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トゥランと真実の書と不安な貴公子

「待ってくれ!!!」

 狼狽したフィンの声が、祈りの間いっぱいに響いた。

「こ、心の準備ができてない」

 急に檻の中の猛獣のように歩き回り始めたかと思うと、息遣いも荒く頭を掻きむしっている。ほとんど錯乱状態だ。

 突然の変わりように、トゥランの方が驚いた。

「見たいんじゃなかったの?」

 初めて出会った時から、フィンは星読みの書に憧れていた。ずっと見たがっていたはずなのに、いざ見られることになってからの取り乱しようときたら、どうしたことだろう。


「見たいよ。もちろん死ぬほど見たいとも! だが、考えてもみてくれ。全ての真実が分かってしまうということは、どこかへ潜入したり、古文書を読み解いたり、まだ見ぬ遺跡を探し回る必要なんてなくなってしまうんだぞ。俺たちはどうなる? 廃業だ! 今日を限りに!」

 腕を振り回し、目を泳がせながら、フィンは激しい葛藤の中にいた。

「全てを知ってしまったら、明日から何を楽しみに生きて行けばよい? 明日の自分の朝食まで書いてあったらどうする? これから一生、謎や伝説に胸ときめかせることもなく、何もかも既視感だらけの人生だなんて耐えられない!」


 トゥランは、めくりかけた頁から指を離した。

 フィンの動揺はよく分かった。ヒエロニムスの黄昏の書について、自分が感じたこととよく似ていたからだ。

 未来が書かれていると知った時はわくわくした。

 なのに、それが自分のことだと知ると、知りたい気持ちと知りたくない気持ちの狭間で揺らいだ。分かり切った未来をただなぞらねばならないほど、恐ろしくてつまらないことはない。

 

「この俺が、知りたくないと思うことがあるとはな……」

 世界で一番、知りたがり屋の自信があったんだが、と妙なところで自信を喪失している。

「やっぱり、読むのはやめておく?」

 手持ち無沙汰に本の表紙を撫でていると、フィンはやがて神妙な顔でそばにやってきて、じっと星読みの書をのぞきこんだ。

「……この世の全ての真実が書かれているにしては薄いな」

「そうよね。それに、結構軽いの」

 この世の全てどころか、人一人の自伝を記すのが精いっぱい、という薄さだ。けれど神具なのだから、人の考えの及ばないようなからくりがあるのだろう。


「トゥラン、きみは読んでみたいか?」

「そりゃあ、興味はあるわ。でも読んでみたら、知りたくなかったって思うのかもしれない。謎って、答えを知らない間が一番素敵なのね」

「真理だな」

 知りたがりの二人は顔を見合わせて、苦笑した。

 そう分かっていても、結局は見てしまうのだと、分かっていた。どんなに迷い、ためらっても、結局、手を伸ばさずにはいられない。知りたい気持ちに抗えない。そんな二人だ。


 ぺたんと床に腰を下ろして、本を膝の上に置く。

「……ちょっとだけめくってみるわ。ちょっとだけ」と言い訳のように呟きながら、結局トゥランの指は本を開いた。隣に座り込んだフィンが、額を寄せてのぞきこむ。

 と、奇妙な現象が起きて、二人は何度もまばたきをし、目を見開いた。

 パラパラとめくると、本の中にはぎっしりと字が書いてあるように見える。しかしめくる手を止めてみると、不思議と字は消えたり現れたりして、少しも読めない。

「さすがは神具だ……ただの本じゃない」

 声をうわずらせ、フィンはそっと指で紙面をなぞった。生き物のような字が右往左往するのを追いかけるように撫ぜ、じっと息を詰めている。


「どういう仕組みなのかしら」

 何気なく呟くと、文字がじんわりと、紙面に浮かび上がった。

“尋ねよ、さすれば答えを得るだろう“

「本が答えた!!!!!」

 フィンの目が飛び出んばかりに見張られる。トゥランの方も、興奮で舌がもつれた。

「声に、はん、反応したの?」

「もう一度、何か話しかけてみよう」

 からだの震えをおさえるために、ぎゅっと拳を握りしめる。この数か月でいくつもの奇跡と対面し、あるいは自身で奇跡を起こしてきたが、さすがに驚かずにいられない。


「こ……この本は、いつ誰が作ったの?」

“この地を去りし神々による最後の祝福にして教訓”

