虚ろな唇に玉座は傾き
「降臨祭に来ておいて、神はいらないっていうんですか?」
自分を見据える幾多の双眸を眺めやりながら、トゥランはほとんど呆れていた。
どう考えたって理屈に合わない。そもそもこのトビアスは、星巫女を裏から操っていたはずだ。信仰心を利用した一方で、信仰など不要と言い切る変わり身の早さには恐れ入る。簡単に口車に乗せられる、主体性のない人々にもだ。
けれどさすがに、全ての人が賛同していたわけではなかった。よくよく観察すると、訝しげになにか囁き合っている人もいれば、明らかな敵意を向けてくる人もいる。
この発言は、トビアスにとっても賭けだったはずだ。堂々と落ち着き払っているのがさすがだが、実際のところ、ここにいるのは敵よりも単に混乱している人が多いだろう。
あの星巫女が本物だと信じている人も、まだいくらかいるかもしれない。何しろ、彼女とトゥランが起こした奇跡は、どちらも大した変わりはないのだ。今だって、自分が女神アウレリアの娘だと証明する術は思いつかない。魔術との違いを見せつける方法なんて。
信じてほしいわけじゃない。信じてほしい人は、もう信じてくれている。それで十分だ。
今はただ、変幻自在にして虚ろな舌の持ち主であるこの男に、負けたくないような気がしていた。
「このように毎年欠かすことのなかった式典もまた、支配だったのです。ですが重いくびきから解かれた今、我々は真の祈りにたどり着きました。ただ人でありたいと。他の誰にも損なわれることのない、自由な人間でありたいと。それは責められるべき心でしょうか?」
切実な調子でトビアスは声を張り上げる。まるでこれまで、不遇を強いられていたかのように。
まるで言葉の魔術師だ。この人のことをよく知らなかったら、きっと惹きつけられずにいられなかっただろう。自分の気持ちを代弁してくれたかのように感じたかもしれない。
けれど魅惑的であればあるほど、トゥランにはトビアスが恐ろしかった。そうして最も快いやり方で、人の心を難なく絡めとってゆくのだと思うと。
「本当にそんなものが必要ですか? あなたはもう、この場を支配しているのに」
トビアスのすぐ近くには、星巫女が倒れ伏したままでいる。まだ口の中が痛むのか、肩を上下させて苦しそうだ。
「その人はどうするんですか? あなたのために星巫女のふりをしてきたのに、見捨てるの?」
重ねた質問に、トビアスは戸惑う声を出した。
「なぜそう思われたのか分かりかねますが、女神よ、誓って私とは関わりののないことです。偽の星巫女により、私にどんな利益があったと思われますか? 断罪された者には、私の盟友も多かったのですよ。私はむしろ、以前から疑っておりました」
平然と誓ってみせる唇にぞっとして、口をつぐむ。
この人と話すのは嫌だ。どんな言葉も届かず、都合の良い内容にすり替わってしまう。それどころか、相手の望んでいた通りの言葉をかけてしまったような気さえする。
「トゥラン、この人の良心に訴えかけてはだめだ。そんなものは存在しないから」
アロイスはもう、その人のことを「父上」とは呼ばなかった。そうするしかなかったことを理解するとともに、悲しくなった。アロイスは生まれてからずっと、あの空虚な唇の語る言葉を聞いてきたのだ。
「まともにとりあうのは時間の無駄だぞ。胡散臭さが息子の比じゃない」
ウルもさりげなく歩を詰めて、トゥランのそばに立った。両側に二人がいると、どんな状況であれ、無敵の気分になる。
「これは……困りました。愚息の言動がこのところおかしいと思っていましたが、我が国の誇る最強の戦士共々、あなたの手中にあったとは。我らの祈りも通じぬ様子。もしや、御身は邪神であらせられるか」
トビアスの瞳が不気味に光ると、鋼の糸を張りつめたような緊張が走った。
「不敬ではないか、ラング卿!」
見かねて誰かが叫ぶ。続いて、女性の声。
「アロイス様、目を覚ましてくださいませ!」
「そもそも、本当に女神なのか? こちらも魔術師のなりすましじゃないのかね」
ひそめもせずに呟かれる声。応じる声。
「どちらにしたって、分かるものか。そんな得体のしれないものを崇める気にはなれないね」
「天罰が下るぞ、早く頭を垂れんか!」
混沌の中、またもや一触即発の雰囲気になりつつあるところで、トゥランは杖の柄で地面を突いた。コン、と鋭い一音に、また人々の注目が戻る。
「みんな思い違いをしているわ」
