心という名の怪物
絵にも描けぬほど美しい青年に見下ろされながら目覚めたあの日から、グウィオンはずっと悪夢の中にいるようだった。
時折よぎる不確かな記憶が、本当に自分のものなのか、それとも自分の魔力がいたずらに見せる遠い幻影にすぎないのかも分からない。
アロイスが語ったところによれば、以前の自分は女性の姿をしていたらしい。とすると、今のこの姿が本当の自分であるという保証もないわけだ。名前だって、偽名かもしれない。自分が何者かも分からずに生きるのは、たとえようもなく奇妙な感覚だ。
記憶がぼろぼろに破れ落ちた絵本のようにおぼろげなのに対し、魔術はなぜか忘れていなかった。望むままに風を起こし、遠い場所の音を聞き、男女問わず姿を変えることができた。
記憶をなくして力だけ残った自分は、心の質量に対して魔力があまりに大きいような気がしてならない。もしかすると、人よりも怪物に近い生き物なのかもしれない。
怪物で結構だ。どうせ、それで失うものなどありはしない。
どうせなら、全てを忘れてしまえば良かった。自分のことを知る者が誰もいないところで目覚めれば良かった。
そうすれば、断片的な記憶に惑わされることも、手に負えないほどの過去を知って途方にくれることもなかったのに。
自分が誰かも分からぬなか目が覚めて、どうやら自分が歓迎されていない存在だと知って屋敷を飛び出した時、追いかけてきたのはアロイスだった。
「どこへ行くの。きみは何も持っていないのに」
「別に……あんたには関係ない」
「あてがあるわけじゃないんだろう。何も持っていない人が生きようとしたら、誰かから奪うしかない。そういう風に生きてほしくはないよ」
「…………」
「ウルは……さっきの男は、きみを恨んでるわけじゃないよ。大切なものを守りたくて、警戒しているだけだ。咄嗟に手を出さないあたり、お人よしと言ってもいい。利用するつもりで、ここにいた方がいい」
どうしてそれを、利用される側が言うのか分からなかった。
何か魂胆でもあるのだろうか?
訝しむ視線の先で、アロイスはためらいがちに足を踏み出した。歯向かう野生動物を手なずけようとするようなそぶりだった。
「裏があるんじゃないかって思っているね」
心を見透かすような言葉。いや、見透かさなくとも分かっただろう。グウィオンは不審感をすこしも隠さなかったから。
「白状するよ。少しだけ、下心があった。出会った時、きみは女性の……星巫女のふりをしていてね。神託と称して幾人もの王侯貴族を断罪し、国王まで手にかけた。その裏には、僕の父親が関わっていたようなんだ。だからあの人が何を企んでいたのか、なぜきみのように強力な魔術師が父と組んでいたのか、聞いてみたい気持ちもあった」
自分の親を冷ややかに“あの人”と呼んでいることからして、良好な関係ではないのだろう。何があったか知れないが、虫も殺さぬような見た目通りの人物とは限らない。騙されてはだめだ。
急速に心が冷えて、落ち着きを取り戻した。
結局、誰のことも信用はできない。人良さげな顔で寄ってきたこの男だって、結局は目的あってのことだったのだから。
国王を殺したとかいうのだって、本当かどうか分からない。言いなりにさせるための嘘かもしれない。弱味を見せてはだめだ。
「……俺は何も知らない」
慎重につぶやきつつ、本当は思い当たるふしがないではなかった。
記憶の中に、たびたびちらつく中年の男がいる。アロイスほどではないが、端正な面差しにすっきりと背筋の伸びた、いかにも裕福そうな男。
彼がその父かもしれない。何を話したかなど、ほとんど覚えていないが。
が、知っていたからとしても教えてやる義理などないと思い直した。きっとこの男は、調子の良いことを言って、こちらをほだしにかかっているに違いない。
