いつか別れるために出会うこと
このところ、トゥランの小さな宮には花が絶えない。
アロイスが来るたび持ってくるのだ。つまり、それだけ頻繁に訪問している証拠でもあった。
アロイスが持参するのは花ばかりでない。宝石のようなお菓子であったり、可愛らしいガラスの小箱であったり、世界で一つきりの人形であったり、とにかく若い娘が喜びそうなものを的確に選んでくる。
それをトゥランは喜んで受け取りつつも、なぜここまでするのだろうと不思議に思ってもいた。
ある日は精巧な蝶の髪飾りを持ってきて、手ずからトゥランの髪に挿してくれた。そしてまじまじと眺めては、満足げにうなずいてみせる。
「やっぱり、似合うね。綺麗だよ。蝶が花に誘われたみたいに見える」
そんな甘い褒め言葉つきだが、
「素敵なものを見つけるのが上手なのね。さすがだわ」とトゥランは赤面の一つもしない。
贈り慣れている様子から、きっと他の誰が相手でも同じようにするのだろう。実際、アロイスはトゥランの侍女たちにも――もちろんモリにも――何かしら手土産を持ってきていた。おかげでノラなどは、すっかりアロイスの訪問を心待ちにするようになっている。
「手ぶらで来たっていいのに。私はお喋りだけで楽しいもの」
そう言ってもみたのだが、単なる礼儀として持ってきているわけではないらしい。
「人の喜ぶ顔が好きなんだ。それに贈り物を見るたび、俺のことを思い出してもらえるからね。ただで好きになって欲しいなんて、思わないよ。好きになってもらうための努力は惜しまない」
「なるほど、趣味と実益を兼ねてるのね」
本人が好きでしていることなら、口を挿む事でもなさそうだった。
「それにしても、綺麗ね。知らない花もたくさん」
強い香を放つ花に鼻を寄せ、トゥランはうっとりとため息をついた。くらりとするほど甘い匂いだ。白い花弁はしっかりと厚みがあり、トゥランの顔ほどもある。いかにも高級そうな花である。
「うちの温室で育てているんだ。良かったら、見に来るかい?」
アロイスの申し出に、思わず目を輝かせた。
「えっ、温室があるの?」
本で読んだことはあれど、実際に見たことはない。冬でも温度を一定に保ち、季節を問わず花を育てることができるという温室は、そう誰もが持っているものではない。
いわずもがな、金持ちの道楽だ。
「三年前くらいに作って、少しずつ大きくしているんだ。君が観てくれると、きっと花も喜ぶよ。外の庭も庭師がよく手入れしているし、きっと楽しめると思うよ」
自信ありげに語るところを見ると、なかなか見応えがありそうだ。
わくわくと出かける支度を始めたトゥランに、モリたちは不安げな目を向けたが、アロイスはそちらへのフォローも抜かりなかった。
「庭や温室には父上も母上も滅多に来ないし、気兼ねすることはないよ。たまに見学に来る人はいるけど、名乗りたくなければ俺が適当に言いつくろっておくから」
帰りはきちんと宮まで送り届ける、とまで言われ、モリやファニーも結局は「殿下をよろしくお願いいたします」と頭を下げたのだった。
馬車の中で、トゥランは窓の外を興味深く眺めていた。
贅をこらした宮や屋敷が、どんどん視界を流れてゆく。宮の外に出ることはあっても、行き先はある程度限られていたから、見たことのない建物も多い。
自分の兄弟や義母の顔さえ、全ては把握していないトゥランだ。あれは自分の弟や妹だろうかと、すれ違う人を見るたび考えていた。
多くの妃や愛妾を持つ王の後宮はとてつもなく広く、結婚の度に宮が増築されるせいで一つの街のようになっている。
そのせいもあって、王宮の門の内側に住むのはほとんどが王族だが、特に身分の高いいくつかの名家は、屋敷を構えることを許されている。
ラング家の屋敷も、そのうちの一つだった。本宅は領地にあるというが、別宅といえどかなりの広さを持つ。正妃の宮など一部を除けばほとんどの宮よりもはるかに豪勢な門構えから、権勢の程がうかがえる。
美しく整えられた庭を見て、トゥランは歓声をあげた。
