初めての友達のような何か
トゥランは毎日うきうきと本を棚から抜き出していた。楽しかった夜会の体験に味をしめ、次に何を挑戦しようかと、アイデア探しに余念がない。
たとえば王宮内で行ったことのない場所を探検というのも面白そうだし、お忍びで市場を歩いてあれこれ買い物をするというのも楽しそうだ。料理やお菓子作りも楽しそうだし、お芝居や大道芸を見に行ってみたい。
小説からはそんなヒントがいくらでも出てくるのだが、難点はついつい本気で本を読みふけってしまうことだった。そもそもが、手元にあるのは何度も読み返すほど大好きな本ばかりだ。本来の目的を忘れてのめりこんでしまう。
どこかからファニーの驚いたような声が聞こえたのは、ヒロインが兄を亡くす悲しい場面を読んでいる時のことだった。うっかり一緒になって泣いていたので、頬を伝う涙をふきふき、何かあったのかと立ち上がる。
「どうしたの、ファニー」
「あっ、お待ちを!」
とっさに制止をされ、意味が分からないながらも立ち止まると、ファニーの声のするあたりから、男の声が聞こえてきた。だれか客人らしい。物心ついてからこのかた、官吏くらいしか訪ねる者のなかった宮だが、今日の相手は官吏ではなさそうだ。
「トゥラン姫殿下、おられますね?」
男が声を張り上げる。
「は……え?」
思いがけないことに動転しつつも、特徴的な甘い声音に、すぐさま相手が誰かを理解した。夜会で踊ったアロイスだ。
けど、どうしてこちらの名前を知っているのだろう? 名乗っていないはずなのに。
返事をするべきかどうか、するとして何を言えば良いのか、ぐるぐると考えるうち、アロイスはどんどん話しかけてくる。
「改めて挨拶をしたくて来てしまったよ。失礼は重々承知だけど、前もって言っておいたら会ってもらえない気がしたからね」
「…………」
「本当は殿下とお呼びするべきだし、敬語を使わないといけないんだけど、あの日のように話したくて……ね、少しだけ会ってはくれない?」
急なことに驚いたが、結局のところ、好奇心には抗えなかった。どうして自分を知っているのか、そしてどうしてわざわざ会いに来たのか、きいてみたくてたまらない。
自室から居間を通り抜けて、エントランスへ出ると、困惑した様子のファニーと、ぱっと表情を明るくしたアロイスが同時にこちらを見た。
(やっぱり、とてつもなく絵になる二人だわ)
まるで思いつく限りの美の要素を詰め込んだみたいな二人だ。見慣れた風景が、突然妖精国か何かに見えてくる。並んでいると迫力も倍になり、内から光を放つかのようだ。
「すごい、まぶしい」
思わず目を細める。
と、ファニーはそのままの意味で受け取ったらしく、「そうですか?」と窓の調光を確かめに行ってしまった。
「泣いていたの?」
察しの良いアロイスは、トゥランの目をのぞき込んだ。まばたきをする睫毛が長くて、こちらもつい見つめ返してしまう。近くで見ると、つくづく信じられないほど端整な顔立ちをしている。
「悲しい話を読んでただけ。それより、どうして私のことが分かったの?」
他の行事でこんな目立つ人と会った記憶はないし、夜会では仮面をつけていた上、他の誰とも話していない。身元がばれる心配は全くしていなかった。
正直、晴天の霹靂だ。
アロイスは悪戯っぽく微笑むと、懐から折りたたんだ紙を取り出した。開けば、ぎっしりと文字が並んでいる。
「……名前?」
「父上が招待した客のリストだよ。この中で、来るはずだったけど来なかった人がいたかどうか、父上に尋ねてみたんだ。そしたら、年齢や境遇からして、当てはまるのはきみしかいなかった」
「ちちうえ?」
ぽかんとアロイスを見上げたトゥランは、思わず口元を押さえた。
「うそ、まさか」
アロイスは胸に手を当て優雅に一礼すると、芝居がかった調子で名乗りをあげた。
「帝国議長トビアス・ラングの三男、アロイス・ラングと申します」
「そ、そうだったの……」
思わずその場に崩れ落ちそうになる。
馬鹿、馬鹿、大馬鹿だ。主催者の家族の顔も名前も知らないなんて。
「父上は、トゥラン姫殿下がいらっしゃらないのはいつものことだから、出席の回答自体が間違いだったのだろうと、気にされていなかったけどね」
でもその息子にはすっかりばれてしまったということだ。
まるで泥棒か何かのように紛れ込んで、料理を楽しみ、下手なダンスを踊った挙句に挨拶もなく帰ったことが。
何の言い訳もできないトゥランは、ひとまず笑ってごまかすことにした。
「あ、あはは……あの時はごめんなさい。ご当主にご挨拶もせずに帰ってしまって。第十四王女のトゥランです」
今さら遅すぎるお辞儀をしながら、さすがに嫌な汗をかいている。さぞ、礼儀知らずの非常識だと思われただろう。もしここに母がいたら、お説教されるに違いない。
けれど、アロイスはどうしてわざわざ会いにきたのだろう?
