サイレントバレンタイン
冬の雨が続く中、俺は部室で共用のパソコンに向き合って、しばらく呆っとしていた。
部屋の中央、円柱型のストーブの上では古めかしいやかんが蒸気を吐き出していて、その一定と言えなくもない沸騰音が妙に眠気を誘ってくる。
かと思えばカーテンの無い剥き出しの窓ガラスからは常に冷気が沁み込んできていて、ふとした瞬間に腰元や首元を撫でて身を震わせる。
細長くて狭い教室には更衣用のロッカーが数個と机が三つ、椅子は六つ。大きな棚には大量の過去作が詰め込まれていて、俺が書いた作品も幾つかある。黒歴史だから卒業前には破棄させてくれと頼み込んでいるんだが、部長は意地の悪い笑みを浮かべて我が部の伝統だからと譲ってくれない。
演劇部の主要な活動場所は体育館だ。
バレー部やバスケ部なんかの晒しモノになりながら、舞台の上で稽古をする。
都合が悪ければ校舎のどこでも、大抵は屋上を使っている。風が強いから声を張るのに丁度いい。今は雨が降っていて、普段運動場で活動している運動部まで校舎内に溢れ出しているから、多目的室を借りている筈だ。
進まない原稿に意識がまた窓際へ移り、冬の雨を眺めては嘆息する。
どうにも、落ち付かない。
温かかったり寒かったり、静かだったり煩かったり、言い訳だと分かっていても余計なことにばかり意識が向いてしまう。
カチリとシャーペンを押す音がして、視線が窓から対面へ向かう。
落ち付かない理由も半分くらいはそこにある。というか、居る。
栗色の髪を首元で纏め、ジャージを羽織った女子生徒。
「……どうかしましたか、先輩」
一年生部員の彼女はちらりとこちらを見て、すぐに視線を手元へ戻した。
その冬の雨よりも冷たい目に俺は苦笑い。
「殆ど手を付けていない様ですが」
「はは、なんか乗ってこなくて」
「そうですか」
応答も淡泊だ。
まあ雑談する時間でもないからいいんだけど。
彼女、佐上はパソコンを使わずに原稿用紙へシャーペンを滑らせていく。
「今書いているのは、来年の新歓用台本と聞きました」
「うん? あぁ、そうそう。五分か十分くらいのね」
「今年の新歓台本も先輩が書いたと聞きました」
「あれねぇ……ははは」
当時の先輩らに乗せられて、馬鹿みたいにハイテンションな台本を書いた。我ながら後で読み返してみると意味不明な内容で、多くの新入生が首を傾げて無になっていたのを覚えている。
シュールギャグって難しいんだよ、うん。
ごく一部には大ウケしたみたいだけど、俺としては台本ごと記憶を処分してしまいたい。
「今年もやるんですか? あの良く分からないギャグ」
「ふっ、今回はもうあんな素っ頓狂な台本にはしない。詩的で優美で、目をキラキラさせた一年生達が思わず涙するような作品をだな」
「そうですか、残念です」
やかんからピュー、と激しく蒸気が吹き出した。
それを受けて佐上が席を立ち、雑巾を手にやかんを回収していく。
うん? もしかしてお前、俺のシュールギャグのファンだったの?
なんて思っていたら。
「まるでウケなかった台本を弄られた先輩が身悶えしてる様は、とても面白かったので」
「そっちかよ!?」
はいどうぞ、と淹れてくれた紅茶を出され、次いで茶菓子がどこからか出てきた。
「おう……ありがと」
「いいえ」
部室にある小さな手洗い場から水を入れ直し、またやかんをストーブの上に置く。
そうして自分も席に戻り、コップを脇に置いてシャーペンを取る。
サラサラと動き続ける様に俺は後輩の成長ぶりを感じつつ、まるで進んでいない自分の原稿を見て紅茶へ逃避した。
熱い。
舌を火傷しつつ息を吹きかけ、また少し含んで、出してくれた茶菓子に手を出した。今日は最中か。あの独特な衣が好きなんだよなぁ。紅茶というより緑茶な気もするが、この手のものは一年が部費で好きに買ってくるものだからえり好みはすまい。
それからまた少し書き進め、消してを繰り返し、成果の出ないまま部活時間が終わった。
帰り際、出入り口脇にあるカレンダーへ部長が日付に×を付けた。
今日は二月の十二日。
締め切りまで、あと八日だ。
※ ※ ※
佐上は当初、役者志望で入部してきた筈だ。
というか、裏方希望で入ってくる奴なんて滅多に居ない。