トゥランの宮はごく小さく、庭などはいくらか木を植える程度の余地しかないが、こちらは庭だけでもかなりの広さがある。咲き誇る花の甘い香りで満たされ、足を踏み入れれば日常を忘れる美しさは、まるで楽園を思わせた。
アロイスは花の名にも詳しく、尋ねればたいていは教えてくれた。きけば、温室の花はアロイスも世話をしているのだという。
「名を知れば人を知ったことにならないのと同じで、花も自分の手で育てて、知れば知るほど愛おしくなるよ。だからこそ、その花が似合う人に贈りたいと思えるんだ」
そこまで考えて贈られたものとは思わず、トゥランはこれまでにアロイスが持ってきた花のことを思い浮かべた。どのあたりが自分に似合うと思ってくれたのだろう。
帰ったら、それを考えるのも楽しそうだった。
「アロイスって凝り性なのね。だから何でも上手なの?」
少し話を聞いただけでも、アロイスは多芸多才だ。並外れているのはダンスだけでなく、画才もあり、遊戯盤が強く、ピアノとヴァイオリンは本職の楽師が舌を巻き、剣術と弓術にも秀でているという。
「そうだね、のめりこみやすい方かもしれない。今は君に夢中」
「だからしょっちゅう会いに来てくれるのね……あっ、水車がある!」
甘い言葉を右から左に聞き流して、トゥランは走り出した。
水車は本の挿絵でしか見たことがない。うろうろと周りを歩き回りながら構造を観察していると、どこかから女の声が聞こえてきた。
「アロイス様、いらしたんですわね」
涼やかで品のある声音。振り向けば、優美に着飾った令嬢が、一輪の百合のように立っていた。華美ではないが地味でもない絶妙な装いは、いかにも洗練されている。
顔立ちはファニーのように目を見張るほどの美人というのではないが、品格ある佇まいのせいか、目を引くところがあった。まるで王族のように堂々としている。
もしかして、姉か妹だろうか?
「ディアナ嬢」
アロイスは近寄ると、手をとって口づけた。
少し離れたところにいたトゥランは、迷った挙句、軽く膝を曲げるだけの挨拶をする。といっても、ディアナ嬢はちらと目礼を返しただけで、あとはアロイスに熱っぽいまなざしを投げていた。
「失礼を。お客人でしたのね。自由に見ても良いというお言葉に甘えて、図々しく来てしまいました」
「もちろん、お心のままにご覧になって構いませんよ。そのための花です」
「では、ありがたくそうさせていただきます。お邪魔にならないよう、遠くで拝見いたしますわ」
令嬢はそのまま温室を出て行こうとする。
「お邪魔だなど。思いがけず、お顔が見られて良かった。いつでも歓迎しますよ」
そう言いつつも、アロイスは令嬢を見送るかっこうだ。一応、先約のトゥランを優先してくれている。
傍観していたトゥランは、急いで声をあげた。
「あのう、良かったら一緒に花を見ませんか?」
と、驚いたふうでアロイスとディアナが振り返った。
そんなにおかしな提案だろうか。でも、自由に出入りを許していたのなら、きっと特に親しいのだろう。アロイスが親しいのなら、きっと良い人に違いない――そう思ったのだ。二人きりでしなくてはいけない話があるわけでもない。
「何人で見ても、花は綺麗だもの」
ディアナはトゥランをまじまじと見つめると、改めて丁重にお辞儀をした。
「わたくしはディアナ・リヒテンブルグと申します。失礼ですが、お名前をうかがっても?」
リヒテンブルグも、門の内側に屋敷を構えている伯爵家の名前だ。
会ったことはなくとも、家名くらいは知っている。全ては無理でも、せめて大貴族だけはと、モリに叩き込まれたのだ。
トゥランは少し緊張しながら、同じようにお辞儀を返した。
「十四王女のトゥランです」
途端、ディアナは目を見開き、頭を垂れた。
「殿下とは存じ上げず、失礼いたしました。お許しを」
確かに、臣下が姫の名を尋ねるのは大変な無礼だ。
けれど、トゥランは笑って首を振った。
「私の顔、知っている人の方が少ないから仕方ないわ。気にしないでください」
気安い態度に安心したのか、ディアナは顔を上げ、うらみっぽくアロイスをねめつけた。
「紹介してくださらないなんてひどいですわ、アロイス様」
「すみません、機を逃しました。ですが、殿下がこうおっしゃるのですから、良ければご一緒しませんか?」
