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お酒の力は、借りるもの

作者: 七星麦子

カッカッカッカッと、無機質な靴音が誰もいない通路に響き渡る。

茉弥は走る、走る。とにかく急いで、なりふり構わず、ひたすらに。ほとんど泣きそうになりながら、地下鉄の通路をダッシュと言ってもいいスピードで走った。

ワンピースの裾が膝に絡みつくのが煩わしい。いつもより高いヒールの靴が悲鳴を上げている。これではヒールが傷んでしまうかも。いや、その前に自分の足が動かなくなるほうが早いか。

つま先がじんじんと痛み始める。無理に走ったツケが来た。もうやけくそになって、とにかくホームまで走り続けた茉弥の目に入ってきたのは、無慈悲にも「本日の運転は終了しました」の電光掲示板の文字。

ああ、なんてこった。


*****


結婚式に参列してほしいので、招待状を送っていいですか? 

特に仲も良くない、部署も違う後輩にそう言われた時に、おそらく自分は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのではないかと、茉弥は思い返す。

彼女は、入社当時から注目の的だった。ふんわりとウェーブさせたロングヘアをなびかせ、8センチはありそうなヒールを履きこなし、ボディラインがはっきり出るようなデザインの服を好む女の子。タイトスカートから下着のラインが透けたりしないのかと心配になってしまうような見た目だが、確かに女らしい身体つきをした子だということはよくわかった。そして、そんな彼女に対して異性の反応はすこぶるよかったらしい。

男性社員たちの争奪戦があったとかなかったとか、聞きたくなくても噂が流れてくるようなとにかく存在感の強い彼女だが、ここ最近そんな話も聞いていなかった。

そこで突然の結婚宣言。気になるお相手は、茉弥もよく知っている男性だった。

同じ会社、同期入社、そして茉弥の元・恋人だった人だった。

 別れてからそれなりに時間も経っているし、彼女のように社内の有名人でもない茉弥はいつも通りに仕事をこなしていた。よく見たら、目が笑っていないようにも見える彼女の表情にうすら寒さを感じる。私、彼女に何かしたのだろうか。恨みでも買ったのだろうか。恐怖が顔に出ないように、やんわりと断る。何かと理由をつけて、とにかく石崎さんに来てほしい、の一点張りの彼女が恐ろしいもののように見えてきた。昼休みももうすぐ終わる。部署の人にこのやり取りを見られたくないのと、いい加減面倒くさくもなった茉弥は、勢いに負けて二次会だけなら、と白旗を上げた。


午後の仕事は、ぼんやりとしてしまう時間が多くて、彼女とのやり取りで負ったダメージの大きさを痛感していた。いけない、ちゃんと集中しなくては。作成中の書類に目を落とすが、ぐるぐると視界が回っているようだ。そうだ、コーヒー飲もう。濃い目に入れよう。気分転換を私用にも、給湯室に向かう足取りは軽くはならなかった。

今までの人生、波乱万丈だとは思わないが、かといって順風満帆かと言われればそうでもない。可もなく不可もなく、ぐらいが一番しっくりくると思っている。それでまあまあ安心もしていた。

大学を出てから就職した会社に早く慣れて、社会人として一人前になるまで頑張ろう、と思ってから、どれくらい時間が過ぎたのだろう。

がむしゃらに働いて、縦割り社会に泣かされたりしたこともあった。なんとかしがみついているうちに、仕事を任されたりもした。評価がついてくると、それなりに充足感もあった。

いつからだろう、疲れが翌日に残ることを感じ始めたのは。寝不足だとすぐに肌のコンディションに出るのも目下の悩みだ。さっきの彼女のつやつやの頬を思い出して、またげんなりする。


仕事をこなす日々が当たり前になっていて、気が付いたら茉弥の同期入社の半数近くがいなくなっていた。

自分に合う環境はここではない、といってキャリアアップをした人。もっと広い世界を見てみたいといって突然世界一周旅行に出かけた人。それ以外だと、だいたいは寿退社だった。

連絡を取っている子も、そうでない子もいるのでひとくくりにはできないが、再就職、復職という話はあまり聞かないからみんな伴侶の収入だけで生活できているのだろうか。すごい甲斐性だと思う。

一人暮らしの家賃や光熱費に比べたら、家一軒、マンションの一室を購入となると桁が違う出費だ。

子供が生まれればそれでまた大きく生活が変わってくるのだろう。

結婚おめでとう、と送り出した友人同僚はたくさんいるけれど、自分のこととして実感したことはあまりなかった。


*****


「結婚かー。あたしはまだ、遊んでいたいけどなあ。めでたい話ですけどね」

シーザーサラダを小皿に取り分けながら、遥ちゃんがつぶやく。

6歳下の遥ちゃんは、彼女が入社した時に茉弥が教育担当をしてから同じチームにいる、大切な後輩だ。若すぎて何を話したらよいかと最初こそ戸惑ったものの、なんだか世慣れした雰囲気のある遥ちゃんと打ち解けるのに時間はかからなかった。わりかし生真面目な気質の茉弥と、おおらかな遥ちゃんは年齢以外にも色々と違うけれど、いつの間にかお互いを姉妹のように思うようになっていた。

社内の美女と茉弥の元・恋人の電撃結婚は社内ではけっこうな話題となっていたらしく、鼻息荒く遥ちゃんが飲みましょう! と息巻いてやってきたので、仕事上がりに居酒屋で女子会となった。

「なんだろうね、一生同じ人の顔を見て過ごすことになるんだもんね。やっぱりそれなりに考えてからするんだろうなあ」

ホタルイカの沖漬けをもぐもぐしながら、茉弥もつぶやいた。

お互いが一緒にいることが当たり前になることを「空気のような」と表現することがあるけれど、彼との関係はそれに近いと思っていた。先方に確認したことはないのだが。

似ているから惹かれあう。出会った頃はそんな風に思ったけれど、お互いの存在が当たり前になると最初の印象が変わることもある。

「うーん。生活力で石崎さんとあの子を天秤にかけたら、あたしなら石崎さんを選ぶけどなあ」

器用にトマトだけを拾い上げながら、遥ちゃんがいたずらっぽい表情で言った。彼との付き合いはあまり公にしていなかったが、遥ちゃんには成り行きで話していた。別れたことも知っている。

「それ、褒められてるように聞こえないよ」

苦笑いで返しながら、電子注文受付にビールを2杯追加する。少しくらい酔っぱらいたい気分ではある。

「今更こんなこというのも野暮ですけど、どうして別れちゃったんですか?」

「うーん。最初はお互いを似ているって思ってたんだけど、そうでもなかったというか。そういう些細なすれ違いの重なりかな」

そんなもんすかねえ、わかんないもんだなーと、すでに頬を赤くした遥ちゃんがさらりと流してくれるのがありがたい。少し愚痴りたい気分になってきた。

性格の不一致で別れる恋人はごまんといるのだろう。元々、人は全く同じにはできていない。許容できる範囲がお互いのキャパシティーを超えると、すれ違うことが多くなる。彼との生活で強く感じたのは、そんなことだった。

もっと文句を言った方が良かったのか。それとも、彼の話を受け止め切れていなかったのか。なんだか苦々しい気持ちが立ち上ってくる。

「例えばさ、私、爬虫類とか、可愛いと思うのね。それを共通のパソコンで調べたりしてさ。でも彼は苦手らしくて、俺の前でそれをやるな、みたいなことでカチンときたのはよく覚えてる」

