知りたくて知りたくない真実のこと
一瞬たりとも腕の中から離そうとしないアロイスにすっぽりと捕らえられたまま、トゥランは喜んで彼の囚人になっていた。
とけるほど甘い言葉にくるまれて、そっと頬や髪に触れる指先や吐息の熱を感じているだけで、幸せでいっぱいになる。美味しいものを食べた時や、面白い本に没入する時とはまた違う。
遠い記憶の彼方、母に抱きしめられた時のことを、ほのかに思い出した。今ではもう不確かな、記憶と言うより想像に近いかもしれない思い出だ。誰かが無条件に自分を愛してくれることの喜びを、ずっと忘れていた。忘れていたから、欲しいとも思わなかった。
何も知らないまま一人静かに遠い地で余生を過ごそうと思っていた自分は、なんて馬鹿だったのだろう。何も持っていなかったから、失うものさえなかった。
あんな決断は、もう二度とできる気がしない。
「どうしてこんなに可愛いのかな。加減してくれないと、気がおかしくなるよ」
長く触れ合っているうちに気が昂ぶってきたのか、口説き文句が理不尽な苦情に変わり始めたので、トゥランはとうとう笑い出した。
「あのね、お兄さまが言ってたんだけど、恋って正気を失うことらしいわ。だから私たち、とっくにおかしくなってるんだと思うの」
「じゃあ僕の方が先に正気を失ったから……重症なのは当然だね」
耳元にやわく歯を立てながら、熱いささやきが落とされた。くすぐったくて身をよじらせても、いっそう強く抱きしめられてしまう。
「トゥラン、僕の姫君。もうバレてしまったからには、隠しても仕方がないから言うんだけど」
「なあに?」
「僕はさっき言った通り、欲が深いんだ。それを知られたくなかったし、認めるのも怖かった。けど、これが今の僕だ。きみが他の男に向ける笑顔にも、親しげな言葉にも嫉妬してる。僕をこういう風に変えたのも、きみの変容の力なの?」
「変容の力って、意識的に使ったことはあまりないんだけど……」
「じゃあ無意識のうちに僕の何もかもを変えてしまったの? 恐ろしい女神さま」
「こんなに不満を溜めてたなんて、知らなかったわ」
笑いながらアロイスの手を持ち上げると、ひとまわり長い指が絡んできて、包みこんだ。
「好きだよ」
どんなに巧みな口説き文句よりも、結局こういう言葉が一番力を感じる。胸の奥にどかんとぶつかって、からだじゅうに広がっていく。
「ごめんね、きみが悪いんじゃない。僕がきみを好きすぎるだけなんだ。だから僕には、正気を失ってしまった僕をまだ好きでいてくれるよう、祈ることしかできない」
「じゃあ私も祈らなくちゃ。アロイスが正気に戻りませんようにって」
「そんな日は来ないよ。一生……きみの一生と僕の一生は、長さが違うのかもしれないけど」
「……そうなのかしら」
考えてもみなかったことに思い当たって、ふと考え込んでしまった。言われてみれば、神が人間と同じ寿命であるわけはないだろう。
(でも、お父さまは人間だわ)
混血の場合はどうなるのだろうと考えてみたが、考えたところで誰も答えを知らないのだった。
「大事なのは、私がアロイスを好きで、アロイスも好きでいてくれているってことだわ。それだけで十分じゃない?」
アロイスを嫌いになる未来は想像できない。想像する必要もないし、約束もいらない。目まぐるしく変わる世界の中で必要なのは、今の自分がどう在りたいのか考えることだ、と思うのだ。
「……そうだね」
本当に納得したのかどうかはよく分からない声音で答えながら、アロイスはトゥランの頬に口づけた。
……ところで何かを忘れているような。
キスや甘い囁きや包み込む腕の中で、ほとんどまともな思考回路を失いながら、トゥランはぼんやりと何かを思い出し始めた。
そういえば、どうしてこんなことになったのだろう?
こうして彼の腕に囚われる前は、何の話をしていたのだったか?