真意が分からないだけに、にこやかな表情さえ怖くなってくる。
「まさか、あの雲隠れ伝説の第十四王女殿下がいらっしゃるなんて、驚いたよ。でも、どうしてこっそり忍び込んでたの?」
「それは……人前に出るのは久しぶりだし、とりあえず夜会というものを観察するだけのつもりで」
少なくとも最初はそのつもりだった。途中から、観察という体はすっかり忘れてしまったが。
「その割には目立ってたね」
「目立ってたのはあなたが一緒だったからよ」
「一人で踊ってた時からかなり目立ってたよ。気づいてなかったの?」
「私、目立ってた?」
そんなに目立っていたとは知らなかった。周りのきらびやかな令嬢に比べれば、地味で目立たないだろうとさえ思っていた。
自分で気づかないうちに、そんなに目を引く無礼をはたらいていただろうか。
「あんなに楽しそうに踊る人を見るのは、初めてだったよ。それも、一人きりでとはね。目が離せなかった」
アロイスは優しく目を細めると、まぶしいものを見るようにしてトゥランを見つめた。どうやら、思っていたのと風向きが違う。無礼を責めに来たわけではなさそうだ。
「夜会は初めてと言っていたね。どうして急に参加する気になったの?」
「それは……」
本当のことを言うべきかどうか迷う。侍女以外に、自分のことを話したことがない。外の人間を信じるな、という母の教えもある。
けれど見たところ、アロイスは頭ごなしに叱りつけてくるような人ではなさそうだし、元々隠し事は得意じゃない。うまくごまかす方法も思いつかず、気がつけばすらすらと口に出していた。
「一年後に、星巫女になるの。だから、今しかできないことをしようと思ったの。夜会も知らずに星巫女になるのは損かなって思って」
それを聞いたアロイスの顔からは、陽が陰るようにして微笑が消えていった。
「星巫女に?」
やがて悲しそうに、ぽつりとつぶやく。
「知りたくなかったな。一年の間しか、きみに会えないなんて。陛下も酷な方だ」
心から悔しそうに見えたので、トゥランは嬉しくなった。侍女以外にも、惜しんでくれる人がいることが。
「でも、俺のことを嫌いだから逃げたわけじゃないんだね」
「嫌いだなんて」
考えたこともない。
急いで否定しつつ、次第に疑問符が湧いてくる。
夜会で偶然会って、踊っただけの相手だ。長年の友人というならともかく、ろくに会話もしていない小娘のことを、どうしてそこまで気にかけるのだろう。
少なくともトゥランにとってアロイスは、嫌いではないが好きでもない相手だ。あのまま二度と会わなくとも、辛いなどとは思わなかっただろう。
「良かった」
アロイスは深く息を吐いた。それから噛みしめるようにもう一度、「良かった」と繰り返した。
「俺は人に嫌われたことがないんだ」
「……へえ?」
話の脈絡が見えない。
「なぜか初対面でも好かれていることが多いし、相手がどんな言葉や態度を望んでいるかもだいたい分かる。だから、誰とでもそれなりにうまくやれてきた」
それがトゥランとどう関係するのか分からないが、ひとまずうなずく。
「でも、きみは未知なんだ。何を考えて、何を求めているのか分からない。あの夜初めて輝き始めた星のように美しくて、遠かった。手を伸ばしたら、離れていった。もっと知りたいと思ったんだ。それにもし嫌われたなら、その理由を知りたかった」
分からなくて当然だ。会ったばかりの人に、何かを求めたりしない。アロイスと踊っていた時に考えていたことなんて、ダンスのことばかりだ。
さっぱり理解できなくて、折れそうなほど首を傾げた。
「そんなことまで考えていたの? 初対面なんだから、分からないのは当然だと思うけど」