「うわ、でもそういうのって大変ですよね。スルー出来ない部分というか」

「そうだねえ。なんか、当たり前になってたことが当たり前じゃないって、気づいたときは致命的だったりするんだなって思ったなあ」

グラスを傾けながら、うんうんと頷く遥ちゃんに、結構かっこ悪いこと話そうとしてるな、と身構える。

「私はお酒好きだけど、彼は飲めなかったんだよね。そうすると、飲みに行く、とかも、散財って言われたり、俺はできないのに、みたいな諍いもあったなあ」

「意外だなあ、物静かそうな印象が似ているお二人だったもんで、そんなバチバチしてたこともあったんですね」

「うん、まあ別れ際かな。それ言われたのは」

噂の渦中の人、元彼とは初期研修で同じ部署に配属されて、一緒に行動することが多かったことからなんとなく付き合うようになった人だ。彼自身も、暑苦しいところがなく、一緒にいて心地よかった。はずだったのだ。

総合事務職で主に社内業務が中心の茉弥と対照的に、営業部の彼は外に出ていくうちに視野が広がったのだろうか。当初はガツガツしたところがない人だと思っていたが、業務をこなすうちにたくましい男性になっていったのだろう。社内で発表される営業成績でも名前を見かけることがあったし、仕事は順調なようだ。しかし女性関係については全くと言っていいほど知らなかったので、社内有名人との電撃結婚は意外とも思えた。

「あたしは、職場に何を求めてるかって言ったら給料くらいですけど、あの子は

結婚相手の品定めもしてたんだなーと思うと、すげーなーとしか思えないっす」

苦笑いしながら遥ちゃんがいう言葉に、苦笑いで返した。

そういえば、将来の話はどれくらいしただろう。お互いが賃貸の家に住むのは経済的ではない、という話をした記憶はあるけれど、じゃあ結婚しよう、という勇気も勢いも、お互いになかったのだろう。

お互いのすれ違いをもう一度正して、改めてやり直そうということもなく、あっけなく二人は別れのだった。未練がどうの、と言うには時間が経ちすぎている。元恋人が幸せになる、しかも社内でも有名な美女をゲットしたことを祝福してあげたほうが良いのではないか。そんな気分にもなった。

電撃結婚の話題は意外とすぐに収まり、なんとなく仕事の話をした。遥ちゃんが勢い込んで最近読んだ漫画がやばかったんですよ、今度持ってくるから読んでみてくださいよ、と鼻息荒く言うのをまあまあと諫めているうち、茉弥はまぁいっか、二次会くらい行ってやるか、という気持ちになっていた。


*****


カジュアルなダイニングバーで行なわれた会では、カナリアのように着飾った可愛らしい女子と、蝶ネクタイやらツイード姿の男子とがさんざめいている。知った顔も多かったが、一様に「今日はキメてきました」と背中に書いてあるような服装やメイクに、少しめまいがした。

「石崎さん、こっちこっち」

遥ちゃんが手招きをする。いつもカジュアルな服装の彼女がしっかり化粧をしていると、とても大人びて見えた。

「今日は雰囲気が違うね。かわいい」

「いやいや、石崎さんこそ。それどこのワンピースですか?」

遥ちゃんと話していると幾分気が休まったが、蝶ネクタイ姿の司会者(これも会社の同僚だった)が、新郎新婦を呼び込んでから、茉弥は息苦しさを覚えた。

すでに結婚式を終えた二人は輝かしい笑顔で祝福を受けている。私の前であんな顔して笑ったことがあったか。シャンパンゴールドのタキシード姿の元彼を見て、げんなりしている自分にも嫌気が差してきた。無邪気な笑顔で拍手している遥ちゃんさえ、遠い存在に思えてしまう。

そもそも結婚式の二次会は、二人の門出を祝うためのものなのだろうが、新郎新婦のご友人たちが新しい出会いを求めてやってくる場でもあるようだ。式のような堅苦しさがない分、品定めをしているような目線の人も少なくない。

主役を心から祝う気にもなれず、かといって好みのタイプを目つき鋭く探す人の中にいるのも落ち着かない。人を避けているうち、ドリンクカウンターに張り付いていることにした。好みのウイスキーが飲み放題リストにあったので、ソーダ割を頼む。

やや無礼講の体を醸してきた会では、新郎がアフロヘアのかつらをかぶせられ、爆笑が沸き起こっている。上品なマーメイドラインのドレス姿の彼女が口元を隠して笑っている。

そんな姿を見ているうちに、なぜここに来てしまったのかと深い後悔が頭をもたげる。自然と、グラスを干すペースが上がった。

会が結びとなるまで、しっかりと記憶はあったのだ。足取りもしっかりしていたはずだ。電車の乗り換えで一人になり、安堵のあまりシートに身を任せたのが間違いだった。緊張と疲れ、何やらむず痒い感情と酔いで、思考が一時的に麻痺した。

電車の強い揺れで覚醒する。自分以外に車両に人がいないことに気づいた茉弥はばね仕掛けの人形のように飛び起きた。ここはどこだ? 車窓に目を凝らすと、最寄駅をとうに過ぎた駅名が目に入る。途端に意識がはっきりとし、同時に背筋に変な汗が浮かぶ。乗り過ごしたのか。

腕時計は日付を跨ぐ寸前を指していた。折り返しの電車には間に合うのではないか。とりあえず次の駅で電車を降りて、とにかくホームまで激走した。が、電車は行ってしまった後だった。

誰もいない地下鉄の駅は、蒸し暑い空気が立ち込めていてどんよりとしている。蛍光灯が青白く照らす光景がなんだか嘘っぽく見える。

仕事が終わったらしい駅員とすれ違う。なんとなく俯いて視線を逸らす。なぜか、知らない人だが顔を見られたくなかった。服装こそパーティードレスだが、今の自分は相当にみじめに見えることだろう。

久しぶりに我を忘れて走った足からじわじわと痛みを感じる。変な風に体重がかかったのだろう、つま先の痛みが激しくなってくるにつれて、なにか蹴とばしたい衝動に駆られる。

ふらふらと自動販売機まで歩み寄る。ペットボトルの水を選び、ごくごくとのどを鳴らして飲み干す。

頭が少し冷えた。じんわりと額に汗がにじんでくる。ほとんど鷲づかみしていたサイドバッグから、レースだらけで実用性が低そうなハンカチを取り出して、汗をぬぐった。ベンチに腰掛けてヒールを脱いでみる。足の親指と小指が赤くなっていた。左足の親指が、ストッキングを突き破っていた。がっくりとうなだれてみるが、むなしさがこみあげてくるばかりだ。

まず、切り替えよう。別のことを考えよう。電車以外で帰れる方法を探さないと。のっそりと立ち上がる。先ほど駆け抜けた道を戻りながら、まずは絆創膏を買って足をケアしよう、ストッキングも替えたい。最低限の目的を掲げたら少しだけ、ほっとした。


地下鉄の駅から外に出てみると、見事なまでにロータリーに人がいない。タクシープールで客待ちをする車もおらず、人影さえ見当たらない。土曜の夜、終電は過ぎている時間とはいえ、こんなにも誰もいないと思わなかった。

通勤アクセスが良いと評判の路線のベッドタウンともなると、きちんとした時間に帰ってきちんとした時間に眠る人ばかりが住んでいるのか。

目の前のコンビニエンスストアだけが煌々と明るい。できればスニーカーにでも履き替えたかったのだが、さすがにそんなものは売っていない。手洗いを借りてストッキングを履き替え、絆創膏を赤くなった部分に貼る。

