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魅惑の貴公子と迷える月の夜

14話の前に位置する、アロイス視点の話です

 夜会にはいつも、早すぎず遅すぎず、程よい時間に行く。着くのが遅すぎると、当然話ができる相手は減ってしまい、ひそかに涙を流す令嬢が増えてしまう。かといって早く行くようにすると、令嬢たちも早く来ようとするので、招待主の負担になりかねない。

 家を出る時間一つにも、アロイスは細心の注意を払う必要があった。

 かつてないほど王族の多い社交界だが、いま最も注目を集めているのはアロイスと言って良い。絶大な発言力を持つ議長の息子である上に、容姿は一目見たら誰もが夢にまで見るというほどの美しさで、さらには人当たりが良いときている。加えて未婚だ。

 ご令嬢の中では、数ある夜会もアロイス・ラングと会う名目でしかないと考える者までいる始末だった。もちろん令嬢の親からしても申し分ない結婚相手なので、熱を上げる娘を宥めるどころか加勢して、我先に音楽会やサロンへ誘い、競うように贈り物をし、いっときは収拾がつかない事態になりかけたほどだ。

 しかしどんな美貌の令嬢にも、家柄の良い令嬢にもアロイスはのめりこむことはなく、誰に対しても平等な態度を崩さなかったので、その狂奔はやがて落ち着き、アロイスは自他ともに「みんなのアロイス」として認められていったのだった。


 いつの間にやら発足した「アロイス会」による秩序により、アロイスの身辺は次第に落ち着きを取り戻したが、それは令嬢たちがアロイスをあきらめたと同義にはならなかった。

「アロイス様、今宵はわたくしにも時間をいただけて?」

「わたくしもお願いしたいですわ。ご贔屓の仕立て屋を教えていただけと、兄がうるさいんですのよ。いつも素敵なお召し物ですもの」

「実は今日、誕生日なんです。どうか、素敵な思い出をいただけませんか」

 フロアに出れば、こうして誘いが引きもきらない。

 通常、女性から積極的に誘うことははしたないと言われているのだが、アロイスについては例外だ。女性側から誘わなければ、永遠に踊ることなどできない男である。


「素敵なお誘いをありがとうございます、エーリカ嬢。ワルツがお上手でしたね。お相手に選んでいただけるとは光栄の至り。最初のワルツで改めてお誘いにあがります。

 ペトラ殿下、私の秘密を暴きにこられるからには、あなたのとっておきの秘密も一つ、教えていただけますか? 後ほど、楽しみにしていますよ。

 シャルロッテ嬢、お誕生日おめでとうございます。あなたという方がこの世に在られることを、心より嬉しく思います。今宵初めのダンスをお相手いただけますか?」

 令嬢たちが次々と頬を染めてうなずくのを、さらに遠くから様子をうかがう令嬢たちが見つめている。隙あらばあとに続こうと機を探るまなざしは、もはや敵の隙をうかがう戦士のごとしで、邪魔するものは射殺されそうな視線を浴びる羽目になった。


 恋の戦士たちに完全包囲されているアロイスは、最初から最後の曲までほとんど休みなく踊るのが常だった。ワインを手に談笑などしていると、すぐに次の誘いが来てしまうので、アロイスを独占するには踊るしかないのだと、令嬢たちも分かっている。

「何か気になることがありまして? 今日は気が散じておられるご様子」

 軽やかなワルツに乗って足を運ぶ中、エーリカ嬢がうらみっぽく見上げてきた。

 ひそかにあたりを見回していたのを気づかれたらしい。慌てて気を引き締める。


「申し訳ありません。あなたとの貴重なひとときを無駄にするつもりはなかったのです」

 そっと手に力をこめると、エーリカ嬢は満足気に頬を緩ませた。

「構いませんわ。でも、何がお心を惹きつけたのか教えていただける?」

 甘えた上目遣いに微笑でこたえながら、アロイスは嘘ではないが真実でもない言葉を口にした。

「この上なく素晴らしい内装に素晴らしいお料理ですが、やはり活き活きと動き笑う貴き方よりも美しいものはないと……そう感じ入っておりました」

「まあ」

 エーリカ嬢は、自分のことを褒められたのだと思って笑みを深める。


 ちくりと良心が痛んだ。

 本当は、トゥランが現れないかとフロアを見回していたのだ。あの無軌道に輝く小さな星がいないと、絢爛に飾り立てたフロアも色あせて見えるような気がして、どこか虚ろな気持ちになっていたなどと、どうして言えよう。

