探偵と隣人
隣の様子がおかしいことに気付いたのは、今朝だった。
誰でもあるだろ。物音でなんとな~く、なにしてるのかわかる時って。隣に住んでるとそういうの、わかりやすいんだよな。
起きたなって物音で始まって、飯の支度して、しばらく無音。しばらくしたら水の流れる音が少し聞こえる。風呂場に出入りする音、ドライヤーの音、襖を開ける音。んで少し間が空いた後、ガチャガチャっと音がすれば外出。わかりやすいだろ?
もちろん、物音が聞こえない日は結構ある。仕事が休みで、いつもと違う習慣で動いてるんだろうよ。それか、体調不良で寝込んだり?よほど酷い病気じゃなければ、2日もあれば元通り、長続きはしない。そうだろ?
だからさ、物音が全くしない日が5日も続くなんて、おかしいんだよ。
急いで支度する傍らで、こりゃおかしいな?って思ったんだよ。
俺、いつもお隣さんの物音を目覚ましに起きてたから。なのに最近、音が聞こえなくってさぁ。おかげで寝坊しまくり!……それはお前のせいだろって?ははっ、違ぇねぇ!!
まっ、あんまり会うことはなかったが、多少心配になるだろ?ご近所付き合いってのは、大事だからな。美人だったらよかったのになぁ。
………そうだよ、今の隣は男だ。あぁ最悪。モチベーション上がらねぇよ、色んな意味で。
ご近所付き合いから始まる恋愛ストーリー……俺の憧れ……って、スマンスマン切らないで!話戻すから!!
え〜、でだな。
そんなんで、一度気付いちまうと、そわそわしてきた。
これを職業病とも言うーー違うか?
もしかして中で倒れてるんじゃないか。
消防や救急に連絡した方が良いか。
大家さんに連絡して来てもらうか。
まっこれから仕事だし、後でいいか。
どうせ大したことじゃねぇ。旅行にでも行ってるんだろ。
なんて考える間に支度を終えて、やっとこさ玄関のノブに手を掛けて。
(ゴン)
例のお隣側の壁に、「何か」が当たる音がした。
それなりに重量のある「何か」が壁に当たる音。
今まで聞いたことがない音だ。
(ゴンッ)
もう一度、音がした。先に聞こえた音よりも、強かったように思う。耳は良いからな。
だがそれ以降、音は鳴らなかった。
幻聴ではあり得ない、リアルな音だった。
すげ〜迷ったよ。だって気になるだろ!?
聞き慣れない音が隣からするんだぜ!?
よりによって、隣からよ……。
でも今日は、今日だけは、絶対に遅刻できなかったからさ。
気になって気になってしょうがなかったが、慌てて家を飛び出した。
だから仕方なく、しょうがなく、申し訳なく思いつつ、こうやってお前に電話してるんだぜ。
なっ、籠森?
※※※
「……なんでその流れで、俺が隣室の状態を確認しなくちゃいけないんだよ」
雪の予報が出ている灰色の寒空の下で、籠森総司は不機嫌な様子を微塵も隠さず、電話越しに友人へ尋ねた。
炬燵の中でぬくぬくと過ごしていた休日の静かな朝を、友人の騒がしいモーニングコールによってぶち壊された怒りは重い。それでもここまで来てしまうのだから、お人好し過ぎる、と自分でも思う。
電車で揺られて10分。駅から徒歩15分。
約30分かけて辿り着いたのは古びたアパート。通話中の友人宅であり、何度か飲みに来たことがある場所だ。迷わず来れてしまったことが、余計怒りを嵩増しする。
怒りの矛先である友人は「だってよぅ」と情けない声で訴えてきた。
『だってよぅ籠森?仕事終わりで家帰ったら実は隣人死んでました〜なんて、洒落になんね〜よ?もうそこ住めなくなっちゃうよ?』
「どうせまた引っ越すだろうし、この間も壁が薄いだの、収納が狭いだの愚痴ってたじゃないか」
『そんな冷たいこと言うなよ〜、親友だろぉ?』
「親友なら休日ぐらい休ませろや」
『今日平日だぞ?大丈夫?ちゃんと仕事ある?』
「あるわ!余計なお世話だ!!」
「ひっ」
煽るような言葉に思わず怒鳴り返すと、小さな悲鳴と共に、ガサリと何かが地面に落ちる音がする。電話越しではなく、ごく間近で。
後ろを見れば、いつの間にいたのか、女性がビニールから落ちた日用品を慌ててかき集めていた。俺の声に驚いて落としてしまったようだ。
「大丈夫ですか?手伝っ」
「だっ、大丈夫ですぅっ!ごめ、ごめんなさっ」
手伝おうと声をかけるも、女性は残りを手早く拾い上げ、俺の横を猛スピードで駆け抜けて去ってしまった。
終わった。社会的に死んだ。絶対通報される。
あと拒絶されたことが少しショック。
もしや家を出るときに感じた嫌な予感は、このことだったのか?
