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トゥラン、選択を迫られる

 新しい寝室には、窓がなかった。外に面していないからで、目が覚めても朝なのか夜なのかも分からない。

 ただしそれは外に出ても同じことだった。同じ国とは思えぬほど、気候がまるで違う。一日の大半は夕とも暁ともとれぬ薄暗闇で、昼はごく短く、夜は昼よりは多少長い。この聖光神殿のまわりだけがそうらしく、原因ははっきりとは分かっていない。

 トゥランが来てからはいっそう空模様が不安定になっているようで、時折、空が七色に輝いたり、無数の星が流れたりした。

「女神がお帰りになったことによる吉兆でしょう」と老爺たちは喜んだ。これまで見たことのなかった現象だという。

 不思議なことは他にもあった。灯りを手にしていなくても、神殿の内外はほんのりと明るく、歩くのに困らなかった。外から見ると、月か星のように柔らかく輝いて見える。建物自体が光源であるとしか言いようがなく、それも女神の加護があるからだと、老婆たちは手をすり合わせた。

 本当かどうかはトゥラン自身にも分からない。特に加護を与えたつもりはなかったので。


 会う人誰もが年寄りなのはなぜだろうと思っていたが、その村にはもう老人しか残っていないのだった。

「ここには、星巫女様をお世話する人間しか残っていないのですよ。村というのもおこがましいくらいの規模です。家族は隣町に住んでおりましてね。もっとも、馬を飛ばしても半日はかかる距離ですが」

 モルガンと名乗った老婆は、がっしりとした体格で、年齢を感じさせないほど良く動き、良く気が付き、良く話した。

 やたらと厳めしい話し方をしたがる老爺たちと違って、にこにこと気安い雰囲気がある。放っておくと一人でいつまでも話しているくらいにお喋りだ。

「三代の星巫女様にお仕えしてまいりましたが、女神様のお世話をさせていただけるとは思いもよりませんでした。祈りは届くものですね。思い描いた以上の人間離れしたお美しさ、神々しさに目が潰れるかと思いましたが、その点はこの老いぼれた目が多少は役に立ったかもしれません」


 その美しいとか神々しいとかいう賛辞は、果たして本当に自分に向けられたものなのかと、トゥランは目を泳がせた。

「私の顔が人間離れしてるとしたら、この世に人間がほとんどいなくなってしまう気がするのだけど」

 お世辞にもほどがあると思ったが、モルガンは力いっぱい首を振った。

「とんでもございません! 遠くからでもその輝かしさは明らかですよ。神々のお姿は、人間の目に入れるには眩すぎます」

 それは要するに、ろくに顔を見ていないのではなかろうか。

 と思ったが、深く追求しないことにした。


「今、ツヴァイが町へ知らせに行っているんですよ。女神様のご帰還とあっては、国中から、いえ国外からも引きも切らずに来客があるでしょうねえ。陛下や妃殿下や神官長たちもいらっしゃるに違いありませんよ。もしかすると、移住してくる人もいるかもしれませんね」

 あれこれ想像をふくらませるモルガンは、王宮で起こったことも、ブラオトローンの侵攻も知らないのだと気付いた。

 無理もない。ここは俗世と隔絶された辺境の聖地だ。情報が伝わるのはどこよりも遅いのだろう。


「どうかしら、当分はそれどころじゃないと思うわ」

 国王の暗殺、議長による女神の追放、ブラオトローンの侵攻と、事の次第をかいつまんで説明するうちに、モルガンはみるみる蒼白になっていった。ぐらりと傾いだ重そうなからだを、テーブルについた手でどうにか支えている。

「まさか、そのような……とても信じられません。陛下を襲った輩は捕まったのですか? トビアス・ラングはなぜそれほどまでに罪深いことを……恐ろしい。恐ろしいことです。ようやくこの世に戻られた女神様を拒絶するなど、あり得べからぬことを……この国はもう終わりです」