「もう聞き出そうとは思っていないよ。でも、心配だ。父が、きみをただ放っておくとは思えない。殺すか、そうでなければ利用するだろう。それに父だけじゃなく、国中がきみを捕らえようとやってくる。とても一人にできないよ」
真心こめて言っているように見える顔を、注意深くねめつける。
……それにしても顔が良い。
つい気がそれそうになって、慌てて口元を引き締めた。
妖精は人よりずっと美しい容姿をしているそうだが、目の前の青年は妖精にだって引けを取らない。ただ見ているだけで思考力を奪われかねない美しさだ。だからあまり見まいと思うのに、どうしても目が吸い寄せられてしまう。
美とは生まれ持った才能で、時には魔術よりも強い力で人を動かす。頭では分かっていても、抗うのが難しい。
「以前のきみとはずいぶん違って見えるけど、きっと今のきみが本当のきみなんだろう。以前のきみには、何か事情があったのかもしれない。あんな大それたことをする理由が……。何にしても、今のきみのことを、もっと知りたいんだ。出会い方が変われば、僕らも敵ではない関係になれるかもしれない」
耳に甘い言葉。臓腑まで溶かすような声。内から輝きを放つ瞳。その全てがグウィオンを包み、揺るがし、崩してしまう。
この人は心から自分を思いやり、手を差し伸べてくれているのだと、思いたくなる。
何か理由をつけて振り切ろうと思ったのに、何も思いつかないのはどういうことだろう。
「……何が本当の自分かなんて、もう分からない」
ぼそりと吐いた弱音に返ってきたこたえは、どこまでも誠実に聞こえた。
「そうだね、自分自身のことが一番分からないのかもしれない。だから人を通して自分を見るんだ。誰にどんな言葉をかけ、何に笑って何に怒るのか。どんな景色の中で、どんな人のそばで生きたいか」
自分を利用しようと考える人が、こんなことを言うだろうか。
そんな疑問を持った時点で、グウィオンはすでにアロイスのことを信じ始めていた。この魅惑的で優しげな男が、自分の味方であると思いたかったのだ。
「きみが願うなら、僕の知る限りの過去を話そう。もし望まないなら、何も語らないでいても良い。それでもきみの過去はきみを追いかけ、いつか追いつくだろう。記憶を失っても、過去は消えないから」
その時アロイスに浮かんだ表情が何だったのか、一目では分からない。静かな中にも、かすかな感情の揺れが見られた気がした。それが怒りなのか、哀れみなのか、それ以外なのかは知れないが。
この人にどう思われているのかが、無性に気になった。どういうわけか、嫌われるのが怖かった。
まだ会ったばかりだというのに。
「罰が下るべきだと?」
かすれた声で尋ねた。
脅迫めいたことを言われるほどに、ひどい悪事を行ったのだろうか、自分は。
「それまでの人生とまるきり無関係でいることはできないよ。どんな形で逃げても、いずれ決着を付けないといけなくなる日が来るだろう。僕も覚悟してる。嫌なものから距離をとって、縁を切ったつもりでいても、何も解決していないと分かっているから」
自分と重ねるような口ぶりから、なぜ彼がこうも自分を気にかけるのか、分かったような気がした。
アロイスは、グウィオンを通して自分自身を見ている。清廉そのものに見える彼にも、自分と似た傷があるのだろうか。
自分自身を許せないぶん、誰かを許そうとしているようにも見える。
いつしか警戒心は好奇心に変わり、そして共感に変わりつつあった。
彼とはもしかすると、出会うべくして出会ったのかもしれない。
彼をもっと知りたい。
彼の口から、自分のことを聞いてみたい。
無意識に、そんな願いがふくらんだ。
ものの見事な「陥落」だった。
◆
それから時折、アロイスと二人で話をした。他の者と話したいとは思わなかったので、一人でいると、ふらりとアロイスがやってくるのだ。
