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恋人の囁きに目覚めん

 暮れゆく空の下、揺れる灯りがそこかしこに輝き、ゆっくりと一方向に向かってゆく。光の川を思わせる、どこかロマンチックにも見える列に加わりながら、トゥランは無性に胸がどきどきして、何度も隣を歩く人の顔を見上げていた。

 初めての恋人は、そのたび優しく見つめ返して、腰に添えた手に力を入れた。どうしたの、と低く問いかけながら。すると心臓が甘く痺れて、いっそう落ち着かない気持ちになってしまう。

 この気持ちが恋によるものか、これから起こる事への恐れのためか、自分でもよく分からなかった。自分が何をどうしたいのかも。考えのまとまらぬまま、もう戻れない場所まで流されてゆくような心地だ。


(それでも……今日起こることを見届けなくちゃいけないような気がする)

 本能にも似た力が、トゥランを突き動かしていた。迷える心とは裏腹にしっかりとした足取りで門を出ると、王族や貴族たちの雅な行列を見ようと、町人たちが通りの両側に群れていた。

 その中にフィンたちもいないかと視線を巡らせたが、それらしき姿は見つからない。


「きっと、どこかにいるよ。もしかすると、貴族のふりをして中にいるかもしれない」

 アロイスが耳元に囁いた。

 聖堂への入場に身分制限はないが、この日ばかりは、暗黙の了解で王侯貴族が優先される。しかし、紛れ込んだからといってつまみ出されることもないはずだ。人間同士の争いに嫌気がさして天に昇ったとされる神を呼び戻す祭事で、つまらぬ小競り合いは何よりも避けられる。

 とはいえその場で、大それた企てを目論む者もいるのだが。

 

 トゥランはうなずいて、胸を押さえた。

 胸騒ぎが止まらない。一歩進むごとに、その感覚は強くなった。それから、以前聖堂の奥の部屋で感じた気配。

「お母さま……?」

 きょろきょろとあたりと見回したが、好奇の目を向けてくる令嬢の目線とぶつかるばかりだ。どうやら妙に注目されているらしいと気が付いて、アロイスに囁きかける。

「何だか見られているみたい」

「僕のことが知られているのかな……いや、きみのことが気になるのかもしれない。こんな風に、恋人扱いするのは初めてだから」

「そうなの? アロイスっていつでも令嬢の誰かといたわ」

「エスコートしただけだよ。特別扱いはしないよう、気を付けていたしね」


 アロイスはそう言って、軽い音をたててトゥランの耳に口づけた。

 思わず熱くなる頬を押さえながら、トゥランは居心地悪くもじもじした。令嬢たちは今ごろ目をむいているかもしれない。なんだってアロイスは、わざわざ反感を買うようなことをするのだろう。

「今ので女性全員を敵に回したわ」

 口を尖らせて文句を言う。

「味方だったことがあるの?」

 からかうようなアロイスの言葉はなかなかの鋭利さだったが、トゥランはかえって気が軽くなった。

「それもそうね」

 もともと、自分の側にはなかった人々だ。敵に回したからといって、大して変わらない。

 

 気を取り直して、聖堂の中へ進んだ。中はもう人でいっぱいで、神聖な雰囲気はどこへやら、いつもの夜会と変わらぬ雰囲気で談笑している。

 トゥランの見知った顔も多かった。一言も話したことのない兄弟姉妹や、たくさんの妃たち。そしてディアナのお茶会にいた令嬢たちもいる。

 アロイスの家族も、すぐに分かった。背が高く容姿に恵まれ、また人に囲まれているので、よく目立つのだ。心なしか目があったような気もしたが、特に何の反応もなかった。気のせいかもしれない。


(とても綺麗な人たち……綺麗だけど、なんだか怖いみたい。笑った顔がひりひりしてる)

 似通った雰囲気を持つ面々をしげしげと見やって、ちらりとアロイスを仰ぎ見る。同じように家族を見ていたらしいアロイスは、すぐに気づいてトゥランを見下ろした。すると目尻が柔らかくなごんで、花開くようにほころぶ。

(やっぱり、似てないわ。全然似てない)

 トゥランはぐいとアロイスの腕を引いて、もっと奥まで進んでいった。

「近くにいない方が良いかと思って」

「そうだね」

 それきり、彼らのことは何も話さなかった。


 その間も胸騒ぎは強くなるばかりで、もはや息苦しくなるほどだった。

(呼ばれてる……気がする。何に?)