 そしてはっとしたように顔を上げると、怖れに揺れる目でトゥランを仰いだ。

「もしや、そのためにいらっしゃったのですか。この世界をその御手にて終わらせるために? 我ら愚かな人間に天罰を与えようと……?」


「違うわ、そんなことしない」

 慌てて首を振る。

 滅びだの裁きだの、考えたこともない。

 おそれているのは、自分の力がどう働くのか、自分でも推測しきれないことだ。それから、その力があまりにも強く世の中を変えてしまうこと。覚醒してからというもの、ミュトゥスがただの数日で混沌に突き落とされたように。

 グウィオンが突然記憶を失ってしまったこともあって、トゥランは自分の力に確信が持てないでいる。

「ただ、私の力は未熟で不安定なの。誰かを救おうとしても、逆の結果を招いてしまうかもしれない。だからもう関わらないことが、今は一番良いんだわ」

 そんなつもりじゃなかったと言っても、起こってしまったことは覆らない。トゥランの力は変えてゆく力。元に戻す力はない。


 それにたとえ力が思い通りにふるえたとしても、どうすれば良いのか困っただろう。

 トビアスは女神の干渉を拒絶し、ゲルダは裁きを求めた。モルガンは祝福と繁栄を望んでいる。

 誰かの想いに応えれば、矛盾する誰かの望みを否定する。多くの人と知り合えば知り合うほど、どうすれば良いのか分からなくなる。


「……それではなぜ、女神様はこの世にいらっしゃったのですか」

 モルガンは力なく尋ねた。

 長年待ち続け、狂喜乱舞して迎えた女神が、国の危機に何もしないと言うのだ。一瞬で夢も希望も奪われた面持ちをしている。

「目的があって来たんじゃないわ。目的を見つけたいの。これから探していきたいの」

 心苦しくないわけじゃない。それでも、誰に言われたからでなく、トゥランが自らの意志で選び取るものが見たいと母が言ったのなら、こんな選択だって許されるだろう。

「……それを見つけられなかったから、お母さまは天に帰ってしまったのかもしれないわ」

 何も考えずに口にしたその言葉が真実である可能性に思い至り、しばらく馳せていた。

 この地にいた頃の母は、何を思って暮らしていただろう。父となぜ出会い、どこを愛していたのか。あるいは愛していなかったのか。なぜ娘を置いて天に帰ってしまったのか。

「誰とも会うな」の次は「謳歌せよ」、まるで違う二つの伝言通りに生きたなら、その答えにたどり着くだろうか。


「では、人間が女神の加護に値するかどうかのご判断は、私たちの心がけにかかっているのですね」

 考えていたこととまるで違うことを言われて、我に返る。

 瞬く間に力を取り戻したモルガンの双眸は、すっかり燃え上がっていた。おそろしく切り替えが早い。

「この世には長いこと神がおられませんでした。人の心も乱れつつあるのでしょう。ですが、神を信じ、平和を願う者はまだたくさん存在します。老い先短い命ですが、全身全霊をもってお仕えし、それを証明してみせましょう」

 おもむろに膝を折ると、大柄な身を折り曲げてモルガンは叩頭した。


「そんな……そういう意味じゃないのよ」

 慌てて立ち上がらせようとしたトゥランだったが、その時誰かが部屋の扉をノックした。

「おい、神殿の外に人が集まってるぞ」

 ウルの声だ。

 何があったのだろう、そもそも集まるほどの人がどこから来たのか……と首をひねる間に、モルガンは立ち上がって歩き始めた。

「早速、隣町から人が来たのでしょう。ツヴァイが知らせましたから、急いで拝謁に参じたに違いありませんよ。さ、是非お姿をお見せくださいませ。長年心待ちにしていたのですから」

