星待たずして朽ちる黄昏 夢は叶わじ
夜も更けるころ、一同が集まる居間はすっかり混沌としていた。とくにフィンの興奮は最高潮で、やたらと大きな身振りでその感動を表しながら、熱に浮かされたように語り続けている。
「まさか自分が歴史の変わり目の目撃者になれるとはね。それにあの中で、ヒエロニムスの予言のことを知っていた者が何人いたと思う? ああ、俺はこの日のために生まれてきたのかもしれない……神はこの日のために、俺とヒエロニムスを出会わせたのかもしれない!」
「はいはい、分かったから落ち着きなよ、フィン。素面でよくそこまで盛り上がれるねえ」
「これが落ち着いていられるか!? こんな状況で平然としている人間の正気を疑うね! 俺たちは大いなる神話の一部を垣間見ているんだ!」
たしなめたつもりが、いっそう興奮させてしまったようだ。リタも無意味を悟ってか、やれやれとチーズをつまんだ。
「ねえ女神サマ、あんたの力でこいつをおとなしくできないかい?」
トゥランは困って首を傾げた。
「私の力でどうこうするより、お兄さまの拳の方が効くと思うわ」
「ははっ、間違いない。にしても、案外雑なとこあるよね、女神サマ」
呼び方が「姫サマ」から「女神サマ」に変わった以外、リタの態度は変わらない。リタだけではなく、全員がそうだったので、トゥランは内心ほっとしていた。突然友達を失うことにはならなさそうだ。
「そういえば気になっていたんだが、星読みの杖を使っていたろう? あれはどういう効果だったんだ? そもそも今、杖はどこに?」
フィンはさっきから、こうして質問攻めにしたかと思うと、感激して独り言をまくしたてるのを繰り返している。
「今は違う空間に置いてあるの。いつでも取り出せるように」
「そんなことができるのか? 全く意味は分からないが、素晴らしいな!」
「声がデカいんだよ、まったく……ていうか、よくこんなうるさい中で眠れるね、そいつ」
リタが呆れたように見やったのは、グウィオンだ。もう結構前から、グウィオンは猫のように身を丸めて寝息を立てている。
「まるで他人事だな。魔術師だか何だか知らんが、ふてぶてしくて勘に触る」
ウルは面白くなさそうに肘でつついた。熟睡しているのか知らぬふりを決め込んでいるのか、グウィオンに起きる気配はない。
「王を殺したのはほぼ間違いなくこいつだろう。その割にしおらしさのかけらもない。そもそもどうしてこいつは、当たり前のようについてきて仲間のような顔をしている? ここに親族がいるのに、復讐されるとは思わないようだが」
「助けた人間に殺されるとは思わないんじゃない」
「だいたい、お前はこいつを連れてきてどうするつもりだ」
矛先を向けられて、トゥランは口を尖らせた。そんなことを今さら問われても困る。すでに伝えた以上の理由はないのだから。
「殺されると分かっていて見過ごせなかったんだもの。この人だって、きっと利用されてたんだわ。それに、事情が聞き出せたらと思って」
「利用されていたのなら、人を殺しても容認できるのか?」
「そういうわけじゃないけど……とにかく、勘よ。連れて行った方が良いっていう……もしかすると、これも神の力かも!」
「都合の良い言い訳を思いつくな。お前は単に無計画なんだ」
ぴしゃりと言って、ウルはソファにぐったりともたれかかった。元々鋭い目つきがますます険しくなり、グウィオンよりよほど悪人に見える。
「王宮を抜け出せたのはいいが、こうもいい加減なやつばかりでは前途多難だな」
「あら、あなただって頭を使うのは苦手じゃない」
意外と辛辣なゲルダの発言に、ウルは不本意そうに唇を曲げた。
「同類だと言いたいのか?」
「後先考えずに飛び出したのは私たちも同じことよ。こうして無事でいるのは、ファニーさんのおかげでしょう。いいじゃないの、道筋が見えないのは、それだけ選べるものが多いということ。これまでとは大違いだわ」
ゲルダの瞳は夢見るように潤み、少女のように浮き立つ声でトゥランに話しかける。
「今さらですけど、我らが新しき女神にお慶び申し上げますわ。これからは殿下ではなく、トゥラン様とお呼びしても?」
「様、はなくても良いんですけど」
「いいえ、女神様を呼び捨てだなんて。是非こう呼ばせてくださいな。あなたのもたらす変容は私たちを救いました。あなたにとっては無意識のことであったとしても、です」
モリも母も、トゥランが司るのは変容の力だと言った。それは自分でも何となく承知しているけれど、まだ分かっていない部分も多い。
「どこからが、私の力のせいだったのかな」