『ーーなぁ、聞いてるか籠森ぃ〜』
「終わった……廃業だ……」
『はっ?えっ、沈黙してる数秒で何があった?教えて教えて』
「うるさい黙れクズ」
『侮辱罪だ!名誉毀損だ!!』
意味のない貶し合いをしばらく続け、双方息を切らして言葉が尽きた頃、友人が声を上げた。
『もう時間だからさ、ホント、マジで頼みます!今度飯奢るからさ!』
「はいはい、了解。ただし!本当に仏がいたら……」
『わかってるって!じゃ、よろしくな籠森!あっ、大家さんの代理がもうちょいで来るはずだから、不法侵入はしなくていいぜ』
「するわけねぇだろ!!」
「んじゃなっ!」の言葉を最後に電話は切れた。時計を見れば9時ジャスト。本当にギリギリだ。仕方がない、文句は次会う時まで貯めておこう。
大家さんの代理人の名前を聞き忘れてしまったが、到着すれば、向こうから声をかけてくれる、はずだ。
今一番の問題は、先程の女性に通報されているかもしれない現状だ。見知らぬ男の怒鳴り声など、女性からすれば恐怖でしかないだろう。通報されても仕方ない。
考えたら胃が痛くなって来た。
少しでも通報のことを忘れるため、なにを奢らせるようかと考えを巡らせることにする。目玉が飛び出る高さの飯を奢らせよう。
「……寿司、ステーキ、ラーメン。中華もいいな……甘いものが欲しいな……スイパラ?」
「あ、あのっ」
「ほあっ」
間抜けな声をあげて、後ろを振り返る。
「わっ、私なんかが声をかけて、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
アパートの入口から、逃走した女性が右半身を覗かせていた。酷く怯えている上に、体は徐々に入口の向こうへ消えていく。話をする前に再び逃げてしまいそうだ。
「まっ、待った、待ってください!」
必死に引き留めた。
彼女が大家さんの代理である可能性が高いから、というのは建前で。怖がらせたことに対して挽回の機会をもらいたい、というのが本音だった。
※※※
「よっ、吉野です……あのぅ、ごめんなさい……」
「籠森です。こちらこそ、すみませんでした。出会い頭に怒鳴り声を聞いたら、怖いですよね」
どうにか引き留めた吉野さんに、自己紹介と謝罪を告げることに成功した。
事情を説明しつつ世間話で情報を引き出すと、やはり大家さんの代理で来たそうだ。大家さんは親戚にあたるらしい。
「大丈夫、です。じっ、じゃあ、さっそくお部屋、行きましょう」
「はい、お願いします」
すでに大家さんから事情を聞いているそうで、自己紹介が終わるとスムーズに部屋を訪ねることが……。
「吉野さん?あの、部屋は一階ですよ」
「あっ、ごめんなさっ、あぁっ!?」
出来なかった。
何故か階段を上がっていった吉野さんに呼びかけると、慌てて階段駆け降りる。危ない、と声をかける暇もなく、サンダルと足がもつれた吉野さんは転落。受け止めようとするがこれも間に合わず、階段の先に設置されたポストへ顔面を強打してしまった。
鼻を抑えて蹲る吉野さんへ駆け寄る。
「吉野さん!大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です」
心配無用とでも言いたげな目でこちらを見上げるが、抑えた手の隙間から鼻血がボタボタ垂れてきている。これで心配しないほうがおかしい。ティッシュを差し出すと申し訳なさそうに受け取った。
改めて吉野さんを観察してみると、体の至る所に怪我を負っている。古い傷も、新しい傷も、絆創膏や包帯が巻かれている。額には血の滲んだガーゼが不器用に貼られていた。
普段からそそっかしい、あるいは不運が過ぎるのだろう。吉野さんの日常生活に不安を覚える。