 熱っぽく訴えられるまま外へ出てみると、そこには数十人ほどの人が集まっていた。町人の先頭には老神官のツヴァイとナハトがいて、それをアロイスが出迎えている格好だ。

 当然というべきか、町人たちの視線はアロイスに釘付けになっている。


「あなた様は何の神でいらっしゃいますか?」

「神様たちはみんなあなたのように美しいのですか?」

「しっかり見てはいけないよ、目に焼き付いて離れなくなりそう」

「夢にまで見そうなお方じゃな……」

 アロイスが自分は単なる人間だと笑うと、まるで猛烈な風に吹き飛ばされたかのように、人々はのけぞり倒れ伏した。

「人間でこんなにも美しいなんて、信じられません!」

「まさか、女神様はあなた様よりもお美しいと?」

「それはもう、目に入れることもできないのでは?」

「始めから叩頭しておいた方が良い、失明しないためにな」


 勝手に空前絶後の美女に仕立て上げられていくのを、ウルは面白そうに眺めている。

「顔を見たら失明するだの、メデューサのような扱いだな」

「残念ながら、この顔が与えられるのはガッカリ感しかないと思うわ」

「仮面でもかぶっておくか?」

 対面してがっかりした第一人者でもあるウルは、そんなことない、などとお世辞にも言ってはくれない。

「他人事だと思ってるでしょ。お兄さまの方こそ、見た目で誤解されないよう少しは笑った方が良いと思うわ」

「別に誤解じゃないから問題ない。誤解でも問題ないがな」

 人々と交流を深めるつもりのない元王子は、どっかりと腰を下ろして、高みの見物を決め込むつもりのようだ。

 

「トゥラン」

 こちらに気づいたアロイスが、雪も融けるような笑みで腕を差し伸べた。

「きみを待っている人がいるよ」

 つられて町人たちがこちらを見る。目を飛び出しそうなほどに見開いて、何か信じられないものを見るような顔をした。きっと、ものすごい勢いでがっかりされているのだろうと思うと、いたたまれなくなる。