力を自覚したのは今日のことだ。けれどそれ以前にも無自覚に力が働いていたのだとしたら、いつからなのか分からない。ここ数か月、トゥランには変化の波が押し寄せていた。その一つ一つを、自分のせいかそうでないか判断するのは難しい。
「僕の人生が変わったのは、きみと出会ったからだ。間違いないよ」
アロイスは常に触れ合っていたい性質のようで、ずいぶん前からトゥランの腰を抱いたままでいたが、その手に力を込めてさらに引き寄せた。トゥランとしても嫌ではなかったので、引き寄せられた胸元に頬をすりつけてくすくす笑う。
ただ触れ合っているだけで、こんなにも幸せでたまらなくなるなんて、恋は効果の強すぎる薬のようだ。
「ヒエロニムスの予言の通りなら、女神の覚醒を促したのは、アロイス殿の声なのだろう? 何ともロマンチックじゃないか。ところでいつから恋人になったのかな」
フィンが切り込むと、ゲルダやファニーらも興味深げな眼を向けてきた。ずっと聞きたくてたまらなかったらしい。
「今日よ。あ……もう日付が変わったから、昨日かしら」
「へえ! ちょっと前までは完全な一方通行に見えたのにねえ」
爛々と目を光らせてリタが身を乗り出したかと思えば、ゲルダも相槌をうつ。
「是非とも詳しく聞きたいわ。きっと甘い言葉を山ほどいただいたのでしょう?」
「殿下の鈍さには私も自信があったんです。あと一年はアロイス様の片想いと思っていましたわ」
ファニーまで口をはさんできた。
「なんでファニーがそんなことに自信を持つのよ?」
「実は僕も、長期戦の覚悟だったのだけどね」
「アロイスも? どうして?」
女性陣とフィンが盛り上がる中、ウルはげんなりした顔で立ち上がった。
「寝る。寝所はどこだ?」
「そこの階段を上がって左です。女性は右の部屋ですから、左側ならどちらでも好きな部屋を使ってください」
トゥランの話が気になるらしいファニーは案内をするそぶりも見せず、話に聞き入っている。ウルはソファで寝こける魔術師を見て何か逡巡していたが、結局何もせず二階へ上がっていった。
残りの一同は疲れも忘れて恋の話に没頭し、アロイスがトゥランを労わって寝ようと切り出す頃には、もう空も白み始める頃合いのことだった。興奮が落ち着き始めると、信じられないくらいの疲れが襲ってきて、もうグウィオンのようにソファで眠ってしまいたいくらいだったが、当然アロイスがそうはさせなかった。何度もあくびをするトゥランを横抱きに抱え上げると、
「それでは続きはまた明日にでも。皆さまもよくおやすみください」
すっかりのろけ話にあてられっぱなしの一同をあとに、悠々と二階へ引き上げていったのである。
トゥランはもう半分夢の中にいたので、特に恥ずかしがることもなく、とろりとした目でアロイスの視線を受け止めていた。
色んなことがあって、まだ気持ちの整理がつかないけれど、ともかく明日も明後日もずっとアロイスといられることが嬉しかった。大好きな人たちはそばにいて、食べるにも眠る場所にも困らない。考える時間はいくらでもある。
読書家のトゥランは当然、恋人たちがどんなことをするのかは知っていたけれど、不思議なほど、それを自分に当てはめては考えなかった。今はただ、同じ気持ちであることを嬉しく思うばかりで、例えば夜更けに恋人同士が同じ部屋に入る意味などを深く考えてみもしなかった。
それはもちろん、あまりに疲れて、眠かったというせいもあるが、当のアロイスが意識させなかったせいもある。
アロイスはその内心はさておき、紳士的に振る舞った。トゥランを客室に連れてゆき、ベッドに横たえると、自分はベッドの傍らにしゃがみ込んで、恋人が眠るのを見届けようとしていた。
「おやすみ、トゥラン。僕の姫君」
甘い声に誘われるようにして瞼を閉じ、また目を開いた頃にはもう、すっかり陽も高くなっていた。
宮にいた時のように、ノラやファニーが着がえを持ってきてくれるわけではない。けれど、衣装入れにはサイズの合いそうなドレスがいくつか入っており、試しに袖を通してみた。トゥランの趣味からすると少し派手だったが、トゥランはそれほどこだわる方でもなかったので、あまり気にしなかった。髪の毛はどうしてよいかわからず、下ろしたままひとまず部屋を出る。
と、ちょうどよく美しく身支度を済ませたファニーが通りかかった。侍女服ではなく、トゥランのと似た華やかなドレスに身を包み、優雅に髪を結い上げた姿は、トゥランよりもよほど高貴な生まれに見える。
「おはようございます。髪を結いましょうか?」
頼む前から声をかけてくれるところが、さすがだ。
「お願いしてもいい?」
「ええ。どうしたんですか、急に遠慮なんかして」
鏡台の前へトゥランを座らせながら、ファニーはおかしそうに笑った。
