トゥラン、翼を取り戻す
朝、居間に向かうと、いつも待ち受けているアロイスの姿がなかった。彼がトゥランより遅く起きたことはない。お手洗いにでも行ったのかときょろきょろしていると、奥でゆったりと茶を味わっていたゲルダが、含み笑いで声をあげた。
「おはようございます、トゥラン様。アロイス様なら、外ですよ」
「おはようございます。外、ですか?」
散歩だろうか、でもそれなら誘ってくれそうなものだが、と考えながら窓際に寄ると、思わぬ光景が目に飛び込んできた。
朝の光の中、庭の開けたあたりで、二人の男が剣を交わしている。ウルとアロイスだ。すらりとした長身が軽やかに動き回るさまは、まるでぴったりと息の合った剣舞のよう。
「すごい……人間ってあんな動きができるのね」
剣先が向かってくるのを最小限の動きで躱し、踊るような足取りで間合いを詰めて反撃に出る。繰り出される剣戟を目にも留まらぬ速さで受け止め、一瞬の隙を突いて押し戻す。
めまぐるしい攻防は見ている方も呼吸を忘れてしまう。
聖堂を脱出する時、二人が剣を抜くところを初めて見たが、その時は二人とも剣よりも腕っぷしで道を切り開いた感がある。こうして本格的に剣をふるうのを見るのは、初めてと言っても良い。
「きれい……」
一分の隙もない動き。相手を害そうというのではなくて、純粋に技術を競っているのだと分かる。そのとんでもなく高い技量が、武術には疎いトゥランにも伝わってくる。
一見柔軟さとは無縁に見えるウルの、意外なほど流麗な身のこなしにも驚いたが、アロイスのいつにない覇気にも驚いた。腕が立つとは聞いていたが、まさか国一とまで言われる使い手のウルと、互角に渡り合うほどとは思わなかった。花ひらくように微笑むいつもの彼とは別人のようだ。
「リヒャルトとテオドールのようではありませんこと?」
隣にやってきたゲルダが、いたずらっぽく囁いた。いつぞやゲルダが貸してくれた、騎士小説の登場人物だ。名家に生まれた美しきリヒャルトと、農民に生まれながら騎士として名を馳せてゆくテオドール。二人の燃えるような対抗心と友情が華々しく描かれる。
「アロイスがリヒャルトで、お兄さまがテオドール?」
「ええ。見れば見るほどぴったりで、先日はうっかりアロイス様のことをリヒャルト様と呼んでしまいましたのよ」
「ふふ、本当に?」
思わず笑いだしながら、そう見えてしまうのも分かる気がした。
リヒャルトはアロイスよりも気位が高く、テオドールはウルよりも饒舌な印象はあるが、全体的な印象が似ているのだ。
「お兄さまは王子だけど、確かに性格や見た目は近いかもしれないですね」
「ええ、口が悪くて素直じゃないところがそっくり。どう見てもアロイス様の方が、お育ちがよろしいでしょう」
二人でくすくす笑っていると、フィンが自慢の長い巻き毛を撫でつけながら現れた。挨拶もそこそこにトゥランとゲルダの視線の先を見て、意外そうな声をあげる。
「なんと、珍しいですね。あの二人、いつの間に一緒に鍛錬する仲になったんです?」
「ウルから誘ったんですよ、他に相手がいないからって」
「あ、その言い方、テオドールっぽい」
盛り上がる二人に、フィンが問いかける。
「誰です、テオドールってのは」
「騎士物語の登場人物よ。とっても強くて、農民から国一番の騎士になるの!」
「へえ?」
いま一つぴんと来ない様子のフィンに、ゲルダが補足した。
「逆境の中でひねくれてしまって、口も人相も人当たりも悪いけれど、剣の腕だけで辻褄を合わせようとする男なんですのよ」
「なるほど、なかなか似てますね」
散々な言われようだ。
手厳しい二人の批評にふき出していると、ふいに外から悲鳴のような声が聞こえてきた。
何事かと窓を開けば、アロイスの頭に白い布がかぶさっている。
そして上の階から、使用人の女性の慌てた声がしきりに謝っていた。どうやら、窓辺にかけておいた洗い物が、風で飛ばされてしまったらしい。
「申し訳ございません! 取りに参りますから、捨て置いてくださいませ」
慌てふためく声に向かって、アロイスは白い布の下から笑いかける。
「ちょうど汗を拭きたいと思っていたんだ。ありがたく使わせてもらうよ」
「いえ、それはこれから洗うものですから、もっと綺麗な布を代わりにお持ちします!」
