10 真理?
裂け目から伸びた光の糸が、ふと震えた。
ギンが放った“居場所の杭”が、確かにアリスへ届いた証。
だが――その先に映し出されたのは、もう「彼女」とは呼びがたい姿だった。
ナツメ「……なに、これ……」
光に投影されたアリスの姿は、かつての輪郭を保ちながらも変質していた。
髪は銀色の光糸となり、周囲に絡みつく“時間の断片”を吸い上げている。
瞳は無数の時空のレンズのように分裂し、あらゆる可能性を同時に見通していた。
アリス《……見える、見えるのよ……この世界の分岐、その根源……!》
声は確かにアリスのものだ。
けれどその響きには、もう人間の限界を超えた「重層的な響き」が混ざっていた。
一人の声なのに、いくつもの未来と過去が重なって話しているかのように。
ギン「……これは……完全に“観測者”の域を踏み越えてる」
ナツメ「やめろ、アリス! そんなの……戻れなくなる!」
アリスの手が宙を掴む。
その掌からは、幾何学模様の光が溢れ出し、裂け目の内壁に新たな“道”を刻み込んでいた。
それは帰還ではなく、“さらなる深淵への踏み込み”。
アリス《私は……まだ足りないの。
真理はもっと奥にある。
観測者は……止まらない》
ナツメは叫んだ。
ナツメ「嘘でしょ……あんた、それじゃ“人間”でいる意味がなくなるじゃない!」
ギンは表情を固くしたまま呟く。
ギン「……もしこのまま進めば、アリスは“真理そのもの”に同化する。
人ではなく……概念になる」
裂け目が唸り、街の静止した景色がさらに激しく歪む。
異界と現界が混ざり合い、ビルの影が無数の別未来の形へと変転し続ける。
アリスの姿もまた、その歪みの中で薄れ――
代わりに、“無数の目”を宿した光の像が浮かび上がる。
アリス《……私はまだ、アリスよ。
でも――それ以上のものにもなれる》
その言葉に、ナツメの心臓は凍りついた。
彼女が恐れていた未来――アリスが人であることを手放す瞬間が、目の前で形を取りつつあった。
裂け目内部――。
無限の光と影が折り重なり、幾億もの可能性が螺旋を描いていた。
アリスはその中心に立ち、両手を広げ、視界いっぱいに広がる真理の迷宮を吸い込む。
そのとき――空そのものが形を持ち、声が響いた。
真理の存在『……観測者よ。ここに至った者は幾度もいた。
だが皆、分岐の波に呑まれ、名を失った』
アリスは瞳を輝かせた。
アリス「……つまり私は、その“皆”ではない。私は私。
アリス=観測者として、ここに立っている」
真理の存在はしばし沈黙し――やがて問いを投げかける。
真理の存在『ならば選べ。
ひとつ――“世界を外側から観測する存在”になる。
お前は人を超え、全ての時空を見渡す“概念”へ至るだろう。』
アリスの呼吸が一瞬だけ止まった。
それは彼女が夢に見た究極の到達点――“観測者の完成形”。
だが続く声が、胸を突き刺す。
真理の存在『もうひとつ――“人のまま観測を続ける”道。
不完全で、苦痛に満ち、時に愚かさを背負う。
だが“人”としての有限の視点が、世界に意味を与える』
アリスの心臓が大きく跳ねる。
アリス「……人のまま……?」
真理の存在『人を超えるか、人に留まるか。
どちらも選ばぬなら、お前は分岐に呑まれて消滅する』
裂け目の外では、ナツメとギンがその声をかすかに聞き取っていた。
ナツメは息を呑み、必死に叫ぶ。
ナツメ「アリス! あんたは……人間でしょ!?
勝手に“概念”になってどうすんのよ!」
ギンも低く呟く。
ギン「選択はアリスにしかできない……だが――どちらを選んでも、元の彼女には戻れない」
裂け目の光が激しく脈打ち、アリスの輪郭が二重三重に揺らぐ。
人としての姿と、無限に広がる観測者の像が交互に重なり――
アリスは、ゆっくりと口を開いた。
アリス「……私の答えは――」
真理の存在『……私の問いに答えよ。
“人を超えるか、人に留まるか”。
二つに一つだ――』
裂け目の奥で、アリスはゆっくりと目を閉じた。
光と闇の奔流が彼女の皮膚を裂き、骨を透かし、脳に無限の情報を流し込む。
通常の意識なら、とっくに耐え切れず粉々になっている。
だが、アリスは笑った。
アリス「選択肢が二つしかないなんて……ナンセンス。
そんなの、古典的な量子ビットの発想に過ぎない。
“観測者”である私が、結果を固定する前に、
もっと多様な可能性を編み直せるはずでしょ?」
真理の存在『……なに?』
アリスは一歩踏み出し、裂け目の床そのものを「書き換える」ように足を下ろした。
その瞬間、空間のコードが光の糸となって走り、分岐の波が震えた。
アリス「私は人を捨てない。
でも、“人を超える存在”でもない。
――私は、“人でありながら観測者である”私自身になる」
真理の存在は沈黙し、やがて低く唸った。
真理の存在『……それは矛盾だ。
有限と無限は同居できぬ。
個と全は同時に成立しない』
アリス「だったら――その矛盾ごと抱きしめてやる」
彼女の体表に刻まれた光の文様がさらに深く刻まれ、背後に“二重螺旋”のような巨大な影が浮かび上がった。
DNAのようにも、宇宙の渦のようにも見えるその紋様は、まるで新しい理の胎動を示していた。
裂け目全体が軋む。
真理の存在が想定していなかった「第三の選択」が、世界の基盤そのものを揺るがし始めていた。
――外。
ナツメとギンは、急激に変質する裂け目の光を前に立ち尽くした。
ナツメの目は大きく見開かれ、震える声を絞り出す。
ナツメ「なに……あれ……?
アリス、選ばなかったんじゃない……選択肢そのものを“壊した”……?」
ギンは歯を食いしばり、低く唸った。
ギン「いや……違う。
――あれは新しい“理”を生んでいる。
世界の真理に、自分の答えを刻み込もうとしている」
裂け目から吹き出す奔流が街を包み、世界の法則が揺らぎ始める。
アリスはそこで、確かに“第三の道”を歩み始めていた。