アロイスが手を差し伸べると、ディアナはたちまち機嫌を直し、その手をとった。
「ええ、では喜んで」
その一連の動作が自然で何のためらいもないので、トゥランははたと気が付いた。
この二人は、友人というより恋人、あるいはそれに近い関係なのではないかと。それなら、二人が離れがたくしていたのもうなずける。
となれば、この場は応援の一手だ。
「ディアナさんは、アロイス……さんと長いお知り合いなんですか?」
さすがに他の人の前で、呼び捨てにはできない。気が付いて、慣れない呼び方に切り替える。
「ええ、小さいころなどはよく遊んでいただきました」
ディアナは愛想よく応じた。アロイスもうなずく。
「屋敷も近いですからね。今はこのように立派なご令嬢になられて、気安く遊んではいただけなくなりましたが」
「あら、それはこちらの言葉ですわ。いつもたくさんのご令嬢に囲まれていて、とても声がかけられませんもの」
いわゆる幼馴染というやつらしい。
言葉づかいは丁寧だが、明らかに気安さがある。
「殿下は、あまり夜会などにはいらっしゃいませんね」
ディアナは遠回しに、どうやってアロイスと出会ったのか尋ねてきた。
「ええ、でもこれからは時々顔を出すつもりです」
「それは、何か心境の変化が?」
「先日少しだけ出席したら、思いのほか楽しかったので」
「そこで殿下とお知り合いになられたの?」
これはアロイスへの問いだ。
「幸運なことに」
アロイスは詳細を省いて、優雅かつ無難に答えた。
「社交界に不慣れな私を気にかけてくれるんです。良い人ですよね、アロイスさんは」
アロイスが自分と会うのは、好意からではなく親切心なのだと強調してみせる。恋路の邪魔をするつもりはないのだと、わかってもらいたい。
「確かに、どなたにも平等に優しい方ですわ。でもそのせいで、勘違いして泣いてしまうお嬢さんがいましてよ」
「思い違いをすることは誰にでもあります。最後には笑っていただけるまで、そばにいますよ」
「そうして突き放さないから、余計に忘れられずに苦しむんですよ。残酷な方」
ディアナはなかなか手厳しい。トゥランにはよく飲み込めないが、おそらく恋の話なのだろう。
アロイスは誰とでもうまくやっているかのように言っていたけれど、やはり女泣かせな人らしい。
「殿下も気を付けてくださいませ。純粋なお心をお持ちの方ほど危ないですわ」
くるりとこちらを向いて、ディアナが釘をさした。
「俺を詐欺師のように思ってますね? ディアナ嬢」
「誰にでも特別な感情があるように思いこませるのは、詐欺ではありませんこと?」
「誰もが世界に一人きりの大切な方なのですから、抱く感情もそれぞれ特別なものです。それは罪ですか?」
「詭弁ですわね。悪気がない分、詐欺師より性質が悪いかもしれませんわ」
「おやおや、すっかり悪役にされてしまった」
テンポのよいやりとりに、口を挿む隙もない。
この調子なら、自分があえて応援するまでもなさそうだ。
そう考えると、トゥランは二人の押し問答より、花に興味が戻り始めた。隙間なく植えられた草花は角度を変えれば違ったように見えてきて、どれだけ見ても見飽きない。
「姫……姫?」
何度か呼ばれて、やっと気が付いた。すっかり、二人の会話から気がそれてしまっていた。
「あっ、何ですか?」
足を止めると、三人のすぐそばには瀟洒な椅子と机が並んでいた。
ちょうど温室全体を見渡せる、絶好の位置だ。
「どうぞ、こちらへ。お茶を用意させてきますから、少し待っていてください」
アロイスがそう言っていなくなったので、トゥランはディアナと椅子に腰かけた。
「殿下は物静かでいらっしゃいますのね」
ディアナに言われて、トゥランは少しふき出しそうになった。
引きこもりではあったけれど、物静かである自覚はなかった。侍女たちも、これを聞いたら笑うに違いない。
「いつもはそうでもないですよ。でも今日は、お二人の昔話を聞かせてください」
あのアロイスが昔どんな少年だったのかは、少し気になるところだ。幼少の頃から、あの調子だったのだろうか?