「ええと……トゥランです。何だか期待させてしまったみたいだけど、顔は普通なの……残念ながら。一応神ではあるんだけど」

 分かりやすい証拠を見せた方が良いかと翼を広げてみせると、町人たちはどよめき、思い出したように次々とひれ伏した。


「ご降臨、お慶び申し上げます。長きにわたる愚かな我らの罪を許し、いついつまでもお見守りください」

 神官たちと同じくらい年長の男が、くぐもる声で述べた。

「我らは争いを好みませぬ。どうかその慈しみ深さにより、忍び寄る戦禍より我らをお救いください。我らは今日よりあなた様の忠実な僕にて、手足のごとく働きますゆえ」

 堅苦しい物言いは、このあたりに住む年配の男性の特徴だろうか。

 こんなにかしこまられると、何ともやりづらさがある。


「お願いしたいことは、特にないんだけど……」

 とりあえず住む場所や食べるものはどうにかなっているわけだし、と呟くと、伏せていた娘の一人が、意を決した様子で顔を上げた。

「恐れながら、神殿の神官様は年配の方が多いはず。これからは私もお傍でお世話させていただきたく思います」

 すると続けて「私も」「私だって」と名乗り出る。

 ちらちらと視線をアロイスに引き寄せられているところを見ると、その目的は明らかだが、トゥランはうなずいた。

「そうね、私たち、大勢で押しかけてしまったから、お婆さんたちが大変じゃないかと思っていたの。手伝ってくれると助かるわ。私もできることはやるつもりだけど」

「とんでもありません! 女神様は指一本動かさなくても良いんです、私共が何から何までお世話しますから。もちろん、お連れ様のこともです」

 女たちの必死な顔を見ると、無下に断るのも悪いような気がしてくる。たとえちょっぴり下心があるとしても、その真心はきっと本物に違いない。

 ウルに言わせると「信じやすすぎる」トゥランは、今回も町人たちの気遣いをありがたく受け取ることにした。


「ありがとう、皆さん。人が増えたら、きっと神官さんたちも喜ぶわ。でも、あんまり堅苦しくしないでね。友達みたいに気安く話してほしいの。その方が楽しいもの」

 町人たちはふたたびどよめいて、なんと寛大な方なのだと感心しきりに話し合った。一方で女性たちの間では、誰がアロイスの世話係をするかで早くも言い争いが発生している。

「人気すぎるのも大変なものなのね」

 見慣れた光景なので、何とも思わずに眺めていたトゥランのからだが、突如として浮き上がった。自分の羽根で飛んだわけじゃない。アロイスが横抱きに抱え上げたのだ。


「僕もきみが指一本動かさなくても良いくらいに甘やかしたいのだけどね。急にライバルが増えるのは困るな」

 驚くほど真剣な顔で言うものだから、笑って良いのかどうか、よく分からなかった。

「……びっくりした。大丈夫よ、なるべく自分のことは自分でするって、ファニーとも約束したもの」

「だめだよ。僕には頼ってくれなくちゃ」

「そりゃあ、私よりアロイスの方が得意なことはあるけど……ところでどうしていきなり抱き上げたの?」

 混乱しながら尋ねると、アロイスは艶っぽいかすれた声で耳元に囁きかけた。

「初めが肝心だからね」

 まるで答えになっていない。

 訝しげな顔のトゥランには笑いかけるばかりで、アロイスはふと町人たちを振り返った。


「心配りをありがとう。女神はまだうら若く、力も安定していない。しばらくは静かに見守っていてほしい。素晴らしい方々と出会えて、僕らの方こそ幸運だ。これからよろしく頼むよ」

 人々は魅入られたように美貌の貴公子の一挙手一投足を見守っていたが、やがて操り人形のようにコクコクと首を振った。

「どうか末永くお留まりくださいませ!」

「謹んでお仕えいたします!」

「お目にかかれて幸せです!」

 もはや信仰と言って良いような心酔ぶりだ。他の人が同じことを言っても、こうはならない。


「アロイス、すごいを通り越してちょっと怖いくらいね。この好かれ方って、もう魔法の一種だと思うわ」

 そっと囁くと、トゥランを抱き上げた腕に力がこもり、額に額が押し付けられた。

「肝心のきみには、あまり効かないみたいだけど」

「どうしてそう思うの? ちゃんと効いてるわよ」

「本当? どんな風に? 詳しく聞きたいな、二人きりのところで」

 甘ったるい声が次々とかけられて、耳がこそばゆい。つい肩を軽くすくめた。

「うん、あとでね。でも今は他の人の紹介もしなくちゃ。グウィオンとゲルダ様を知らない?」

「呼んでこようか。ただ、グウィオンは人前には出ないと思うよ」

「じゃあ、ゲルダ様だけお願い」

「仰せのままに、我が姫」


 あっさりと誘惑をかわすトゥランに、観衆はすっかり驚き入っていた。大切な壊れもののように抱き上げられ、至近距離で魅惑的な双眸に見つめられ、蜜のような言葉を囁かれておきながら、あっさりと話題を変えるだなんて、並の精神力ではない。人間離れしている、いやそもそも女神だった、さすがは女神だと、口々に讃えあっている。

 強烈なまでに印象的な美男子が女神の恋人だと判明してがっかりした者もいたが、それだけで興味を失うことはなかった。

 なにせ、こんなにも目に快い存在はない。視界にあれば目で追わずにいられず、その表情のひとつひとつにため息をつかずにいられない。

 その唇から繰り出される甘い言葉ときたら、自分に向けられたものでなくとも悶絶するような破壊力だ。いっそ、傍観者であることを感謝するくらいだった。まともに食らっては、正気を保てるわけがない。


 さらには、さっきから黙って様子を見ている謎の美丈夫も、目つきは悪いがよくよく見れば整った顔立ちをしていると、ひそかに目を付けたものもいた。

 しかも、女神自ら紹介したところによると王子であり、しかも国一番の戦士だというではないか。自分の娘が彼の目に留まることを夢見た親は一人ではなかったし、早くも気を引こうと笑いかける娘もいた。