「いいんだ、これで十分だよ。取りに来なくて良いから、掃除を続けてくれ。それから、テーブルに置いたガウンの袖丈を少し短くしてくれるかな。前に頼んだのも素晴らしい仕上がりだったから、また君に頼みたい」
「か、かしこまりました!」
使用人の女性はほとんど絶叫している。申し訳なさと感激でいっぱいなのだろう。
「落ちたな」
フィンは確信に満ちた表情でうなずいた。
「あれで恋に落ちないとしたら、よほど素敵なお相手がいる女性くらいのものでしょうね」
ゲルダはいっそ憐れむようにため息をついた。
「昨日は、庭師のお爺さんが陥落していましたわ。気難しいお人のようでしたけど、お花の話で盛り上がってらして、最後には自慢の薔薇を見てほしいと目を輝かせて」
「それどころか、もはや屋敷中が陥落済みでしょう。最近は、お部屋の掃除当番にも熾烈な戦いが勃発していると聞きましたよ」
「まあ、では先ほどの方は明日から蹴落とされるかもしれませんわね」
「アロイス殿が許しても、仲間には許されないかもしれませんねえ」
いつの間にか屋敷内の人間関係に精通している二人に、トゥランは目を丸くした。一体どこで、そんな情報をつかむのだろう。
「知らなかったわ。アロイス、ここでもすでに人気者なのね」
争いが起こるほどとは恐れ入る。ここにもじきに、アロイス会のような組織ができてしまうかもしれない。
「さすが、余裕の無頓着ぶりだな。まあ、アロイス殿からすれば、人気があるのはもはや日常かもしれないが」
「アロイス様はあれだけトゥラン様に惚れぬいていらっしゃいますもの。気にする必要なんかありませんわ」
二人はそれぞれの言い方でとりなしてくれたが、トゥランはもともと、浮気の心配をしたわけではなかった。フィンの言う通り、アロイスが老若男女問わず慕われるのは、今に始まったことではないし、ゲルダの言う通り、アロイスの気持ちが軽薄なものだとも思わない。
「みんなに好かれるのは良いことだと思うわ。ただ、私っていつも、色んなことに気づくのが遅いでしょう。みんなはどうして、そういうことに気づけるのかしら、と思って……」
ファニーなどは察しの良い娘だが、それはファニーが特別なのだと思っていた。けれどこうして知り合いが増えてみると、明らかにトゥランだけが鈍いのだ。
みんなが当たり前に見えていることが、自分には見えていない。そう感じる時、たとえようもなく不安になる。
「習慣ですわ、トゥラン様」
人としても女神としても未完成な義理の娘へ、ゲルダは柔らかく微笑んで見せた。
「人に囲まれて生きていれば、自然とできるようになることです。私のように弱い立場の者からすれば、生きるために必要な技術でもありますが、トゥラン様にはこれまで必要がなかった。それだけのことですわ」
ゲルダが嫌味で言っているわけではないことは、分かっている。
それでも何か楔を打ち込まれたような気持ちで、トゥランはうなだれた。
「私、恵まれていたんですね」
姫としての役割をほとんど果たさずに安穏としていられたのは、本当に奇跡のようなことだったのだ。ゲルダやウルは不遇の中にあったようだし、名家に生まれたアロイスにはアロイスなりの苦悩があったのに、トゥランは昼寝と読書と空想で若さを食いつぶしていたのだから。
もしかすると、父王がトゥランに無関心でいたのは、勢力争いから遠ざけておくためのことだったのかもしれない。
そんな気遣いをしてくれる人という印象もないのだが、今となっては、そんなことを想像してみたりもする。あまりに不自然な、母が不在の数年間の理由が知りたくて。
「でも、それはもう過ぎたことです。私はもう、世間知らずの引きこもり姫じゃない。みんなと同じものが見える目を持ちたいんです」
自分だけ知らなくて、取り残されるのは嫌だ。後からあれこれ後悔するのも。
「見えるさ。君の目が悪いわけじゃない。知ろうとすれば、見えるようになるものだってある」
知りたがり屋のフィンが言うと、何やら説得力がある。
トゥランはけぶる青褐色の瞳をしばたかせて、大きくうなずいた。
「そうよね。今日からみんなのことを穴が開くほど観察してみる!」
「ああ、是非とも俺の素敵さを一つ残らず目撃し、後世に広めてくれ」
「組織」の首領と構成員でもある二人がこつんと拳を突き合わせると同時に、鍛錬を終えたアロイスとウルが姿を現した。トゥランの目にはすっかり、騎士物語の英雄二人に見える。元々整った容姿が、今朝はますます光り輝くよう。