鼻にティッシュを詰め込み終わった吉野さんに見咎められないよう、静かに溜息を吐いた。
※※※
「……ここですね」
「はっ、はい……ここ、です」
疲れ切った俺の横で、吉野さんが申し訳なさそうに答える。
入り口からアパートの部屋まで、僅か数メートル。
その間に吉野さんは4・5回転んでみせた。
なんとか怪我を回避させて進むが、最後に通路にばら撒かれた小石の一つに躓き、頭から地面に突っ込んでいった。
幸い突っ込んだ先の地面が掘り返された状態だったため、かすり傷で済んだ。謝りながら立ち上がる吉野さんの横に少し大きめの、それも尖った石があったことは黙っておいた。怪我らしい怪我はそれだけだったが、本当に、不運にも程がある。
「歩くだけでここまで疲れる経験なんてそうそうない!」とででもポジティブに考えなければ、とっくに逃げ帰っていただろう。今も帰りたい。
何度か訪れた友人宅と同じ形・色の扉。表札に書かれた「105号室・南」の字だけが違うことを確認して、確かに目的の部屋だと頷いた。
試しに吉野さんがチャイムを鳴らす。応答なし。
続いて直接、二回ノックする。やはり応答はない。
部屋の中で誰か、もしくは何かが動くような音もしない。
「返事がないですね。物音は友人が確認しているので、朝の時点で誰かいたはずなんですが」
「外出した、可能性は?」
「物音を聞いてから俺が到着するまで一時間足らず。確かにその可能性も捨てきれないですね」
「音は、その。絶対に、人、だったんですか?」
「あいつが……友人が、俺に確認を求めるぐらいですから、間違いなく。人より耳は良いので」
「なる、ほど」
耳とはまた別なのだが、それは今関係ないだろう。
吉野さんは神妙な面持ちで頷くと、上着のポケットを探った。途中何故か固まったが無事に鍵束を取り出し、迷うことなく一本を選ぶと、鍵穴に差し込んだ。軽い金属音が鳴り、扉が解錠される。
開かれた扉の先は薄暗く、吹き込む風に乗って異臭が鼻を突いた。
この先にある異常を理解してしまうのに充分な、不吉で嫌な臭い。
忌々しくも懐かしいそれは、何と疑う余地すらない、死臭だった。
俺は覚悟を決めて、吉野さんより先に105号室へ入った。
※※※
このアパートの間取りは2Kで、風呂・トイレ・収納の配置は全部屋共通。唯一異なるのは、個性とも呼べる家具だけだ。
友人の部屋は意外にも綺麗、悪く言えば殺風景だったが……この部屋はどう取り繕っても、「汚い」以外の言葉がでてこなかった。
流し台に積まれたコンビニ弁当、缶ビール、吸い殻。
床に散らばる衣服、食べカス、また缶ビール、謎の液体(多分酒だろう)。それに群がり飛び交う、羽虫達。
これほど汚いと、感心すら覚える。
105号室は、いわゆる汚部屋と呼ばれる部屋だった。
奥から僅かに臭う死臭よりも、今はこのゴミ溜めからの腐敗臭の方が強い。
土足で入ることに抵抗を覚えるが、酒まみれの床を歩く勇気もない。どうしようか悩んでいると、吉野さんが折良く二組のスリッパをくれたのでありがたく受け取り、次いで常備しているゴム手袋を着け、中へ入っていく。
先頭はもちろん俺。転んでも大丈夫なように、吉野さんには肩に手をかけてもらう。偶に落ちているガラスの破片を吉野さんに指摘され、避けつつゆっくりと奥へ進む。
スリッパ越しでも伝わる床の感触が不快だが、幸いなことに部屋は狭いので、長く感じることなく、奥へと辿り着く。
玄関から差し込む薄日以外に光源はなく、唯一窓のある奥の部屋は、襖がきっちり閉じられている。
開けていないので中は見えないが。
死臭は確実に、この部屋から漂っていた。
「臭いますね」
「えっ、ご、ごめんなさい。私、そんな、臭いですか」
「あっ違います違います。吉野さんではなく、この部屋です」
「そう、ですか?私、風邪を引いているので……」
