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蝋の広がり

 パンセと同じ趣味を持ってしまったことは、人生最大の過ちといっても過言でなかった。

 彼は今日も、私とベティの時間を邪魔することだろう。ベティと過ごす心地のよい野原のようなひとときに、突如として鳴り渡る遠雷こそパンセだった。

「またパンセを置いてきたな」

 ベティが可愛らしい喉ぼとけを揺らす。私が小さく頷いて追及を嫌がると、ベティは小さく嘆息したのち「わかったよ」と言った。

「パンセの話はしない。だがな、意味ないぞ、そんなこと」

「それでもやめてくれ」

 晴れ上がった空を見上げる。一体だれが、このあと来る雷雨の心配をしたいのだろう。

「おおい、レイ! ベティ!」……遠雷だ。私は咳ごみをした。

「レイ、いつも言ってるだろ。置いていくなよ」

 下品に肥大した喉ぼとけを上下させて、パンセが熱烈に抗議する。この熱量を勉学や人付き合いには一切いかせず、読書や執筆といった陰気なものにしか向けられない。学生にあるまじき哀れな男こそがこのパンセだ。

「そういう約束をしたためしがあったかな?」

「じゃあなんだ? 俺はいつ感想を伝えればいい」

「金輪際つたえなくていい」

「レイ、お前、ここ最近本当おかしいぞ」

 頭が沸騰する。万年おかしな奴のパンセにだけは言われたくなかった。私はかっとなって、声を張り上げる。「そう思うなら、本当の本当に金輪際かかわらなくてよろしい!」

 パンセのみならず、ベティをも置き去りにして私は歩調を早めた。


 家での時間は、おおよそが読書に費やされている。しかし、最近は少し試みていることがあった。

 ろうそくを刻んで、和紙の上に散りばめる。蝋引き紙づくりの、最初の工程だ。続けてその上に布を被せて、私はアイロンのスイッチを入れた。ここからだ、ここからがいつも緊張する。ベティは気楽な作業だと言って私にこれを薦めたわけだが、どういうわけなのか。私はこの先を成功したことが未だにいっぺんもない。ベティと私では頭のつくりが違うらしい。深呼吸をして、アイロンを布の上からかけていく。少しずつ、少しずつ、蝋の溶ける感触が細々と伝わってきた。

 夕陽。蝋。夕陽。蝋。じんわりと、じんわりと、しみわたっていく。奇妙な感触に浮上すると同時、私はしばしの思考に沈んだ。

 ベティは社交的な人間だ。彼の悪い噂などは聞き及んだことがまるでない。多趣味、多芸、才色兼備。それでいて、彼はそれを鼻にかけない。むしろ自虐的なくらいである。私のような友達もいない陰気な者に合う趣味を教えてくれるのも美点の一つだ。

 彼はまさに世界である。対する私は愚者、あるいは死神、あるいは月。や、反対かもしれない――なんたって、人間はさかさまで産まれてくるものね! ――何にせよ、私はつまらない陰気なものだということだ。

 冗句に呆れ果てたのは、蝋たちも一様に同じだったようである。着地、あるいは着岸した私が布をめくってみたところ、そこには白濁とした和紙が寝そべっていた。ため息。最近はいつもこんなふうだ。