偽の星巫女だった時にしたことや、アロイスの父トビアスのことを聞いたが、まるでおとぎ話のように遠く感じ、自分と結び付けるのは難しかった。後悔も共感も、胸に湧いてはこない。
殺した人物がどんな人間だったかも分からないのだ。
国王は誰にも好かれていない人物だったようだが、アロイスから聞く限り、正義感で殺したわけでもないようだ。
なぜ過去の自分がそんなことをしたのか思い出そうとしても、記憶はごちゃごちゃと時系列のしれない一瞬を見せてくるばかりで、少しも明瞭にならなかった。
驚いたのは、聞けば聞くほど、なぜ自分がアロイスたちに救われたのかがさっぱり分からないことだ。
以前の自分は、トゥランの父を殺し、巫女を詐称し、神の名のもとに何人も死へ追いやったという。その上、混乱の中命を救われた恩を返すどころか、魔法で襲いかかったとの話には頭を抱えた。一度ならず命を危険にさらされながら、今でも平然と共にいる彼らは頭がおかしいとしか思えない。
「こうして俺をそばに置いているのは、監視の意味もあるんだろう」
それくらいしか、まっとうな理由が思いつかない。どうにか自分を納得させようとしたのだが、アロイスはそれにも首をひねった。
「監視できていると思う?」
「…………」
「少なくとも僕の目は穴だらけだよ。トゥランに奪われてばかりいるからね」
「は…………?」
急に話の方向が変わった。というより、何の話をしていても最終的にこの話に変わってしまうのだと、最近分かってきた。
見れば、緩んだ口元を押さえながら、悩ましげに息を吐いている。
「ああ、会いたいな。最近は忙しいらしくて、食事の時以外は話もできない日があるんだ。でも、苦しいのは僕の方だけみたいだ」
恋愛の話題には何と返せば良いのか分からず黙っていても、アロイスは構わず話し続ける。
「これも罰なのかもしれない。前は、世界中の人に好かれようとしていた。誰にでも平等であることに躍起になっていて、たくさんの人を傷つけたよ。やっとただ一人の愛する人を見つけたけど、彼女は僕だけのものじゃない」
憂いを帯びた息を吐く。そんな顔で愛を語られれば百人中百人が陥落しそうだが、よりにもよってその相手がトゥランと来ている。
なぜあの女神に夢中なのかは、正直言って全く理解できなかった。
容姿は月並み、可愛いと言えなくはないが印象に残るほどの顔でもなく、女神らしい高潔さや神々しさを備えているわけでもない。話しているところを見る限り、ただの世間知らずの小娘だ。悪者ではなさそうだが、とりたてて賞賛すべきところが思い浮かばない。
長き時を経て顕現した変容の女神にして、失踪したアウレリア妃の娘という大層な肩書を持っていながら、およそ何者にも見えない素朴さが、異質といえば異質なのかもしれなかった。
「どうしてそんなにあの人が好きなんだ。女神だからか?」
「違うよ。出会った瞬間から天使のようだったけど、女神だと分かったのはその後だ」
「天使のようだとかいうのは、見た目のことか?」
疑わしげに尋ねると、アロイスは夢見るように宙を見つめた。
「姿が愛らしいのはもちろんだけど、あの内からにじみ出る清らかさや無垢さ、心の美しさこそ、彼女の美しさの本質だと思わないか。出会ったその日から、目に焼き付いて離れない」
「……それはあの女神の話か?」
「きみはそのつもりで尋ねたんだろう?」
「そうだけど、同じ人の話をしていると思えなかった」
恋は確かに人を盲目にするらしい。
こちらは目に焼き付くどころか、一行の中で最後まで顔が覚えられなかったのが女神トゥランだったというのに。
「王宮にはもっと美しい女も、賢い女もいただろう。町に出れば、素直で健気な女だっていくらでもいたんじゃないのか」