「お大事に……。吉野さん、すみませんが、ここにいてくれませんか?」
「えっ。で、ですがっ」
「お願いです」
「う。で、ですが。あの、うぅん」
肩に置かれた手に力がこめられる。思いの外、力が強い。
しかし吉野さんにトラウマを植え付けるわけにはいかない。今でさえ細く震えているのに、死体なんて見たらショック死しかねない。だからと言って「この先に死体があるので入っちゃダメです」とも言えない。やはりショック死しかねない。
吉野さんを転ばせないよう慎重に振り向いて、説得を試みる。
「この先に不審者がいるかも知れません。最初に襲われるのは私になるので、吉野さんにはその隙に逃げて、十分逃げた先で、警察に通報して欲しいんです」
「ふっ、不審者」
「そう、不審者です」
多分いない。
「刃物を持っているかも」
「はっ、刃物を……!」
持ってない持ってない。
「……う、うぅん……わかり、ました。ここで、お待ちします」
首を捻りながらも納得してくれた吉野さんに感謝して、もう一度部屋へ向き直る。
これだけ騒いでも物音一つしないのだから、少なくとも生きた人間はこの先にはいない。
それでも緊張で手の平に滲む汗をズボンで拭って。
襖を、開ける。
※※※
臭いが一層強くなった。
息が詰まるほどではないが、気付けば呼吸は荒くなっている。
寝室として使っているからか、見える範囲の畳は汚れていない。スリッパを脱いで、慎重に中へ足を踏み入れた。足裏に伝わる畳の心地よさに安心する。
部屋の中は暗い。カーテンの隙間から僅かに漏れる薄明かりが、余計に部屋を暗く、底無しに見せていた。
間取りは六畳。通ってきた場所と同じで、それほど広くはない。暗闇が、見えない場所を得体の知れない空間にしているだけ。
部屋の左奥に何かあるのが、気配でわかる。もう一歩踏み出して、布団が敷かれたままになっていることに気が付いた。
布団の端に爪先で触れつつ暗闇の中に手を伸ばし、ジリジリと進んでいく。手に何かが当たったところで立ち止まる。
ザラリとした手触りがゴム手袋越しに伝わる。部屋の端に到着したようだ。位置的には、友人側の壁にあたる。
真下を見ても、当たり前だが暗くて何も見えない。
どうしようか……と少し悩んだ後、自分が携帯電話を持つ現代人であることを思い出し、取り出してライトを点けた。
暗闇に光が灯る。
光に目が慣れると、ライトに照らされた布団の上に、眠るように息絶える死体が見えた。
免許証、携帯、ナイフ、学生証、カバン、財布、目薬、ライブチケット、小銭、ビニール袋、菓子パン、エコバッグ、鍵、キーホルダー、パスケース、ペットボトル、腕時計、服、下着、眼鏡、ディスク、ゲーム機、リュック、USB、PC、イヤホン、空の小箱、絆創膏、包帯。
雑多なものが遺体を中心にばら撒かれていた。見覚えのある物がいくつかある。
遺体の損傷はーー。
「籠森さん、大丈夫、ですか?」
「……はい、大丈夫ですよ。もうすぐそっちに戻ります」
吉野さんの心配そうな声で我に帰り、元々の目的箇所である壁へ光を向ける。
壁にはへこみが二つ出来ていた。これが友人の聞いた音の発生源だろう。確かに、それなりの大きさのものが……人の頭ぐらいのものが、ぶつけられたようだ。一つには血痕が付着していたので、生物なのは間違いない。
壁の真下に光を向けると、土と小石が落ちていた。それも大量に。壁の材料ではなく、そこら辺にある普通のものだ。殺人には関係ないだろう。殺人には。
音の発生源も、隣室の様子もわかった。あとは警察に任せよう……と吉野さんの元へ戻るために足下を照らして。
寄り添うように落ちている、二つの遺留品に目が向いた。
驚き、疑い、理解して、安堵した。