ディアナは遠い目になると、しみじみと口を開いた。
「昔のあの方を知ったら、きっと驚かれますわ。今とは全然違っていましたもの。控えめで、繊細な方でした」
「そうなの?」
つい、身を乗り出してしまう。
「アロイス様のご両親は、要職についていらっしゃいますでしょう? 政は綺麗事だけでは進みませんから、憎まれ役をすることもございます。それを見て育たれたせいか、むしろ人との関わりを怖れていらっしゃいました」
聞く限りでは、今のアロイスと正反対のようだ。
アロイスの両親と直接話したことはほとんどないが、帝国議長を務めるからには、ディアナの言う通り、嫌われる立ち位置になることもあるだろう。議会を取りまとめるだけでなく、国王との関係も良好に保たなければならないのは、どう考えても難しいはずだ。
「じゃあ、どうして今みたいに?」
「さあ……きっかけは分かりませんわ。でもきっと、ご両親とは違うふうになりたいと願われたのだと思います。努力されて……少々努力が過ぎる部分もありますけど」
「確かに、努力してますね」
人に憎まれない人間になりたい。親とは違う人生を歩みたい。
それが、誰からも好かれたいアロイスの原点だったのかもしれない。
「わたくしは長い付き合いですから、分かることもございますが、他のご令嬢には誤解を与えてばかりで……罪な性分になってしまわれましたわ」
ディアナはため息をつく。
あの全方美人ぶりをずっとそばで見守ってきたのだ、恋をしているなら辛いだろう。
トゥランはディアナに同情した。全ての人に好かれたいアロイスも応援したいが、ディアナの長い片想いも報われて欲しい。
人の目標を応援するというのは、案外ままならないものだ。
「誰にでも優しいというのは、誰のことも特別でないということです。あの方に恋した方はじきにそう気づいて、期待の分だけ絶望するんですわ。ですからわたくし、殿下のことも心配なんです」
切実な瞳で見つめられて、トゥランは悪いと思いつつ、笑ってしまった。
「私のことは心配しないでください。アロイスさんが誰のことも平等に好きなことは分かってますし、恋はしてませんから」
それどころか、あなたのことを応援しているんです、と言うかどうか迷って、やめておく。
さすがに初対面でそんなことを言うのは不躾かもしれない。
ディアナは見るからにほっとして、胸をなでおろした。
「余計なことを申し上げましたわね。失礼をお許しください」
「いいえ。心配してくださって、ありがとう」
やはりディアナはアロイスを好きなように見えるけれど、ご令嬢たちの心配までするなんて優しい人だ。美しさと賢さ、優しさを兼ね備えるなんて、淑女の中の淑女という感じがする。自分よりよほど高貴だ。よく気が付き、美しく、優しい者同士で、アロイスとは似合いに思える。
トゥランはいつしか、ディアナのことも好きになりつつあった。奇異な目を向けずに自然に話してもらえたのは、アロイス以外だとかなり久しぶりだ。きっとフェアな人柄に違いない。
そこへアロイスが戻ってきて、その話はおしまいになった。しばらく当たり障りのない歓談をして、ディアナは自分の馬車で帰っていった。
◆
「ディアナさん、綺麗で優しい人ね」
帰りの馬車の中で水を向けると、アロイスはどこか探るような目でトゥランを見た。窓枠に頬杖をついてちらりと向けた流し目が妙に艶っぽい。
「そういえば、俺のいない間、どんな話をしてたの」
「アロイスが人気過ぎて大変っていう話。ディアナさん、私がアロイスにふられるんじゃないかって、心配してくれたの。アロイスを誤解しないでほしいって。誤解なんてしないのに。私も恋してるように見えたのかな」
「……ふられるとしたら俺の方だ」
アロイスは力なく笑った。どこか自虐のおもむきがあった。
笑ってくれると思ったのに、なんだか様子がおかしい。
「どうしたの、体調が悪いの?」
「そんなことはないよ」
「でも、元気がないみたい」
「ちょっと想像してみただけだよ。きみにもいつか、素敵な恋人ができるだろうかって」
「それでどうして、アロイスが落ち込むの?」
「うん、自分でも驚いてる」
なんだか要領をえないので、困ってしまった。いつだって話しやすいアロイスなのに、わざとはぐらかされているみたいだ。