簡単な手当てをしてから、しまいっぱなしのスマートフォンを見てみると、こういう時に限って充電が切れていた。踏んだり蹴ったり。もう、怒りを通り越してあきれるしかない。

見込みが甘かったことを、茉弥は今更思い知る。がっくりと肩が落ちる。

コンビニを出てもう一度タクシープールを見るが、やはり客待ちの車はいなかった。タクシー会社の電話番号を見て、そうか呼べばいいのか! とスマートフォンを取り出すも、電源が切れていた。もう、地面に沈み込みそうなくらいに気持ちが落ちた。

自宅の最寄駅から5つも離れると、もはや知らない土地だ。時間をつぶせるところはあるだろうか。漫画喫茶? ファミリーレストラン? なんにもなかったら、コンビニで雑誌立ち読みでもするか? いや追い出されるだろうな。自業自得ながら腹が立ってくる。そもそもなんであんな会に出席したんだろう、魔がさしたとしか思えない、などとぐずぐず考えていたら、細い路地にオレンジ色の光が見えた。近づいてみると、小さな看板が出ている店のようだ。黒い扉に銀色のプレートが下がっている。「Casablanca」と読める。小さな窓から中をのぞくと色とりどりの酒瓶が並んでいるようだ。住宅地の中に突如現れた店。民家程度の間口で、大通りからは死角になっている。隠れ家的、というところか。茉弥はちょっと心躍った。これなら、座れるし、もしや深夜まで営業してくれているのではないか。


扉をそっと押すとカラン、とカウベルが大きな音を立てたので、思わず立ちすくむ。

思ったより間口の広い店だった。コンクリート打ちっぱなしの壁には古い映画のポスターが何枚か無造作に飾ってある。入り口側からは見えなかったが、ガラス張りになっている奥の方には小さな庭になっているようだ。外は暗くて見えないが、暑い季節は外でも飲めるんだろうか。

店内には主張しすぎない音量で、茉弥が学生の頃に好んで聞いていたイギリスのロックミュージシャンの曲が流れている。カウンターの端に先客がいた。Tシャツにサンダル姿の男性は、服装からしてもご近所さんだろうか。

白のカッターシャツ姿の男性店員が、目を上げていらっしゃいませ、と笑顔を見せた。

「お好きな席にどうぞ」

少し迷って、カウンターの中央に座った。

鏡張りの壁、その前に設えた棚には、ボトルがところ狭しと並んでいる。好みのアイリッシュウイスキーを見つけたので、ソーダ割でオーダーした。

「なかなか渋いチョイスですね」

苦笑いで応える。

「だいぶ飲んできたはずなんですけどね、もうすっかり抜けちゃったみたい」

「何かお祝い事でしたか」

「ええ、同僚の結婚式の二次会で」

「飲みなおしてからご帰宅?」

「まあ、そんなところです」

押しに負けて参加した会でどっと疲れて電車で寝過ごして、見知らぬ駅に着いちゃったんですよ、何やってるんですかね、と喉元まで出かかった言葉はソーダ割と一緒に飲み下した。

奥のカウンター席の中年男性が小さく手を挙げるのを見逃さず、店員はごゆっくり、と言い置き茉弥の前を離れる。ウイスキーのロックに使うのだろう、アイスピックで大きな氷を球形に刻んでいく。こんこん、と小刻みに聞こえる音が心地よい。

常連らしき男性との会話が漏れ聞こえてくる。聞くともなしに聞いていると、高校生の娘に彼氏ができたらしい、という趣旨の愚痴だ。

俺だけ知らなかったんだよ、かあちゃんは知っててさ。悲しいよな。

常連の切ない嘆きに、子供はすぐ大きくなっちゃうもんですね、と如才なく店員が返す。

少し低めの、よく通る声なので、会話が聞こえてしまう。聞いてませんよ、というつもりで、メニューをひっくり返したりして茉弥は隣から意識を遠ざけた。

高校生の女の子か。異性を意識する頃なのだろうか。一番身近な男性である父親は、ある時期を機に急に疎ましく思えたりするらしい。会話をするのもいやだという友人がいたような気もする。自分はその頃どうだっただろう。思い出そうとしたが、淡い初恋の思い出よりも式での新郎新婦を思い出してしまい、記憶から追い出した。

背が高いカウンターのチェアに足を預けているうち、足の鈍痛も幾分和らいできた。カウンターに頬杖をついてぼんやりとする。

一人で、気兼ねなく飲むウイスキーは、ゆるゆると身体に染みこむようだ。二次会会場での飲み物は味もよく覚えていない。

時刻を確認しようと無意識に、膝の上のバッグからスマートフォンを取り出す。電源が入らないことを思い出して舌打ちしたくなる。さっきのコンビニで、充電器も買っておけばよかった。

「おかわりは? 水とかも必要だったら」

グラスの中身が半分くらいになったころ、店員に声をかけられた。反射的に同じものと水を注文する。

のろのろとバッグにスマホをしまっている時に、店員が飲み物をカウンターに置いた。

「レオパ、ですか、そのデザイン」

自分が話しかけられていることに気づくまで少し時間がかかった。何の話かと訝ったが、茉弥のスマホケースの絵柄の話だと気が付く。

「え、あ、そうですけど」

「いいデザインですね。レオパ、可愛いですもんね」

口の両端が上がるとえくぼができる店員は、はにかむと急に幼く見えた。

レオパとは、レオパードゲッコー、和名ヒョウモントカゲモドキというヤモリの一種である。口の端が上がっているので、正面から見るとまるで笑顔のように見える。太い尾や、黒い大きな目も可愛らしい。近年はペットとしての需要も多くなっているらしい。元々この手のデザインを好む茉弥は嬉しいと思っているが、遥ちゃんには受けが悪い。そういうの苦手っす、と言われたことがあった。

「ハンドメイド品を通販できるサイトで見つけたんですよ」

「へえ、そういうのがあるんですね。爬虫類って好みがわかれると思うんですけど、好きなんですか」

「そうですねえ。割と昔から好きですね」

なんだか少し動悸がする。なぜか、犬や猫を愛するよりも爬虫類(と両生類)を好むというと、気味悪がられることが多いのだ。初対面の人に言うことではなかったか。

「ああ、そうなんですね。僕はあのゆったりした動作とかが好きですね」

「お好きなんですか?」

「ええ、そりゃもう。飼いたいとも思うんですけど。何か飼ったりしてますか?」

「買いたいとは思ったことあるんですけどね。予算のこともあるし、あと熱帯に住んでるような生き物を水槽で飼うのはおこがましいとか思ったりしちゃう」

「ああ、わかります。結局ペット飼育は、どこか人間のエゴみたいになっちゃう部分がありますからね」

えくぼをぼんやりと見ながら、つられて笑いながら話していることに気が付く。

一日、ずっと力が入っていたことに今更気が付いた。自然に笑えたのに、なんだか涙が出そうになって、下を向いた。おかわりと水の入ったグラスを置いた店員に、そのままの姿勢で話しかける。