そもそも初めての荒っぽいキスをされたのは、彼が何かに苛立っていたためであって、それはどうやら、聖堂でフィンと仲良くしていたのが原因のようで……。
「フィン!!! すっかり忘れてた!」
ようやく自分が置き去りにしてきた人のことを思い出すと、勢いよくあたたかな腕の中から抜け出した。
「話の途中で来てしまったんだった。あのね、王宮は大変なことになっているらしいの。一番上の兄上が亡くなって、それとフィンと星読みの書を読んで……ああ、お兄さまとも話さないと。とにかく、行きましょ」
一口に説明できる話ではなく、そもそも説明できるほど事情を知っているわけでもない。フィンの方がうまく教えてくれるはずだ。
一瞬で甘い雰囲気のことなど忘れてしまったトゥランは、残念そうな恋人の顔に気づく余裕もなく、自分よりもずっと大きな手を引いて走り出した。
変容の女神トゥランの世界は目まぐるしく、毎日が新しい。
ずっと変わらずにこのままでいてほしいという彼の願いが、叶うはずもないのだった。
◆
聖堂に取り残された男たちはというと、世間話に興じていた。まるで気の合わない二人だが、実のところ嫌いあっているというほどではなく、情報交換に余念がない。
「兄上の死因は?」
「病死らしいですよ」
「疑わしいな。あまりに急すぎる」
「もちろん、みんなそう思っていますよ。でも証拠がないし、容疑者が多すぎる」
「二か三の兄上じゃないのか?」
「そうとも限りません。本当に今の王宮はめちゃくちゃなんです。どさくさにまぎれて誰かが私怨をはらした可能性も捨てきれない」
「まあ、正直あまり興味もないがな」
ある程度予想していた展開だったのか、ウルの声音は平坦なままだった。憂えるでも喜ぶでもなく、市場で野菜の相場を尋ねるのと変わらない調子だ。
「誰が王位を勝ち取るかも興味がないので?」
「そんなことは議論する意味もない」
ウルは冷え冷えと言い放った。
「誰が即位しようが、議長の手の上で転がされるに決まってる」
「トビアス・ラング……」
その名を呟いたフィンは、口にしたことを後悔したように唇をゆがめた。
「あの男の目的がいまだに分からないのが不気味ですね。いくら考えたって、説明がつきませんよ。支離滅裂じゃないですか? 偽の星巫女で人心を掌握しようとしたかと思えば、神は不要だと言ってトゥランを追い出して……ブラオトローンとの戦争だって、あいつがけしかけたに違いない。一体あいつはこの国をどうしたいんですかね」
「あの男を止めたいか?」
「……そういうあなたはどうなんです?」
フィンは目を上げて、元第四王子の顔をまじまじと見た。
この男が権力に興味がないことは分かっていたつもりだが、それでもひやりとさせられた。いくら妾腹で立場が低いとはいえ、本来なら今や王位継承権第三位にあるはずであり、また国一とうたわれたほどの剣の腕前を誇る男だ。
表立ってはいないにしても、密かに彼に憧れる兵士はたくさんいたというし、慎重で頭も切れる。資質では第二王子、第三王子と比べものにならない。
本当に彼が望めば、謀反であれ王位簒奪であれ、可能性が無いとは言えない。しかも今、彼の傍には妹であり女神であるトゥランがいるのだ。もしも彼が「望み」を口にするようなことがあったら……歴史は誰も思ってもみなかった方向に変わるのかもしれない。
ごくりと唾を飲みこむ。
一人緊張を高めるフィンをよそに、ウルの反応はあっさりしたものだった。
「あいつらがどうなろうが、知ったことか。厄介ごとは妹で間に合ってる」
彼にしては珍しく、口の端に笑みを浮かべて言ったのを、折しも戻ってきたトゥランが耳にしたらしい。
「私の事、厄介だって思ってたの、お兄さま!」
不服の表情でずんずん近づいてくる妹と背後の恋人を見るや、ウルは一瞬にして一生分疲れ切ったかのように息を吐いた。
「来やがった……」
「何よ、そもそも私に会いに来たんじゃなかったの、お兄さま。フィンもごめんなさい、待たせちゃったわね。えーと、何の話をしてたんだっけ? あのね、アロイスとは仲直りできたわ。フィンに焼きもち焼いてたらしいの! 本当にフィンは分かっていたの? どうして?」
すっかりとっちらかっているトゥランに、ウルが冷静に口を挿んだ。
「話題は一つに絞れ」
「全部話したいんだもの。じゃあお兄さまが聞きたい話からでいいわ」
ウルはもう一度ため息をつくと、少し考えてから切り出した。
「……星読みの書で何を見た」
「まだあんまり見てないわ。でも、すごいの。知りたいことを問いかけると、答えてくれるの。文字が浮き上がってくるのよ」
フィンが持っていたままの星読みの書を開き、四人でのぞき込むと、やはりそこには白紙の頁が広がっていた。トゥランはめくってもめくっても何も書かれていないのを見せてから、兄に問いかける。
「何か知りたいこと、ある?」
フィンもまた興味深くその返事を待った。
感情を表に出さないこの元王子が何を思っているのか、知る機会は少ない。その気になればこの国を変える鍵にもなりうる男でありながら、ほとんど傍観者に徹している。けれど、ずっとこのまま成り行きで側にいるとも思えぬ男だ。
彼は何を知ろうとするだろう。それを知って、どんな行動をとるのだろうか?