「だって、今はファニーがお屋敷のご主人様じゃない。私は姫じゃなくなったし、ファニーはもう侍女ってわけでもないわよね」
この場合、肩書は「友人」になるのだろうか。
改めて考えていると、ファニーは手際よくトゥランの髪を編み込みながら、鏡を通じて目を合わせた。
「姫から女神になられたんですから、トゥラン様が主なことには変わりませんよ。むしろ階級は上がったのでは?」
「じゃあもし、私が女神にならなかったら?」
「その場合は……私の侍女になっていただくのも一興でしたね」
「それ、面白そうね。きっと私、迷惑ばかりかけると思うわ」
ファニーと違ってできないことが多いから、怒られてばかりかもしれない。そんな想像をして笑いあっているうちに、トゥランの少々おさまりの悪い髪は、魔法のように編み込まれてしまった。自分でやるとこうすんなりできないから、いつも感心する。
「さ、できました。朝食はもう食べられますから、一階にいらしてください。アロイス様も、居間で待っていますよ」
「本当? 早く行かなきゃ」
慌てて立ち上がったところを、呼び止められた。
「そういえば、アロイス様とは同じ部屋がよろしいですか? お望みでしたら、二人部屋もありますが」
「二人部屋……? 一緒にいられるのは良いけど、着がえの時とか、困るんじゃないかしら」
何の気もなしに答えると、ファニーは含みのある表情でうなずいて、「なるほど」と呟いた。
「当分は一人部屋で良さそうですね。気が変わったら仰ってください」
「うん……?」
何となくファニーの意図とは違ったことを答えてしまったような気はするものの、どう違ったのか分からない。けれどそんなささやかな違和感について考えるよりも恋人の顔が見たくて、トゥランは風のように階段を駆け下りて行った。
「アロイス!」
居間に駆け込むと、ゆるく波打つ金髪が揺れ、世にも美しい青年が振り返った。画家ならばその全ての瞬間を記憶にとどめようと筆を走らせ、詩人ならばその美を持てる限りの言葉で讃えただろうが、トゥランはその隣に腰を下ろすだけで満足なのだった。
「朝起きてすぐに会えるって嬉しいわ。しかも、寝るまで一緒にいられるなんて!」
アロイスは緑の瞳を眩しそうに細めて、トゥランの頭をそっと撫でた。
「僕はまだ夢を見ている気分だよ。きみは本当に僕のトゥランかい? 暁に見る幸せでおぼろな夢ではなく?」
その気持ちは大いに理解できたので、トゥランは大まじめにうなずいた。
「夢かそうじゃないかを見分けるのって難しいわよね。前もすごく現実味のある夢を見たの。起きてもしばらく現実だと思っていて、ファニーに笑われたわ」
「どんな夢?」
「星巫女になって、北の神殿でファニーと二人きりで暮らす夢。食べるものも二人で用意しなくちゃいけなくて、起きてすぐ、羊のミルクを絞らなくちゃって思ったの」
「それは……たくましいね」
思わずふき出して、アロイスは肩を震わせる。
「急いで庭に出たんだけど、羊がいないから、ファニーを探しに行ったらモリがいて、やっと夢だって気づいたの。アロイスもそういうこと、ある?」
「いや……そういうことはなかったかな。むしろ、夢の中でもこれは夢だと分かっていることが多かったから」
「それなら、夢かどうか分からないこれは現実だわ。そうでしょ?」
「逆説的に言えば、そうだね」
優しい声で応じながら、アロイスは始終トゥランの頬や頭に触れていた。幸福な現実を噛みしめているのかもしれなかった。
アロイスの指に触れられると、喉元をくすぐられる猫のような気分になる。ずっとそうしていてほしい。
アロイスの肩に頭をあずけて、すっかり甘えた気分でトゥランは目を閉じた。こんなに心が安らかなのは、いつぶりだろう。母がいなくなってから、存分に甘えられる相手はいなかった。長いこと欠けていたものが、みるみる満たされてゆくようだ。
「……ねえ、これからどうしよう」
昨日は互いの情報交換に終始してしまって、今後の方針については何も話し合えていない。ファニーは望めばいつまでも世話をしてくれるだろうが、そういうわけにもいかない。
「黄昏の書を読めば、きっと私の未来が書いてあると思うの。でも今は、読みたくない気がする……」
読んだところで、意味は分からないのだろうけれど。父王失脚の顛末だって、終わってみればそういうことかと分かるけれど、読んだだけで理解できる代物ではなかった。あまりに寓意的すぎて、ほとんど意味は分からないのだ。分からないのに、あれこれ推理して悩むのは不毛な気がする。
「読んでも読まなくても変わらないなら、読む必要はないよ。きみはきみ自身が道だから、迷う必要なんてないんだ」
アロイスはいつだって、トゥラン自身よりもずっとトゥランを信じてくれる。それがどうしてなのか、トゥランには分からない。