 やがて現れたその母は、驕ったところのない、好感の持てる人柄だし、さらには魔術師までいるという。話に聞く限り、そうそうたる顔ぶれだ。

 誰もが、善き時代の到来を信じてやまなかった。

 神殿は主の帰還を喜ぶかのように輝き、空は見たこともない色合いで移ろい、どこからか美しい鳥が飛来して高く鳴いた。寒冷地には決して咲かないはずの花が咲き、その全てがよい兆しのように思われた。


 人々は急いで隣町へ戻ると、家族や知り合いに神殿で見たもののことを興奮気味に話し、広めた。

 数日後には大量の荷物が次々と神殿へと運び込まれ、あちこちに建物が建て始められた。神殿には見習い神官が増え、商人が入れ替わり立ち代わり顔を見せ、周辺の町や村の名士を名乗る人物が次々と挨拶に訪れた。神殿へは、参拝客が長々と行列を作っている。

 極北のさびしい聖地ヒルフェは、瞬く間に様変わりを始めていた。


(詐欺罪で訴えられないかしら)

 あんまり持ち上げられるので、トゥランはなんだか不安になってきた。何もしていないのに崇められると、何か悪事を働いているような気さえしてくる。後からひどいしっぺがえしが待っていそうだ。

 悩みは他にもあった。

 料理やら神殿の改装やら聖歌隊やら、面白そうだと思ったものを全くやらせてもらえないのだ。「女神さまの手を煩わせるわけにはいきません」の一辺倒で、何もかも遠ざけられてしまう。

 ウルは新たに編成される神殿の警備兵の訓練、ゲルダは町の女たちに都会風の刺繍を教えているのに、トゥランはしゃちほこばった名士たちに褒めたたえられるくらいしかやることがない。

 息抜きに散歩でもしようとアロイスを探したら、運悪くグウィオンと出かけてしまったらしかった。いつの間にそんなに親しくなっていたのかと驚くやら、誘ってもらえなくて寂しいやらだ。

 しかたなく一人であてもなく神殿をぶらつきながら、ため息をついた。


(こんな時、フィンがいたらな)

 物知りで趣味も合う友人の不在がつくづく惜しかった。彼となら何日だって本の話を語り明かせるし、冒険談を聞くのだって楽しい。退屈という言葉を忘れさせてくれる。

(というか、会いに行けばいいんだわ)

 ふと思いついたトゥランは、途端にわくわくしながら翼のことを思いだした。

 会いたいのなら、会いに行けば良い。なんて簡単なことに気づかなかったのだろう!

 揚々と広げた翼が軽やかに羽ばたくと、女神の姿はふわりと持ち上がり、神殿から影も形もなく掻き消えた。



 フィンを頭に思い浮かべる。姿、声、言葉、存在が発するもの全て。すると引き寄せられるようにして、翼が居場所を探り当てる。

 一瞬でこの世の果てまでも飛ぶ翼は、今回も望む場所へトゥランを運んでくれた。ただし目的地は間違いなかったものの、どうやらタイミングは最悪だった。

「フィン!」

 なにやら薄暗い物陰にしゃがみこんでいる友人を見つけて声をかけたのと、その向こうに誰かがいることに気づいたのは同時だった。

「誰だ!」

遠い人影が鋭く咎めると同時に、四方八方から神官が駆け寄ってくる。

 よくよく見れば、その場所には見覚えがあった。アロイスと探索した王宮内の神殿の地下、いつか星巫女に扮したグウィオンが星読みの杖を盗んだところだ。

 ともあれどうしてこんなところにフィンがいるのかと考える間もなく、追っ手から逃げ惑う羽目になった。なぜ追われているのかも分からないが、フィンが手をつかんで逃げるのだから仕方がない。


「女神殿、元気そうでなによりだが、さすがに神出鬼没すぎやしないか?」

「だって神だもの」

「なるほどね!」

 やけくそのように叫んだフィンは次の瞬間、げえ、と彼らしからぬ声でうめいた。

 後方には増え続ける追っ手の足音、そして前方には壁のように道をふさぐ神官たち。ウルのような手練れならば突破できるとしても、フィンにはさすがに荷が重い。その上、戦闘とは無縁のトゥランを連れている。

