2話 教師と生徒
王宮の正面入口は人目が多い。そのような目立つ場所から正面を切ってエドワードを訪ねるわけにはいかず、エステルはいつも彼に言われ、王子宮から程近い東門を通り彼を訪ねていた。
クレマン家の紋章の入った馬車が門の前に止まる。エステルはボンネットを深く被り、青いアフタヌーンドレスの裾を持ち上げながら馬車を降りた。
「ようこそ、エステル嬢」
馬車を降りると出迎えるのはエドワードの従者であるアルベールだった。顔を見てしまわぬよう、ボンネットのつばを下に引いた。
「ごきげんよう、アルベール様」
挨拶をしても、エステルが顔を上げることはない。彼女がアルベールの顔を見たことがあるのはたった一度、初対面の時だけだった。
軽い気持ちで人の顔を見て、心の中を覗くものではない。
「殿下がお待ちです」
ベルナールを伴い、王子宮前の庭園を抜ける。この時期は色とりどりの花々が咲き乱れ美しいのだが、エステルが主に楽しむのは花の香りだった。顔を上げた先に人がいる可能性がある以上は、視線を持ち上げ辺りを見渡すことは許されなかった。
「お嬢様」
エステルの後ろをついて歩いていたベルナールが隣に並ぶ。エステルの視界に入り込むのはベルナールの腰から胸だけだ。
「なに?」
「お顔を」
「……! ありがとう、ベルナール」
パッと顔を上げると、ベルナールの笑顔の先に広がる桃や黄色の花畑。もう十年以上ここに通っているが、王宮一と言われる庭園を見渡せたのは初めてのことであった。
「いいえ」──『よかった』
「気を遣わせて悪いわね」
──『ここに来るのも、もう最後なのですから』
「そうね」
花に見惚れている間にも、王子宮に辿り着く。アルベールがノックをすると、扉はすぐさま開かれた。
「ごきげんよう殿下」
「よく来たな」
エステルはボンネットを頭から外し、スカートの端を摘む。美しいカテーシーだ。
──『リルファ』
「ぷっ」
「笑うことないだろう!」──『なんだこいつ!』
第一王太子のエドワードは、エステルに心を読まれても気にしない数少ない──ベルナールに続いて二人目の人物だ。明るく短い金髪に、薄い水色の瞳はアクアマリンのようだと賞賛される、体格の良い男だ。
そんな整った顔立ちの王太子が顔を赤くしてエステルに抗議をする様は、後ろに立つベルナールですら笑いを堪えるのが難しいほど。
堪えきれなくなったのか、アルベールが逃げるように席を外した。そんな彼の背中を睨みつけ、エドワードはエステルの手を取った。
「殿下はいつもリルファ様のことを考えていらっしゃるから、心が見えても楽でいいですわ」
「うるさいな!」──『好きなんだから仕方がないだろう!』
「ぷっ」
「さっさと行くぞ」
「よろしくお願いしますね」
王太子ながらも弟のようだと接してきたが、実際のところ親子ほども歳が離れているエドワードは、ぶっきらぼうだが真面目で素直な男だ。
そんなエドワードの心の中心にいるのはいつもベルトラン公爵家のリルファという令嬢だった。彼はエステルの顔を見ながらも、いつもリルファのことを考えていた。余程惚れ込んでいるらしい。
「それで、リルファ様にはプロポーズなさいましたの?」
「君には関係ないだろ」──『舞踏会の夜に、プロポーズをするつもりだ』
「へぇ」
エスコートの為に握られたエドワードの手に、ぎゅっと力が籠もる。どうやらエステルに揶揄われて、腹を立てている様子。
「殿下なら大丈夫ですよ」
「自信がないんだ」──『……僕のような男』
「何を。殿下は十分素敵ですわよ、もっと自信を持たれては?」
「……どこが素敵なんだか」──『どこが』
「お伝えしましょうか? ええと、」
「やめてくれ!」──『本当にやめてくれ』
「フフッ」
親子ほど歳が離れている。離れているが、もし仮に歳が近ければ、自分はエドワードに惚れていただろうかと考えたことが何度もあった。何度も考えて、いつもばかばかしいと頭を横に振るのだ。
「着いたぞ」
「まあ、広い……!」
王家主催の舞踏会が開かれる会場とあって、ダンスホールはかなり広い。舞踏会当日は着飾った多くの貴族たちに囲まれ、きっと会場は華やかになるだろう。
「あ……わたくし……」
「どうした?」──『顔色が悪いな? 具合でも悪いのか?』
「顔を隠して舞踏会に参加するのでしょうか」
この度の舞踏会は、エドワードがデビューする大切な舞踏会だ。教師として、パートナーとして隣に立つ以上は、彼に恥をかかせることは許されない。
大勢の貴族が参加する──すなわち、大勢の心を読んでしまうということだ。それを避けるためにボンネットを深く被って参加することは、エドワードの名に傷をつけてしまう。
「大丈夫だ、エステル」──『大丈夫、大丈夫』
「しかし……」
「顔を隠す必要などない。できる限り瞼を下ろし、静々と僕にエスコートされていればいいんだ。そうすれば顔も上げなくて済むだろう?」──『おてんばなエステルが、静々とついてこれるか見物だな』
「何ですって?」
「ほら、おてんばだ」──『昔からじゃないか』
にこりと微笑むエドワードの笑顔が、いつの間にか少年から青年になっている姿が感慨深い。エドワードは今年で十七。彼が四歳の頃からダンスを教えている身としては、込み上げてくるものがあった。
「ここから入場して、ホールの真ん中で踊る。踊った後は気になる相手とでも踊れば良い」──『僕はセカンドダンスにリルファを誘うつもりだ』
「まさか、嫌に決まっています」
「ならば、料理でも食べて帰ればいい」──『美味いぞ』
「人混みは嫌いですわ」
「ああ言えばこう言うな」──『エステルらしい』
瞼を下ろして入場し、エドワードとダンスをするまではいいだろう。その後、見知らぬ男の顔を見つめながら踊るだなんて考えたくもない。人混みで料理を食べるなど、以ての外だ。丸見えな本音で、きっと吐き気を催してしまうだろうから。
「ファーストダンスが終われば、すぐに帰りますわ」
「君と踊りたがる男はたくさんいると思うんだがな」──『美しいのだし』
「まあ殿下、いつの間にお世辞を言えるようになりましたの?」
「言ってないがな!」──『それに、リルファの方が美しいからな!』
くすくすと笑いながら、エステルはダンスホールの中心へと進む。明日ここで舞うのかと考えると、どうしても緊張してしまう。なんせ人前に出るのが何年ぶりだ、というレベルの話だ。
ダンスには自信がある。これでも、呪いを受ける前は多くの貴族にダンスを教えてきたのだし、評判もそこそこ良かったように思う。父も母も、褒めてくれた。
ダンスに自信があっても、大勢に見守られながら人前で踊るのと、自宅のホールとではわけが違う。
「そういえばわたくし、殿下にお伝えしなければいけないことがあるのでした」
「何だ、畏まって」
エステルは一人でに踊り出す。くるくると回りながら、天井の大きなシャンデリアを見上げた。
カツン、と足を止め目線を足元に落とす。
「わたくし、ハルヴェルゲン王国に嫁ぐことになりましたの。舞踏会の後、出発します」
「……は?」
顔を上げることが出来なかった。エドワードの心を見てしまうことが、怖かったのだ。