「伝承の通りなのね。使うところを見たことがなかったから、おとぎ話かと思ってた人も多かったけど、本物なんだわ」

“人の身に余る力は代償をもたらす”

「そうなの? だから使われてこなかったの? でも、星読みの杖を使っても、代償なんてなかったわ」

「そりゃあ、きみは人じゃなくて神だろう」

 冷静に告げたのは、不思議な本ではなくてフィンだった。

「そういえばそうだったわね」

「忘れないでくれよ」

 と言われても、ほんの少し前までは、人間のつもりで生きてきたのだ。根付かせるには、もうしばし時間がかかりそうだった。


「……本当に、何でも答えてくれるのかな。仕組みが分からないけど、不思議ね。私だって一応神だけど、この世の真実なんて知らないわ。すれちがった猫が何を考えているのかとか、世界で一番美味しいパン屋がどこなのかすら知らないのに」

「急に謎のレベルが低くなったな」

「でも、同じことよ。この本を作った神は、そんなささやかなことから世界の理まで、全ての真実を知っているんでしょう。辛くないのかしら……知りたくないこともあったんじゃないかしら」

「それは、あっただろう」

「神様でいるのも、きっと大変なことなのね」

 力があるというのは、良いことばかりではない。

 何者でもなかった引きこもり姫の頃は、知識も力も友人も、何もかも持っていなかったが、辛いこともまたなかった。変わり映えのない穏やかな日々に明け暮れていたあの日々も、変容の女神として覚醒した今は、きっと二度と取り戻せない類の幸福だった。


「良いことと悪いことはいつも一緒で、良いことばかり手に入れることはできないんだわ。祝福と教訓って、そういう意味だと思うの」

「……そうだね、きっとその通りだ」

 いつになく真面目な声の肯定が返ってくる。

 夢中になって同じ本をのぞきこんでいたので、その声はひどく近い。近いということにも、たった今まで気づかなかった。ふと目を上げてみて、ようやくその双眸の輝きに見入る。


「きみはこの世における最大の謎だと思っていたが、同時に答えでもあるのかもしれないな」

「答え?」

 大切そうに見つめてくる瞳をおずおずと見つめ返しながら、その言葉の意味を考える。

「きみはまだ、神というよりは人に近いように見える。だがきみが全ての力を取り戻したとき、この世界に対して何かの答えを見つけるのかもしれない。俺たちは待っているんだ、審判の時を」

「……そんな大層なことになるかしら」

 小さな声でつぶやいた。何だかどんどん、話が大きくなっている気がする。町の人には祭り上げられ、フィンはこうして未来に何かを夢見ている。

 期待に応えられるのかと思うと、何だか荷が重い。


「気負うことはないさ。俺が勝手にロマンを感じているだけなんだから。きみがこれからどんな風に変わったとしても、きみと出会ったことは俺の人生最大の幸福だ。死ぬまで一緒にいたいね」

 笑いながら、フィンの手が軽くトゥランの頭に触れた。

 出会った時は侍女姿で、それから姫だと明かし、どういうわけか神になったトゥランにも、フィンの手は等しくあたたかいままだ。時には大仰に敬ってみせることもあるけれど、その奥には変わらぬ友情があると、こうして見せてくれる。