だけどウチは顧問の先生が昔舞台をやっていたとかで、稽古内容が結構ガチだ。ついていけず止める者も居れば、裏方に回って時々役者として遊ぶ奴もそれなりに居る。
俺とかな。
早々に役者をリタイアしてきた佐上は自然と雑用をこなすようになり、三年が引退した今となっては部費の使用もある程度任されていて、気付いたら細かな所が変わっていたりする。
カレンダー、紅茶、茶菓子とか。
まあ本題は演劇の小道具大道具類だから、あくまで申し訳程度にな。
三学期は取り立ててやることもなく、予算が余っているのか、ここ最近は毎日茶菓子が出る。俺としてはありがたいが、演劇部の主役は役者共だから、もうちょいあっちに投資してやってもいいんじゃないかな。
「あちらにはあちらで、ちゃんと用意していますから」
放課後、昨日と全く同じ様子で原稿用紙に向かい合う佐上が、いつも通り温度の無い声で答えてくれた。
「そっか。ならいいか」
相変わらず進まない原稿を前に、俺は淹れてくれた紅茶を飲み、クッキーを食べる。今日の紅茶は程好い熱さで舌を火傷しなくて済みそうだ。
「そっちの原稿、ある程度出来たら読ませてよ。来年の、一発目の練習用台本でしょ?」
「はい……部長がやってみろと」
佐上が台本を書き始めたのは二学期からだ。
初めて書いたとは思えない程しっかりした内容で、トンチキな台本ばっかり作る俺が引き合いに出されて部長から散々弄られたのを覚えてる。
今もきっと、一年生がやりやすいようにって色々考えた台本を書いてるんだろう。
結構気遣い屋だからな、佐上は。
「役者には戻らないの? 年度変わったり、上級生の引退に合わせてしれっと戻る奴も結構居たぞ、今年とか」
「いえ、演じることにはあまり興味がありません」
「そうなのか?」
入ったばかりの頃、結構熱心にやってたような気がする。
いや、アレは佐上だったか、それとも別の一年だったか。
あまり面識の無い時代の記憶って曖昧だ。
「先輩はどうなんですか」
「俺? いやぁ、ウチには部長が居るしな。アイツなら大体こなせるし、俺がやっても同じようにはなぁ?」
二年ずっと稽古について行った連中はともかく、早々に逃げ出した下手くそが並ぶと舞台が壊れる。
かといって台本も佐上みたいにちゃんとしたのは作れないでいるんだが……改めて思うと俺ってお荷物じゃない?
「私は先輩の演技、嫌いじゃないですよ」
つい画面から顔を上げて佐上を見た。
けど彼女は今日もしっかりジャージを羽織った姿で原稿と向き合い、書き続けている。
片手間みたいな声で、
「煩くて、突拍子もなくて」
「褒めてる……?」
「一人くらいそういうのが居てもいいんじゃないでしょうか。先輩って、失敗しても盛大に転んでくれるから、舞台映えするんですよ」
「絶対褒めてないだろ」
抗議する俺に佐上はいつもの冷え切った無表情で紅茶を飲み、クッキーを齧る。
「……今日のクッキーどうですか。甘すぎませんか」
分かり易く話題を逸らされたが、後輩相手に食いついても仕方ない。ここは大人の余裕を以ってクッキーを齧り、そして。
「うーん、どうだろ。丁度いい? 俺もっと甘くてもいいけど、紅茶あるし」
「そうですか」
その日も原稿がまるで進まず、帰り道では部長から散々に弄られ続けた。
アイツ、雨だってのに傘も忘れてきやがるし、気を付けろっての。
※ ※ ※
来てます。
凄いのが。
もうビッグウェーブが来てるんです。
ものすごい勢いでキーボードを叩き、原稿を仕上げていく。
始まるまでが長いが、一度書き始めれば俺は早い。もうマッハ。ミハイルでシューになっちゃう訳ですよっ。そりゃあパンツも弾け飛ぶ! いやっほう! ちゃんと服は来てるけどな!
隣に置かれた紅茶を無言で受け取り、前のめりでパソコン画面へ食い付いて入力を続ける。
今日のお茶請けは糖度もMAX、チョコレートとは気が利いてるじゃないか佐上!
口の中に残る甘さを紅茶で流し込み、頭に浮かぶ場面をどんどんと言葉にしていく。
「っっよーし! 出来たあ!!」
「お疲れ様です、先輩」
「おう!」
今日はジャージを着ていないらしい佐上が回り込んできて画面を覗く。
なんだか妙に甘い香りがした。そう、髪とかから、チョコレートの香りがする。なんでだろう? チョコの食い過ぎか?