「変なアロイス。私に恋人なんてできるわけないわ。星巫女になるんだもの」
「うん……そうだね。でも想像だけで胸が苦しくなったよ」
「うらやましくなったの? アロイスには数えきれないほど恋人候補がいるでしょう」
「数えきれないほどいるっていうのは、本当は一人もいないってことだよ」
「意味が分からない」
もうお手上げだったので、本当に両手をあげてみせた。
相談相手が務まるほどの人生経験は積んでいない。恋愛経験だってない。アドバイスするどころか、話の要点すらわからない有様だ。
「新しい出会いはいつだって楽しい。どんな人で、何が好きで、何をすれば喜んでくれるのか、どうやって好きになってもらうか考えるのは好きなんだ。でも今は少し、怖いような気がするよ。きみのことを好きになり過ぎるような気がして」
「好きになるのが怖いの?」
半ば混乱しながら尋ねると、返ってきたのは答えではなくて問いだった。
「きみは怖くないの? いつか別れるために出会うことは」
「怖くないわ」
考える前に答えてから、ふと分からなくなる。
「……と、思うけど、分からないわ。考えたこともなかったもの」
いつか、アロイスとは会えなくなる。ディアナともだ。侍女たちとの話し合いは済んでいないが、もしかするとファニーやノラやモリとも、会えなくなるのかもしれない。北の地での隠遁生活についてきてほしいと強いることは、トゥランにはできない。
想像すると、胸のあたりにちくりと刺されたような痛みが走る。
「でも、後悔なんてしないと思うわ。楽しかった分だけ苦しくなるなら、うんと苦しくなりたいの。惜しむものが何もない人生なんて寂しいわ。私、ずっと寂しかったのに、気づかなかったの。アロイスに出会ってから、やっと気づいたの。これからもっと気づくのかもしれないけど」
今になって、引きこもっていた時期のことを惜しいと思うようになった。十八歳までしか自由に生きられないのだと分かっていたら、もっと早く色んなことを試していたはずだった。
残り一年で、どれだけの友達をつくって、どれだけの思い出ができるだろう。
そこから先はきっと、この一年間のことを死ぬまで懐かしく思って生きるのだ。一日だって無駄にはできない。ありったけの幸せをかき集めておかなくてはいけない。
「だから、そうね。お別れの時がきたら、きっと辛いと思うわ。でもそれは別れる時に考えれば良いことよ。今のうちから悲しむだなんて、時間がもったいないもの」
「……そうだね」
アロイスはかすれたような声でつぶやくと、急に無言になってトゥランを見つめた。
やたらと見つめられることにも慣れてきたので、ここぞとばかりにトゥランも見つめ返してみる。窓から差し込む夕日に照らされた頬と、わずかに微笑んだ形の良い唇、そして魔術めいた引力を発している瞳。なにげない表情が、脳裏に焼き付きそうなほど美しい。
「アロイスは綺麗ね」
そう言わずにいられない。これまで飽きるほど言われているのだろうけど。
「きみのほうがずっと綺麗だ」
アロイスはトゥランをまぶしそうに見つめると、どこか苦しそうにつぶやいた。
「何にも汚されてない、積もったばかりの雪みたいだ。俺もそんなふうになりたかった」
アロイスの目には、どんな風に見えているのだろう。思わず苦笑してしまう。アロイスよりも美しいところなんてひとつも思いつかないし、雪に例えられる意味もよく分からない。
それでいて、嘘を言っているようにも思えないのが、アロイスのすごいところだ。決してお世辞ではなく、本気でそう思っているように聞こえる。
「アロイスの目には、きっといろんなものが素敵に見えているのね」
褒め言葉が無限に出てくるのは、きっと物事の良い面がよく見える目のおかげなのだろう。ひいては、心根が優しいからだ。そう、思ったのだが。
「きみと出会ったからだよ」
アロイスはまた、よく分からない理屈を言い出した。
「きみを好きになったからだ」
説明をしてくれる気配がないので、理解しようとするのをやめて、初めての友人の美貌をとっくりと眺めることにした。忘れようにも忘れられないような顔だが、目をつむっていても思い出せるくらい、きちんと覚えていたいと思った。
一年後会えなくなっても、いつか永い眠りにつく日まで、その顔を覚えていられるように。