 見合わせた目で微笑みあう。

 フィンとは言葉を交わすのも楽しいけれど、何も言わなくても分かり合える時もある。小さい頃からずっと一緒にいたみたいに。

「私もフィンと出会えて良かった。運命だと思っているの、あの日さらわれたのも。こんなに気が合う人っていないと思うもの」

「奇遇だね、俺もそう思ってた」

 同じ謎に胸ときめかせ、秘密を共有できる仲間がいるのはいい。一人では途方に暮れても、二人なら素敵な冒険に変わる。

 あの日根拠もなくフィンを信じようと思った自分は間違っていなかったのだと、自信をもって言えた。


 二人はふたたび星読みの本に目を落とし、何を問いかけようかと考え始めた。すっかり話に夢中になっていたので、誰かが祈りの間にやってきていたことにも、気づいていない。

「トゥラン……」

 どこか沈んだ声が聞こえてようやく振り返ると、その日初めて姿を見る恋人が、記憶喪失の魔術師と共に立っていた。

「アロイス、帰ってきてたの」

 いつもならすぐに近寄って触れてくるのに、今日はなぜか呆然と突っ立ったまま、目を泳がせている。


「どうかしたの? 何かあったの?」

 立ち上がって駆け寄っても、いつものように抱きしめてこない。手の届く範囲にいれば必ず触れてくる指先が、だらんと垂れたままでいる。

「……どうしていいか分からないんだ」

 唐突にこぼされた不安の正体がわからなくて、ただその手に触れることしかできない。

「これ以上望むことなんてないはずなのに、どんどん欲深くなるばかりで、そんな自分を持て余してる」

「何か欲しいものがあるの?」

「僕が望むものはこの世でただ一つ、きみだけだ」


 それなら――心なら、もう通じ合ったはずなのに。

 混乱して見上げた瞳は、後ろめたそうにそらされてしまった。

「ごめん、頭を冷やしてくるよ。これ以上きみに、嫌な僕を知られたくない」

 走ってもいないのに息を荒がせて、アロイスは素早く身を翻した。

「アロイス!」

 追いかけようとしたその前に、どこからともなくグウィオンが現れて立ちふさがる。

「たまにはあの人の願いを聞いたらどうなんだ」

「いつだってそうしたいと思ってるわ。アロイスが何かを隠しているなら、本当の気持ちを知りたいの」

「何でも教えられないと分からないのか?」

 呆れたように言われて、トゥランの胸は痛んだ。

 またなのか、と思った。また自分だけ理解できていなくて、置いてきぼりになっている。自分の鈍さが嫌になる。


「グウィオンには分かるの?」

 まだ出会って間もなく、過ごした時間もそう長くはないグウィオンに分かって、自分に分からないことがあるのだとしたら、何の言い訳もできはしない。

 自分の愚かさを認めてしまうほかなくなる。

「……言わないよ。どうしても知りたいなら、その本にでも聞いたらいい。それで分かったつもりになったところで、何も解決しないけどな」

 辛辣な言葉を静かに投げつけて、グウィオンもまた、背を向けた。

 今度は追いかけなかった。仮に足が追いついたところで、心の距離はとても追いつけないような気がしていた。


「知らないうちに、アロイスを傷つけてしまったの?」

「グウィオンは、いつのまにアロイスと仲良くなったんだ?」

「考えてみても、全然心当たりがないの」

「あの特殊なまでの影響力……政治に活かしたら大変なことになっただろうな。絶大な人気を誇るだろう」

「そういえば、ちょっと前も様子が変だったわ」

「それにしてもあのグウィオンの気にかけよう……まさか恋してるわけじゃないよな。老若男女問わず魅了するというが、さすがにな」

 会話というよりは、お互いに独り言だった。

 いつしか、星読みの書は脇に置かれたままでいる。尋ねればわだかまりの正体も教えてくれるのだろうが、恋人のことばかりは、本に尋ねるよりも自分で答えにたどり着きたい。


 ウルが妹を探して祈りの間にやってきたときも、二人はまだそこにいて、まるで会話になっていない会話を繰り広げていた。

「何で突然お前がいる?」

 唐突に現れたフィンに、ウルが怪訝な顔をする。

 と、問われたフィンの方も急に我に返った様子で、弾かれたように立ち上がった。

「しまった! 仲間たちが待ってる、帰らないと、死んだと思われるかもしれない」

「何でいるのかと聞いたんだがな……」

 理解の追いつかないウルに、フィンは神芸めいた速度で舌を回転させ、怒涛の勢いで説明を始めた。

「つまりですね、俺はつい先ほどまで、王宮の地下神殿にいたんです。神具にまつわる怪しげな謎を追っていたら神官に見つかってあやうく死にかけ、運命的に現れたトゥランに救われてここにたどり着き、無造作に取り出された星読みの書を仲良く読んでいたところ、アロイスが入ってきて嫉妬と欲求不満を爆発、いつのまにかアロイス贔屓になっていたグウィオンがトゥランに説教をかまして今に至るわけです」