あとで怒られるのを承知で、その二つをポケットにしまった。
これで全ての答えが、出揃ってしまった。
※※※
「……はい。はい、そうです……お願いします」
部屋の外に出てから、警察へ通報した。熱気のこもる部屋にいたせいか、冷たい風が心地よく感じる。予報通りなら、一時間も経たずに雪が降り出すだろう。
一通りの事情を説明して通話を終えると、離れていた吉野さんが駆け寄ってきた。予想通り転んだので、肩を掴んで転倒を防ぐ。助けることにもなんとなく慣れてきた。
……慣れてどうするんだ。
「あ、ありがとう、ございます。すみません、助けて貰って、ばかりで……」
「大丈夫です、慣れてきたので――ところで吉野さんは、このアパートに来るのは初めてと言っていましたよね」
「えっ?は、はい」
こくこくと頷く。自己紹介の際、親戚に頼まれたから来ただけだと言っていた。その前の世間話で、ここに来るのは初めてだとも語っていた。
しかしそれでは説明できないことがいくつかある。
「本当に、初めてなんですか?」
俺の言葉に、吉野さんの顔は血の気が引いて青くなる。
「う、嘘じゃない、です。どうして、そんなこと」
「初めてではないですよね?それにしては、あの部屋に詳しい」
「それは、周りにすごくっ、気を付けて、いたからでっ」
105号室に入るまで全く疑っていなかった。
しかし入ってからは別だ。吉野さんはあの部屋に詳しすぎた。俺を正確に奥の部屋へと導きすぎた。少なくとも一度、俺より前に105号室に入っている。そうでなければスリッパなんて事前に用意できない。視界の悪い中、床に転がるガラスに気付けない。
「それと最初に階段を間違えたこと。大家さんに事情は聞いていたはずなのに、あなたは何故か、二階への階段を登った」
「ま、間違えただけでっ」
「それに鍵です。あの鍵束の中から、あなたは迷わず105号室の鍵を選びだした」
「そ、れこそ、親戚に、聞いて」
「……もう一度訊きます。本当に、初めてきたんですか?」
吉野さんが言葉を詰まらせて、自身を守るように両手を胸の前で強く握る。
滲んだ汗で剥がれかかったガーゼの隙間から、未だ血の滲む傷跡が見えた。痛々しい、傷跡だ。
深呼吸をして、吉野さんは俺をキッと睨みつける。
「初めてですっ」
「そうですか」
あっさりと引き下がった俺を吉野さんが訝しげに見る。
なにも階段と鍵、状況だけで吉野さんを犯人と断定し、問い詰めたわけではない。
まだ証拠はある。一つずつ、示していこう。
「そういえば、壁にへこみが二つありました。友人の聞いた音の発生源はそれでしょう」
「正体がわかって、よかったですね」
吉野さんの反応が冷たい。当然ではあるが。
「それと遺体の周辺には、免許証等の身分証から生活用品まで、ありとあらゆる物が散乱していました」
「……それで?」
「強盗目的の犯行かと思いましたが、現金や貴金属は残されていたので違います。さらに遺体は損傷していて……」
吉野さんの顔が、更に青ざめた。
「し、ししっ、死体を、そんなに近くでっ、みたん、ですかっ……?ご気分、悪くなってないですかっ?!」
「あ、はい。大丈夫です」
あんなに敵意を向けていたのに食い気味に心配された。すごくやり辛い。
「は、話を戻しますね?犯人は南を殺害した後に部屋を物色し、ある物だけを持ち去りました。遺体の周辺に物が散乱していたのはそれが理由です」
「ある物、というのは?」
俺はスマホを操作して、二週間前の記事を吉野さんに見せた。
「『カバンを盗られた青年、自殺』……」
多発するひったくり。その被害者の一人である青年が自殺してしまった、と綴られた痛ましい記事。
言い方は悪いが、これだけではメディアが食いつくほどの内容ではない。この悲劇に至るまでの物語がメディアを湧かせ、記事にまでさせた。