 けれど、だからといって無用な期待を抱かせる必要もなかった。熱くふくらむ令嬢の恋心は、報われることなどないのに。


「つい舞い上がってしまいそうですけれど、どなたにも優しくされるアロイス様ですもの。お言葉通りに受け取って良いものかしら」

 そう口では言いながらも、エーリカ嬢の表情は自信にあふれていた。アロイスの好意を確信しており、その上で「あなたにしか言わない」と言って欲しいのだと分かる。少し前までのアロイスなら、ためらわずに期待に応えようとしただろう。

「この言葉は貴方だけのものであると、お約束いたします」

「あなたほどの美しい方が、自信を持てないのですか?」

「どうしたら真心を信じていただけますか」

 次々と甘い言葉を囁いて、恋人のような雰囲気を楽しんだだろう。好意を寄せられることの喜びに満足しただろう。

 けれど今は、咄嗟に言葉が出てこない。寄せられる好意が本当に嬉しいのかどうか、自分の心に自信が持てない。


「信じさせてくださいませ、アロイス様。わたくしのおそれや疑いが馬鹿げたものだと……わたくしにくださる笑顔や言葉が特別なものだと思わせてくださいませ」

 エーリカ嬢は夢見る瞳を潤ませて、そっと頬をアロイスの胸元に寄せた。衆人の目の中、婚約しているわけでもない未婚の娘としては大胆なふるまいだ。

 たしなめるべきかと迷っているうち、すぐそばからグラスの割れる音と、どよめきが聞こえてきた。どこかの令嬢が立ちくらみを起こしたらしい。

「失礼を」

 エーリカ嬢の元を離れて駆けよれば、シャルロッテ嬢が倒れており、近くの紳士に介抱されていた。


「どうされたのですか」

 声をかけると、介抱する男性が答えるよりも早く、シャルロッテ嬢が「ん……」と小さくうめいた。意識はあるようだ。見れば血色もそれほど悪くない。

「アロイス様……アロイス様ですか?」

 ちらりと薄く目を開けたシャルロッテ嬢の様子を見て、介抱していた男性はどこか白けたような顔になり、「あとはお願いします」と立ち上がって去ってしまった。

 またか、とアロイスの心中にはもやがかかる。

 こういうことは、これまでにも何度かあった。倒れるふりをして気を引こうとするのは、令嬢たちの中で一種の流行になっているのだ。想い人の注意を引けるだけでなく、その腕に抱かれることもできるのだから。


 おそらく演技なのだろうが、さりとて突き放すわけにもいかない。そうまでして気を引きたいと思う女心を無下にはできない。

「奥の部屋で休ませていただきましょう。立てますか?」

「どうかしら……胸が苦しくて」

「では、失礼して」

 仕方なくシャルロッテ嬢を抱き上げると、額をよろりと胸元に押し当ててきた。

「アロイス様……」

 うっとりとした声が名前を呼ぶ。

「いつも一番に駆けつけてくださるのね」

 最初に助けてくれた紳士のことは、記憶から抹消しているらしい。

「夢のようですわ。こうしてあなたの腕の中にいるなんて……最高の誕生日になりました」

「この腕にそのような価値があるとは思えませんが」


 奥の部屋へ踏み入れつつ、つい本音をぽろりとこぼせば、シャルロッテ嬢は熱っぽく訴えた。

「ご自分の価値をご存じありませんのね。でしたら教えてさしあげます。わたくしがどんなにか焦がれていたか……そのために、どんなに苦しんできたのか」

 弱弱しく見せかけることも忘れて恋心を打ち明けようとしたその時、シャルロッテ嬢の熱望は砕かれることになる。

「まあ、シャルロッテ様、どうなさったの?」

「おかわいそうに。熱がおありになるんじゃないかしら。うちの馬車をお貸しいたしますわ」

「ええ、早くお休みにならないと」

 どやどやと追いかけてきたご令嬢たちが取り囲み、アロイスを押しのけるようにしてシャルロッテ嬢をカウチに寝かせ、見たこともないほどてきぱきと介抱を始めたので、もはや話しかける隙もない。

 それどころか「少し服を緩めてさしあげたいので、殿方はご遠慮していただけますかしら」とすました顔で言われて、部屋からも追い出される形となった。


 シャルロッテ嬢はさぞ悔しがっているだろうが、これがアロイス会の「秩序」だ。抜け駆けを目論めばこうして妨害され、引き離される。

 アロイスは黙って部屋をあとにした。

 これまでも、「秩序」に口出ししたことはない。トゥランはアロイスに恋人ができないことを心配してくれたが、アロイスは元々、誰か一人を選ぶつもりなどなかった。誰のものでもないことで守られる平穏の中にいたかったのだ。