「何ひとつ分からん」

「ですよね……」


 あれこれ端折り過ぎてまるで無意味に終わった説明に、一番驚いていたのはトゥランだった。

「アロイスが落ち込んでいたのは、嫉妬と欲求不満だったの?」

「なんで当事者が理解できていないんだ」

 なんでと言われても、こちらはこちらで、なぜフィンは理解できているのかをききたいくらいだ。

 嫉妬といえば、あの場にいたのはフィンしかいない。けれどアロイスがフィンに嫉妬する要素は何だろう?

「星読みの書を、真っ先にフィンと二人で見たせいかしら……内緒にしたわけじゃないのに」

 思いつきを口にしてみると、フィンはほとんど絶望に似た表情で天を仰いだ。

「嘘だろ、こんなにも真実にかすりもしない推理がこの世にあるなんて……」

「一生何の謎も解けそうにないな」

「五歳の女の子でも察しがつきそうなことじゃないですか?」

「村の五歳児に弟子入りすれば良い」

 散々な言われようだ。

 困ったのは、本当に理由が分からないことだった。星読みの書が問題じゃないのなら、一体何に対して欲求不満だというのだろう?


「やっぱり、アロイスと話してくる」

 ここであれこれ推理したところで、二人に却下されるか、こき下ろされるのが関の山だ。

 思えば、ファニーの別荘でアロイスが挙動不審になった時に、きちんと話をしておくべきだった。あの時うやむやにしてしまった問題が、今になってまた顔を出したのかもしれない。

「あっ、トゥラン、できれば俺をアジトへ送ってほしいんだが」と言いかけるフィンを「後でね!」と振り切って、アロイスの部屋へ走った。

 頭を冷やしたいとアロイスは言ったけれど、冷静になったからと言って、わだかまりが消えるわけではないはずだ。それなら、話をするのを後回しにしない方がいい。


 アロイスの部屋をノックすると、中から「はい」と声がした。落ち込んでいても、居留守を使うような人ではない。

「アロイス、いる?」

「……トゥラン」

 かすれて心乱れたような声がぽつりと聞こえたきり、その先の言葉に続かない。

 饒舌な彼の舌を凍らせてしまうほどのことをしてしまったのかと思うと、心当たりはないながらも、反省の気持ちが湧いてくる。

「私ね、ものすごく察しが悪いみたいなの。アロイスを悲しませてしまったのは、星読みの書を先に読んでしまったせいかと思っていたんだけど、お兄さまとフィンに呆れられてしまって。五歳でも普通はわかるとか、村の女の子に弟子入りしろとか……」

 空気を読むとは果たしてどうすれば良いのかも分からない。普通は自然と身につく技術なのだろうか。


「相手の気持ちを分かってあげられるって、すごいことなのね。やっぱり、アロイスって魔術師みたい。言葉にしない気持ちまで分かって、みんなを幸せにする魔法が使えるんだもの」

 考えがまとまらないまま来てしまったので、口をついて出るのは、とりとめもない気持ちばかりだ。

「だから、分からないの。アロイスはこんなにも人を幸せにする才能があるのに、自分のことが好きじゃないみたいに見えるから」

 それどころか、何かを恥じているようにも見える。

 出会った頃の彼はそうじゃなかった。愛することにも、愛されることにも自信があった。

 いつから彼は変わっていったのだろう?