「このカバンが、現場から持ち去られた物、なんですか?」
「違います。カバンは現場に残されたままでした。犯人が持ち去ったのはその中身……婚約指輪です」
記事の続きを表示する。
嬉しそうに、恥ずかしそうに、照れながら、笑いながら、今夜プロポーズをすると話していた、と。青年の同僚だった男が取材に対して答えている。
次の日の記事では、犯行現場付近の住人が語る恐怖や、ひったくり犯を捕まえられない警察に対する非難・憤りの声が綴られていた。
「確かに、ひどい記事ですが……これと今の状況に、何の関係が?」
記事をすべて読んだ吉野さんが、スマホから顔を上げて疑問を告げる。指摘の通り、これだけでは何故南が殺害されたのかはわからない。
しかしひったくりの関係者ーー警察や被害者ーーがあの部屋を、落ちていた物を見れば、俺と同じ結論にたどり着くことはできる。
何故なら。
「遺体周辺に散らばっていた物はほぼ全てひったくりの被害品なんです。南が連続ひったくり犯だったんですよ」
「……」
「南を殺害した犯人は、自殺した青年の婚約者です」
「……私がその、婚約者だと?」
「違います」
「……それなら、私はもう、ここにいる必要がない、ですね。ただ、代理人として来ただけ、ですから」
「それも違います。まだ必要です」
自嘲気味に笑った吉野さんに、戸惑いの表情が浮かんだ。
確かに殺人事件は解決した。俺の推理は間違っていないと断言できる。
だが一つだけ、謎が残されている。
「友人の聞いた音の謎が、解決してないんですよ」
「さっき、壁にへこみが出来ていたって……」
「そう言いました」
「へこみも、その婚約者が作ったんじゃないですか?」
「それは違います。音がしたのは今朝なんです。それでは辻褄が合わなくなる」
「そもそも壁のへこみは、事件に関係があるんですか?」
「間接的にですが、あります。南が殺害されたのは五日前なんです。だから婚約者のはずがない。死体損壊の罪は別の人間にあります。それがあなたです、吉野さん」
「……っ!」
吉野さんが一歩後ずさる。驚きと、恐怖の混じる瞳でこちらを凝視している。まるで化け物でも見るような視線。
それに少しだけ、傷付いた。
「どうして、そんなことがわかるんですか」
「事前に聞いていた情報……最後に物音を聞いたのが五日前。それと現場に落ちていた証拠、遺体の状況を繋げて考えた結果ですよ」
「現場に落ちていた、証拠」
「遺体には、二箇所の損傷がありました。一つは前頭部の打撃痕。もう一つは胸に出来た複数の刺し傷。この刺し傷は婚約者によるものです。頭部の出血はほぼありませんでしたが、胸からは大量に流れた跡が見えました。この出血量の違いから、頭部の打撃は死後加えられたものだとわかります。複数の刺し傷と同様に、強い殺意と憎しみの込められた打撃です。
凶器は靴下に土を詰め込んだ、即席ブラックジャックでしょう。ですが殴った衝撃に耐えられずに破れてしまったようですね。壁の下に土が少なくない量、落ちていました」
吉野さんの足下を見る。居心地悪そうに後ずさるが、そんなことをしても意味はない。
剥き出しの足指は、寒さのために赤くなっていた。この寒さの中、短時間ならともかく長時間裸足のままでいるのは不自然だ。ましてこれから、雪が降るというのに。
視線を足から地面へ移す。吉野さんが突っ込みかけた、あの地面だ。
「あの場所だけ土が柔らかかったのは、掘り返した後にまた戻したからです。あの辺りの土を調べれば、靴下の繊維や肉片が出てくるでしょう」
「……死後、誰かに殴られた証拠にはなります。でも私が殴った証拠には、なりません。そもそも、私はここに初めて来たんです」