「きみはまだ恋を知らないからそう思うんだ。特別な存在に出会ってしまうと、比較なんて何の意味もないんだよ。もう彼女しか見えないから」
大層な心酔ぶりだ。そういうものかと納得しかけたものの、やはりこの二人が似合いだとは到底思えなかった。
「あの女神が同じように思っているようには見えないけどな」
どうせ言葉巧みに否定するのだろうと思いながら言ったのに、反論の言葉はない。
ふと見れば、どんな顔をするべきか分からないといった様子で、曖昧に微笑んでいた。図らずも、核心を突いてしまったらしかった。
二人の恋は、見た目ほど順風満帆ではないのかもしれない。
そしてそのことになぜだか喜んでいる自分を見つけて、整理のつかない気持ちになった。
◆
変容の女神というだけあって、女神トゥランの生活は少しも落ち着きがない。
急に翼を生やして空を飛んだかと思えば、北の神殿に一行を連れてゆき、ここで暮らすと言い始める。突拍子のないことこの上ないが、周りの人間は慣れているのか、それほど驚いていなかった。
それでも、長年の侍女は解雇されてあっさり帰郷してしまったし、胡散臭いフィンとかいう職業不定男もどさくさに紛れていなくなった。それでようやく静かになるかと思えば、周辺の町からどやどやと人が移り住み始め、騒がしいことこの上ない。
「わけのわからんことになったな。まあお前と出会ってから、意味の分かったことなど何もないが」
唯一女神に文句を言うのは、ウルという元王子だけだ。出会った時から喧嘩腰でいけ好かない男だが、共感できる部分もあるのは確かだった。
出会いからこのかた、トゥランという女神の印象はただ一つ、「謎」でしかない。傍にいると、理解しがたいことばかりが起こる。
「何が分からないの、お兄さま。隣の国が攻めてくる理由? それとも、急に女の人に人気が出たこと?」
「温度差のひどい二択だな」
「他に思いつかなかったんだもの」
「俺はこのまま妹に振り回される人生で良いのかと思っただけだ」
「私、お兄さまを振り回したことなんてないわ」
「本気でそう思ってるなら、相当性質が悪い」
苦々しげな声を横に、アロイスはトゥランの手を取って口づけた。そのまま親指で手の甲をそっと撫で続ける。片時も離したくないというように。
「僕は望んでここにいるよ、トゥラン。きみのいる場所が僕の居場所だから」
「ふふ、知ってるわ、アロイス。私だってそうだもの」
途端に流れ始めた甘い空気を追い払うかのように、ウルは「さっさと本題にうつれ」と手を振った。最近は、文句を言っても無駄だと思うのか、悪態をつくこともしない。
ウルの苛立ちは、グウィオンも感じているものと同じだろう。
大事な話し合いがあるというから渋々顔を見せたのに、聖堂ではひたすら気の抜けるような会話が続いている。
だいたい、この女神が悪いのだ。緊張感というものがない。この女が口を開くと、同じ国の中で戦争が起こっていることも、激しい王位争いがされていることも忘れそうになる。国王を手にかけたのが自分だということも、何かの間違いではないかと思ってしまう。
どうせ大事な話とやらだって、大した用事ではないのだろう。とは思いつつ来てしまったのは、どうしてなのか自分でもよく分からない。
どうせ不愉快な気持ちになるだけなのに……と、いちゃつく二人から目をそらした。
「そうそう、相談があって呼んだんだったわ」
ようやく用件を思い出したらしい女神が切り出した。
「最近、村に人が増えたでしょう。簡易の小屋で暮らしている人もいるし、隣町から毎日往復してくる人もいるけど、本格的に移住するつもりの人もいるみたいなの。それでね、モルガンたちがそろそろ聖堂を警備するべきだって言うのよ。それと、変な人が入り込んでいないか村の見回りをしてほしいって。そんな人、いないと思うんだけど、急に人が増えたから心配みたい」