「明日はベティに聞こうかな」誰に宣言するわけでもなくひとりごちる。その時、誰かが熱烈に扉をなんども叩いた。「レイ、レイ」

 落雷の塔。そう小さく呟いて私は扉を開ける。「何、パンセ」

「本だけでも返そうと思って」本を差し出すパンセ、即座に受け取る私。扉を閉める。「分かった、分かったよレイ、俺が悪かった!」

「白状するよ。下心があるんだ、話をしないか」

「下心?」扉の引き手を握り締めた。「詳細に言うまでは開けない」

「どうして本の話をしたがらないんだ?」私は自然と脱力する。「それは」

「読書は陰気な趣味だから」

「何だって?」パンセが困惑の声を上げた。「それこそ詳細に言うまで帰らないぞ」

「私は」引っかかった言葉を再び送りだす。「私は社会になりたい」

「社会?」

「社交的でありたいんだ。私の状況を考えたことがあるか? 私は無性の者であり、読書家であり、前髪で目元の隠れた者であります。それでどうして社会に出られるって?」

「無性で、読書家で、髪が長いからレイには社交性が無いのか」

「そう」

「そうかよ。なら聞くが――いや、その前に開けてもいいか?」

「お好きに」私が一歩あとずさるのとほぼ同時、パンセが扉を開けた。パンセは私よりも頭ひとつぶん高い視界から私を見下ろす。

「なら聞くが、レイ。どうしてお前は無性になった? なぜ本を読む、髪を伸ばす」

「そうしないと生きられないからだ」私は奥の自室まで進む。パンセもそれに従ってきた。私はなんとなくパンセと視線が合わないようにしながら、小汚い部屋を片付ける。

「私は性別を持ちたくない。許されるなら全てを放棄して読書と思索にふけりたい。額が見えるような髪型は、風が吹き抜けるから不安になる」

「その通りに生きたらだめなのか」

「だめだ」

「そうか」パンセはいつになく力なさげに俯いた。「そういうことなら、いいよ」

 パンセが踵を返す。そして、ふと何かを思い出した様子で振り向くと、失敗作を寝かせていた勉強机を指さした。

「それ、蝋が多すぎるぞ」


 翌日、ベティを家に招いたところ、彼も同じようなことを言った。

「蝋が多いんだよ。やり方のせいじゃない」

「なんだ。てっきり、アイロンのかけ方のせいかと」

 ベティはろうそくを刻むと、ほんの少しだけ和紙の上にまく。

「この程度で問題ないよ」

「本当?」

「これくらいでも十分につやは出ると思う。ちょっとでいいんだよ、ちょっとで」

「なんだか不安で。こんなものでいいのかと」

 ベティが苦笑した。「逆の考えじゃないかな」

「やり過ぎたってろくな目にはあわないんだ。何もしなくてもきれいな和紙、それを飾るのに無理な上書きはしなくていい。むしろ汚くなるだけだよ」

「やっぱり、ベティはすごいな」

「凄くはないよ」ベティはいつものように小さく嘆息する。「凄いというならパンセだ」

「パンセが?」

「きょう、パンセの作文を見せてもらったんだ。かなう気がしなかった」

「ものを読むのと書くのとだけは得意だからね」

 もう少し他ができれば、教員連中から見下されることも二度とあるまいに。ため息をつく。その意図を察してか、ベティが「彼は素晴らしいよ」と笑った。

「いや、パンセだけじゃあない。レイも素晴らしいと思う」

「私?」みえみえのお世辞がかえって笑えた。「私は失敗作だよ」

「なぜにこんな不器用な感性を持って生まれてしまったのだろうね」

「不器用なのがいいんじゃないか」

「それはベティが器用だからだよ」

「僕は器用な方がいいとは全く思わないけどな」

 ベティはやたらと自嘲的な笑みを浮かべながら、床にあぐらをかいた。

「正直いって、僕はこの社会が心底から好きなわけじゃないんだ」

「そうは見えない」

「そう見えないようにしたものな。僕の今いる社会においてウケのいい趣味、ウケのいい人格。それが自然に分かったし、その理想に寄せるのも難しくなかった」

「凄いことだよ」

「そう思うか?」

 ベティは深刻に声音を落とす。

「毎日ベッドで考えるよ。僕はいったい何者なんだ? 僕はあちこちを上書きして『人気者のベティ』になった。じゃあ、その前のベティはどこへ消えたんだ? そいつは何を考えている? 幸せなのか? 幸せじゃないに決まってるよな? どうして僕は君やパンセのようになれなかったんだ、とね」

 私には言い返せる言葉が無かった。やがて、ベティは「悪い」と頭をかき乱す。

「とにかく、不器用なことは悪じゃないさ。ほら、レイ」

 ベティに促されるまま、私は和紙の上にいつもの布をかぶせた。ベティに見られながら、私はいつもとなんら変わらない緊張と共にアイロンをかける。いつものじわり、という感覚が落ち着いてから、布をゆっくりとめくった。私は大きく目を見開く。

「初めてうまくいった」

 思わずにやついてしまう。ベティもまるで自分のことであるかのように、穏やかに目を細めていた。「言ったろ」

「レイが器用かどうかは問題じゃないさ」

「……ん。ありがとう」

「それで、そいつをどうするんだ?」

 蝋の染み込んだ和紙を見つめて、しばらく考える。「そうだね――」

 やがて一つの結論にたどり着いた私は、自分自身の口元に指を当てた。

「秘密にしておく」


 翌日、私とベティはパンセを教室の前で待っていた。

「これを僕に?」

「うん」ベティの胸元に押し付けられる、蝋引き紙のしおり。「あげるよ」

 ベティの呆気にとられた表情を拝むのは初めてだ。

「嬉しいけれど、使いどころがあるかどうか」

「それでいい。新しい趣味を貰ったし、私の趣味にも興味を持ってもらいたかっただけ」

「なるほど」ベティが笑う。「そういうことなら頂くよ」

 そういえば、と、ベティ。「どうしてパンセはいつも遅れる?」

「授業中に読書をして、区切りのいいところまで読むのをやめないんだ」

「それは、まあ、よくないな」

 ベティはずいぶんとぎこちなく笑った。「ベティ」「うん?」

「私は、ベティの生き方も好きだよ」

「……ありがとう」

 こちらに気付いたパンセが、慌てて支度を済ませてこちらの方へ駆けてくる。「レイ」

「どうした。何か用か」

「別に。一緒に帰ろうと思っただけ」

「社会とやらはどうしたんだよ」珍しく、ふてくされた様子のパンセが追及するように言う。ベティが額に手をやった。「なんだ、今度はパンセの方が患うのか」

「そんなつもりはないさ」パンセが柄にもなく煩わしそうな顔で頭を掻く。「俺はレイの生き方を尊重したいだけだ」

「そのことに関してはもうなんの心配もいらない」

「本当か」

 私は頷く。「パンセ、気付いたんだ。私は既に社交的な人間であるとね」

 影が、蝋の広がりの如く、大いなる社会の一角を黒く染め上げていた。私はパンセと、ベティとの間に立ち、愉快に喉ぼとけを揺らす。

「私の社会とやらは、ここにあるようだから」

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