トゥランにしてみれば、新たな争いの火種になるつもりなど全くなかったのだ。大ごとにしているのはトビアスの方で、まったく迷惑極まりない。
「私は支配などしにきたわけではないわ。誰かの祈りに応えるために来たわけでもない。頼まれなくたって、ここに残るつもりなどなかったわ」
アロイスが王宮を去るなら、遅かれ早かれついていくつもりだった。思いがけず女神としての力に目覚めた今でも、それは変わらない。
「加護をいただけないのですか……?」
両手を組んだ敬虔そうな貴婦人がおずおずと進み出る。
誠実そうなその人の願いを断るのは心苦しかったが、トゥランの心は決まっていた。かつてこの世を去った神と同じ道をたどってはいけない。だから、自分だけの道を探さなくては。
「どこにいてもみんなの幸せを祈ります。嫌なことがあったら、神のせいにすればいい。信じたくないなら、信じなくたって構わない。きっとそれくらい離れていた方が良いんです、私たち」
侍女以外信じるなと言った母の言葉の意味が、痛いほどによく分かる。母は知っていたのだ。敬虔な人よりも打算的な人の方が、ここには多いことを。
「だから、みんなは自分で決めるの。誰を信じて、誰を信じないのかも自分の目で見て、考えて。神頼みばかりしないで、自分のことは自分で幸せにするの。だって、神がいなくなったから人の心が乱れたんじゃないわ。人が争いばかりしたから、神がいなくなったのでしょう。神の加護が全てを解決するわけじゃないと思うわ」
「それでは……あなた様は何のために降臨召されたのですか」
貴婦人の問いは、トゥラン自身が知りたいことだった。
どうして母はここを去る時、トゥランを連れて行ってくれなかったのだろう。それに、さっき言っていた「世界になる」とはどういう意味だろう。
ちっとも分からないけれど、きっとトゥランには何かを期待していたのだろう、という気がする。何かの目的があって置いていったのだ。その目的は、まだ果たされていない。
「私もそれが知りたいんです」
「はい……?」
戸惑う人々を前に、トゥランは大きく息を吸い込んだ。
「だから、どうにかしてお母さまに会わなくちゃ……どちらにしろお父さまは亡くなったし、ここにいる理由も無くなったから出ていきます。お望み通りなんだから、あなたも異存はないですね?」
思いつくまま、早口にまくしたてる。トビアスが面白くない顔をしているので、ますます勢いづいた。
「嘘とか偽物とか陰謀とか、もうたくさん。世界にはもっと楽しいことがあるのに、わざわざ人を憎んだり、陥れたり、変わった人もいるんですね。でも、良い人とも出会えたから良かったって思うことにします。ほとんど話したこともないけれど、お兄さまにお姉さまたち、ごきげんよう。お元気で」
一応兄弟と認識している顔ぶれに手を振ると、一様に当惑または胡散臭げな顔をしていて、思わず笑ってしまった。
最初から最後まで、少しも兄弟らしくない関係だった。
ただ一人を除いては。
「やれやれ、長い牢獄生活だった」
ウルは隣で、飄々と首を鳴らしている。特に打ち合わせたわけではなかったが、当然のように同行するつもりらしい。見れば、ゲルダもいつの間にやらそばに来ている。その瞳は自由の喜びに輝いていた。
「ウル殿下、ゲルダ様。王室には規律というものがございます。陛下の国葬もこれからですし……」
大臣の一人が宥めようとしたが、ウルは途中で首を振る。
「どうせ近いうちに後宮の整理が始まるだろう。お家柄とやらが良い奴以外は追放になるんじゃないのか。手間が省けたとでも思え」
「しかし、殿下は第四王子にして我が国の剣となるお方でございます! 北方諸国の征伐はどうなさるおつもりですか。亡き陛下の最後の望みなのですよ」
「知ったものか。第四王子だからとて、優遇された覚えもない。馬鹿げた征伐がしたいなら勝手にしろ。他国にいちゃもんをつけて何が楽しいのか知らんがな」
必死の説得もけんもほろろに切って捨てると、「いくぞ」とあごをしゃくってみせる。
「待って。少しだけ」
トゥランは父のそばに膝をつくと、その顔をまじまじと見つめた。
ただ一人の人間のために、いくつの運命が狂わされてきただろう。後宮に連れてこられた女たちや、戦場で散った男たち。目障りだという理由で全てを奪われた人たち。
恨みも憎しみも溢れるほどに背負いながらも立っていた人が、こんなにもあっさりと死んでしまった。
人間は脆い。こんなにも脆いものを柱にして生きている。