「何だか知らんが、くだらんことを吹き込むな」
半端に聞いていたらしいウルが、挨拶もなしに文句を言う。凄まれたフィンの方からは、かしこまりましたぁ、と間延びした声。
さすがに怒られ慣れたのだろう。出会った頃のように、いちいち直立したり声を裏返したりはしない。
「アロイス、お兄さま、おはよう!」
「おはよう、僕の姫君」
常春の甘い声音が降ってくると、胸の中がむずむずとして、新芽が芽吹く。つぼみを成して、花を咲かせる。アロイスの傍にいると、心に花が絶えない。
「驚いたわ、アロイスってあんな風に戦うのね! いつもと違う人みたいだった」
「怖がらせてしまった?」
「ううん。物語の騎士様みたいで素敵だった。ゲルダさまとそう話していたの」
「素晴らしい腕前で惚れ惚れいたしましたわ」
ゲルダが夢見るように口を添えると、ウルは口元を不機嫌そうに曲げて、部屋を出て行ってしまった。二階へのぼっていくところを見ると、着がえでもするのだろう。
相変わらず、アロイスの話題になると面白くなさそうな顔をする。手合わせを申し込むあたり、本気で嫌っているようにも見えないのだが、もはや癖なのかもしれない。
その背中を見送って、アロイスは気を悪くした風もなく微笑む。
「素晴らしいのはウル殿下です。さすがは国一の剣士と謳われた方。実戦でしたら、勝ち目はありませんよ」
「そうなの? 互角に見えたのに」
「僕は全力を尽くしたけど、殿下はそうではなかった。それくらいのことは分かるよ。力の底の見えないところが、恐ろしいくらいだ」
なぜだか声を低めて、褒めるというよりは悼むような口ぶりで言う。
「あのような力を得るだけの理由があったのでしょう。自然に生まれる力など、人にはありえませんから」
「あの子はただ、負けず嫌いなんですよ」
ゲルダは肯定も否定もせずに笑ったが、きっとアロイスの言うことは正しいのだろう。力を振りかざさずにいられない理由が、ウルの中にはあったのだろう。
そして、全ての力に理由があると前提するならば。
「アロイスにも、あったのね」
つられてトゥランも声をひそめた。するとアロイスは困ったように眉根を下げて、白状した。
「僕を愛してくれる全ての人を守りたかったんだよ。今思えば、思い上がりだったけどね」
アロイスらしい願いだ。それに、願いのために努力を惜しまないのも、彼らしい。あの優美な剣術は、生半可な努力で得られるものではないはずだ。
「でも今は……きみだけを守りたいって思ってる」
長い指が伸びて、うすく開いたままのトゥランの唇をゆっくりとなぞった。隙あらば頬やら髪やら手やらに伸びてくる、触れたがりの指だ。
何となく落ち着かない気持ちになるけれど、嫌ではない。アロイスがしてくることが、嫌だったことは一度もない。
「嘘よ。アロイスは目の前に困った人がいれば、必ず助けてしまうと思うわ。一人だけに優しくするなんてできないんだから」
「そんなことはない。きみ以上に大切なものなんて、世界のどこにもないよ」
なぜだかむきになるアロイスがおかしくて、触れたがりの指を上から押さえてつかまえた。あるいは言葉よりも雄弁に語りかけてくる指をたしなめる。
愛してる。大好きだよ。
そう言いたいのは分かってる。もう十分伝わっているのだから、こんなことでむきにならなくても良いのだと。
「比べなくたっていいのに。大切なものがたくさんあるって素敵よ。一つだけでなくたって、その手につかめるだけのものをたくさんつかめば良いと思うの」
浮気の心配なんかしない。だから、念押しのように会うたび愛を告げなくたっていい。
信頼を伝えたつもりだった。ありのままのアロイスでいてほしいのだと、トゥランしかない人生を送らないで良いのだと、願ったつもりだった。
けれどその言葉を境に、二人の間にあった甘やかな雰囲気は、波の引くようにして遠ざかっていった。
まばゆい新緑の瞳から、光が失われてゆく。触れたがりの指が力なく垂れ、やがてトゥランの手の中から離れていった。
「きみは……いや、そうだね。きみはそういう人だった、最初から。変わったのは僕だ。変わってしまったんだ。全てを大切にできる僕ではなくなった。たくさんのものを守れる僕でもなくなってしまった」
様子がおかしい。
「……どうしたの、アロイス」