 喧騒の中にいるのに、なぜだかあらゆる音が遠く感じる。夢の中にいるように現実味がなくなってゆく。自分の存在に自信が持てない。怖くて、アロイスの腕にしがみついた。その手にも力がない。

「なんか……変なの」

 どうしたの、というアロイスの声までが遠い。不安でたまらない。

「何かが近づいてくるの」

 途方もないような何かが。

 でもそれをうまく説明できない。


「ここを出て、少し休もう」

 アロイスが抱き上げようとするのを制して、首を振った。天地がひっくりかえったような、妙な感覚がした。

「だめ、ここにいなくちゃ。お願い、ここにいて」

 本能で分かったことは、それだけだ。

「……震えてる。寒いの?」

「自分でもよく分からないの」

 うまく舌が動かなかった。言われてみると寒いような気もしたし、心臓の内側から炎が起こっているような気もした。自分が自分でなくなっていくような恐ろしさ。


 トゥランが得体のしれない予感に身を震わせるうち、やがて聖堂の奥、祭壇の前には、国王と正妃、王太子の姿が現れた。そして、星巫女の姿もだ。神官長が、その後方についている。

 星巫女の長く裾を引く白い衣装は、荘重さを強調していた。織り込まれた銀糸は光を反射してちらちらとまたたき、まるで地上に降りてきた一つの星のようだ。


 やがて壇上の祭壇に国王と星巫女が並び立つと、人々の間にはどよめきに似た声が広がっていった。

 本来ならば神官長があるべき場所に、年若く、正式に就任式もしていない星巫女が立っているのだ。しかもあの無愛想にして傍若無人な国王が、それを許すだけでなく、祭壇の前に跪いている。

「陛下が膝をつかれた……」

「このようなこと、これまでなかったぞ」

「どういうことだ」

 戸惑うような声のあと、人々は慌てて国王に倣い、膝をついて頭を垂れた。主君が頭を垂れているのに、臣下が突っ立っているわけにもいかない。


 アロイスとトゥランも同じようにしながら、注意深く壇上に視線を走らせた。トビアスの企み通りならば、これから星巫女は「何か」をするはずだ。国王を陥れるために。

 唯一膝を折っていない星巫女は、星読みの杖を掲げ、よく通る美しい声を聖堂中に響かせた。

「我ら、罪を悔い改め、ふたたびの恩寵を祈りし者。どうか全き手を差し伸べ、祈りに応えたまえ。愚かなる我らを許し、導きたまえ」

 すると星読みの杖はまばゆく光り、聖堂中を照らした。

 おお、と人々は畏怖と共にいっそう深くひれ伏し、いつになく敬虔な信徒のごとく、祈りの言葉を繰り返した。

 その堂に入った振る舞いはどうしても本物にしか見えず、もしも偽物なのだとしたらたいへんな役者ぶりだと、妙な感心をしてしまったほどだ。

 

 しかし、杖は輝きはしたが、それ以上の特別な反応は何も起こらなかった。奇跡や御印すら現れない。

 星巫女はやがて掲げた杖を下ろすと、靴音高く国王の一歩手前まで近づいた。跪いたままの国王を見下ろす。場合によっては不敬罪とされても仕方のない行為だが、咎める者は誰もいない。

「神はお怒りになられている。信心を忘れ、欲望と利己に生きる者を疎み、顕現を拒まれた。心清き王を頂にするまで、この地に神の恩寵が届くことはない。それが巫女である私を通して伝えられたすべてだ」


 聖堂は凍り付いたようにシンとなり、誰も身動きをしなかった。

 星巫女が、国王を断罪する。

 ありえない事態が起こっているというのに、誰も声をあげない。本来真っ先に真偽を問うべき側近や妃、神官長や議長が沈黙している。あるいは、この場には国王の専横を疎ましく思う者しかいないのだろうか?