この国はこれから、怒涛のように変わるだろう。より良い方へか、悪い方へかは分からないけれど。
「……さようなら、お父さま」
言い表せない想いと共に、別れを告げた。それ以上にかける言葉が見つからなかった。二人の間には、母というつながり以外、何の感情も存在しなかった。
立ち上がったトゥランは、アロイスの手を取って立ち去ろうとしたが、ふと視界の端で倒れたままの星巫女が気になった。
(あの人は、これからどうなるのかしら)
主のトビアスに捨てられたとなると、一人で罪をかぶる羽目になるのだろう。星巫女と偽り、国を混乱に陥れた罪、国王殺害の疑い。どう考えても、死刑を免れそうにない。
自業自得だとも思ったが、どうにも心に引っかかる。
結局、そのまま通り過ぎることができずに、足を止めた。
「お兄さま、お願いがあるの」
「断る」
言い終わる前に、ぴしゃりと返された。
「まだ言ってないわ」
「ろくでもない予感がする」
「人助けよ。あの人、放っておいたら殺されてしまうわ」
「当然だろう。王を殺したのもあいつじゃないのか」
「でも、連れて行きたいの。あの人だって、利用されていたのかもしれないわ」
「正気か? 寝込みを襲われるのが関の山だぞ」
さすがに苛立ちを見せたウルだったが、トゥランが頑として動かないのを見ると、舌打ちして女に歩み寄った。
「立て」
力なく伏しているのを、半ば強引に腕を引く。
「罪人をかばうのですか?」
トビアスが手を振ると、兵が幾人かやってきて、ウルと星巫女を取り囲んだ。
「女神とはいえ、勝手が過ぎるのでは?」
「それについては同感だがな」
ぼやきながら、ウルは腰の剣を引き抜いた。
「雑兵で俺を止められると本気で思うのか?」
険呑な笑みを浮かべたウルの迫力に、兵たちが身構えると、おもむろにアロイスまでもが剣を引き抜いた。
「まるで自分は罪人でないかのように言うのですね」
トゥランを後ろにかばいながら、兵たちを挟み討つ格好だ。
二人とも手練れだと聞いてはいるが、実戦を見るのは初めてだ。トゥランは思わず膝が震えた。時を同じくして、聖堂のあちらこちらから、押し殺したような悲鳴が漏れ聞こえてきた。アロイス会のご令嬢たちかもしれない。
「殺さないで」
小さく囁くと、アロイスは振り返らないまま、しかしひどく優しい声で囁き返した。
「もちろん、我が姫」
一体何が合図だったのか、ウルとアロイスは同時に地を蹴ると、あっという間に取り囲む兵をなぎ倒してしまった。何が起こったのかも見て取れないほどの早業だったが、倒れた兵がほとんど血を流していないところを見ると、ほとんど体術で倒したらしい。
「いくぞ」
素早く剣を収めると、ウルは星巫女の腕をつかみ、引きずるようにして走り出した。慌ててトゥランも、ゲルダと一緒に走り出す。そのすぐ後ろを、アロイスが追った。
立ちふさがる兵や神官たちを、ウルは魔法のように薙ぎ払い、戦車のごとく道を切り開いた。もちろん、貴婦人や非武装の文官たちは自ら飛びのいて道を開ける。自ら盾になってまで止めようという人はいない。
聖堂の外に出ると、物見高い人々が山のように取り囲んでいたが、そこに突っ込んでくる一台の馬車があった。今日は乗り入れを許されていないのに、「どいて!」と叫びながら、周りの人を轢きかねない勢いで駆けてくる。
と思うと、御者台に見慣れた侍女の顔を見つけて、仰天してしまった。御者の隣で夜目にも眩しい金髪をなびかせているのは、何度まばたきをしても確かにファニーだ。
「乗って下さい!」
なぜ、とかどこへ、と考える前に、ひとまず飛び乗った。乗り合い用の大きな馬車で、全員が難なく乗り込めた。しかも中にはもう一人、見知った顔があった。
「リタ!」
広い車内で悠々と足を組んでいたリタは、してやったりとばかりの笑みを浮かべている。
「やあ姫サマ、無事だったみたいだね。美人の侍女さんが飛び込んできたときには、どうなることかと思ったけど」
「どうしてファニーが馬車で迎えに来て、しかもリタと一緒なの? フィンはどこ? これからどこへ行くの?」
質問攻めにすると、リタはからからと笑った。
「まあ、落ち着いてよ。順に説明するからさ。まず美人の侍女さんは、そちらの色男の指令でやってきたんだ。今晩、聖堂でひと悶着起きそうだから、迎えの馬車を準備して待機していてほしいってね」
いつの間に、とアロイスを見ると、アロイスは首を振った。