いつの間にか星にまで例えられていたとは、誰が予想できただろう。二人が交わした言葉も時間も、本当にささやかなものだったのに。
この人、ひょっとしてものすごく変わった人かもしれない。
自分を棚に上げて、そう感じ始めた。
「あなたは人気があるみたいだったし、たまたま踊っただけの人に何と思われようと、気にしなければ良いのに」
「俺は全ての人に好かれていたいんだ」
いっそすがすがしいほどに堂々と、そして切実にアロイスは言い放った。
「それに、俺はもうきみを好きになりかけてるよ。だから、きみにも俺を好きになってほしい」
言いながら、少しずつ近づいてくる。長身をちょっと折り曲げて、のぞきこむような上目遣いでこちらを見る様子はさながら子犬だ。人によっては、理性を吹き飛ばされてもおかしくない。
「きみの言葉には嘘がない。初めて会った時からそう信じられた。初めてなんだ、そんな風に思えたのは。だから俺も、きみの前ではありのままの気持ちだけを口にしたいと思うんだ」
この人の周りにはそんなに嘘つきが多いのかしら。
怪訝に思いながらとりあえずうなずくと、ますます情熱的にアロイスは身を乗り出してくる。
「もっときみのことを教えて。そうしたらもっと、きみの喜ぶことができるから」
単なる女好きかと思ったが、意外にもまなざしは真剣だ。何となく気圧されてしまう。生まれてこのかた、こんなに露骨に好意を示されたことなんてなかった。
「もしかして、会う人全員にこういうことしてるの?」
「そういうわけじゃないよ。でも、こちらから歩み寄らないと、近づけない人だっているからね。名前も教えてくれなかったきみみたいに」
最後は、ちょっと拗ねたように口を尖らせてみせる。
そうして子供のような表情を見せたかと思うと、照れ隠しのように笑ってみせる。艶めかしい流し目付きだ。
ありったけの魅力を惜しげもなくふりまいてくる美男に、トゥランは大いに感銘を受けた。
この人は、目標に向かってちゃんと努力をしている。こうしてわざわざ赴いて、自分の良いところを最大限に発揮してみせる。それも押し付けるばかりじゃなくて、相手を知ろうとする。
そういう姿勢は、素直に賞賛に値する。人づきあいの経験値が低いトゥランにとっては、お手本と言うべき存在かもしれない。何より、悪意のないところが良い。母だって、こういう人と親しくなるのを止めはしないはずだ。
「そうよね、どうせなら嫌われるより好かれた方がいいわよね。応援するわ!」
頑張って、とばかりに握りこぶしをかためてみせた。
「え……?」
アロイスはなにか当てが外れたのか、気の抜けたような声をこぼした。
「私はまだ友達もいないけど、もしできたらアロイスのこと、素敵な人だって紹介しておくわ。ダンスが上手で、どんな人が相手でも、好きになろうとする人だって」
「あ……ありがとう……」
アロイスは面食らった様子で、長い睫毛をしばたかせている。
「でも、全ての人に好かれるのは大変そうね。意地悪な人もいるし……私も好かれるコツを教えてほしいわ。あの日なんて、話してもいない人から嫌われていたみたいだもの。あっ、それからダンスも教えてほしい!」
おかしな方向に話が転がり始めたので、アロイスはしばしきょとんとしていたが、やがてくつくつと笑い始めた。
「きみって人は、本当に意味が分からないな」
「え……そう? どうして?」
「いや、いいんだ。そのままでいてほしい」
ひとしきり笑うと、笑いすぎたのか目元の涙をぬぐった。おもむろにトゥランの手を持ち上げると、ゆっくりと時間をかけて口づけを落とす。