「……僕はただ、知らなかっただけなんだよ」

 やがて絞り出すような声が、さっきよりも近くから聞こえてきた。

 扉の向こう、おそらく数歩も離れていないくらいの場所に、アロイスはいる。

「どんなに過去の自分が残酷だったのかも、どんなに本当の自分が身勝手で欲深いのかも、今さら思い知ったんだ。人の気持ちなんて、分かっていなかったんだよ」

 どうしてそんなに自分を責めるのか、トゥランには理解できなかった。

 自分の目には、非の打ちどころのない恋人に見える。残酷だとか、欲深いというのは、別の人の話じゃないかと思うくらいだ。


「アロイスが欲深いだなんて、私にはとてもそうは見えないわ。むしろ何が欲しいのか、はっきり言って欲しいくらいよ。そうしたら私にもあげられるものがあるかもしれないのに。もらうばっかりじゃなくて」

 そう口にした時だった。

 ふいに目の前の扉が開いて、悩めるアロイスが姿を見せた。両手でかきむしったのか、波打つ金髪が少し乱れている。


「例えば、こうしたいと言ったとしても?」

 早口で言われた言葉の意味を考えているうちに、アロイスの腕はトゥランをとらえ、胸の中にかき抱くと、そのまま部屋の中へ引き入れた。

 後ろで扉の閉まる音がする。

 そのまま壁に押し当てられたかと思うと、アロイスの顔が近づいた。嘘みたいな早業だ。

 切なげにひそめられた眉を眺める暇はなかった。ぐいと衝動的に近づいてきたアロイスの顔が、とうとうぶつかってしまったからだ……それも、無防備に開いたままの唇と。

 柔らかくあたたかな感覚がはじめてのキスだと理解できた時には、アロイスは顔の角度を変えて、むさぼるようにトゥランの唇を味わっていた。

 優しく押し当てたかと思うと離れ、ついばむように小刻みに触れたかと思うと、飲み込まれるほどの勢いで吸い付いてくる。


 完全に呆然としてしまったトゥランは、拒絶も喜びも感じる余裕なく、ただされるがままに受け止めていた。

 確かに、こんな望みは予想もできなかった。そばにいるだけで幸せと繰り返していたアロイスのうちに、こんな激しさがあったなんて。

 恋人同士のする行為のことはもちろん知ってはいたが、自分に結び付けて考えるのが難しかった。どうにもうまく想像できなかったのだ。

 いざされてみると、ぱんと頭の中がはじけたみたいに真っ白で、何も考えられない。


 は、とアロイスが熱っぽい息を吐いた。

 呼吸も忘れていたことにようやく気づいて、トゥランも大きく息をつく。

 目が合った。見たことのない、情熱と後ろめたさに揺れる目だ。

 途端、我に返った様子のアロイスは、端麗な面を歪ませて、ぐらりと傾いだ。トゥランを押し当てている壁に、ごつんと額を打ち付ける。


「……ごめん」

 いっそう深く落ち込んでしまったらしい。そのまま顔も上げられないでいる。

 何だか意外な気がしながら、そっとその背に腕を回した。

 対人関係、ことに女性の扱いに置いては達人級の人なのに、この情緒不安定ぶりときたら、まるで思春期の少年のようだ。彼が恋に振り回される日が来るなんて、とどこか他人事のように思った。

「どうして謝るの? びっくりしたけど、嫌じゃなかったわ」

「……本当に?」

「嘘なんてつかないわ」

「じゃあ、もっとしてもいい?」


 良いも悪いも、心の準備はできていない。けれど、嫌かといえばそうでもなかった。何と答えるべきか考えていると、アロイスの手がトゥランの髪をすくいあげては耳にかけ、そのまま頬やら顎やらをやわくなぞった。

 甘く誘いかけるような指先に、ぞくりとする。濡れたような瞳が、抗いがたい力で何かを乞うていた。見つめ返していると、それを拒むことなどできそうになかった。気づけばこくりとうなずいていた。