伸ばした指は届かなかった。その前に、アロイスが身を引いたのだ。
「少し、汗を流してくるよ。朝食は先に食べていて」
何気なさを装った声だった。でもこれまでは当然のようにつながれていた手と手の間に、薄い隔たりができてしまったような気がしてならなかった。
宙に浮いた手をそろそろと下ろして、恋人のいなくなった戸口を見つめる。
「アロイス、変だった」
急に落ち込んだように見えた。一体何が悪かったのだろう。思い返してみても、分からない。
“あなたはそういう人”とはどういう意味だろう。
「私、変なことを言ってしまった?」
問いを投げられたフィンとゲルダは、顔を見合わせた。その目線のみで通じ合ったのか、口を開いたのはゲルダの方だった。
「愛の形は人それぞれですから。うまく噛み合わないこともあります」
そう、何かが噛み合わなかった。それは分かる。
でも、何が?
「自分が変わってしまったと言っていたけど、私にはそうは思えません。アロイスはずっとアロイスです。優しくて頭がよくて物知りで、人に好かれて……強くもあって。知れば知るほど素敵なアロイスです。変わってなんか……変わったといえば、環境くらい。それが辛いのかしら? やっぱり前みたいに、たくさんの人に囲まれている方が幸せなの?」
「そんなわけありますかい」
おかしな突っ込みを入れながら、フィンはため息をついた。
「恋愛に正解も不正解もないが、今のは間違いなく不正解だ」
妙に言い回しがややこしいので、つい頭の中で繰り返してしまう。
「だがな、女神殿。恋に関する謎については、自分自身で解き明かさなくちゃいけないんだ。周りがどういう言ったからといって、何の価値もないんだからな。何度もすれ違い、きみとアロイス殿二人だけの答えにたどり着いて初めて、本当の恋人って言えるもんさ」
つまりはまだ、本当の恋人ではなかったのか、と愕然としながら、顎に手をあてて考えた。
「今のが不正解だとすると、もう何も思いつかないわ」
「まて、まだあきらめるな。迷宮入りには早すぎるぞ」
言われずとも、あきらめるつもりはない。今のところ、途方に暮れているのは確かだけれど。
「その様子だと、フィンもゲルダ様もアロイスの言った意味を分かっているのね」
ちらと見上げると、微妙な温度の笑みが答えだった。
また、自分だけが分かっていない。
ゲルダはさっき、経験だと言った。
確かにトゥランは人づきあいの経験が浅い。侍女に囲まれた静かな生活は、なぜだか誰にも脅かされることがなかった。気の進まぬ行事は欠席し、ろくに交流もせず、年に数回しか人前に出なくとも、その存在は王宮の片隅に許され続けていた。
その結果がこれだ。
引きこもりの原因となった母の意図はよく分からないが、ぬくぬくと生きてきた代償と言えるかもしれない。
それならば、仕方がない。ずっと楽をしたいといっても、そうはいかないのだから。
「アロイスと、話してきます」
考えて分からないなら、きくしかない。
ごく単純な思考だった。うまくいけば、浴室へ向かう前につかまえられる。
けれど居間を出たところで、ただならぬ様子のファニーがやってきた。単に朝食を呼びに来たとは思えぬ形相だ。
「トゥラン様、皆さまは居間ですか?」
「ゲルダ様とフィンがいるわ。お兄さまとアロイスは部屋か浴室だと思う。何かあったの?」
「ブラオトローンが攻めてきます」
ごく端的に聞かされた報告は、思いもよらぬものだった。トゥランはかえって驚くこともできず、ぽかんと口を開けて侍女の話を聞いていた。
「すでに国境を越えたとの知らせもあります。ここはブラオトローンから近い。場所を変えるべきです」
声が聞こえていたのだろう、血相を変えたフィンとゲルダが飛び出してきた。
「先王の置き土産ですか?」
「おそらく。ところでリタはどこです?」
「たぶん寝てます。呼んできますよ」
フィンとファニーの間では、すでに事態が整理されているらしい。トゥランにとっては、とてもそうはいかない。
ブラオトローンは北方の大国だ。近隣の小国を多く従えており、父王でさえ安易に手は出してこなかった。こちらミュトゥスの方でもめぼしい中小国の征服を終えて、満を持して北方征伐を始めるという話があったはずだ。ウルも出陣する予定だった。
しかし、その動向を知っていたブラオトローンが、ミュトゥスの政変を知って逆に攻め込んできたのだとしたら?