「どこまでが私の力なのかが分からないから、怖くなるの。アロイスが家出をしたのも、偽の星巫女が現れたのも、お父さまが殺されたのも、全部私のせいだったのかしら」
昨日はあまりに色々なことがありすぎた。なりゆきのように思っていたけれど、そうではないのかもしれない。トゥランが変容の女神として覚醒したせいで、あらゆる運命を変えてしまったのかもしれない。
「もしそうだとしても、起こるべきものが、すこし早く起こっただけだよ。きみが気に病むことじゃない」
「そうなのかな……」
「そうだよ。それにこの世が求めていたのは、恩寵よりも変革の力だ。きみはまさしく、理想の守護女神になるだろうね。僕はそれが寂しいけれど」
「寂しいの?」
どうして、と尋ねると、アロイスはトゥランの額に額を合わせて、重みをあずけてきた。
「僕は欲が深いんだ。僕だけを見てほしい、僕だけに愛されていてほしい。本当はそう思ってる……思うようになってしまった」
トゥランは何と言えば良いのか分からなかった。アロイスの言うこととも思えない。世界中の人に愛されたいと言っていたアロイスが、こうも一人の人間に執着するなんて。
「……軽蔑した?」
トゥランが黙っているので不安になったのか、アロイスは不安げにかすれた声で囁いた。
「ううん、驚いただけ。それと、アロイスだけを見ているのは難しいなって。ご飯の時とか……それに」
着がえの時とか、と続けようとした唇に人差し指を当てられて、ひとまず黙った。至近距離で見つめてくるまなざしと吐息の熱さに気圧されて、言葉が引っ込んだともいう。
「ごめん。僕のつまらない独占欲なんて放っておいてくれればいいんだ。きみは長く待ち望まれた女神なんだから――みんなに求められ、愛されるのは当然のことだ」
それは本心なのだろうか、とトゥランは宝石のような瞳を見つめ返しながら考えた。もしそうなら、どうしてこんなにも苦しそうなのだろう。
「本当は、変わりたくなかった?」
誰よりそばにいるぶん、アロイスの身に訪れる変質は誰よりも大きいのかもしれない。変容の女神の恋人になるというのは、きっとそういうことなのだ。
「どんなに自分が愚かだったか、思い知ったんだよ。全ての人に好かれたかった僕は、誰のことも愛してなかった。本当はただ一人を愛し愛されれば満足だったのに、なんて残酷なことをしたんだろう」
変容の軋みが、アロイスを苦しめている。
良いことばかりとは限らないのだ、自分がもたらすものは。
トゥランは少しずつ、理解し始めていた。昨日起こったことだって、良いことばかりではなかった。自由を得た代わりに、失ったものの方が多かったのかもしれない。父の命を含めて。変容は、それそのものが善でもなければ悪でもない。
「私は出会った頃のアロイスも好きよ。みんなに好かれるって、それだけたくさんの人を幸せにしたあかしだもの。でも、今の甘えん坊なアロイスも好き。私もアロイスに幸せをもらった分、これからはアロイスを幸せにしたいって思うの」
くっつけた額を押し返すようにして力をこめながら言うと、アロイスは黙ってトゥランを抱きしめた。思い出したように息を吐く音が聞こえてきたきり、そのまましばらく動かない。
やがて低くくぐもったうめき声が聞こえてきたので、もしや体調でも悪いのかと慌てた。
「どうかしたの? どこか苦しいの?」
「……怖くなったんだ」
「どうして?」
「きみがあんまり愛しいから。きみを傷つけて失ってしまうのが怖いのに、欲望をぶつけてしまいそうになるから」
「私、アロイスに傷つけられたことなんてないわ」
思ったより深刻な話ではなさそうなので、肩の力を抜く。アロイスに傷つけられる未来も、自分から離れていく未来も、全く想像できない。
しかし、アロイスはますます眼の光をなくして、うなだれた。
「陛下の最期を見たせいかもしれない」
「お父さま?」
「陛下はアウレリア妃殿下のことを愛していた……きっと」
「……そうね、たぶん」
断片的な会話から全てを察することはできないが、父王は明らかに、母と会いたがっていた。ヒエロニムスの予言についても、知っていたふしがある。「星」が目覚める時、女神が現れることを知っていたことからして、トゥランよりもはるかに詳しかったのかもしれない。
けれど、その願いは叶わなかった。予言の通りに。
星待たずして朽ちる黄昏 夢は叶わじ
母が父をどう思っていたのかは分からない。けれど、会いたがっている雰囲気は感じなかった。父が破滅しようとするその時、母はトゥランの覚醒のことしか気にかけていなかった。
そもそも、国王は本当に自分の父だっただろうか?