「今日は会社の後輩の結婚式の二次会に行ったんですけど。疲れちゃって、寝過ごしちゃって。気が付いたらスマホの充電も切れちゃってて。もう、踏んだり蹴ったりですよ」

初対面だがもう会うこともないであろう青年が相手だと、すらすらと愚痴が出てくる。少し酔いが回っただろうか。

「お祝いの席って、確かにすごいエネルギーがありますよね。知ってる人ばっかりならまだしも、気遣いで疲れちゃったりしますもんね」

当たり障りのない言葉でも、うわべだけでも、今のささくれた気持にはありがたかった。

「私、終電逃しちゃって、こちらにお邪魔してるんですけど、お店何時までですか?」

「あんまり決まってないんですよ、閉店時間。始発電車、この辺結構遅いですよ。お疲れならタクシー呼びましょうか?」

目からうろこが落ちる。そうだ、自分で連絡が取れないからと諦めきっていたけど、帰れるならそれに越したことはない。と同時に、爆睡から激走のち鏡もろくに見ず今に至ることに思い至り赤面する。いくら知らない人とはいえ、疲れ切って見えるほどの顔をしていたのだろうか。

「すみません、お手数かけますがお願いしたいです」

「大丈夫ですよ。こういう店ではよくあることですから」

えくぼができたままの笑顔で、もう呼びますか? もう一杯くらい飲みます? と振り返る店員に、すぐに呼んでもらえますか、ほんとすみません、と答えて手洗いに立つ。

思ったほどボロボロではなかったものの、いつもより濃い目の化粧に浮いた皮脂がまぬけに見えた。ティッシュで少しぬぐい、冷たい水で手を洗う。少しだけほっとする。

幸い、タクシーはすぐ到着するとのことで、どうしてすぐに店員に頼まなかったのだろうと、うかつさに後悔する。勘定を済ませた時、店員に名刺サイズのカードを渡された。

「爬虫類好きの女性の方ってあまり会ったことないので。宣伝です。シルバーアクセサリーとかあるんで、よかったら見てみてください」

ウェブショップのカードだそうだ。どんなものを扱っているのか聞こうと思ったが、カウベルが勢いよく音を立て、タクシーの運転手が入ってきたので、なんとなく聞きそびれた。

レースを張ったシートに体をうずめると、途端に疲れが押し寄せた。かろうじて自宅住所を告げ、見慣れない風景が流れていくのをぼんやりと眺める。

色々あって疲れる一日だったけど、終わりはちょっと悪くなかったかな。そんな思いがよぎる。


*****


週が明けてからは、やけに忙しくなり書類処理に忙殺された。忙しいことは悪いことではない。仕事をして、とにかく仕事をして、やりきった気持ちになって自宅へ戻る。

翌日の支度をして、また仕事をして、遥ちゃんと時々愚痴を言いあって過ごしているうち、気が付いたらあの式の日から半月が過ぎていた。

心がざわついている時ほど、やけに集中力が増すらしいと茉弥は知った。仕事ははかどるのだが疲れは倍増しているような気がする。「特に意識していないつもりで」などと思ってしまう時点ですでに意識に上ってきている式のことを考えまいとしているうちに、時間が刻々と過ぎていった。

仕事すべてを捧げるつもりはさらさらないが、今こうして集中できるものがあることに、少し安堵する。そして、すこし悲しくなる。

仕事で書類の数字を追っている時には感じていないが、疲れは確実に蓄積していく。背中に重りでも乗っているようなだるさを感じる。

その日は自宅のドアを開けて、靴を脱いだらそのままへたり込んでしまった。日中の蒸された空気がどんより溜まっているのが不快だ。やっとの思いでのろのろとベランダまで這っていきサッシュ窓を開ける。初夏の少し涼しい風がそよりと入り込む。

のっそりと立ち上がってから、朝のあわただしさがそのままの形で残った部屋を、とろとろと片付ける。朝食を摂る時間があったら睡眠をむさぼっていたいので、結果朝の時間は戦場になる。洗っていないコーヒーカップがシンクに残されたままなのを見て疲れが増す。たったこれ一つ洗ってから出かければいいのに。

乱暴にカップを持ち上げたら、テーブルの端に重ねてあったレシートの束に引っかかってしまう。すぐに片づければこんなことにはならないのに。情けない気持ちではらはらと舞うレシートを搔き集めながら、名刺サイズのカードが手に引っかかった。なんだっけこれ、と記憶を探ると、寄り道をしたバーでもらったカードであることを思い出す。アクセサリーのウェブショップだったか。カップはシンクに置くだけにして、いそいそとスマホを取り出す。

興味本位で覗いてみたショップは、思ったよりずっとお洒落だった。

雄々しい印象の強い蛇の指環、鰐の口吻のペンダントヘッド。ころんとした形が愛らしいカエルのピアス。生き生きとした造形のアクセサリーたちは凝った造形で、見飽きなかった。細かい細工が施された生き物たちは、製作者の愛情や尊敬がこもっているようにも見える。

結構いいな、でも値段もそれなりにするんだな、と眉根を寄せて画面を見ていると、ふと手が留まった。「新着」と書かれた、レオパを模ったペンダントは、まるでにっこり笑っているようなレオパの表情が可愛らしいものだった。華奢なチェーンを使っているところも茉弥の好みに合う。値段も悪くない。ここのところの仕事詰めで疲れた自分へのねぎらいがあってもよいのではないか。そう言い訳をして、「購入」のボタンをクリックした。


*****


今日を乗り切ったら明日は休みだという週末に限って、仕事は立て込んでいた。追い打ちをかけるように書類の不備が見つかった。作成した遥ちゃんが大目玉を喰らい、ミスをチェックする役割でもある茉弥が得意先にとにかく頭を下げて、とにかく急いで再度作成するということで了承を得た。

いつも元気な遥ちゃんが小さくなって、申し訳ありませんと繰り返すので、自分が新人の頃を思い出してしまう。とにかく、今度はちゃんと作ろう、私のチェックも甘かったから、と遥ちゃんの肩を叩いて、仕事にとりかかった。

いつもなら、後輩が落ち込んでいると思ったら飲みに誘ったり、時間がなければコーヒーの一杯でも差し入れて励ますのだが、その気力がわかない。自席に戻り、開きっぱなしのメールブラウザを見て、ため息をつく。1通のメールが茉弥の気力を削いでいることは明らかだった。

「結婚式のお写真が出来ました」

会社のメールに私用丸出しの連絡をしてくれるな、とまず思う。顔文字でデコレーションしたタイトルもどうかと思う。そして何より、社内サーバーに式の写真を入れて「ご自由にご覧ください」と書く彼女の気心が知れなかった。

そんなに自分の花嫁姿が誇らしいのか。誰彼構わず見せびらかして、当たり前のようにお祝いの言葉をかけてもらえると信じている彼女は、人の悪意に晒されたことがないのだろうか。いや、その悪意さえも食い尽くすくらいの気持ちがないとこんなことできないのだろうか。

フォルダの中身を見る勇気はなかった。彼女に悪気があってメールを送ってきているほうがまだよかった。腹の底が重たくなるような気持ちを何とか飲み下す。

書類作成をする傍ら、猛烈に一人になりたいと思った。自分を知らない人しかいないようなところに行ってしまいたい。そこでずぶずぶに酔っぱらってしまいたい。

半ば自棄になっていた時にふと、あの日に訪れたバーを思い出す。そうだ、あの店なら自分を知っている人はいないはず。時計に目をやり、終了時間を確認する。顧客に書類を送って確認を取り付けても、お店に行く時間は取れそうだ。今日は定時であがろう、絶対、と自分を鼓舞してからモニターに向き直った。