 トゥランに会うまでは。

 

(……トゥランに会いたい)

 足を早めたアロイスは、フロアには戻らずに外へ向かった。無性にこの場を離れたかった。

 しかし誰にも見られずにというわけにはいかず、呼び止める声がある。

「もうお帰りに? どうかされまして?」

 ディアナだ。

 正直、今会いたくはなかった。賢い彼女には、うわべのごまかしは通じない。

 が、見つかってしまったものは仕方がない。可及的速やかな逃亡をあきらめ、苦労して笑顔を作った。つかまったからには、せいぜい不自然に思われないようふるまわなくてはいけない。


「少し、外の空気を吸おうかと。ご一緒にいかがですか」

「いいですわね」

 当然のような顔で、ディアナはついてきた。誘われるのを待っていたように。

 人気の少ないテラスに移ると、静かに語らっている人影が他にもあった。そのまま庭へ降りて、月明りの庭園を歩く。昼間とは趣の違う庭園は幻想的で、ぼうっとしていると迷い込んでしまいそうなほど入り組んでいる。

 適当にぶらついてから戻るつもりでいたが、ディアナはふと足を留めて、いきなり核心をつく問いを投げかけた。


「このところ、夜会でも気がそぞろでいらっしゃいますのね。もしや、雲隠れの姫君に惹かれていらっしゃるの?」

「…………」

 まさか、こうも直截的に尋ねられるとは思っていなかった。思わず言葉を失う。

 しかしそれを肯定と受け取って、ディアナは小さく笑った。

「王族らしくない、と申し上げては失礼かもしれませんけれど、稀な雰囲気を持つ方ですもの。きっとそれで特別な何かを感じられたのね」

「…………」

 彼女にしては無遠慮な切り出し方の真意をうかがっていると、ディアナは満ちる月を大きな瞳に映しながら、きっぱりと言い放った。


「嫌われる覚悟で申し上げますわ。アロイス様は、無垢と無知をはき違えていらっしゃいます」

「……なぜそうお考えに?」

「あのお方が少女のように無邪気でいらっしゃるのは、大人になる機会がなかったからです。わたくしは確かにあの方のように無垢ではありませんが、それはどなたにとっても同じこと。あの方もいずれ少女のままではいられなくなります。時間の問題ですわ」

 ディアナの言い分も、理解できた。

 トゥランは幼い。ゆえに何ものにも染められぬまばゆさがある。

 けれどその奥には、誰にも曲げられないものがあるような気がする。不可侵にして、神聖ですらあるような何かが。それは単なる無垢とは違ったもので、いまだ正体の分からぬ魅力でもある。


「確かに、あの方はまだ幼いところがおありです。でも、あの方のありようは、時を経ても変わらぬもののようにも思うのです」

 そう口にしながら、アロイスはどこか、何かからほどかれたような心持になった。自分の中で絡まっていたものが、するすると一本の線になるように。

「ディアナ嬢。私は定めを受け入れようと努力してきました。自分に求められることをし、あらゆる人の歓心を得ようとしました。でも今では、そんなことの何もかもが、愚かだったように思うのです」


「錯覚ですわ」

 間髪入れずに、ディアナは断言した。

「一時の気の迷いに、全てを否定されるおつもり? 貴族として求められるあらゆる技を磨き、心を磨き、善き人になろうとされてきたのに、それが愚かだったとおっしゃるの? そんなあなたを愛した人たちも、愚かだと思っていて?」

 次第に強まる語気に、アロイスは目を見開いた。

 ディアナが感情をあらわにすることは滅多にない。最後に怒りを見せたのは、ほんの少女の頃までさかのぼるほどに。

「怒って……いらっしゃるのですか」

 意外だった。彼女が自分を憎からず思っているのは知っていたが、他の令嬢たちと同じく、戯れの疑似恋愛なのだろうと思っていた。失ってもさして惜しくもない、手慰みの玩具のようなものだとばかり。


 ディアナは悔しげに視線を外すと、拳をかたく握りしめた。

「いっとき心惹かれるだけの恋ならば、気にかけませんでしたわ。目新しいものは魅力的に映るもの。ですが、自分を見失うほどに溺れてしまうのならば、それはもう、あなたを惑わす悪魔です」