思いのほか、まっとうな相談だった。
「で、それを俺にしろと?」
ウルは先回りして、確信ありげな態度だ。
が、女神は首を振った。
「最初はそう思ったんだけど、聖堂の警備って基本は立ちっぱなしらしいの。お兄さまが黙って立ってたら、怖くてみんな近寄れないんじゃないかしら。確かに悪者も寄り付かないとは思うけど、誰も聖堂に入れなくなるのは困るわ」
「喧嘩を売るために呼んだのか?」
一段低い声を出すウルの隣で、ゲルダが品よく笑い声をあげる。
例によって、まるで緊張感のない会話だ。これがこの世の新しい守護女神だとは、あまり思いたくないような気がする。
「お兄さまったら、すぐ怒るんだから。でも、それがお兄さまだものね。もしお兄さまがアロイスみたいにいつも笑顔だったらと想像してみたけど、かえって恐かったわ。だからお兄さまには今のままでいてほしいの」
「何の話をしたいんだお前は」
本格的にウルが苛立ち始めた矢先、女神はするりと話を戻した。
「だからね、お兄さまには警備じゃなくて、警備隊を育てる役割をお願いしてはどうかってことになったの」
「育てる……?」
憤りと疑問符を半分ずつ浮かべたウルの表情は、いっそう険しくなった。
「お兄さま、騎士団にいたんでしょう。そこでやってた訓練方法とか……」
「素人にやらせる内容じゃないぞ」
「まるっきり一緒じゃなくて、うまく加減すればいいじゃない」
「……それはそれで疲れそうだがな」
ぶつぶつ言いながら、断る様子はない。
この男は常に不機嫌そうな顔をしているが、それでいて妹の要望を断ったことはほとんどないのだ。見た目より甘い兄と、見た目以上に甘い恋人に囲まれていれば、こうも能天気になるのは無理もないことかもしれない。その上守護女神なのだから、敬虔な村人たちはほとんど地に這いつくばる勢いだ。
グウィオンはますます面白くなくなって、口元を引き結ぶ。
「ウル殿なら、きっと良い指導者になる。国一の戦士に教えられるなら、光栄というより恐れ多いかもしれないけれどね」
他人事と思っているのか、くすくす笑うアロイスに女神はにっこりと笑い返した。
「アロイスだってすごい腕前なんでしょう。それにお兄さまがこんな風だから、きっとアロイスがいればみんな喜ぶわ」
こんなことを言われるとは予想していなかったのだろう、アロイスはやや上向いた長い睫毛をゆっくりとしばたかせる。
「僕もウル殿と一緒に? でもそうすると、きみのことを守る人がいなくなる」
「私を守る必要なんてないわ。私に襲いかかるような人はここにはいないし、いたとしてもすぐ逃げられるもの」
ほら、とご丁寧に翼を出してみせ、軽く風を起こした女神は、誇らしげに笑ってみせる。
「星読みの杖もあるし、自分の心配はしていないの。警備隊を作るのも、私じゃなくて村の人たちを守るためよ。人が増えると、盗賊とか……良くない人が入り込むかもしれないって言うから。だから私の事より、アロイスを必要としている人を助けてあげて」
「……きみが望むなら、そうするよ」
確かに女神の持つ力は未知数で、人の手の及ばぬ領域にある。本来の力を取り戻せば、人による守護など必要としないのだろう。
だが、アロイスが彼女を守りたいと願うのは、自分よりも弱いと思っているからではないはずだ。
部外者の自分にも分かることがなぜ分からないのかと、グウィオンはいっそう腹が立ってきた。この女の脳内には、タンポポの綿毛でも詰まっているのだろうか。
「きみが望むなら」という言葉の意味は、「自分では望まないけれど」に決まっている。
そんなことも分からない女神など、空に向かって吹き飛ばしてやりたかった。天にでもなんでも、帰れば良いのだ。
兄と恋人の差配に成功した女神は、気を良くした様子でグウィオンに向き直った。