「そんなことは頼んでいないよ。聖堂で騒動が起きそうだという事情は話したけど、僕が頼んだのは荷物をまとめておいてほしいということだけだ」
話が食い違っている。
どういうわけかと思ったが、つまりはファニーが言われた以上の仕事をこなした結果らしい。
「ちなみに、荷物の方も抜かりはないよ。ここに来る前に、姫サマの宮から荷物を引き取ってきたところさ。あんまり多いと怪しまれるから、最低限だけどもね。ほら」
リタが指さした隅には、確かに荷物がいくつか積まれている。
「フィンはね、見張りを買ってでたんだ。聖堂に張り付いていて、事が動いたら合図を送る役さ。どうしても中の様子を見たかったんだろうね。で、侍女さんが暴走する役で、あたしはこうして説明する役。よくできてるだろ。侍女さんとは場所を変わるって言ったんだけどね」
「有能だな」
珍しく純粋な賞賛をこめて、ウルが呟く。と思うと、一言付け足すのも忘れなかった。
「主人とは大違いだ」
「そうなの、ファニーはいつも最高なの!」
嬉しさのあまり皮肉にも気づかないトゥランは、今すぐファニーを抱きしめたくてたまらなかった。話していると舌を噛みそうになるほど揺れていなければ、窓を開けてファニーに感謝を叫んでいたかもしれない。
「アロイスも、ありがとう。いつのまにファニーに話をしてくれたの?」
するとアロイスはふと艶美に微笑んで身を屈め、トゥランの耳に唇を寄せた。
「きみに愛を告げる少し前」
かすれた声が甘く絡みつくようで、胸が痺れる。しかもそれから顔を離してくれないものだから、熱っぽい吐息がかかるたびにぞくぞくしてしまう。
離れて、と言おうとしたが、本当に離れて欲しいのかどうかは自分でも確信がなかった。怖いような息苦しさと陶酔が同時に襲ってくる。
「やめろ、殴りたくなる」
心底うんざりした様子のウルに少し笑って、ようやくアロイスが身を離した。ほっとすると同時に寂しいような気もして、落ち着かない。恋をすると、みんなこんな気持ちになるのだろうか。
「ところで、そちらの死にかけみたいなお嬢さんはどこの誰なのさ?」
リタはぐったりとしたままの星巫女をつんつんと指でつついた。星巫女は黙ってされるがままになっている。縛られているわけでもないのに、逃げる様子もない。
魔術師なら、馬車から逃げることもできるだろうにと、不思議だった。何か目論見があって、ここにいるのだろうか。それとも本当に、からだを動かせないほど弱っているのだろうか。見たところ、命の危険はなさそうだが。
「ああ、まあ名前くらいは聞いておくか……と思ったが、もしかして話せないのか?」
偽星巫女はウルにうなずいて、空中で指を動かした。するとその軌跡が光を放ち、文字となって輝いた。
「うわ、何だいこれ。すっごいねえ! フィンが見たら喜びすぎて死にかけそう」
「なら見せるべきだたったな」
優しさなのか悪意なのかはっきりしない冗談を言いながら、さすがのウルも驚いたのだろう。光の文字をじっと見ている。するとその光はじりじりと輝きを失って、気がつけば闇に溶けてしまった。
「グウィオン……変わった名前ね。女性にしては」
「どこの国の魔術師だ?」
「彼女が、前に話した星巫女の偽物だよ」
「何だよ、それを早く言ってよ! つまりはあたしたちの翼を盗んだ奴だろう? とりあえず半殺しにしなくちゃ」
「すでにだいぶ弱ってるがな」
いま一つまとまらない会話の中、グウィオンは黙ってうつむいていて、何を考えているのか分からない。
まずは呪いを解いて話せるようになってもらわねば、と思うけれど、どうすれば解けるのかも分からない。
どうしたものか、とぼんやりその姿を眺めていると、ふいに視界が歪んだ。手首が、腰が、美しくまとめられた頭が、急にその輪郭を失い、奇妙に揺らぐ。
疲れて目がおかしくなったのかと思ったが、そうではなかった。
「ねえ、ちょっと!」
リタが驚いて声をあげる頃には、ウルもアロイスも異常に気付き、腰を浮かせていた。しかし、それ以上何をするでもなかった。いや、できなかったのだ。目にしたものに、呆気にとられるばかりで。
全員が見守る中、グウィオンの姿は幻のように不確かになり、みるみるうちに全く違う姿になった。小柄ながら、引き締まって直線的な体つき。射るような眼光。陰気に引き結ばれた唇に、後ろが短く刈り揃えられた髪。
それはどこからどう見ても、「男」でしかありえなかった。




