第1章:美しい薔薇には棘がある ~始まりの詩~
《薔薇の棘は月明かりの詩》
五月の終わり、新緑の眩しい季節が過ぎようとしている。俺は校舎の二階の生徒会室の窓から、ミラベルの白い花が風に揺れるのを眺めていた。花びらが舞い散る様子は雪のように美しく、見ているだけで心が穏やかになる。
俺は大和青葉、生徒会役員でバスケ部と剣道部を兼部している。幼い頃から師範の母に剣道を習い、高校でも続けている。バスケ部は友人の村上に頼まれて兼部した。生徒会役員だから優等生だと言われるけれど、自分では当たり前の事をしているだけで、特別だとは思わない。
部活は今日もハードだった。朝は剣道部で汗を流し、放課後はバスケ部の練習。この日々のルーティーンと筋肉痛との戦いは生活の一部であり、疑問を持つこともない。汗にまみれた制服を着替えながら、俺は今日という日がいつもと違うことを、まだ知らずにいた。
部活が終わり、いつも通り夕暮れの体育館裏を通りかかった時、橙色の光が運命めいた色合いで辺りを染め上げている。西日が校舎の壁に当たり、絵画のような印象的な光景を作り出していた。そんな光景に見とれていると、か細い声が俺の足を止める。
「や、やめろよ……」
声の方向を見ると、体育館の陰で、月光を織り込んだようなグレージュの髪の少年が壁際に追い詰められている。三人の不良生徒が、その少年を囲んでいる。制服の襟元を掴まれても、その瞳は妙に冷静で、むしろ諦めにも似た静けさを湛えている。
一瞬、胸の奥にざわめきが走る。それは正義感なのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない感情だった。しかし、その感情を打ち消すように声を張る。
「おい。何してんだ?」
俺の声は、夕暮れの静寂を破るように響いた。不良たちは振り向いたが、俺の顔を見た瞬間、明らかに顔色を変える。舌打ちをしながら、「ちっ、面倒な奴が来やがった」と呟いて立ち去っていく。俺の名前は校内である程度知られており、生徒会をやっていることもあって、不良連中も無用な面倒は避けたがる。
少年は壁にもたれかかったまま、深く息を吐いた。その姿は重い荷物を下ろしたかのような安堵感に満ちている。よく見ると、彼は知った顔だと気づく。図書委員の、たしか……。
「助けていただいて、ありがとうございます。2年B組の蓮……加賀見蓮です」
怯えていたはずの彼は、乱れた髪を整えながら微笑んでいた。その笑顔があまりにも美しく、俺は一瞬息を呑む。
「気をつけろよ。このあたりは夕方になると物騒なんだ。特に君みたいな……」
言いかけて、言葉を飲み込む。「君みたいな美しい人は」と言いそうになったのだ。なぜそんなことを思ったのか、自分でも理解できない。
彼は柔らかな微笑みを浮かべ、この瞬間を永遠に記憶するように、俺を見つめている。その視線には何か深い意味が込められているようで、俺の心を不思議な感覚で満たしていく。
「はい。先輩と出会えたこと、偶然じゃない気がするんです」
その言葉には、どこか神秘的な響きがある。俺は、その言葉の持つ不穏さに気付くことはない。目の前の少年の儚げな佇まいは、そんな疑念さえも霧散させてしまうほど美しい。
彼の唇は、深紅の薔薇のように赤く艶やかで、瞳は麗しい。春風が暖かい風を送り込み、彼の後ろには赤い薔薇の花びらが舞っているように見える。しかし、その美しさの傍らで、薔薇の棘が心に刺さったような、説明のつかない違和感を俺は密かに感じていた。
この出会いが俺の運命を変える――そんなことは、この時知る由もなかった。
ただ、心の奥底で何かが始まったような、そんな予感だけがある。
夕陽が完全に沈むまで、俺たちは他愛もない会話を続ける。彼の声は鈴のように美しく、その笑顔は俺の心を和ませてくれる。別れ際、彼は深々と頭を下げて感謝の言葉を口にする。その礼儀正しさも、俺の心に良い印象を残していく。
◇