 トゥランだって、神官の群れを蹴散らす方法なんて思いつかないが、逃げることなら何より得意だ。

 そうだ、冷静に考えれば、足で逃げる必要などないのだった。

 ようやくそのことに思い至ったトゥランがふたたび翼を大きく上下させると、視界から追っ手の姿は消え、ぐるりと円形に取り囲む壁画が代わりに広がった。極北の聖光神殿、祈りの間だ。はっきりと思い浮かべたわけではなかったが、安全なところを無意識的に選ぶとき、咄嗟にここへ来てしまうらしい。


「た、助かった、ぜ……」

 フィンは息を切らしながら、ぺたんと尻もちをついた。つい先ほどまでつないでいた手が、じっとりと湿り気を帯びている。よほど冷や汗をかいたのだろう。

「ごめんなさい、見つかったのは私のせいよね」

「まあそうなんだが、助かったのもきみのおかげだからな。礼を言うよ」

「どうしてあんなところで隠れていたの? あっ、もしかして星読みの書を盗もうとしてた?」

 国宝とされる神具のうち、星読みの杖はトゥランの手の中にあるが、鏡と書はまだ王宮の地下に保管されているはずだ。特にフィンは特に星読みの書を読みたがっていたから、盗もうとしていても不思議はないと思えたが、それには心外そうに顔をしかめられた。

「さすがに国宝を盗もうとはしちゃいないさ。ちらっと読むくらいは許されるんじゃないかと思ったのは事実だが、それが目的だったわけじゃない。あそこにいたのは、とある密会を追っていたからだ」

「密会……!」

 なんとも心惹かれる単語だ。冒険小説を読むときのように、ついわくわくしてしまう。


「まず、今の王宮はかなり混沌としている。先日、王太子殿下が謎の病で亡くなった。今は第二王子と第三王子が母方の血統やら功績やらを盾に醜い王位争いをしているところだが、他にもいくつか勢力がある。王政を廃して議会の権力を強めようとする議長派と、女神による統治を目指す神政派だ。さらにはブラオトローンが着々と攻め入っている」

「お兄さまが亡くなったの?」

 自分が北の地でのんびりと仲間たちと過ごしているうちに、王宮では大変なことになっていたらしい。密会でわくわくしていた気持ちは、あっという間に吹き飛んでしまった。

「王太子殿下だけじゃない。高官が何人も殺されたり、行方不明になったりしてるし、妃の何人かは勝手に亡命してしまった。王宮は無法地帯さ。女神を追い出した罰だって言う人もいる」

「罰だなんて……」

 トゥランは頭を抱えた。いつの間にか統治者として祭り上げられそうになっていたり、罰を与えたことにされたりと、完全に名前だけが独り歩きしている。


「何かをしてもしなくても、結局私のせいになるのね」

 女神の存在も不在も、等しく争いの糧にされてしまう。今のトゥランには、かつてこの世を去った神々の絶望が分かる気がした。本人のあずかり知らぬところで、その名が汚され続けてゆく。

「失望したかい?」

 見透かすような目で、フィンが尋ねた。

「これが人間だ。どんなありがたい神の祝福や加護だって、台無しにしてしまう。あきらめて、見捨てたくなったかい?」

「……まるでそう言って欲しいみたい」

「ふふ、そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。きみはまるで、この世に投げかけられた大きな謎だ。この世にどんな答えをもたらすのか、あるいは見つけ出すのか、気になって仕方がない」