「それでね、できれば魔術を教えてほしいっていう人もいるんだけど――」
「断る」
みなまで言う前にすげなく断ると、女神よりもアロイスの方が気づかわしげにこちらをうかがい見た。不機嫌さを察したのだろう。
アロイスの気を揉ませたいわけではない。務めて平坦な声で続けた。
「魔術は剣とは違う。誰でも身につくものでも、誰にでも教えるものでもない。素養のない者にいくら教えても無駄だよ」
「そういうものなのね。分かった、断っておくわ」
女神はあっさりと頷いて、また兄の方を向くと、具体的な日程や場所について話し始めた。
その程度の依頼なのだ。アロイスだって、気が進まないなら自分の本当の気持ちを言えば良かったのに。どうして彼は、恋人の前でいつも耐え忍んでいるのだろう。どうして女神は、そんな彼に気づかないでいられるのだろう。
自分に関わりのないことなのに、どうしてか胸の中がざわめいて落ち着かない。
それっきり、自分に関わる話はもうなさそうだったので、席を立った。
部屋を出る時にちらりと振り返れば、アロイスがこちらを向いていた。ほんの一瞬重なり合ったまなざし一つに、グウィオンは大いに気をよくした。
隣に恋人がいたにも関わらず、彼は去りゆく自分に心を向けていたのだ。ちょっとした勝利者の気分だった。
◆
意識を集中させて魔力を集め、短く呪文を発すれば、下から強い風が巻きおこり、からだを持ち上げる。その上でバランスをとるのは至難の業で、新米魔術師などは吹き飛ばされておしまいだが、このグウィオンに限ってそんなことはない。
風はもはや体の一部であり、その気になれば屋根より高くから地上を見下ろすことも、嵐を起こして町一帯に被害を与えることもできる。
記憶のない時、その力で女神やアロイスたちを痛めつけたというが、今はもっぱら、アロイスを見つけるために活用している。考え事のある時、アロイスはよく一人で静かな場所を探して歩いている。そこへ、偶然を装って通りかかり、話を聞くのが常だった。
「どうしてかな。今日はきみと会いそうな気がしていたよ」
そう笑った彼は、グウィオンの思惑に気づいているのかどうか。
どちらでも良かった。少なくとも、嫌がられている様子はない。彼としても本当は、誰にも言えない胸の内を打ち明ける相手を探していたのかもしれない。
「落ち込んでいるように見える」
この宝玉よりも輝かしい瞳を曇らせるなど、世界の損失としか思えない。そして温和な彼にこんな顔をさせるのは、ただ一人しかありえない。
「考えていたんだ。僕がトゥランにしてあげられることは何かないのかって」
案の定出てきた名前に、軽く息を吐く。その名前に、彼の心を占める価値などないと思いつつ、ぐっと言葉を飲み込んで話を合わせた。
「そばにいる以上に必要なことがあるのか?」
「そばにいるだけで、本当に恋人と言えるのかな」
「……本当にそばにいるだけなのか?」
ようやく彼の心痛の理由に思い当たって、グウィオンは目をむいた。我ながら信じがたい推測だった。
この二人が恋人同士となってからどれくらい経つのか知らないが、グウィオンが記憶を失って共に行動するようになってから、優に数週間は経っている。その前に起こったと言われる出来事を考えれば、王宮を出てから少なくとも一か月以上は経っているだろう。
その間、アロイスと女神は始終そばにいた。正確にいえば、アロイスはできるかぎり女神のそばにいようとしていた。
けれど考えてみると、手をつなぎ、甘い言葉をかけあう以上のことをしているそぶりはない。夜は別々の部屋へ向かい、朝も同じ部屋の扉から出てくる。キスどころか、嫉妬や喧嘩の類もお目にかかったことはない。
まさか本当に、文字通りそばにいるだけなのだろうか?
同じ屋根の下で昼夜問わず一緒にいて、何の進展もないということがありえるのだろうか?