「……相変わらず意味不明ですね、先輩の台本は」
「なんだよう、最高傑作だろう? 絶対にウケるって」
「はい。私は嫌いじゃありません」
「だろう!?」
書き上がった時のこの自信に満ちた感覚は何度やっても薄れない。
もう俺最強。ノーベルとか取っちゃう? いけるぜレッドカーペットって感じなんだよ、ホント。今だけな。
後で黒歴史だから消させてくれええって部長に頼み込むことになるとしても、まあ今くらいは大笑いさせてくれ。
「佐上もここ毎日サンキューなっ! 甘いもんは台本書くのに必須だよ。しかもドンピシャっ、なにお前、俺が乗ってくるタイミングが掴めてきたの?」
「ただの偶然です。お味はいかがでしたか?」
「うんっ最高! 絶好調! 脳みそがテーマパークのアトラクションしてたからさ! ジェットコースター!」
うん、意味は不明だがニュアンスは伝わっているみたいだから良しとする。
佐上も俺の台本が出来上がって嬉しそうだ。
そうだろうそうだろう、先輩を崇めるが良い。
それから細かい所を直したり、追記したりしていると、稽古を終えた役者連中が戻って来た。
「あっははははは! 相変わらずお前の台本てキモいよな! 頭の中どうなってるんだよっ、ははは!」
部長は野郎共が着替えているなか平気で台本を読み、笑い転げていた。
女子は更衣室があるんだから、まずそっちで着替えて来いっての。
「これお前の役な。こんなのお前しか無理だろ」
「うわ最低っ、華の乙女にこんなの言わせる? ドン引くわホント、佐上ちゃんに言い付けてやるから」
「佐上公認でお前だから。別に下ネタでもないし平気だろ」
「佐上ちゃーんっ」
で、女子達も戻って来た所で改めて仮台本が全員へ配られた。
今の間に佐上が職員室で印刷してきてくれたんだ。十分程度の内容だからホッチキスで留めれば十分。
「配役についてはしばらく回しながら決める。まあでも、新歓だから一年生を主体で行くぞ。二年はこの後、佐上ちゃんの仕上げる台本読み込んで、新一年生の度肝を抜く事。いいなっ」
景気の良い声が狭い部室へ響き渡り、各自解散していく。
ストーブも落とし、人がはければ熱も霧散する。
と、部長と一緒に出る所で振り返った。
「佐上?」
制服姿の後輩が、冬の雨を眺めていた。
見れば、まだ机には彼女の描いている原稿がある。
「あぁ、佐上ちゃんはもう少し書いていくって。鍵も預けた」
「そっか」
じゃあ来週な、そう言って手を振ると、折り目正しくお辞儀をされて、俺達は部室棟を出ていった。
「お前折り畳みくらい持って来いよ」
「いいじゃん、お前のがあるんだし」
相変わらず傘を差さん奴だ。
自転車通いだからレインコートでもいいんだろうが、帰りは途中まで一緒に歩くんだから、持ってこないと濡れるだろうが。
「部長が体調管理不足で倒れるとか、最悪だろ」
「明日明後日お休みだからその間に治しますー。看病してくれるでしょ?」
「それは……まあ、別に行ってやってもいいけど」
自分の肩を濡らしながら、にこにこ笑顔の馬鹿に傘を差し、俺達はしばらく何でもない会話を楽しんだ。
※ ※ ※
ストーブはあまり好きじゃない。
空気が乾燥するから、喉が渇く。
過剰に熱いのも嫌だ。
冷えていていい。
この気持ちと同じ様に、ずっと冷めたままでいたい。
残ったチョコレートを摘まみ上げ、その甘さにうんざりしながら冷めた紅茶で流し込む。
全部食べてけよ、馬鹿先輩。
あれだけ進んでいた原稿がピタリと止まり、外の景色はどんどんと暗くなる。
「馬ぁー鹿」
本当に馬鹿だ。
意味も無いことをして、勝手に満足しようとして、傷付いてる。
でも先輩、食べてくれたな。
小さな幸福だけを抱いて、また一日をやり過ごす。
それだけでいいのに、あの無邪気な笑顔を見ていると、私みたいに愛想の無い人間でも心が弾む。
新歓の小芝居にはお腹を抱えて笑ってしまった。
意味が分からないのに、おかしくて仕方なかった。
新しい学校、新しい生活、そこに希望を見い出して踏み込んでみたけど、やっぱり私は駄目なままで。
「…………甘すぎ」
チョコレートは苦手だ。
だけど先輩は甘党だし、とびきり甘く作ってやった。
甘くて、苦くて。
この想いと一緒に、溶けて消えてくれればいいのに。
ご読了、ありがとうございました。