 それを十分とばかりに、アロイスはふたたび、トゥランの唇を優しく覆い隠した。性急さはなく、囁きかけるような調子で幾度も小さな音を立てる。

 いつの間にか持ち上げられた手を、アロイスの長い指が絡んで包み込む。どこもかしこも熱かった。

 突然時の流れが遅くなったようだった。二人だけ別の時空に迷い込んでしまったかのように、他の物は何も目に入らず、匂いもしなければ意識にのぼりもしなかった。

 アロイスという存在だけが、トゥランに感じられる全てだった。

 それもまた、彼の使える魔法なのかもしれなかった。

 雨のように降るキスをただ受け止めていると、耳に口づけたばかりの唇が囁いた。

「そろそろ止めてくれないと、止まらなくなる」

 切実な様子にただならぬものを感じて、さすがのトゥランもそっと身を離した。この先といえば、一つしか思いつかない。まだそこへ進む勇気はなかった。


「……ずっとこうしたかったの?」

 彼が怖れていた欲望というのは、結局こういうことだったのだろうか。そこまで恥じることとも思えない。

「もっとだよ。時々僕は、きみを閉じ込めて他の誰とも会わせないようにしたくなる」

「そんなことして、どうするの?」

「本当は、もう全ての人に好かれようと思っていないんだ。この世にただきみさえいれば満足なんだよ」

 だとすれば、周りの人への変わらぬ気遣いは、下心のない思いやりから来ていることになる。

 もっとも、アロイスは元々そうだった。彼自身が言うように、彼の言動の全てが計算によるものとは思っていない。


「でも、そばにいるだけでは満足できなかったんでしょう?」

 言葉では絶えず好意を伝えている。毎日どこかで顔を合わせる。

 トゥランはそれで十分幸せだったが、アロイスはそうではなかったようだ。

 思えばアロイスは、以前からそういうところがあった。

 どんなに令嬢たちに好かれていても、贈り物をし、甘い言葉をかけ続けたのは、その好意を信じきれなかったからだ。吹けば飛ぶ紙切れのように思っていたのだろうか。

 アロイスはいつもどこかで不安を抱えている。トゥランには、到底理解のできない不安を。


「そうだね……」

 アロイスはトゥランの額に自分の額を押し当てて、目を閉じた。じんわりと、二人の熱が高くなる。

「どれだけそばにいても、まだこれが夢じゃないかと思うんだ。一度はつかんだと思った星がまだずっと遠くにあるような気がして、手を伸ばし続けてる。僕はいまだにきみに片想いをしているみたいだ」

「そんな悪夢からは早く覚めてくれないと。私はずっとここにいるのに」

「うん……ごめん」

 もはや何に謝っているのか分からない謝罪のあと、アロイスはまたせがむようにして唇を合わせた。

 そうすることでアロイスの不安が消えるなら、いくらでもしたかった。けれど、キスなどでなくなるわけではない気もした。彼のそれは、きっともっと根深いものだ。


 想いを伝えあってから、アロイスの愛を疑ったことは一度もない。彼は相変わらず誰にでも優しかったけれど、嫉妬したことも、独り占めしたいと思ったこともない。

 つまりは、与えられる以上のものを求めたことがまるでなかったのだ。

 ただしトゥランのその開け放しの信頼こそがアロイスを苦しめているのだとは、夢にも思わなかった。

 

 始めの驚きを通り越すと、キスはなかなか素敵なものだった。小説の中の恋人たちが、こぞってしたがるのも分かる気がする。

 言葉で伝えるよりも、ずっと真実味がある。あたたかくて、柔らかくて、なぞったり、押し当てたり、色んな触れ方で愛していると伝えてくれる。その間にもアロイスの手は髪をすいたり、頭を撫でたりと忙しい。


 すっかり夢中になっていたせいで、祈りの間に置き去りにしたフィンが途方に暮れていることも、しばらく思い出さなかった。

 束の間の甘い恋人の時間だった。

 というのも、トゥランの持つ変容の力は、穏やかな時間を持つ暇など、ほとんど与えてはくれないのだ。

 二人がどこかちぐはぐな初恋を謳歌している時、極北の聖地ヒルフェには刻々と近づく人影があった。それも一人や二人ではない。武器を帯び、荷を負いながら隊列を組んで向かってくるのは、軍隊としかいいようのない、不穏そして険呑な集団だった。

 

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