突然の雨とそして
「――この風に乗って、どこへでも飛んでいきたい」
どこかで聞いたようなフレーズだが、今まさに水城貴鳥は横たわり、それを思い立っていた。
周囲にそびえ立つ青々とした木々。風で枝葉のそよぐ音。その動きによって変わる影の形。木漏れ日。
彼の理想は先程の、どこかに行きたい、というものを除けば、このシチュエーション的にハンモックでも掛けて、その上で小説でも読み耽りたい、というものである。
しかし、理想は理想だ。現実はより過酷であり、人はその中で生きるしかない。
つまり、そのような理想を抱いたところで、水城は軽トラックの荷台に横になるしかないのである。しかも、読んでいるのは小説ではなく英単語帳。先程水城が喋っていたことは、これに書かれた例文の和訳である。
「タカ、さっきから何読んでんだ?」
水城と同じく荷台に寝転がっていた萩創哉が尋ねる。短く切り揃えられた金髪に、片耳には大きなピアス。それらは元から攻撃的な印象を抱かせる容姿を一層際立たせている。二年前、彼が高校生であった時には、近辺の学校では知らない者がいないほどの有名な不良少年だった。だが、高校を卒業して、今着ているのは少し汚れた作業着だ。周りから見たら、彼も少しは丸くなったようにも見え、様になっている。
水城も同じような作業着(これは萩のものを借りたものである)を着てはいるものの、元からの子供っぽい顔立ちや落ち着いた雰囲気からか、萩とは対照的にぼんやりとした印象だ。
「そんな顔じゃあ、単語なんて頭に入らねえだろ」
「顔は関係ない気がするけど、ちゃんとやる時はちゃんとやるさ。ただ、今はその時じゃねえんだよ」
水城は単語帳から目を離さずに言った。
その単語帳は、水城が高校生の時代から使っているものだ。そのため、少しボロッとしている。それに水城の場合は様々な色の付箋紙まみれになっていて、これは萩に「なんか、イソギンチャクみたいだな」と、評されたくらいのものだ。
では、どうして彼は高校を卒業してなお、勉強するのか。それはまず、五年前に遡る。高校一年生の時、水城は父親と共に東京から父親の生家のある、この村へと越してきた。理由は父親のリストラと、その後の両親の離婚。元々四人家族であった水城家は、両親の離婚によって二つに分かれた。水城貴鳥には、二つ下の妹がいたのだが、彼女は母に連れられた。そして、新たに水城の高校生活が始まった。萩と知り合ったのは、その後数週かした時のことである。
始めは家が隣であったということだけで特に親しくはなかったのだが、ある出来事を経て「親友」と呼び合える仲になったのである。
水城には、いつもある考えが頭にあった。「どうやって、このド田舎から抜け出せるか」という考えである。周りには、若者の興味が湧くものがない。皆、都会へと巣立っていく。この田舎の若者たちが誰でも思っていたことではあるが、都会から農村へと移った水城には特にそう思えた。かといって、高校卒業しただけでは、都会に就職をするにしても選べる幅が少ない。それも、リストラをされた父を持つ水城にとっては、「職」というのは極めて重要な問題だった。そして、ある時思い立ったのである。「東京の大学に進学しよう」と。父子家庭でもありそういう面での奨学金などがあれば、学費などはどうにでもなる。それにプラスしてバイトでもすれば、父親への負担も少ない。
その考えで無謀にも挑戦した結果、二浪目に突入してしまったのだ。要するに、今勉強をしているのは大学受験のためであり、この場所から抜け出すためである。
水城が次のページに進もうとした時である。
「オイ、ガキ共。今日、最後の仕事だ。雨も降りそうだからチャッチャか手伝え」
何かを投げ捨てるような豪快な口調で、木材を運びながら萩の父が二人に言った。萩からは「親父」、水城や仕事仲間、その他の彼を知る者からは「萩のオヤッさん」もしくは「オヤッさん」と呼ばれている人である。
「チャッチャか行くぞ、タカ」
「はいはい、チャッチャかね」
萩に続いて水城は荷台から降りると、持っていた英単語帳を軽トラックの運転席に放り投げ、仕事を始めた。
彼らの仕事は山の木を伐採し、一定の長さで揃えて村に運ぶ。それを一定の期間繰り返すだけだ。期間を決めておかないと、環境に悪いらしい。水城は手伝いという形で週に三日、この仕事に携わっている。萩が彼の父に話を通してくれたおかげである。「勉強だけの毎日じゃあ、ただ辛いだけだろう。ちょっと気晴らしにでもなると思うし」と、萩が気を利かせて提案をしたものだ。
「雨、か?」
水城は木を切っている最中、手の甲に何やら冷たさを感じた。
「オイ! 雨だ! 終わらせてチャッチャか切り上げるぞ!」
萩の父の合図で、この日の仕事は終わった。