1話 エステルは呪われている
エステル・クレマンは魔女の呪いを受けた辺境伯令嬢だ。
魔女の悪趣味が色濃く滲んだ呪いは、『その目で顔を見つめた人物の心を読む』、という彼女の人生を狂わせるには十分なものだった。
呪いを受けた十六年前のあの日から、父がエステルを呼び出すときは必ず目隠しをするよう言いつけられていた。
顔を見ねば心は読めぬと何度言っても信じてはもらえなかった。父は余程心の中を覗かれると都合が悪いらしい。
この呪いの秘密を隠すために父が何人も葬ってきたことはエステルも知っていたので、今更何を──……とも思ったが、どうやら父は娘に心を覗かれることを良しとはしなかったようだ。
「お父様……今なんと仰いましたか?」
ここは父 クレマン辺境伯の執務室。入口で目隠しをされたエステルは、侍女に手を引かれ執務机の前で立ち止まった。
(……怖い)
父の存在は、エステルにとって恐怖でしかなかった。
幼い頃はエステルの美しさや能力の高さを自慢気に吹聴していた父だったが、呪いを受けてからは一転。「手塩にかけて育てたというのに呪いなど受けおって!」から始まった攻撃は留まる所を知らず、呪いを受けた当時は汚い言葉で罵られ、酷い扱いを受けたた。屋敷のうんと隅の部屋に追いやられ、次第に存在すら消されたかのように、父はエステルに関わらなくなった。
もちろん、呪いを受けたその日から、晩餐の席にも呼ばれなくなった。エステルの食事は怯えながら侍女が運んでくる、冷めたものばかりであった。
まるで初めからいなかったかのように、父はエステルを屋敷の奥に隠し、外で娘の話しをすることはなくなった。
周りの貴族たちも、下手にエステルの話をすればクレマン辺境伯に消されかねないので、エステルの名は次第に貴族界から消えていった。
そんな父が、数年ぶりにエステルを執務室に呼びつけた。緊張と恐怖で悪寒と吐き気がエステルを襲う。
「お前の嫁入りが決まった」
「……は、何を」
恐怖で声が上ずる。目隠しをしていても、侍女たちの緊張がビリビリと伝わってきた。
「嫁入りだ。お前には外に嫁いてもらう」
「……」
婚期を過ぎて何年が経っただろう。エステルも今年で三十三になった。そんな行き遅れを娶りたいなど、一体どこの物好きだろうか。
「国王様直々の命なのだ、断ることは許されぬ」
「命……?」
「お前のその力を欲している国があるらしい。ハルヴェルゲン王国は知っているか」
「ええ、もちろん」
ハルヴェルゲン王国といえば、国土が広く自然豊かで資源にも恵まれている大国だ。このアルリエータ王国とも貿易をしており、木材においては100%輸入頼みだということくらいの知識はエステルにもあった。
「そのハルヴェルゲン王国が、闇色の魔女の呪いにかかってしまったらしい。国民全てが、だ」
「なんてこと……!」
──闇色の魔女。
世界にたった五人だけ生き残っている魔女のうち、二番目にたちが悪いと謳われている魔女だ。彼女は空間ごと世界を放流し、気まぐれで呪いを残すという習性があった。
「詳しいことは伏せられていて私も知らないのだが、どうやら国民たちは言葉を上手く使えなくなってしまったようだ。そこでお前だ、エステル」
「……そういうことですか」
「王家に嫁入りして、国政の手助けをしてほしいそうだ」
エステルもこの魔女に呪われていた。デビュー直前──十七の時に外交で赴いた国で魔女に目をつけられ、呪われたのだ。
「わたくしのような年増に縁談など……何かあるとは思っておりましたが、そういうことですか」
「なるべく早く来てほしいとのことなのだ、準備を急ぎ進めなさい」
「そう言われましても……エドワード殿下のパートナーを務める約束をしております。その後で構いませんよね?」
「……そうだったな」
この国の第一王太子エドワードのデビューする舞踏会が、五日後には開催される。まだエドワードが幼い頃から彼のダンス教師を任されてきたエステルは、パートナーを任されていたのだ。
エステルの弟とエドワードは歳が近い。可愛い弟にはエステルの呪いは悪影響になるという理由で、会わせてもらえなくなった。勿論、仲の良かった兄にも。