そんな疑問さえ、浮かんでくる。
「もしもきみが人間で、僕が何かを間違えたせいでこの手を離してしまったら、どこまでも追いかけて許しを請うよ。でも、天に戻ってしまったら、もうこの手は届かない。だから、何も間違えたくないんだ。少しでも嫌われたくない。そう思うと、急にどうしていいか分からなくなるんだ」
何でも完璧にこなすアロイスなのに、どうしようもなく途方に暮れている姿が新鮮で、胸を打たれた。何も考えていなかった自分が、ほんの少し恥ずかしくなる。
「天になんか行かないわ。私の居場所はないもの」
そもそも、そんな未来があり得ることすら、頭にのぼらなかった。こうして選択肢を与えられてみても、拾い上げる気さえ起こらない。
「居場所があったって行かない。私がいたいのはアロイスや、お兄さまやファニーやフィンがいる、ここなんだもの」
たとえ母に呼び寄せられたとしても、応えることはないだろう。引きこもっていた頃とは違って、トゥランには失いたくないものができてしまった。
「だからそんなこと、考えないで。ずっとそばにいるって信じて。私の本質は変容だけど、きっと変わらないものだってあるって信じたいの」
例えば女神になったことで友達や恋人をなくしていたら、自分を呪いたくなっただろう。みんなが変わらず接してくれるからこそ、変化を受け入れられた。
この世に変わらないものはないと言うけれど、変わってほしくないものだって、確かにある。
「信じるよ」
そう呟いた唇はそっとトゥランの瞼に触れて、誓いのしるしを残していった。いきなり唇を奪わなかったのは、長い葛藤の末にアロイスが選んだ思いやりと慈しみの結果だったのだが、トゥランはそれを知る由もなく、ほのかに頬を赤らめた。
どうしてよいか分からないほど頭の中が真っ白になるけれど、決して嫌ではなかった。むずむずする口元でこらえきれず笑うと、アロイスは目元をほころばせて、もう片方の瞼にもくちづけた。
どくどく音がしそうなほど、胸が変に暴れる。いてもたってもいられなくて、アロイスの胸元をぎゅっとつかんだ。
何か言いたいのに何も思いつかなくて、魔法にかけられたようにアロイスの明るい緑の瞳を見つめていると、ふいにその瞳が真剣さを帯びた。言葉なく何か探るように、こちらを見つめてくる。
何を?
分からないのに、いっそう鼓動が速くなって、何かの兆しをトゥランに教えた。少しだけ怖くて、それ以上に魅惑的な何かが、きっとこの先に待っている。
アロイスが顔を少し傾けた。目を細め、そのままのぞき込むようにして近づき、そして――
「なんだ、我らが女神も起きていたのか。ならば一緒に食べれば良かった……と……これは失礼。邪魔するつもりはなかったんだ。忘れてくれと言っても無理かもしれないが、俺の存在は記憶の全てから消してくれ。できれば一時間後くらいに思い出してくれ。二時間後でもいい」
ぶしつけにかけられた声は、後半から明らかに焦った様子で早口になり、言葉と同じくらいの速度で遠ざかっていった。
またしても絶妙に間の悪いフィンだ。
当然、忘れることも続けることもできそうにはなく、トゥランは笑い出してしまった。二人の間にあった不思議な緊張感も解けてしまって、その先にあったものの正体も分からずじまいだ。
でも、心のどこかではほっとしていた。さっきみたいなことがしょっちゅう起こったら、きっと心臓が持たなくなるに決まっている。
少しずつ、進めて行けば良い。恋も、女神としての一歩も。
二人を邪魔するものは何もなく、二人を迷わせるものも何もない。心はぴたりと寄り添い、愛は色あせることがない。
その時トゥランは、心の底からそう信じてやまなかったのである。