最寄駅から五つ先、というのはすごく遠くに感じていたが、電車に乗ってしまえばあっという間に到着したので茉弥は少し気抜けした。改めて降り立った駅は、あの人は別の場所のようだ。下車する人が多いことに驚く。あの日はあんなにも人がいなかったのにな。前に立ち寄ったコンビニに背を向けて歩き出す。家路に急ぐ人たちに紛れて、路地に入る。小さな看板、黒い扉。あの日と同じ光景だ。

今日は派手な金髪と立派な体格の男性が切り盛りしていた。茉弥より少し歳は上に見える。

カウンターは満席だった。二人掛けのテーブルを勧められたので迷ったが、そう長居するわけでもないしと思い直して腰掛ける。

カウンターに並んで腰掛けた男女が笑い声を上げた。近所に住む夫婦らしい。常連客は早めの時間に飲みに来るようで、あの日の閑散とした雰囲気とは別の店のように感じられた。

店主らしい男の声が響く。顎に生やした髭といい、大ぶりなリアクションといい、やけに目立つ人だ。声が大きいこともある。

客たちは上機嫌で話し合っている。顔見知りが多いようで、気の置けない仲間との邂逅のような、気持ちの良い笑顔が見える。今日の気分と、ちょっと違ったなと思った。前回は客が二人だけで、ましてや深夜だった。静かな店だと思ったのは、ただ人が少なかったからなのか。できれば一人でゆっくり飲みたかったが、喧噪が気になってしまう。地元の常連客ばかりが集う時間帯は少し具合が悪い。

カウンターではなく壁際のテーブル席に案内されたのは幸いだった。前と同じウイスキーのソーダ割をゆっくりと傾ける。騒がしくはあるが、居心地の良い空間だと思った。誰も自分を気にしてこないのがありがたい。声の大きい店主はタイミングよくおかわりのタイミングに声をかけてくる。

結局二杯飲んで、会計を頼む。店主は「あざっした!」と、笑顔で伝票を席まで持ってきてくれた。

「お客さん、隆の知り合い?」

小銭を探していた茉弥は自分が声をかけられていると気づかず、え? と顔を上げる。店主は、茉弥の顔、ではなく首元を見ているようだった。視線を落として、気が付く。ネックレスか。

「前にこのお店にお邪魔した時に、ショップカードをいただいて。最近買ったんです。知り合いというわけでは」

「ああ、そうなんだ。あいつ喜ぶよ。また良かったら来てね」

あいまいに会釈しながら、そうですね、ごちそうさまでしたと頭を下げて店を出る。

先日の店員の名前も知らなかった。どうやら本人が制作しているアクセサリーらしいことも今知った。指でつまんでレオパを改めて見つめる。かわいいなやっぱり、と思いながら、あの日の店員は笑うとえくぼが出来るんだったな、若そうな人だったな、とまたぼんやり思い出した。

少し火照った頬に、温んだ風が当たる。初夏の夜は気分が良い。よし、今日は歩いて帰ろう、ついでにコンビニでプリン買って帰ろう。

帰りはあっという間に自宅に着いてしまって、なんだあんなに近かったのか、とまた思った。キツネにつままれたような気分だった。


*****


バタバタと忙しい時期が過ぎ、今週末はやっとゆっくり過ごせると思った時に大学時代の友人、雪江から連絡がきた。大学のグループの中では早く結婚をしていて、今は二児の母。このところ育児に疲れてしまったのでとこぼしたら夫が子守をしてくれているのだという。たまにはランチもいいか、と二つ返事で誘いを快諾した。

さすがに夜は家にいないとまずいけど、時々は息抜きしないとね、と言う雪江はすっかり母親の顔をしている。仕事ばかりしている自分とは生きている時間そのものが違うような気がする。

「はー、育児も大変だと思うけどさ、仕事もなかなかしんどい年になってきたよ」

「うちの旦那もさ、時々言うよ。何のために仕事してるんだって」

「なんて返事するの?」

「決まってるじゃない、子供とローンのためだって言うよ」

したたかに返してくるところも、やっぱり雪江はすっかり母親として地に足が付いているなあと思う。かっこいいな、とすら思った。

「結婚に育児ねえ。私には到底できそうにないな」

パスタをつつきながら、ため息交じりにいうと雪江はそうかな? と小首をかしげる。

「別にさ、誰だって初めてのことは戸惑いながらやるものじゃない。結婚は自分で決めることかもしれないけど、育児に正解なんてないよ。子供もある程度は勝手に育つわけだし」

「はぁ、そこまで言えるほど色々達観できそうにないな。結婚も予定があるわけじゃないしね」

学生の頃から肝が据わった雪江と、やや流されやすい茉弥は正反対ともいえる性格だが、歯に衣着せぬ雪江の物言いはさっぱりしていて好きだった。ゆるゆるとではあるが未だに連絡を取り合っている。

雪江の上の子が、ピアノのレッスンを受けたいと言っているのだそうだ。自分で何か興味を持ってやることは応援してあげたいけど、それなりにお金もかかるし、どこに行かせるか相談中。なのだそうだ。いつも書類に囲まれて、どうしたら効率よく仕事をこなせるかばかりを考えている茉弥とは悩んでいることが違いすぎたので、何とも返事が出来なかった。明確な答えを求めているわけではない雪江も、下の子はサッカー選手になりたいって言い始めてね、まずは部活やれって言ってるなどと笑う。

ランチタイム用のワインをちびちびとなめているうちに、少し気が大きくなった茉弥は、ふと先日の結婚式の二次会の話を口にしていた。その後に送られてきた幸せいっぱいの写真(見ていないけれど)についても、面白おかしく話していた。何か意見が欲しかったわけでも、ましてや慰めてほしかったわけでもないのだが、雪江は途中から神妙な顔で聞いていた。

「で、結局あんたは私に慰めの言葉でもかけてほしいの?」

鋭く放たれた雪江の言葉に、一瞬たじろぐ。

「いや、別に。この年になると疲れが出ちゃって、お酒控えないとって少し思ったくらい」

「そこじゃないでしょ。あんたさ、結局マウントされてたんじゃないの、その花嫁ちゃんに」

雪江の一言にめまいを感じる。今まで蓋をしていた、自分が結婚式に誘われた理由を考えてがっくりとしてしまう。わかっていた。わかっていたけれど、なんとなく会社の儀礼を考えると断れなかった、それだけだと自分に言い訳をしていたことなんて、とっくに気づいていたのに。

「別にさ、彼と別れたのだって結構前で、今更私を呼び出したって彼女には何のメリットもないじゃん」

「そういうことは本人にしかわからないんじゃない? マウント取って喜ぶ女の子だっているよ。のこのこ顔出しちゃった時点で、あんたの負け」

ぐいーっとオレンジジュースを傾ける雪江につられて、ワイングラスを傾ける。さっきまでは感じなかった渋みが舌に残る。

「なんかさ、もういいや、って思ってるの。どこかで。仕事もそこそこ順調で、人間関係も悪くなくて、なんとなく頑張る毎日で、それでいいやって」

上目遣いで茉弥の顔を見ながらパスタを食べていた雪江は、少し考える表情になる。

「まあ、それもわかるけどね。波風立たないのって楽だし」

あんたがそれでいいんならいいけどさ、と付け加えて、雪江はまたパスタを口に運んだ。

「結婚するなら何歳まで、みたいなのって、いつからできたのかね。もう、そういうこと考えること自体疲れてる気がする」

「そんなの、世間が勝手に騒いでるだけでしょ。茉弥がしたくなったらすればいいんじゃない? 相手もあることだし、自分のタイミングだけで決まることでもないしね。あとは勢いなんじゃないの」