 凛としたディアナの声音には、相手を圧する力がある。凛然とした態度に気圧されて、勝手に自分の落ち度を探し始めてしまうような。

 強い語調にとまどうアロイスに反論の間も与えず、薔薇色の唇は続ける。

「わたくし、決めました。悪魔からあなたを取り戻します。自分を貶めずにいられないような相手が、運命の相手であるはずがありませんもの。わたくしはあなたを、これまでのあなたを慕わしいと思っています。アロイス様の魅力に最も気づいていないのは、アロイス様ご自身ですわ」


 月下のディアナは美しく、その言葉は情熱と決意に満ち、闇夜の道しるべのようにすっくと立っていた。思わず手を伸ばし、導きを求めたくなるような姿で。

 もしもトゥランに出会う前の自分だったら、この言葉を嬉しく思ったのかもしれない。幼い頃からよく知るこの令嬢に対して、新鮮な感情を抱いたかもしれない。

 けれどそれはすべて、もしもの話だ。現実はそうじゃない。


「あなたほどの方にそこまで想っていただけるとは、私は世界一幸運な男に違いありませんね」

 耳ざわりのよい言葉を口にしながら、アロイスの心は沈んでいった。

 嘘をついている自覚があった。

 目の前の女性をむやみに喜ばせることに何の意味があるのか、急に分からなくなった。好意に好意を返せばお互いに幸せなのだと信じてきたのに、今のアロイスは幸せではない。

 好きだと、慕っていると言って欲しいのはディアナではないからだ。ここにはいない、変わり者の姫の唇以外からの言葉を、もはや素直に嬉しいとは思えないからだ。


「……本当にそう思っていらっしゃるようには見えませんわね」

 呟いたディアナはどこか傷ついているようにも見えた。

 しかしそれを悟らせまいとするのか、気丈に声を張り上げる。

「舞い上がるような言葉を下さる時でも、いつも真心が感じられましたのに。心にもない言葉など、少しも嬉しくありません。これも全て、あの悪魔のせいですのね」

 憎々しげな言い草を放っておけず、さすがにアロイスもたしなめた。

「矛先を間違えないでください。責めるべきは私です」

 しかしトゥランをかばったと見るや、ディアナの態度は硬化した。

「間違えてなどいません。人を悪い方に変化させるのが悪魔です。でも、聡いあなたならじきに気が付きますわ。あの方とは決して相容れることなどないと。わたくしたちとは、あまりに違いますもの。陸の生き物が水底の生き物に恋をするようなものです」


 トゥランが悪魔であるとはどうあっても思えないが、最後の例えは真に迫っていた気がして、アロイスは曖昧に微笑んだ。

 水底の生き物と言うよりは、空の星のような方だが――

 輝くような笑顔を思い出すと、いっそう会いたくなってしまって困った。隣に人がいるというのに、頭の中が彼女の顔や声で埋め尽くされてしまう。脈絡もなく、彼女と交わした会話が思い出されて、たった今話していることを忘れてしまいそうになる。

 なるほど、悪魔と言いたくなる気持ちも分からなくはない。こんな風に、抗えぬ力で翻弄されては。


「溺れ死んだら笑ってください」

「溺れる前に引きずりあげてさしあげます」

 冗談のようでもあり、宣戦布告のようでもある言葉を交わしながら、アロイスは変わりゆく己の心と向き合っていた。

 もう、全ての人に等しく心を配ることはできそうになかった。

 どこにいて、誰といても、心に浮かんでしまう人がいる。あらん限りの時と想いを注ぎたい人がいる。何もかもを手放してでも、そばにいたい人がいる。

 会えない時間が増えるほど、他の誰かと話すほどに、その存在は大きくなった。そんな歪で乱暴で身勝手な感情に振り回されることが、少しも嫌ではなかった。

 そんな、初めての恋に落ちていた。

 

 やがてフロアに戻ると、令嬢たちが花に群れる蜜蜂のように集まってきたが、その中にエーリカ嬢とシャルロッテ嬢の姿はなかった。恐らく「説得」されたのだろうが、どんな気持ちで夜会をあとにしたのかと思うと、いたたまれなかった。

 戯れであれ、本気であれ、打算であれ、恋を失うのは苦しいに違いない。いっそ出会わなければ、とさえ思うのかもしれない。アロイスの知らないところで、そんな風に無惨に散った恋はいくらでもあったのかもしれない。

 そう思うと、これまで当たり前にできていた令嬢たちとの会話すら、一体何を話せば良いのか分からないような気になってくるのだった。

 それとは別に、この日ディアナがもたらした言葉は、いずれアロイスを惑わすことになるのだが、それはもう少し先のことである。

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