脳みそ
4月、大君は被検体としてだけでなく講義にも参加できる形で宙光の勤める東京脳機大学に通うことになっていた。
まず大君が向かったは宙光の講義であった。
「……と、いう訳で今回は脳の構造や機能についての基本を学んだ訳ですが、特に脳機工学においては従来のように機械面だけを重要視することはできず、それをどう脳と関わらせていくのかを考えていかねばなりません。従って今回学んだ基本は今後の講義においても欠かせない内容となりますので、くれぐれも良く理解しておいてください」
講堂に溢れんばかりの学生が注目する中、宙光は華麗に講義を締め括った。
「さて、それでは少し時間が余りましたので質問等を受け付けたいと思いますが……」
そこで一際真っ直ぐに伸びる手があった。その主はまだ少女と呼べる幼さを残した姿である。その少女を一目見て、宙光は少し表情を和らげた。
「では、学籍番号から発言をお願いします」
少女は毅然と答えた。
「学籍番号68D4513、御面那彩です。質問ですが、つい先日、人間の脳を持ったフューマンとして喜屋武大君氏が発表されましたが」
講堂の一角で講義を受けていた大君に周囲の視線が寄せられた。
「そもそも有機物である人体の脳に対し、無機物である機械をどのようにして結びつけたのでしょうか? 相互の信号伝達の観点から概要だけでもご教授いただけますでしょうか?」
宙光は何度か満足げに頷いた。
「非常に良い質問ですね。ではお答えしますが、先程の講義の中でも触れたとおり、そもそも人間の脳細胞であるニューロンも物理的に結び付いている訳ではなく、約20ナノメートルのシナプス間隙と言う隙間を神経伝達物質が飛び交うことにより受け側のニューロンに活動電位が発生します。この神経伝達物質についてはドーパミンやセロトニン等、皆さんも聞いたことのある種類も多いかと思いますが、突き詰めてみれば活動電位にはナトリウムイオンやカリウムイオン等と言った複数のイオンが関与しており、それらの種類に応じてオンオフを切り替える信号が送られる、これが脳の仕組みです」
これを聞いて多くの学生が眉間に皺を寄せたが、那彩は表情を変えずに聞き入っていた。
「さて、オンオフの切り替えと言えば正にコンピュータの電子回路のようでありますが、そもそも人間の脳細胞ですら物理的に結び付いていないのですから、正しく信号をやり取りさえ出来れば、例えば機械のプラグのように必ずしも物理的に接触をさせなくとも良いことが解ります。ここまではよろしいですか?」
「はい」
那彩は些かの逡巡も無く答え、宙光はそれを見て満足そうに頷いた。
「さて、そこで今度は機械側について考えてみましょう。様々なコンピュータがある中で最も脳との信号交換に適したコンピュータが何であるか、ですが……」
そこで宙光は質問者を見定めるように見た。那彩は少し間を置いてから答えた。
「イオン……量子コンピュータ、ですか?」
「そうです! ここでは量子コンピュータの応用によるイオン信号を利用しています。ふむ……学籍番号上、君はまだ1年生のはず。実に素晴らしいですね」
「ありがとうございます」
「そうですか……貴女が御面那彩さんでしたか。なるほど、中学から飛び級で入学されたのも頷けますね、大変見込みがある。もちろん今僕が説明しようとした内容についてはいずれ講義の中でも詳しく触れていきますが、もし貴女さえよろしければ、お時間のある時に僕のゼミに来てみませんか? 興味があるならば是非より詳しくお話してみたいところですが」
「大変光栄です、是非伺いたく思います」
「良かった。お待ちしていますよ」
宙光は深く頷いてから再び周囲を見渡した。
「では、他に何か質問のある方は?」
先の質問に触発されるかのように幾つかの手が挙がった。
「講義への積極的なご参加、大変嬉しく思います。ですが申し訳ありません、どうやら全ての質問に答えられるだけの時間が残されていないようです。ここで聞ききれなかった質問については次回の講義中、質問時間を多めに見積もっておきますのでご容赦ください」
内容の理解はともかく、宙光の講義が大盛況であることに大君は満足そうに頷いていた。