09 調停者?
調停者の声は冷たい鐘の音のように街全体へ響いていた。
調停者「選べ。観測者の消去か、世界の崩壊か」
アリスは風に揺れる髪をかき上げ、笑った。
その笑みは恐怖ではなく、昂揚。
アリス「二択を突きつけるなんて、随分と単純なプログラムね。だったら――私は“第三の解”を探す」
ナツメ「はあ!? そんな余裕……」
アリスは答えず、ただ空へ伸びる裂け目を見据えた。
黒い渦は都市のビル群を引き裂き、電線を唸らせ、光を飲み込んでいる。
その奥から覗くのは、もうひとつの異界の空。
アリス「観測者は外から覗くだけじゃない。内部から、真理を掴むの」
ギン「……まさか」
ナツメ「嘘でしょ!? 中に入る気!?」
アリスは微笑んだまま、一歩を踏み出した。
彼女の周囲に青白い光が収束し、衣の裾を持ち上げる。
アリス「あなたが“代償”を求めるなら、私は“答え”を取りに行く」
アリス「――観測者は、まだ結果を示していない」
次の瞬間、彼女の身体は裂け目へと吸い込まれていった。
まるで深海に沈むように、静かに、しかし抗えない力で。
ナツメ「アリスっ!!」
思わず手を伸ばすが、ギンが肩を掴んで止めた。
ギン「駄目だ。今の俺たちが入れば、ただの餌になる」
ナツメ「でも……でもっ……!」
調停者は、残された二人を見下ろすように言った。
調停者「観測者が選んだのは“内部観測”。結果が示されるまで、この世界は保留される」
街を包む異変が、ピタリと止まる。
瓦礫は宙に浮いたまま凍りつき、音さえも消えた。
まるで時間そのものが“観測結果待ち”に置き換わったかのように。
ナツメ「……アリス。あんた、本気でこんな方法を……」
ギンは目を細め、裂け目を睨みつける。
その奥で、確かにアリスの声が響いた気がした。
アリス《――さあ、真理を見せて。私はすべてを記録する》
裂け目の向こう。
そこは“異界”か、それとも“未来の地球”か――まだ誰にも分からない。
ただひとつ確かなのは、アリスが自らの意思で未知へ踏み込んだということだった。
アリスの身体を包み込んだのは、圧倒的な“無”だった。
闇でもなく光でもない。音も重力も希薄な、ただの空虚。
だが、彼女は笑みを浮かべる。
アリス「……ああ、やっと、やっと触れたのね」
目を凝らせば、“何か”があった。
それは巨大な書物のようでもあり、星図のようでもあり、
また無数の生物の眼球の集合体のようでもあった。
視覚に限定できない情報が、波となって押し寄せる。
時間軸の断片、消えたはずの文明の記録、まだ起きていない未来の事故。
無数の「事象」が折り重なって、アリスの脳を焼く。
アリス「これが……異界の……真理……」
常人なら即死する情報量。
だが、アリスの瞳は星のごとく輝いた。
アリス「観測者にとって、混沌は宝石。
解析できない? なら、解き明かす。
理解不能? なら、私は理解者となる」
“存在”が彼女を見つめ返す。
声なき声が、直接アリスの思考に触れる。
???『観測者……また来たか。だが、お前は“人間の枠”だ。
耐えられるはずがない』
アリスはかすかに笑った。
アリス「なら、壊れてもいい。私は観測をやめない」
その瞬間、彼女の意識は加速した。
周囲の「時間」が層を成し、無限に折り重なるのが見える。
ひとつひとつが選択肢であり、可能性。
それらは“真理の迷宮”として広がっていた。
アリス「……すべての世界は、分岐と観測でできている。
なら私は……その全てに触れる」
瞳の奥で、彼女は星図のような曼荼羅を描き始めた。
その線は、確かに“真理”へと繋がる地図。
――しかし同時に、背筋を撫でる声が響く。
???『その行為は危険だ。全ての分岐を観測するとは――お前自身が“世界の根幹”へ沈むことを意味する』
アリス「……それがどうしたの?」
アリス「私は、ただ“結果”が知りたいだけよ」
彼女は微笑み、さらに深く、真理の中心へと歩を進めていった。
凍りついた街。
時間の流れを奪われた瓦礫やガラス片が空中で静止し、世界は息を潜めていた。
ただ一つ動いているのは、裂け目の中心。
そこからほとばしる光が、次第に強く、脈打つように増していた。
ナツメ「……やばい。あの揺れ、アリスのものよ」
ギンは眉をひそめ、裂け目を凝視する。
彼の感覚に、明確な“異常”が走っていた。
ギン「……ただの魔力暴走じゃない。
世界そのものが“観測”されて揺らいでいる」
ナツメ「観測……?」
ギン「アリスが、裂け目の内側で何かを掴んだんだ。
その反動で、この現実が“変質”しかけてる」
その言葉を裏付けるように、街の景色が揺らめいた。
静止していたはずのビル群が一瞬だけ「別の形」へと変わり、
再び元に戻る。
ナツメ「今……建物が……」
ギン「ああ。“別の可能性”が、この世界に干渉してきてる。
つまりアリスは……異界の真理を直接、覗いている」
ナツメは震える拳を握りしめた。
ナツメ「……あのバカ。人間が耐えられるわけないのに……!」
ギンは静かに頷いた。だがその声は冷静ではなく、どこか苛立ちを含んでいた。
ギン「危険だ。あれ以上進めば、アリスは“人ではない何か”になる」
ナツメ「じゃあどうするの? 置いてくの?」
ギンは答えず、懐から結晶のような装置を取り出した。
それは、彼自身の力を媒介するための“楔”だった。
ギン「……俺が干渉できるのは外縁までだ。
直接助けに入るのは不可能……だが、せめて“戻る道”を残す」
ナツメ「戻る道……?」
ギンは結晶を大地へ突き立て、静かに呟いた。
ギン「観測の迷宮は出口を持たない。
だが、外から“居場所の杭”を打てば、道筋は生まれる」
結晶が淡い光を放ち、裂け目へと糸のような輝線を伸ばす。
それはアリスの存在を探し、彼女へ届こうとする“救助の灯火”だった。
ナツメはその光を見つめ、強く言葉を吐いた。
ナツメ「……アリス。あんた、勝手に壊れて消えるなんて許さないから。
戻ってきてもらうわよ、絶対に!」
だが次の瞬間、裂け目の奥から――
“人の声とも、神の声ともつかない響き”が重なって聞こえてきた。
???『――観測は進行中。干渉は危険。
それでも救おうとするか』
ナツメとギンは同時に顔を上げ、声の主が調停者ではないと悟った。
これは、**裂け目の奥でアリスが触れた“真理の存在”**からの直接干渉だった。




