセージ。

 最初は即座に削除していたのに、今は消せなくなっていた。

 それどころか、十時になると無意識に携帯を手に取っている自分がいる。


「よお、大和」


 村上が部室に入って来る。

 いつもの軽い調子だが、何か言いたそうな様子が見て取れた。


「どうした?」


「お前さ、最近元気ないぞ。あのイケメンの後輩くんと何かあったのか?」


 その言葉に、俺の手が止まる。


「……別に」


「隠しても無駄だぞ。美術室で見かけたんだ、あいつのこと」


 村上の声が真剣味を帯びる。


「お前が怪我した時の絵を描いてた。でも普通じゃなかった。同じ絵を何枚も何枚も描いて、気に入らないと破り捨てて……その横で、自分が介抱している場面も描いてた。『こうだったら良かったのに』『僕が、僕だけが……』って呟きながら。あと、『あいつら、絶対に許さない』『先輩は僕だけのもの』とか……正直、ヤバいと思った」


 俺の心臓が跳ね上がった。

 あいつ……。


「でも同時に、それが切なくて……俺まで切なくなった。お前ら、何かあったんだろう?もしかして、告白でもされた?」


 図星を突かれて俺は言葉を詰まらせる。


「えっ、マジで?お前が男を好きでも俺は気にしないよ。ずっと友達でいるからな」


「……わからない。俺も、蓮のことどう思っているのか……」


 俺は窓の外を見つめる。

 夕陽が部室の中に差し込み、俺たちの影を長く伸ばしていた。


 村上は笑みを浮かべながら俺の肩に手を置いた。


「お前も、あいつのこと好きなんじゃないの?違うなら、こんなに悩まないだろ?今までの告白なんて即答で断ってたじゃん」


「……毎日、十時に……メッセージが来るんだ」


「へぇ……マメだな、あいつ」


 村上は意外そうな顔をする。


「返信してない……でも、読んでる、全部……」


「読んでるんだ?全部?それって、もう答えは出てるってことじゃね?」


 俺は深いため息をつく。


「でも、この想いを受け入れたら……」


「二度と逃げられなくなる?」


 村上が言葉を継ぐ。


「それが、恋ってもんだろ?」


「蓮は……不器用なんだ」


 俺は静かに言う。


「計算ずくで近づいてきたのに、気づいたら自分の感情に振り回されてる。でも、その感情が普通じゃない。俺への執着が、日に日に強くなってる。俺を傷つけた相手への憎悪も含めて」


「お前も似たようなもんじゃないか?」


 村上が笑う。


「計算ずくで距離を置いてるのに、気づけば毎晩メッセージ待ってるんだろ?」


 その言葉に、俺は答えることができなかった。


 夕陽が沈みかけ、部室の中が紫色に染まっている。

 その光の中で、俺は初めて自分の本当の気持ちと向き合おうとしていた。



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