「……私もそちら側が良かったわ。謎は外から眺めるのが一番楽しいのに」

「ははっ、それは違いない」


 ひとしきり笑ってから、ふと何か思い出した顔になったフィンは、忘れかけていた本題を持ちだした。

「そういえば、密会の話だったな。結局ろくに話は聞けなかったんだが、気になることを耳に挟んだ。近いうちに、国宝の置き場所が変わるらしい」

「星読みの書と、鏡のこと?」

「そうだ。星巫女就任の儀以外では必要ないはずなのに、このタイミングで動かすのは妙じゃないか?」

「そうね……誰かが使いたがっているのかしら」

 とはいえ、トゥランにはそれがそれほど悪いこととは思えなかった。

 この世の真実が書かれた星読みの書と、未来を映す星読みの鏡は共に貴重なものではあるが、悪用できる類のものとは思えない。そこにあるのは単なる「事実」であって、それを捻じ曲げることはできないのだから。

「壊そうとしている可能性は?」

「あったとしても、あまり意味があるとは思えないわ。元々誰も知らない真実や未来を隠蔽したところで、何になるの?」

「それはそうだが……」


 フィンは気が気でなさそうだ。ならばとトゥランは、空中に手をかざす。

 何事かと目をあげたフィンの視界に、一冊の厚い本と鏡が現れた。

「…………トゥ」

 名前を呼びかけたまま、呆けてしまったフィンへ、無造作に手にしたものを差し出す。

「やっぱり、その気になればいつでも呼び出せるもの。気にすることないわ。少し様子を見てみたらどう?」

 星読みの杖と「翼」がそうであったように、星読みの書と鏡もトゥランの呼びかけに応じた。心の中でただ望んだだけで、忠実な僕が馳せ参じるがごとく、手の中にやってくる。


 星読みの書は夜空のように暗い色合いの表紙で、タイトル含め何も文字は記されておらず、手触りは絹のように滑らかだった。世界の真実すべてが書かれているというが、想像するよりもずっと薄くて軽い。片手で難なく持ちあがる程度だ。

 星読みの鏡は緻密な細工が施された美しい銀の皿にはめ込まれていて、本よりよほど重く感じる。未来を映すというが、ちらと見たところ、単なる鏡の役割も果たすようで、見慣れた自分の顔がこちらを見つめ返していた。

「そ……そんなに簡単に……嘘だろ」

 フィンは魂が抜けたように虚ろな目で、二つの国宝を見つめた。ずっと見たがっていたくせに、手を伸ばそうともしない。衝撃が強すぎたようだ。


「あのね、杖を初めて握った時も感じたんだけど、驚くほどしっくりくるの。最初から私のものだったみたいに。翼だって、生まれた時から背中に生えていたような気がするくらい。だから思ったの。もしかするとこの世に残されていた神具は全部、私のためにあったんじゃないかって」

 遠い昔、未来を予見したヒエロニムスがいたのだ。やがて生まれる守護女神のために、神々が神具を残したとしてもおかしくない。

 神殿に残された壁画も、予言書も、神具も、全てが自分のために用意されていたのではないかという気がする。それはほとんど、確信に近い感覚だった。


「変よね。そうならそうと、どうしてお母さまから直接渡してくださらなかったのかしら。どうして会って話してはいけないの? 力が充ちたら会えるなんて、そんなまどろっこしいことばかり……時間をかけないといけない理由があるのかしら」

 トゥランが、トゥラン自身の意志で選び取るのを見たいのだと、モリは伝えた。

 だが、選ぶとは何のことだろう? 何を、何から?

 肝心なことが、いまだに分かっていない。


「その書の中になら、書いてあるんじゃないか」

 震える声で、フィンが囁く。

 確かに、星読みの書の中には、全ての答えがあるだろう。全ての真実を記すという伝承の通りならば。

 唇を小さく歪めながら、そっと指を這わせた。

まだ何も知らない姫だった頃、憧れていたはずの本が、目の前にある。それなのに今はどういうわけか、その中身を知りたくないような気がする。

 本当に国宝だろうかと思えるような、一見地味な本が、誘惑と恐怖を同時にもたらしてくる。知りたいという欲望と、知るのが怖いという恐れに苛まれながら、トゥランはとうとう、はじめの頁に手をかけた。


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