ごく普通の挨拶だ。と思いきや、口づけたあとも手を離そうとしない。そのまま、もう片方の手をかぶせて包み込む。
「俺を好きになってほしくて来たのに、俺ばっかり好きになってるみたいだ。悔しいな」
触れ合う手のぬくもりに負けないような、熱っぽいまなざしが落とされる。
それにトゥランは、力強く答えた。
「そんなことないわ。私もあなたのファンよ。今なったの」
噛み合わない会話にも慣れてきたのか、アロイスは楽しげに微笑んだ。
「ありがとう。それなら、また会いに来ても良い?」
「もちろん。お客さんなんて久しぶり。いつだって暇なんだから、前触れもなくたって構わないわ」
「ずっと宮にこもっていると聞いているけど、訪れる人もいなかったの?」
「そうねえ、官吏がたまに様子を見に来るくらいかしら」
なんとなく世間話に移行したところへ、ファニーが茶菓子を用意してやってきた。
アロイスに椅子を勧めながら、トゥランは少しほっとしていた。ファニーが来てくれなかったら、いつ手を離してもらえるか分からないところだった。
(良い人なんだろうけど、何だかすごく距離感が近いわ)
不快でないのが不思議なところだが、こんなスキンシップには慣れていない。
おかしな人だと思ったが、考えてみれば、トゥランには友人といえる人すらいない。侍女以外とまともに話した経験が乏しい。
とすると、アロイスのような人も世間的にはそれほど珍しくはなく、いちいち戸惑うことではないのかもしれない、と思い直した。
やたらに距離が近いことと、じっと見つめてくる癖があることを除けば、アロイスは快い話し相手だった。社交界について質問攻めにしても、面倒がらずに教えてくれたし、合間にちょっとした噂話を面白おかしく話してくれた。
茶菓子を食べ終わって彼がいとまを告げる頃には、ほとんど友達のような気持になっていたくらいだ。さすが、全ての人に好かれたいと豪語するだけはある。とてつもなく人当たりが良い。
帰り際には、「また来るよ」と微笑む彼に笑顔を向けながら、ほんの少し、握られた手を握り返した。
◆
「ちょっと変わってるけど、良い人よね、アロイスって。今度お勧めの本を持ってきてくれるって。それに絶対に人のことを悪く言わないのよ。アロイスの口からきくと、王宮って聖人君子しかいないんじゃないかって思うわ」
ファニーが茶器を片づけていると、トゥラン姫はうきうきとした様子で話しかけてきた。
あっさり籠絡されてるじゃないの。
ファニーにはそれがどうも素直に喜べない。あのアロイスという男は確かに究極的に好感度の高い人物だが、それがかえって胡散臭く感じてしまう。
例えば自分なら、それを頭に置いて慎重に対応できるけれど、このトゥラン姫ではそうはいかない。できれば、初めての友人はもっと素朴で優しい、中流家庭の娘あたりが理想だったのに。
「チョロいにも程がありますよ、殿下」
「チョロい……? 何が?」
案の定、ファニーの心配をまるで理解していないトゥラン姫は、無垢そのものだ。無知とも言える。
でも、それに怒ったって仕方がない。魑魅魍魎の巣のような王宮にあって、奇跡的に純粋培養の箱入りお姫様なのだ。せいぜい汚れた色に染まらないよう、目を光らせておくしかない。
「まあ、百戦錬磨の人たらし相手に、経験値ゼロの殿下が太刀打ちできるはずもありませんけど。くれぐれも、親密になり過ぎないようにしてくださいね。ああいう手合いは、夢中になると痛い目を見ますよ」
「痛い目? どうして?」
まるで話の通じない鈍感ぶりに肩をすくめると、ファニーは考え直した。この調子では、いずれ痛い目を見るのはアロイス様の方かもしれない、と。