すみませーん、デザートお願いします、と手を挙げる雪江を見て、そんなにはっきり物事を決められる彼女の性格が羨ましくもあり、少し疎ましくもなる。

「今すぐに結婚したい、子供も欲しい、とか言うんならお尻叩くけどさ、今に満足してるならゆっくり考えてもいいんじゃない」

デザートをおいしそうにほおばる雪江はそのあと、大学の同窓生たちのゴシップ話題を持ち出してきた。あの子たちは結婚するらしい、とか、合コン中毒になってる子がいる、とか。どの話もなんとなく今の自分には生々しくて、じゃあね、また、と別れる頃には少し疲れてしまった。


少しぬるめのお湯を張ったバスタブに身を沈めながら、あー気持ちいい―と思わず声を出す。おっさんくさいな、と思いながらもついやってしまうのだ。

今日は楽しかったけど、少し疲れた。図星を突かれたからだとは分かっている。ぐずぐずと考えたくもないので、バスソルトのラベンダーの香りを楽しみながら、ぶくぶくと顎まで湯船に沈む。

立ち上る湯気をぼんやり眺めながら、雪江の舌鋒鋭い発言をまた繰り返し思い出している自分にげんなりした。あの式の話なんてするんじゃなかった。あの日は、居心地は悪かったけど、行かなかったらそれでまた仕事関係で角が立つかもしれないことを恐れた自分が弱かったのだ。

そんな小さいことでくるしわ寄せなんて突っぱねればいいし、そもそもそんなことで茉弥がうじうじと悩み続ける必要なんてないのに。あの日見た、眩しいくらいの笑顔が自分には到底届かないものだということに衝撃を受けたのだろうか。元彼が結婚することではなくて、彼女のきらびやかさが羨ましいと思った自分を見ようとしていなかったのだ。

結婚について具体的に考えたことなんて、一度もない。相手もいなかったのだけれど。

思えば、会社に入って今まで、あまり後ろを振り返らなかった。初めて任された仕事、やり遂げた時のうれしさ、そんなものが充実感につながっていて今がすごく楽しいと思っていた。仕事を手放すことが考えられなかった。そのまま突き進んで、今に至る。

結婚する人生がなんとなく「正解」みたいに言われているけれど、果たしてどうなんだろう。

今は良くても、老後に一人は寂しいと思うのかもしれない。そうしたら、その頃に同じように枯れた人と添うのもいいんじゃないだろうか。そんな芸能人がいたような気がするし。

雪江の子供の話を思い出す。ピアノを習うんだったか。自分が守らないといけない存在がいると必然的に強くなるのだろう。きっといいお母さんをやってるんだろうな。

自分がそんな風に、子供と話しているところを空想しようと思ったけど、ちっとも浮かんでこないので、のぼせる前に風呂から上がることにした。


*****


アクセサリーのウェブショップは、メールマガジンもやっているらしい。なんともまめなことだ、と軽い気持ちで登録をしてみたら、ほぼ毎日メールが届くのにびっくりした。

茉弥は自分の好きなデザインばかりを見ていたけど、スタッド型ピアスやラインストーンのネックレスなどの紹介も多いので、扱う商品のすべて爬虫類系というわけではないようだ。世の中にはこんなにもアクセサリーの需要があるのだろうかと思うくらいの頻度が、茉弥には少し目まぐるしい。

爬虫類デザインは、レオパのネックレス以来新作がなかなか出てこない。確かに、他のデザインに比べると手がかかっていそうなので、量産できるものではないのかもしれない。あれ以来、何も購入はしていないが、こうもメールがたくさん来ると何か買った方が良いのかと考えてしまうこともある。トカゲを模したピアスがなかなかかわいいのだが、職場につけていくには少し大きそうなのがネックである。電話の受話器を首に挟む癖があるので、その時に挟んだら痛そうでもある。そんな理由で躊躇しているのだが、休日に楽しむつもりで買ってしまってもいいのかもしれない。

あれから、何気なくレオパについて色々と検索している。

レオパードゲッコーは正面から見ると口角が上がっているので、微笑んだ表情にも見える。しかしそれはそういう口の形をしているだけで、微笑んでいるわけではないらしい。

また、犬や猫のように擦り寄ってきて信頼を示してくれるというより、えさを食べる時に飼い主を認識して、警戒心は抱かないようになるらしいのだ。性格は個体差により違うようだが、日頃から接していると手のひらに乗ってきたりすることもあるようだ。その姿を見て、癒されるという人のブログを興味深く読んだ。

微笑んでいるようで、何を考えているかわからない動物。

言葉が通じるのに、意思の疎通ができない人間。

結局のところ、自分が考えていること以外は結構あてにならないのだな、と思い、今日は購入をやめてブラウザを閉じた。


昼休みから戻ってきた遥ちゃんが、こういうの好きでしたよね? とチケットを押し付けてくる。

高層ビル内にある水族館で、爬虫類特集展が組まれるらしい。ランチで入ったお店でチケット配っていたのだそうだ。

「ありがとう。へえ、知らなかった。こんなのあるんだね」

あたしは興味ないっすけど、と言いながらもチケットをもらってきてくれた遥ちゃんに感謝を述べて、手帳に割引券を挟んだ。

「遥ちゃんは、こういうのって好きじゃない?」

一人で行くんだろうな、と思いながらも遥ちゃんは誘ったら来そうな気がして声をかけてみる。

「うーん、あたしは何を考えてるかわからない生き物はちょっと、よくわかんないっす」

「そっか、ま、そうだよね」

そういわれるだろうなとは予想していた。じゃあパンダとか、ふかふかしていそうな生き物だったら何を考えてるかわかるの? と意地悪い質問をしてしまいそうだったのでやめた。

まあいいや。一人でも楽しめるし。天気の良い日にゆっくり行こう。こういう、期限が決まっているものは最終日が近づくと込み合う。子供の夏休みが重なるとさらに混むかもしれない。

そろそろ、夏季休暇が申請できる時期だ。普段は、子供がいる家庭の人やらをなんとなく優先してあとから申請していたけれど、一日くらい入れても大丈夫だろう。平日にゆっくり羽を伸ばすのも悪くない。そう思ったら、少し背筋が伸びた。


都心に来るのは久しぶりだ。大学時代は、この辺の安い居酒屋に大勢で入り浸ったりしたものだけど、あの頃のみんなは何をやっているんだろう。少し郷愁に囚われながら、大通りを進む。

開設はかなり前だが、リニューアルオープンされて設備が大きく変わっている水族館は、開放感のある作りでとてもビル内にあるとは思えなかった。高層ビルの上階にまで大量の水をどうやって運んでいるのかわからないが、かなり大きな水槽に悠々と泳ぐ魚たちはとてものんびりとしていて、日ごろあくせくしている自分がなんだかばからしく思える。

お盆の時期を避けた平日は、入館者も少ない。子連れの客が少しと、カップルらしき若い男女。すれ違う人たちがうっとりと水槽を眺めている姿もなんだか気持ちが落ち着くようだ。

水槽を冷かしながら、ゆっくりと歩を進める。深海魚コーナー、日本の海のコーナー。魚たちは悠々と泳ぎ続けている。人間が興味深そうにのぞき込むのを、どんな思いで見返しているのだろう。