そんな中でエドワードとのダンスの時間は、エステルにとっては救いの時間だった。エドワードはエステルの呪いのことを知っても、全く気にしなかった数少ない人物だった。
「準備は今夜から進めます。午後から王宮に行く用がありますので」
言葉が返ってくるかと思いきや、今は何も言うことがないようだ。エステルは侍女に手を引かれて執務室を後にした。侍女の手は冷たく、震えていた。
「……はぁ」
目隠しを外すと、明るいブルーグレーの髪がさらさらと揺れる。露わになった金の瞳は、月光のような光を放っている。
目隠しを外すと同時に、エステルの前をゆく侍女たちの肩が跳ね上がった。彼女たちもエステルが怖いのだ。
(こんなの、トラウマものよ……)
侍女たちの前では目隠し無しで許されているのだが、顔を見なくても彼女たちがエステルを恐れる様子はひしひしと伝わってくる。彼女たちの顔見てしまえば心を覗いてしまうし、顔を伏せるようにしていたとしても、自分は恐れられている、嫌われているという事実は、エステルの心に深い傷をつけていた。
(……怖い)
呪いを受けたとわかった時にエステルに対して注がれた、化け物を見るかのような侍女たちの視線が──何年経っても忘れられないのだ。
侍女たちと関わることもそうだが、父との対峙はエステルにとって心の負担だった。対面を拒絶された相手との対峙は、何年経っても受け入れ難いものだった。
この歳になってようやくわかったのは、きっと母も同じ理由で家を出て行ったのだろうということであった。
(もしくは、わたくしの受けた呪いが恐ろしくなって逃げ出してしまったのかも。そのほうが正しいかもしれないわね)
そう考えるとやはり辛いのだ。大好きだった母がある日突然姿を消した。父も理由は教えてくれなかった。
(……まあ、どちらでも同じこと。それより、急がないと)
エステルは自室へと続く廊下を進む。彼女の前を歩く使用人は誰もいなくなった。ふとした拍子に振り返り顔を見られてしまえば、心の中を覗かれてしまうとあっては皆が避けるのは必然であった。
この家の廊下の角や部屋の出入口の前には、身を隠すための観葉植物や大きな振り子時計が多い。思いがけずエステルに出会った時のために身を隠す為のものだ。
「あっ、お嬢様〜!」──『お嬢様だ!』
自室を出て玄関へと向かったエステルの正面からやってきたのは、エステル専属騎士のベルナールだった。波がかった飴色の髪に、ペリドットのように輝く瞳。頭の上で手を振りながら主を出迎える姿は忠実な犬のようだ。
「お出かけですね?」──『王宮かな?』
「王宮よ」
ベルナールは、心の声を覗かれても気にしない屋敷で唯一の男だった。覗いたところで声と心が大体一致しているので、なるほどこれは覗かれても気にしないわけだ、とエステルは腑に落ちていた。
「舞踏会の段取りについて、打ち合わせに行くわ」
「承知致しました! 馬車の準備は出来ております」──『ということは、僕の美しさが王宮に振り撒かれるということか〜!』
──……時々、ベルナールの声と心は一致しないが、害がないのでいつも無視をしている。
□
エステルの生涯で、国王陛下直々の命令はこれで二度目だった。
エステルが呪いを受けた三年後──二十の頃、王太子殿下のダンスの教師になるように、と命令が下ったのだ。
「教師になってほしい」ではなく、「なるように」だったことを、十三年経った今でもしっかり覚えている。
さて、何故エステルに王太子のダンス教師などという白羽の矢が立ったのか。
エステルは幼い頃からデビューの為に懸命にダンスの練習をした。デビューを果たし、多くの男性と踊り、家のために良い夫を見つける為だった。
しかしその目標は、魔女から受けた呪いのせいで打ち砕かれることとなる。父は呪われた娘を屋敷から出すことを良しとせず、呪いを受けた彼女はデビューを果たすことができなかったのだ。