「そうですね。そこを崩せなければ、あなたを犯人とすることは不可能でした」
ポケットから部屋で拾った物ーー学生証を取り出し、吉野さんへ手渡した。
「部屋に落ちてましたよ、吉野さん。初めて来たのなら、これがあの部屋に落ちているのはおかしいですよね」
学生証には吉野さんの顔と名前が印刷されていた。
吉野さんが部屋に入りたがったのは、自分の指紋が室内にあることが不自然にならないように。それと、万が一自身に繋がる証拠品が出ても「入った時に落とした」と言い訳できるようにだろう。遺体を見ないようにと行った配慮が功を奏した。
「それと、これです」
もう一つの拾い物である免許証を取り出した。
自分の学生証を握りしめていた吉野さんが突然俊敏に動き、ひったくるように免許証を奪い取った。
大事そうに免許証を握りしめる吉野さんに続ける。
「染井桜さん。名字が違うので気付きませんでした。お姉さんだったんですね。それも双子の。彼女もまた、ひったくり被害者の一人です。犯行後に殺された、初めての被害者だ」
免許証に印刷された顔写真には、吉野さんと瓜二つの女性が写っていた。
ひったくりはそれ単体だけなら、地方紙に載る程度で終わる事件にすぎない。少しだけ話題になって、すぐ消えていく程度の。
ただ、この事件は違う。
犯人である南は、最も忌避される犯罪を……殺人を、犯した。
そして被害者の1人が自殺した。その被害者には、プロポーズをするはずだった婚約者がいた。
メディアが盛り上がるには、充分な内容だった。
「染井さんが他の被害者と異なる点は、殺害されたことです。……たしかこのアパートの近く、でしたよね」
染井さんはカバンを盗られまいと、必死に抵抗した。
犯人である南はこれに激昂。所持していたナイフで染井さんの腹部を刺し、逃走。染井さんは救急車を待たず、亡くなった。これが十日前の出来事だ。
「……………私、忘れ物をして。姉さんの部屋に、取りに戻ってたんです」
だから姉さんを守れなかったと、吉野さんが言葉を漏らす。
自白として、十分な言葉だろう。
※※※
私が戻った時にはもう、姉さんの周りに人が集まっていて。どれだけ呼んでも、泣いても、姉さん、起きてくれなくて。
救急車が駆けつけてくれましたが、刺された場所が悪かったらしくて。すぐに、姉さんは死んでしまいました。
警察の事情聴取とか、姉さんの葬儀とかで。あっという間に時間が過ぎていきました。
叔父さん……このアパートの大家から、ゆっくりでいいから、部屋を片付けてくれと、頼まれて。供養になるから、と。マスターキーを渡されてました。
片付けようと部屋に来て、思い出ばかりが蘇って、辛くて。
床に泣き崩れてしまったんです。
それで偶然、聞こえてしまった。
「……ぁあぁぁあああ!!」
「お前のせいで!お前のせいで!!お前のっ、せいっでえぇぇぇ!!!」
「……っ!……ぇ……」
真下の部屋から、尋常ではない叫び声が聞こえました。絶望に染まった、怨嗟の声。何度も、何度も、何度も何度も。「お前のせいで」と。
まるで姉さんに責められてるみたいで。
もしかしたら姉さんが、私を責めに来たんじゃないかって思ったんです。
怖くて、怖くて。情けなくて。申し訳なくて。
何も聞こえなくなっても、動けなくて。
ずっと、部屋で震えていました。
それが、5日前です。
今日の朝になってやっと、まともに動けるようになりました。
あの声がなんだったのか、どうしても確かめたくて。
本当に姉さんだったら、一言でもいいから、謝りたくて。
ドアノブを捻ると、鍵は閉まっていませんでした。
疲れて、いたんでしょうね。そのまま、フラフラと中へ入って行きました。
奥の部屋まで進んで南の死体を見つけた時、あぁ、こいつが姉さんを殺したんだってわかりました。