お目当ての爬虫類特集コーナーでは、自然と足がゆっくりになった。水槽にいちいち顔を近づけて生き物たちの姿を探すのは楽しい。グリーンイグアナやニシキヘビくらいのボリューム感があると、存在感たっぷりにどーんと構えている。しかしアカハラヤモリやアマガエルなど、小さな個体は水槽のどこかにへばりついているのかを探すのが大変だ。

二ホンアマガエルが石の横にぴったり張り付いているのを見つけて、大きな目に見入る。珍しい、青色の個体を初めて見てちょっと感動する。

おとーさん、見つからないよ、という声が下から聞こえた。小学生くらいの少年が、目をキラキラさせて水槽を見ている。少し背をかがめて指を差して小声で教える。石の横のとこ、ほら、わかる? と声をかけると、水槽に鼻をくっつけそうなくらい近づいた少年がいた! と声を上げる。父親らしき男性がすみませんすみません、と頭を下げながら近づいてきたので、へこへこ頭を下げながら、次の水槽へと移る。

世界のカエルコーナーでは、ベルツノガエル、アメフクラガエル、ツノガエルなどが展示されていた。煌びやかな色合いや、つるんとした外見などカエルと一言にいってもたくさんなのだと改めて思う。

ヤドクガエルの水槽の前に陣取っている男性がいたので、いったん飛ばしてぐるっと見て回る。

シュレーゲルガエル、トノサマガエル、ゴライアスガエル。さっきの子供が茉弥を追い越して駆けていく。楽しそうなのは何よりだ。

ヤドクガエルの水槽に戻ってみると、まださっきの男性が張り付くように眺めていた。まだいるのか、この人すごく好きなのかな、と興味深く感じる。身長が高いのだが、腰を折るようにして水槽を眺めているので、とても疲れそうな姿勢だ。かぶっていたキャップを後ろに回して、さらに顔を近づけている。

茉弥もかなり顔を寄せてみてしまう方だが、まさに食い入るように見ている人は少ない。このままでは彼がいつまで張り付いているかわからないので、横から覗いてみようと近づくと、男性がぎくっとしたように振り返る。小声ですいません、と呟いて身を引いた男性は、茉弥の顔、ではなく喉元をみてあっと声を上げた。

「もしかして、レオパの方、ですか?」

今度は茉弥が小首を傾げて、なんのことやらと考える番だった。今日はロックバンドのTシャツにダメージジーンズというカジュアルな格好だが、これがカッターシャツを着ていたら。

「Casablancaの店員さん、ですか?」

「そうです」

口元に浮かんだえくぼを見て、記憶とつながった。人懐っこい笑みを返されて、こんな人だったっけと思う。

「一度しか行っていないのに、よく覚えてらっしゃいますね」

「商売柄、覚えちゃうんですよ。あの日は空いてましたし、あの時間にアイリッシュウイスキー選ぶんだなって思ったもんで」

そこまで覚えられているのか、と、あの日のことを思い出して赤面する。二の句が継げない茉弥にはお構いなしに、彼は続けた。

「それ、買ってくれたんですね」

ネックレスを指さしている。

「レオパ好きですから。気に入っていますよ」

それまでは口角を上げて微笑んでいた彼が破顔した。くしゃっとした笑顔が急にかれを幼く見せる。

「うれしいです。それ、僕のデザインなんですよ」

「もしかして、そうなのかなって思ってました。さっきもずいぶん熱心にヤドクガエルを見てらしたし、本当に好きなんですね」

「すみません、邪魔でしたよね。ちょっと次の作品で悩んじゃって……」

「いえいえ、空いていたし。私こそ邪魔してしまったみたいで」

彼は大袈裟なくらいに手を振って、いえいえ、それはないです、大丈夫ですと繰り返した。カウンター越しに接していた時の彼はもっと余裕がある人のように見えたが、今日は少年のようにも見える。

それでは、ごゆっくりと声をかけて次の展示に向かおうとすると、あの、と声が追いかけてくる。

「もしご迷惑でなかったら、お話聞かせてもらえませんか?」

何のことかと、小首を傾げている茉弥に、ぽりぽりと頭を掻きながら彼はが言う。

「次作がどうもピンと来なくて……参考にしたいんで、レオパ好きさんのご意見を聞きたいんです」

「いやいや、そんな、私ただ好きなだけなんで、デザインとかわかんないですよ」

「そんなことないですよ。こういうのって、生き物好きな人じゃないとわからない魅力もあるだろうし」

好奇心に満ちた子供のような、熱意のこもった目線が眩しい。うーん、ええ、まあ、とあいまいな返事をする。時間はまだあるし、まあいいか、と頷く。途端に彼はまた破顔して、大袈裟なくらいにありがとうございます! と頭を下げた。なんだか気恥ずかしくなった。


「実は、今日で5回目なんです」

恥ずかしそうに彼が話し始める。フードコートの席で、プラカップのビールでなんとなく乾杯してから、改めて名乗り合う。そういえば、声の大きい店主が彼のことを隆と呼んでいたのを今更思い出した。

「今までのとは違うものを作りたいんです。シルバーだけじゃなくて、カラーの作品を試してみたくて」

「だからあんなに熱心に見てらしたんですか。ヤドクガエルってカラフルですしね。可愛いと思いますよ」

「え、そうですか? 僕の周りは結構慎重な意見が多いんですけど」

「そうかなあ? ディフォルメされたキャラクターだったらカエルが一番多いと思いますけど。女子高生のカバンについていても違和感がないようなのもありますし」

「ああ、わかります。でもああいうのではなくて、もっと質感を出したくて……」

隆がショルダーバッグから取り出した手帳を開いて示してくる。覗き込んで思わず声を上げた。

「すごい! これ全部書いたんですか」

照れくさそうに笑いながら、

「一応、これでお金もらってますから」

聞けば、隆はデザインやイラストを学ぶ学校を出て、自分で何かを作成する仕事をしたいとずっと思っていたのだという。それだけで食えたらかっこいいんですけど。そうもいかないので、仕事三昧です、と言ってからビールに口を付けた。

「あのお店以外でも仕事を?」

「ええ。日中はデザインの事務所にいます。というより、あのお店にいる方が少ないんですよ」

「え、そうなんですか? とても手慣れていたように見えたけど」

「学生時代にバイト程度でやったことがあっただけです。あそこの店長さんが遊び人で、若い奴は好きなことをやれ、って色々やらせてくれるんで」

アクセサリーの作成を勧めてくれたのも店長なのだそうだ。予想通り、爬虫類などの造形は隆の担当で他のデザインはそれぞれ得意な人が担当しているのだという。ちなみに、メルマガ担当者もいるのだそうだ。

「私は絵も描けないし、なんていうか、自分のやりたいことをやる! みたいなこと、考えたことがないので。なんか別次元に感じますよ」

「そんなことないですよ。僕の場合はデスクワークとか営業とかよりもそういう方が向いてるなと思うだけなんで。こつこつ仕事できる石崎さんみたいな人の方がすごいと思いますよ」



「私、そういうのに疎いので。全部一人でやってたらすごい仕事量だよな、とか思ってました」

「はは、確かに。僕もメルマガとかは無理ですね。文章書けないんで」

「いや、でもすごいなあ。芸術方面に才能があるのってすごいなと思います」

隆はふっと真面目な顔になって、才能かあ、と呟いてから、言った。

「なんですかね、才能だと思ったことはないです。ただ、自分が作ったものを喜んでくれる人がいる以上、妥協はしたくないなって。自分が作っていて面白いから続いてるだけですよ」

