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第10章:薔薇色の毒 ~透明な狂気~(蓮視点)

 見られてしまった。僕の聖域の全てを。


 美術室の隅に座り込み、震える手で散らばったスケッチをかき集める。大和先輩があの絵を見た時の表情が、焼き印のように脳裏に刻まれて消えない。驚愕、困惑、そして恐怖。


 なのに、不思議だった。羞恥や絶望よりも先に、甘い興奮が稲妻のように身体を突き抜けていく。見られた──僕という毒の全てを、先輩に。この瞬間こそが、僕が長い間夢見ていた告白の完璧な形なのかもしれない。


 興奮の波が引くと、恐怖が毒蛇のように滲み出す。先輩の震える唇、後ずさる足音、僕を見つめる眼差しに宿っていた明らかな嫌悪感。あの瞬間、僕は確実に何かを失った。もう二度と、あの人は僕を普通に見てくれない。


 月明かりが静かに降り注ぎ、僕の影を美術室の床に落としている。この時間帯の美術室は、僕だけの祭壇だ。誰にも邪魔されずに、愛を捧げられる聖なる空間。


 机に並んだスケッチブックは、すでに6冊目。表紙は全て先輩の写真で装飾されている。7冊目の表紙にそっと「大和先輩観察日記 第7巻」と書き加える。次のページには、さっきの出来事を記録する。


「6月23日 午前4時32分、先輩に聖域を発見された。

 あの時の表情──驚愕、困惑、恐怖。でも僕は嬉しかった。

 ついに僕の愛の深さを、先輩が知った。あの震えを、次は僕が止めたい。

 先輩の震える指先を、僕の手で包み込みたい。」


 文字を書き終え、携帯を手に取る。この気持ちを伝えずにはいられない。深夜だと分かっていても、構わない。むしろ、この時間だからこそ伝えたい想いがある。


『先輩、眠れていますか?僕は眠れません。

 先輩の寝顔を思い浮かべながら、絵を描いています。

 でも、記憶だけでは足りません。もっと近くで見つめていたい。

 先輩の全ての表情を、この目に焼き付けたい』


 送信ボタンを押した後、画面を見つめたまま息を止める。先輩がこの言葉を読んだ時、どんな顔をするのだろう。怒り?拒絶?それとも……名前を呼んでくれるだろうか?頬を赤く染めて、僕の名前を囁いてくれるだろうか?


 すぐにもう一通。指が勝手に動いて、抑制の利かない想いが文字になって溢れ出る。


『先輩が僕を拒絶しても、この想いは消えません。

 むしろ、燃え上がるばかりです。先輩の困った顔も、怒った顔も、全て愛おしい。

 僕は、先輩の感情を動かせていることが、嬉しくてたまりません』


 携帯が震える。先輩からの返信──ではなかった。迷惑メールだった。


 落胆が胸を突き抜ける。やはり、先輩は僕など相手にしない。今頃、僕のことを「気持ち悪い」と誰かに話しているのかもしれない。でも、その痛みすらも愛おしい。先輩が僕のことを話している──それだけで、僕は生きていける。


 この沈黙すら愛おしいと思う自分が恐ろしい。返事がないのは、先輩が言葉を失っているから──そんな風に都合よく解釈してしまう。


 筆を取り、想像の中の先輩を描く。

 もしも──あの人が僕を受け入れてくれたら。

 もしも──僕の名前を愛おしそうに囁いてくれたら。

 その時の微笑みは、きっとこんな顔だろうと。


 でも、描いている途中で手が止まる。こんな表情、先輩は僕に見せてくれるだろうか。今日、僕を見つめたあの眼差しを思い出すと、希望など持てるはずがない。それでも描かずにはいられない。この妄想だけが、僕を支えているのだから。


 キャンバスの隅に、小さく赤いシミがある。あれは、先週、カッターナイフで指を切って採った僕の血だ。インクに混ぜた時、痛みで一瞬意識が遠のきそうになった。けれど、すぐに気づいた。痛みの中でしか、本当の愛は描けないということに。