翌日の昼休み、食堂の喧騒を避けて自販機近くのベンチに座っていた俺の耳に、そよ風のような澄んだ声が響く。その声を聞いた瞬間、俺の心は軽やかに跳ねる。
「大和先輩……」
顔を上げると、そこには昨日の少年――加賀見蓮が立っている。陽光に透かされた髪は天使の糸のように軽やかに揺れ、その美しさに俺は思わず見とれてしまう。またこの鼓動の早さだ。頬が熱くなるのを感じ、自分の中の異変に気づく。この感情は、今まで経験したことのないものだ。
俺は自分の心の動きに戸惑いながらも、平静を装って応じる。
「ああ、加賀見か。昨日はあの後、大丈夫だったか?」
彼は小さな紙袋を両手で大切そうに抱え、どこか初々しい表情を浮かべている。その仕草があまりにも愛らしく、俺は思わず視線を逸らす。なんで俺は、男相手にこんな反応をしているんだろう。自分の心の変化に戸惑いながらも、その感情を否定することがずにいる。
「昨日は本当に……ありがとうございました。お礼と言っては何ですが、これ、よかったらどうぞ」
差し出された紙袋からは、甘い香りが漂う。バターと酵母の香りが混ざった、焼きたてのパンの匂いだ。
「これ……パン?」
「はい。購買の人気商品なんです。実は……朝早くから並んで、先輩の分も買ってきました」
彼は頬を薄く染めながら言葉を濁す。その表情は恋する少女のように初々しく、俺の心を強く揺さぶった。そんな風に俺のために時間を使ってくれたなんて……なんてかわいい奴なんだ。
俺は思わず笑みをこぼす。
「ありがとう。でも、こんなに気を使わなくてもいいよ?」
そう言いながらも袋を受け取り、俺は隣のベンチを軽く叩いた。蓮の気遣いが嬉しくて、もっと彼と話していたい気持ちが強くなる。
「ここ、座れよ」
蓮は柔らかな微笑みを浮かべて腰を下ろした。二人の間に流れる沈黙は、不思議と心地よく、俺は蓮の横顔を眺めながら、この時間がもう少し続けばいいのにと思う。
パンを一口食べると、ふわふわの食感と優しい甘さが口の中に広がる。
「美味いな、これ。ありがとう」
「そう言っていただけて、嬉しいです」
蓮の顔が、ピンクの薔薇が咲いたように明るくなる。その表情を見ていると、俺の心も自然と和やかになった。
「実は……ずっと憧れていたんです、先輩に」
突然の告白に、俺は思わず蓮の横顔を見つめた。パンを飲み込むのも忘れて、その言葉の意味を理解しようとする。夢見るような遠い目をした蓮は、自分の膝の上で指を絡ませながら続ける。
「入学してすぐの頃から……生徒会の挨拶とか、部活の試合とか。先輩の凛とした姿が綺麗で、目が離せなくて……」
その言葉は詩のように美しく響いた。俺は思わず頭を掻く。照れくささと、何か暖かいものが胸の奥で渦巻いている。こんな風に憧れられていたなんて、俺は全く気づかなかった。
「そっか……そんな風に思ってくれてたなんて、少し照れるな。でも、凛としてるって言うより、俺はただ……」
「いえ、本当に素敵なんです。先輩が笑うと、周りの空気まで明るくなって……太陽みたいなんです……」
蓮の瞳が潤んでいるように見える。その表情があまりにも純粋で、俺の心が大きく揺れる。この少年の前では、俺は特別な存在なのだろうか。
「僕のこと、蓮って呼んでもらえませんか?」
その願いに、俺は少し驚いた。下の名前で呼ぶということは、もっと親しい関係になりたいということだ。
「ああ、蓮……」
その名前を口にした瞬間、何かが変わったような気がした。蓮の表情が、一瞬だけ深い満足感を浮かべたのを、俺は見逃さない。しかし、すぐにその表情は消え、純粋な喜びに変わる。
その日を境に、二人の距離は急速に縮まっていく。俺は休み時間や放課後、自然と蓮を探す自分に気付く。廊下で彼の姿を見つけると、心が弾むような感覚を覚える。そして必ず、蓮は俺の視界の中にいる。図書室にいる時も、中庭のベンチにいる時も、購買で昼食を買う時も……偶然にしては多すぎるほど頻繁に出会う。
しかし、その時の俺は、それが偶然ではないことに気づいていない。
◇