くるくると変わる表情に少しドギマギする。空の方に視線を逸らしながら、つぶやく。




「ターゲットを決めてから作れって言われてるんです。カエルを色鮮やかに作ったら可愛さが出るかなと思ってるんですけど、シルバーのごつさが好きな人は引くんじゃないかと言われて、迷っちゃって」

先ほど見た、色鮮やかなカエルの姿を思い浮かべる。カエルは丸いイメージがあるので、どことなく可愛らしい形になるのではないか。それを受け入れる層とは。

「アクセサリーは普段から色々見るわけではなんですけど。トカゲのピアス、あれも可愛いなって思ってて。でも、結構大きいので、私みたいなオフィス勤めの人は敬遠しちゃう人もいると思うんです。サイズ感を少し小さくするとか」

ふんふん、とメモを取られると、途端に調子はずれなことを言っているのではないかと不安になる。

「そうか。可愛さですか。僕は結構、もっと毒々しい感じにしようと思ってたのが受けなかった理由かなあ……なんか見えてきた気がする」

手帳にさらさらと書き付けて、音を立ててぱたんと閉じた。

「ありがとうございます、なんか突破口が見えた気がする」

嬉しそうに笑顔を向けられて、急に気恥ずかしくなった。

「いえ、そんな大したことは」

まもなく、ペンギンのもぐもぐタイムが始まります、ご観覧をご希望のお客様は水槽にお集まりくださいとのアナウンスが流れて、その後の言葉がもごもごと宙に消えてしまった。お互いのビールのカップが空になっているのを見て、もう一杯飲みますか? と聞いてみる。隆はおごりますよ、とにっかり笑い、勢いよく立ち上がった。同じプラカップのビールを二つ持って帰ってきた隆は、笑顔のまま言った。

「色々ご意見聞きたいんで、無理じゃなかったら連絡先とか聞いてもいいですか?」

一瞬、頭の中で色々な声が飛ぶ。が、それを無視して茉弥はにっこり微笑んだ。

「もちろん」


夏の日差しが勢いを増し、汗ばむ陽気になってきた。内勤のオフィスはやたらと冷房が効いていて、カーディガンが欠かせない。血流が悪いと冷えが悪化すると聞いて、なるべく暖かいお茶を職場では飲むようにしている。リラックス効果があるというカモミールも好きだが、眠くなりそうなので職場ではペパーミントティーを愛用している。遥ちゃんにも勧めてみたが、歯磨き粉みたいですねと言われた。好みではなかったらしい。

仕事量は少し落ち着いてきたが、相変わらず毎日が騒々しい。この間のミスで背筋が伸びたのか、遥ちゃんの仕事ぶりが大きく上がったことが何よりうれしかった。

昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、時間が一瞬にして弛緩する。茉弥も、はあーと息をついてから目頭を揉んだ。目薬、買おうかな。そう思いながら、手探りでスマホの画面をチェックする。

「新作、いい感じで進んでます。細かい作業が多いので、めちゃくちゃ目が疲れます。やばい 笑」

隆からのメッセージの下に、ヤドクガエルのピアスの写真が飛んできていた。かなり拡大してあるので写真では大きさがつかみにくいが、8ミリだというから一体どうやって作っているのかと思ってしまう。

元々はポップで毒々しいイメージのキャラクターにしたかったそうなのだが、アクセサリーという性質上、スマートさを出すことを優先したのだそうだ。茉弥が言った小さめのフォルムという言葉で作ろうと決心した、などと言うので、余計なことを言ってしまったのではないかとひやひやしてしまう。

「茉弥さーん、なんかにやけてますね」

遥ちゃんの声が近くでしたので、ドキッとして顔を上げる。

「なんですか? いいことあったんすか?」

「そういうんじゃないよ。ささ、ランチでも行きましょうかね」

財布とスマホを掴んで立ち上がる茉弥を、怪しいなあ~と言いながらついてくる遥ちゃんに何でもないってば、としつこく繰り返しながら、まあ、中らずと雖も遠からずだな、と口の中でつぶやいた。

「うえー暑いー」

オフィスの冷たい冷房から出ると、まるで灼熱だ。日傘を持ってくればよかったと二人で文句を言いながら、室外機が吐く熱を避けて目当ての店へと急ぐ。

そういえば、暑い砂漠に変わった熱除けをするトカゲがいたな。脚を上げるやつ。あれも可愛かったな。何て名前だっけ。後で調べよう。

このところ、何かにつけてトカゲやカエルのことを調べてばかりいる。自分も好きだと思っていたが、世の中には愛好家が多いこと、その愛情の深さに驚くこともしばしばだ。

フトアゴヒゲトカゲはかっこいいが割と獰猛だとか、グリーンイグアナは食事量がすごいので飼育は大変だとか、結構どうでもいい知識ばかりがついてきている。

日差しがきつく、目が痛いほどの太陽が眩しい。見上げるのもつらいくらいだ。

レオパのペンダントヘッドが、日差しを受けてきらめいている。いつしかこれをつけるのが当たり前になっていた。

自分の好きなものを好きっていうことが悪いなんてことないですよね」

笑顔で言い放つ隆のポジティブさが羨ましいと思った。自分はそんな風に思えることがあったかな、と。

「石崎さーん、パスタ屋さん並んでますよぅ、どうします?」

だいぶ先を歩いていた遥ちゃんが大声で言う。

「えー、違う店でもいいよ、暑いしねえ」

どうしましょうか? あー冷麺屋さんも近いなあ、暑いしそっちでもいいですか? とスマホを覗きながら遥ちゃんが悩んでいる。なんでもいいよ、と言うと投げやりすぎです、と遥ちゃんが頬を膨らませた。

「せっかく来たんだから、並ぼうか」

最後尾に並びながら、遥ちゃんが職場の愚痴を言い始める。課長が仕事を押し付けてくる量が増えた、絶対いじめられている、とぷりぷりしている姿が可愛らしい。

「ちょっと、石崎さん聞いてます?」

「え? 聞いてるよ」

「心ここにあらずって感じですよ、もう。何ですか、秘密なんてずるいです」

「何にもないってば」

苦笑いの茉弥を気にも留めず、今日は飲み会ですからね、と遥ちゃんがむくれた顔で言う。

日差しが厳しい。この暑い中、隆は小さなピアスの細工にこだわっているのだろうか。あの高い背を縮めて水槽を覗いている隆の姿を思い出すと、面白くなってしまう。

そういえば、静岡県にカエルばかりがいる動物園があると最近知った。隆は知っているだろうか?

知らせてみようかなと思う。一緒に行こうというのはおこがましい。それはないにしても、周りの温泉が気になるし、名物の葉わさび漬けを食べてみたいので、買ってきてほしいなとも思う。言ったら言ったで教えてほしいと思っている。

「石崎さん、やっぱなんか楽しそう」

遥ちゃんが汗をぬぐいながら、恨みがましい目をこちらに向ける。何でもないよ、と繰り返しながら、茉弥は胸のつかえが取れたような爽快な気分になっていた。

太陽の熱がじかに伝わってくる。頭皮が灼けると毛根まで痛むらしいですよ、知ってました? という遥ちゃんの言葉を聞きながら、茉弥は真夏の日差しを気持ちいいと思うのは久しぶりだと思っていた。深呼吸をしてみる。鼻腔をくすぐる夏の香りを、隆も感じているといいな、と、ふと思った。











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