死体の周りに散らばる包帯と絆創膏、それとリュックは姉さんの物でしたから。私がよく怪我をするからって、持ち歩いていた物でした。
死体と分かったのは、布団が血塗れだったからです。私が入った時、カーテンは閉まっていませんでしたから。
それで私、頭に血が昇ってしまって。
姉さんを奪ったあの男が、たとえ死んでいても、許せなくて。いいえ、死んで逃げたことが、許せなくて。
昔姉さんに教えてもらった簡単な鈍器……ブラックジャックっていうんですね。靴下の中に土と石を詰めて作って、殴りました。
本当は何回だって殴ってやりたかった。何度も、何度も殴っても、気持ちは晴れなかったでしょうけど。
でも二回殴ったところで、靴下が破けました。同時に気持ち悪くなってしまって、やめてしまいました。
弱い自分が情けなくて。仇すら討てない自分が惨めで。泣いて、泣いて、泣いて。
壁に頭を打ち付けました。
ご友人が聞いたのは、その音ですね。
※※※
「仇の一つもまともに討てない私を、姉さんは笑うでしょうね」
そう言って、吉野さんは力無く笑った。
サイレンの音が聞こえてきた。もうすぐ到着するだろうが、このアパートに入るまでの道は狭い。まだ少し、時間がある。
「私は染井さんのことを何も知らないですが、きっと笑わず、怒ったんじゃないですか?」
「え?」
「あなたの学生証に気付いたのは、染井さんの免許証を先に見つけたからです。まるで寄り添うように、並んだ状態で。……う、う〜ん、だからですね?染井さんの意思的なものが吉野さんを止めたといいますか」
「なんでそこはフワッとしてるんですか」
吉野さんが素早く突っ込む。
オドオドとした様子は演技だったのだろう。こちらの方が話しやすかった。
サイレンの音がアパートの前で止まり、扉を閉める音が続いて聞こえる。乱暴な閉め方に聞き覚えがあった。騒がしい友人が到着したようだ。
「おぅい籠森ぃ〜……お?」
手をブンブン振り回して近付いていた友人が、吉野さんを見て、不思議そうな顔をした。彼女が代理人だということは知らなかった様子だ。知ってたとしたら、殴ってた。
「染井さんの弟さんじゃないですか。あれぇ?なんでここに……」
「あ、叔父の代理人で……」
「え、お、弟さん?吉野さん、男性だったんですか?!」
「学生証見たのに気付いてなかったんですか?!」
もう一度学生証を見せてもらう。
学生証にはK県D高等学校と表示されている。
エスカレーター式の男子高校の名前だ。
名前ばかりをみていて、全然気付かなかった……!よく見れば写真も学ランだ!!
事情を瞬時に察し、腹を抱えて大笑いする友人の胸ぐらを掴み、ユサユサと揺さぶる。
それを見て、吉野さんが笑う。
スッキリとした、気持ちの良い笑顔だった。
ちなみに鑑識には遺留品を勝手に持ち出したことで、当然バチクソに怒られた。
籠森総司…警察上がりの探偵。友人は元相棒。
武森吉野…男の娘っぽい男の子。ぱっと見女性。
青崎…亡くなった青年の婚約者。すでに自首済み。
友人…籠森の友人。警察で、籠森の元相棒。特殊な事件を扱う係に所属している。
名前はまだない。
染井桜…吉野の双子の姉。故人で、ひったくりの被害者。カバンを取られまいと抵抗したため、
逆上した犯人(南洋一)にナイフで刺され亡くなってしまう。
抵抗したのは、カバンに救急道具(吉野がよく怪我をするため常備)が入っていたため。
南洋一…連続ひったくり犯。染井桜を殺害後はアパートに引き籠っていたが、
青崎に跡をつけられ住居を特定されていたため、部屋に侵入されて殺害された。
そろそろひったくりを再開しようとしていたし、人一人を殺してしまったことで
変な方向に吹っ切れ、殺人に快感を覚えていた。
どこを切り取ってもクズでしかない。