「……ここに俺達がいることは、あらかじめ決められた運命か?」
ウルの問いに、文字が浮かび上がる。
この世の誰も知り得ぬ問いに、しかし答えは用意されていた。
“是。しかし運命は変わり得るもの”
かっと頭に熱がのぼる一方で、からだは震えが止まらない。
この答えを返しているのは、何かしらの神だろうか、それとも?
いずれにせよ、人の力の及ばぬ存在であることは確かだ。
さすがのウルも驚いたらしい。次の質問まで、微妙な間があった。
「……運命とは神が決めるものか?」
“運命とは存在の始点より観測されし未来。神が定めるものにあらず”
「観測? 誰に」
“未来視の能力を持つ神は複数存在する”
「神自身も運命に縛られているのか?」
“是”
「この本が答えられない問いは?」
“未来”
いくつか立て続けに質問したウルは、何か考え込む風で口をつぐんだ。
なるほど、これはただ者ではない。
フィンは感慨を胸に、元王子の横顔を盗み見た。
過去の真実を問いただすでも、未来の自分を問うでもなく、この世界や神器そのものの本質を知ろうとしている。確かにこの男は、一軍の将として、いやそれ以上の存在にもふさわしい才知を持ち合わせている。
前国王が、ブラオトローン討伐の将として指名したのは、ごく妥当な人選だったと言える。仮に前国王の思惑通りに事が進み、前線にウルがいたとするならば、ブラオトローンの侵略を許しはしなかったはずだ。
しかし前国王の失脚も、女神トゥランの覚醒も、「黄昏の書」で予言されていた通りに進んでいる。この国ミュトゥスの没落も、きっと避けることはできないのだろう。とすると、この先は……。
あえて思い出さないようにしているらしいトゥランと違い、フィンは「黄昏の書」の内容を完全に覚えていた。トゥランにもらった写しを、何度か読み返してもみた。
全てが理解できたわけではないが、一つ確かなことがある。
この世はこれから、混沌の世に入る。平和は打ち砕かれ、統べるものなき世の争乱、そして――
放て 叫べ 審判はくだされり
最後の星は世界となりて
黄昏の夢を食らいて消えぬ
(きみはもしかして、分かっているのかな。黄昏の書に出てくる “星”は、恐らくきみのことだってこと。だから、恐れているの? あの本を読みかえすのを……)
予言の中で希望の象徴として描かれている“星”は、黄昏の書の最後まで登場するものの、曖昧な表現で締めくくられている。
何度読み返しても、フィンには“星”がトゥランを指しているとしか思えなかった。
けれど、世界になるとはどういう意味だろう?
星読みの書は、恐らく答えを知っている。だけどそれは変わり得る未来のことでもあるから、尋ねたところで答えないかもしれない。それに、トゥランは謎の答えを直接聞こうとは思わないだろう。自らの力で探ろうとするはずだ。フィンだって、そうするべきだと分かっている。
ウルを、そしてトゥランをまじまじと見つめてあれこれ考えた結果、フィンは結局頭に浮かぶ全ての問いを飲み込んだ。
全ての答えが目の前にあるのだとしても、全てを知ろうとするのは間違いなのかもしれない。そういう葛藤と、これからずっと戦う羽目になりそうだった。