「何か拒絶でもされたの?」
そうでもなければ、意味が分からない。
アロイスはゆるゆると首を振る。いかにも確信なさげなそぶりだった。
「いや。でも、分かるんだ。トゥランは今の関係に満足している。何一つ、僕に望んでこない。例えばちょっと甘えたいとか、特別扱いしてほしいというささやかな願いすらない。出会った頃から何も変わらないままだ。だから時々不安になる……恋人だと思っているのは僕だけで、本当はトゥランの言う好きとは全く違うものなんじゃないかって」
「……それは」
一瞬アロイスの顔を見て逡巡したのは、彼の望む言葉をかけてやりたかったからだ。
そんなことはない、女神はあんたを愛してる。ただ経験が少なくて、恋人らしいことに疎いだけだろう。
そう言えば、多少なり気が済むのかもしれない。
けれど同時に、思いきり否定してやりたい気もしていた。
知らしめてやりたい。いかにつまらないものに、彼が心を留めてきたのかを。恋に目がくらんでいたのだと分からせたい。
一瞬ののち、結局口を突いて出たのは否定の方だった。
「俺はずっと、そう思っていたよ」
光を失った目がこちらを見る。絶望に似た表情に、グウィオンは密かに興奮した。今こそ、彼の運命を変えられるチャンスかもしれない。
気づかせるのだ、自分は間違っていたのだと。この恋はもうどうすることもできず、あきらめるしかないのだと思わせたい。
ただし、貶めてはいけない。彼を怒らせない範囲で上手く誘導するのだ。彼は賢いから、おのずと答えにたどり着く。
これまでにないほど頭を回転させながら、慎重に口を開いた。ゆっくりと、からだにしみこむような速度で言葉を放つ。
「あの人は神だ。人として生きてきたけど、人じゃない。今あんたが感じている違和感は、きっとこれから大きくなる。一緒にいればいるほど、自分とは違う生き物だって気づくと思うよ」
不規則に胸を上下させたアロイスが、苦しげに目を泳がせる。
自分の言葉が、もくろみ通りに彼の心をざわめかせたのを見てとって、グウィオンは愉しくなってきた。
「いつまでも無垢で、欲望とか執着なんてのとも無縁なんだろうな。それでもあんたは、あの人を愛し続けられるのか? 苦しくならない? ずっと自分だけが追いかけているような気分にならないか?」
それはきっと、彼自身が何度も自答した言葉だっただろう。それでも認めたくなくて、目を逸らしてきたのだろう。
打たれたような弱弱しい姿に、ほんの少しだけ歩み寄ってやる。手は触れない。どうしていいのか分からないふりを装って、ただ傍にいる。
心が弱った時、やり場のない気持ちを抱える時に、いつも同じ人がそばにいるとしたらどうだろう?
そういう人こそ、手放してはいけない相手だと気付くのではないか? どんなにそばにいても心の通わない恋人よりも、大切な人だと思い始めるのではないか?
そして、いずれ彼の方から近寄ってくるようになるだろう。ただ一人の理解者に、思いの丈を吐き出すようになるだろう。そのうちに、自分なしではいられぬようになればいい。
それにしても、絶望に憂える彼の姿は、なんと美しいのだろう!
苦悩するアロイスの姿は、不思議とグウィオンの胸を高鳴らせた。
そうだ、まだ急ぐ必要は少しもない。
ただ、針をかけておくだけでいい。いずれ獲物がそこに食らいついて離れなくなる時まで、待っていればいいのだから。
グウィオンは口の端を吊り上げると、ことさらに優しげな口調で話しかけた。
「どんなに善くあろうとしたところで、俺たちは無垢になんてなれやしない。女神といると、そんなことに気づかされるよ。それが人間というものだから。それに絶望して神々が人間を捨てたなら、いずれあの女神も空に帰るのかもしれないな」