 小さなナイフを取り出し、左手の人差し指に刃を当てる。新しい血が必要だ。先輩への愛を表現するために。皮膚が切れ、真紅の血が滴り落ちる。その痛みさえも、愛の証として受け入れる。痛みは愛の温度。血は愛の色。


 でも、今夜の痛みはいつもと違う。刃が肌を切り裂く瞬間、先輩の恐怖に歪んだ顔が脳裏に浮かぶ。この痛みは愛ではなく、罰なのかもしれない。僕という汚れた存在への、当然の報いなのかもしれない。


 血をガラス瓶に数滴垂らしながら、涙がこぼれる。なぜ泣いているのか、自分でも分からない。嬉しいのか、悲しいのか、絶望しているのか、希望を抱いているのか──すべてが混ざり合って、判別がつかない。筆先に血入りのインクをつけ、今夜も先輩を描く。


 血とインクが混ざったこの液体は、神聖なもの。まるで聖痕のように、紙を染める。その絵の横に、詩を書く。


「君の目に映る僕が怪物でも、影でも、それでも名前を呼ばれるなら僕は生きていける──君の世界に毒として存在し、君の血管を静かに巡り、君の心臓に根を張る蔦となって、永遠に君を蝕み続けたい。

 拒まれても、恐れられても、君の記憶に僕は棲みつく。

 それだけで、充分だ。君の一部になれるのだから」


 筆を止める。ほんの少しの空白を残して。だって、この愛はまだ終わっていない。続いていくのだ。永遠に。


 窓の外、東の空がうっすらと明るくなり始めている。夜が明ける。でも僕の夜は終わらない。なぜなら、僕はこれからも描き続ける。先輩の全てを。先輩が知らない先輩を。そして、僕だけが知っている先輩の秘密の表情を。


 毒であってもいい。酸素じゃなくていい。でも、君の世界に、確実に僕は存在していたい。


 そんな風に思える自分が、哀れで仕方ない。普通の愛を知らない僕は、きっと最初から間違っていたのだろう。でも、この歪んだ愛しか知らない。この痛みでしか愛を感じられない。この狂気でしか生きられない。


 スケッチブックの最後のページに、小さな文字で書き込む。手が震えて、文字が歪んでいる。


「大和先輩の全てを知りたい。先輩の苦しみも、喜びも、秘密も。そして、僕だけが先輩を理解できる存在になりたい。それが、僕の願いです。僕の、最後の願いです」


 そして、その下に先輩の写真を何枚も貼り付ける。どれも、先輩が気づかない瞬間に撮影したもの。罪悪感よりも、所有欲の方が遥かに強い。これらの写真は、僕だけの宝物だ。


 血入りのインクで、先輩の新しい肖像画を描き始める。今度は、先輩が僕の愛を受け入れてくれた時の想像上の表情を。優しく微笑む先輩、僕の名前を愛おしそうに呼ぶ先輩、僕を抱きしめる先輩。全て僕の妄想だが、いつかきっと現実になると信じている。信じなければ、生きていけない。


「明日、先輩に会ったら何を話そう。どんな表情を見せてくれるだろう」


 一人呟きながら、僕は再び筆を取る。今夜も、先輩の肖像画を描き続ける。鏡に映る自分の顔は、もう人間のものではないかもしれない。この狂気の愛が、僕という人間の全て。それを恐れずに差し出せたのだから、もう何も怖くない。


 そう自分に言い聞かせても、息が乱れるのを感じた。怖い。先輩を失うのが、何よりも怖い。でも、もう後戻りはできない。僕の全てを見せてしまったのだから。


 月が西の空に傾いていく中、僕は静かに筆を動かし続けていた。先輩への愛を、一筆一筆、丁寧に紙に刻み込んでいく。この作業に終わりはない。僕の愛に終わりがないように。


 そして、朝が来る。僕と先輩の、新しい物語が始まる朝だ。


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