しかしエステルの父クレマン辺境伯は、エステルが呪いを受ける前──デビュー前から夜会の度に「うちの娘はダンスが上手い」と自慢げに話していたらしい。その話が回りに回って国王の耳に入り、幸か不幸か教師の打診を受けたということだった。
国内一ダンスが上手いという噂のお陰で、第一王太子エドワードのダンス教師に任じられた。流石の父も国王直々の命を断るわけにはいかず、渋々エステルを屋敷から出した。
実際、エステルはダンスが非常に上手かった。自分で踊るのもそうだが、人に教えることも向いていたようで、エドワードはめきめきとダンスの腕を上げていった。
ガタゴトと揺れる馬車の中で、エステルは頬杖をついた。向かいの席に付き添いの侍女はいない。侍女達はエステルの呪いを恐れているので、余程のことがない限り彼女に近づくことはなかった。
今やエステルの呪いの秘密を知っているのは家族と使用人たち、それに国王と第一王太子のエドワードだけだった。
エステルが呪いを受けた当時は貴族の間でそこそこな噂になった。その噂を広めた者を恐らくは父が裏で殺害したことで、噂はそれ以上広まらなかった。
その上、誰もその話をする者はいなくなったので、若い層にはエステルの存在すら知らない者も多い。なんせ屋敷に殆ど軟禁状態のようなものなのだから、彼女の姿を見ること自体が難しい。
夜会や茶会にも出られずこの歳まで暇を持て余し、屋敷で過ごした彼女が極めたのはダンスと剣の腕、それに裁縫や語学など、引きこもりゆえ多岐に渡る。
「お嬢様、お顔が暗いですよ」──『そんなお顔も美しいのですが! まあ僕のほうが美しいけれど!』
「そう?」
ベルナールの自己肯定感高めの心の声はいつものことなので無視をして、窓の外を見る。クレマン家の屋敷から王宮までは馬車でおよそ六十分。週に四回、昔から窓の外の景色を見るのがエステルの楽しみの一つであった。
「何かありました?」
「……五日後、国外に嫁げですって」
「なんと急なお話。気が乗らないので?」
「……別に」
エステルが嫁ぐ際、共に来てくれる侍女などいないだろう。幼少から世話を焼いてくれていた侍女も、呪いを受けたのを期にエステルから離れていった。
おまけに普段世話を焼いてくれる侍女すらいないのだから、結婚を期に着いていきます!だなんて勇敢な者などいないはずだ。
それが心細いとは思わない。もう何年もずっと一人だったのだから。
(けれど心の何処かで虚しいと思ってはいる。面倒なものね)
はあ、と重たい溜め息が落ちる。溜め息をつく癖は、嫁入りまでに完治できるだろうか。
「何処の国です?」
「ハルヴェルゲン王国」
「ハルヴェルゲン!?」
ゴトン、と馬車が跳ねる。驚いたエステルはずっと窓の外に向けていた視線を、ベルナールへと動かした。
『やった〜! 嬉しい! ハルヴェルゲン!』
「え?」
「ハルヴェルゲンは食事も美味しいですし、文化も勉学も優れた国です! 僕の美しさを理解してくれる人も大勢いるはずです!」──『僕の美しさは万国共通のはずだから!』
「ちょ……ちょっと待ってベルナール」
エステルは右手で額を打った。ベルナールの声がうるさすぎて、集中できないのだ。
「なに、あなたもしかしてついてくるつもり?」
「勿論じゃないですか!」──『お嬢様を一人にはしません!』
「え……」
「お嬢様を一人にはしませんよ?」──『僕もハルヴェルゲン行ってみたいし!』
「あなた、家族はどうするのよ」
ベルナールはエステルより十近く年下だが、婚約者はいないという。三男坊であるため、ある程度の自由は利くと言っていたが、遠く離れた国に行くと聞けば、家族だって黙ってはいないだろう。
「家族?」──『……家族だなんて、あんな人達』
「……」
「僕は生涯独身でもいいと思っているのです、大丈夫ですよお嬢様」──『美しい僕の心を射止める方がいれば、考えなくもないけれど』
「本当にいいの? 後悔しない?」
「当たり前ですよ!」──『ああ、僕と同じくらい美しいお顔が歪んで……泣いてしまわれる』
「泣いてないわよ、ばか」
ぷい、と視線を窓の外に移す。窓の外では青く茂った草花が、ゆらゆらと風に遊ばれていた。