分が悪いのは間違いなく、ミュトゥスの方だ。
使用人が慌ただしく往来する中で、自室にいたリタやウルやアロイスがファニーに呼び立てられ、次々と降りてきた。ブラオトローンの話を聞いて、一様に頭を抱える。
「結果的に、最悪の事態になったってことか」
「向こうとしては、こんなチャンスもないだろう。王を失って我が国は混乱を極めている上に、国一の戦士であるウル殿下も軍にいない。おそらく議長が実権を握ろうとしているだろうが、さすがにブラオトローンが相手ではな」
「あっさりと陥落する可能性もある」
「ひとまず急いで移動しましょう。国境はもう破られたかもしれません。西の別荘なら、当面は大丈夫かと」
「馬車は全員分あるのか?」
「手配中です。二台まではすぐに出せますが、使用人の分もありますから。皆さんも荷物をまとめてください」
「準備ができたらまたここへ集まろう」
早口に情報を展開し、再び散じる。
まとめるほどの荷物も大して持ち合わせていないのだが、自室に置いてあるヒエロニムスの予言書を、星の杖と同じ空間へしまい込んだ。
無意識にそうしてから、ふとひらめく。
今の自分は、その気になれば空間を自在に移動することができるのかもしれない。あるいは、「翼」があれば。
「ファニー、馬車は三台で間に合うかもしれないわ」
ちょうど廊下を駆け足で通りかかったファニーに呼びかける。
「どういうことです?」
足を止めたファニーに、説明する間も惜しんで、トゥランはひとまず、試してみることにした。仮定など何の役にも立たない。
星の杖を取り戻した時、自分は何をしたのだったか。
呪文を唱えたわけでも、偽の星巫女を倒したわけでもない。ただ、祈ったのだ。トゥランが女神としての在り方を取り戻したとき、杖もまたその手に返ってきた。
だからトゥランは再び、祈った。大切な人たちが、安全な場所へゆけるように。それから、この地に無用な血が流されないようにと。
直後、背中に違和感を覚えて、よろめいた。何かが、芽吹くようにしてめきめきと背中から生じてゆく。
翼だ。それも廊下に収まりきらないほどの大きさの両翼が、いっぱいに広がっていた。
見た目の割に、重さはあまり感じない。あるいは手足のように、自分では意識しないだけなのかもしれない。
その大きな翼が、風を捉えるためのものでないことに、トゥランは気づいていた。この純白の翼が孕むのは、人の目には捉えることのできない世界、空間と空間の狭間の大気だ。そこに大気があればの話だが。
戻ってきた、という気がした。星の杖を手にした時と同じだ。
本来自分にあるべきものが、ようやくこの身に戻ってきた。翼もその一つだ。
偽の星巫女……グウィオンが持っていた神具である「翼」よりも、ずっと大きい。まさしく女神の翼だ。
「トゥラン……様」
ちょうど廊下に出てきたゲルダが息を飲む。奥では使用人が、持っていた荷物を取り落とした。
トゥランは翼をうごめかすと、脳裏にある場所を思い浮かべた。
これまでに一度も行ったことのない、だがいつか行くはずだった場所。北の果て、極北の聖光神殿を。
翼が羽ばたき、からだを持ち上げる。
瞬間、その姿はエルスター家の屋敷から消え失せていた。