バスケットボールがフロアに響く音が、体育館を満たしている。練習後の涼しい空気が、汗をかいた肌に心地よく触れる。俺はボールを胸に抱き、部室に向かう。毎日の練習で鍛えられた筋肉が、心地よい疲労感を与えてくれる。この疲労感こそが、俺が努力している証拠だった。
そこに、友人の村上がニヤニヤしながら近づいてきた。その表情には、何かを知っているような悪戯っぽさが浮かんでいる。
「最近気になってるんだけど、あのイケメンの後輩、練習中お前の事ずっと見てるよな?マジで視線が熱いんだけど。やっぱり、お前の事好きなんじゃね?」
俺はボールを床に転がし、村上の言葉に思わず苦笑いをこぼした。蓮が俺を見ている……事実だ。
彼は以前から練習を見学している生徒達に混じっていたらしいし、最近は俺が確認できる位置に座って見ている。よく目が合い、練習中に視線の重さを感じるのは日常になっていた。だけど村上には親しくなったという事を、なぜか秘密にしたかった。理由は分からないけれど。
「まっ、まさか、そんな事はないだろ。俺、男なんだけど」
村上は肩をすくめ、茶化すように言った。
「男が好きな男なんて最近普通だろ?あんな綺麗な男なら好かれたらちょっと嬉しいかも。お前はどうなんだよ?」
俺はボールを拾い上げ、視線を逸らして答える。心の中では、蓮の顔が鮮明に浮かんでいた。あの澄んだ瞳、美しい顔、細やかな仕草、優しい声。自分が何かを感じていることは認めざるを得ないが、それを言葉にするのは難しい。
「どうって言われても……」
「ほら、やっぱり気になってるじゃん。お前、分かりやすいな!」
村上の指摘に、俺は慌てて表情を整える。そんなに分かりやすかったのか。
「確かに、憧れられてるって言われたら気になってくる」
村上は俺の反応を見て、さらに追い打ちをかけるように言った。
「まあ、好かれてるなら、ちょっとぐらい考えてもいいんじゃないか?お前も明らかに仲良くしてるし、少しは気になってるんじゃないの?」
俺はもう一度ボールを抱きしめ、村上を見つめた。俺、やっぱり気になってるのか?綺麗だけれど、あいつは男なんだぞ?頭の中は混乱していた。
「……分からないよ。ただ、何か気になることは確かにある。蓮といると、心が落ち着くというか、特別な感情を抱いてしまう。それが何かはまだ分からないけれど……」
村上は俺の肩を軽く叩き、笑顔で言った。
「それが恋のはじまりかもしれないぜ。まあ、どうするかはお前の自由だ。でも、何かあったら相談しな」
俺は小さく笑い、村上に感謝の気持ちを込めて言った。
「ありがとうな、村上。考えてみるよ」
村上は「それでこそだ」と言いながら、俺の背中をポンと叩いて去っていった。俺はボールを床に置き、部室へ向かう足取りが少しだけ重くなる。蓮の視線を感じた瞬間から、自分の中で何かが変わった気がした。この感情が何なのか、俺はまだ理解できずにいる。
しかし、確実に言えることは、蓮の存在が俺の日常に欠かせないものになっているということだった。
俺は更衣室で制服に着替えながら、蓮の笑顔を思い出していた。あの時、彼の頬に浮かんだ薄い紅色、俺の名前を呼ぶ時の少し震える声、膝の上で絡ませる指先の仕草。全てが愛おしく思えてきて、自分でも驚いていた。
もしかしたら、俺は本当に蓮に特別な感情を抱いているのかもしれない。それが恋なのかどうかは分からないけれど、彼がいない日常など、もう考えられない。
気がつけば俺は蓮のことばかり考えている。教室にいる時も、部活の時も、家にいる時も。彼の柔らかな微笑み、澄んだ瞳、鈴のような声……俺の心は完全に蓮に支配されていた。
蓮はいつも絶妙なタイミングで現れる。俺が一人でいる時、疲れている時、さびしい時……彼は天使のように俺の前に姿を現し、優しい言葉をかけてくれる。
俺は知らずのうちに、蓮という名の美しい罠に、深く深く嵌り込んでいく。
この出会いが、やがて俺の世界を根底から揺るがすことになるとは、この時の俺は知る由もなかった。