 息苦しくなるような間合いの後、国王はゆっくりと顔を上げた。その表情は、トゥランからはよく見えない。


「……話が違うな」

 国王の声音は、いつもと変わりなく平坦だ。

「星乙女が呼びかければ、女神は再来するはずだ。なぜ現れない?」

 淡々と問いかけながら、ゆらりと立ち上がる。

「いま伝えた通り、心悪しき者が王であるからだ」

 星巫女は繰り返す。

「私が死ぬまで女神は現れぬと?」

「この世界は変わらねばならない。そのために、欲にまみれた王は必要ない」

「……それがお前の目的か。それから、今黙って状況をうかがっている者どもの」

 国王が聖堂中をぐるりと睥睨すると、人々は目を合わせまいと、頭を垂れたまま居すくんだ。王のために立ち上がる者はいなかった。


 星巫女は勝利を確信したのか、ますます声高に国王の罪を叫んだ。

「とどまることのない色欲により秩序を乱し、人々のの心を踏みにじり、無益な戦乱を引き起こし、臣下の忠誠に報いず、最低最悪の王としてこの国を堕落させてきた罪は重い。その報いを受けるべき時だと、神は申しておられる。神を待ち望む民のために、神命を受けるべきではないのか」

「……それがお前の願いだと? アウレリアよ」


 国王が口の中で呟いた名前は、静まり返る聖堂で、離れたところにいたトゥランの耳にも奇跡的に届いていた。

 打たれたように息を止めて、トゥランは顔を上げた。

 あの星巫女が母ではないことを、トゥランは知っている。偶然にもあの星巫女の名がアウレリアである可能性を除けば、王が呼びかけ、問いかけたのは、「女神」でしかないのではないか。

(お母さまが女神だった……なんてことがあり得るの?)


 額づく人々の中、身を起こすと、父と目があった。しかしその目はトゥランを見ているのではなかった。その向こうに、この場にいない人がいる。

 母の影を追っていたのは、自分だけではなかったのだ。トゥランが思うよりもずっと、父は母のことを求めていた。

 あの名ばかりの父に、そんな感情があろうとは夢にも思わなかった。この世の何であれ、本当の意味で心を動かすことなどできないのだと思っていた。


「……確かに、現れるとは言ったが、会えるとは言わなかったな」

 王は力なく祭壇に手を触れた。

 急に別人になったかのように、覇気がなかった。ゆるゆると祭壇を撫でる手はまるで枯れ木の枝のよう。もう星巫女の方を見もしない。

 その様子に苛立ったのか、星巫女は声を張り上げた。

「決断せよ! それとも、往生際悪く神の審判を待つつもりか!」

「女神の剣ならば、受けてやっても良いがな。女神は来ないのだろう。審判を下すのはお前か、それともそこらにいる正義面の家臣共か?」

 皮肉めいた口ぶりで返しながら、王は壇下の臣下をつまらなさそうに見渡した。

「まるで他人事だ。次の王は内定済みか。王の首をすげ替えたとて、この世の汚濁は変わらぬ。それが分からぬ女神ではないはずだが、私への戒めのつもりか。再びまみえんがための悪行も無駄になったな」


 ここにはいない人に話しかける王は、いつになく弱弱しく見えた。長年、王宮を圧してきた者の姿とも思えない。

 過去、母との間に何があったのか、想像もつかない。もし愛し合っていたのならば、なぜ女神が去ったのかが分からない。けれど王はずっと待っていた。待って、待って、会える時を夢想して、そしてそれが叶わぬことに絶望した。トゥランには、そう見えた。

 王は星巫女に背を向けた。亡霊のようにゆらゆらと壇上から降りてゆくのを、呼び止めた声がある。


「恐れながら、申し上げます! あの女の言葉はまやかしです! 神の言葉を借りて、王宮を我が物のように扱うあの女を排除すべきです!」

 裏返った、悲鳴のような声だった。よほど勇気を振り絞ったのだろう、無様とも言えるような声は、聖堂の空気を一変させた。それまで背景のように事態を静観していた者たちが、ようやく息を吹き返したのだ。次々と意を同じくする声があがる。

「父上は騙されておいでです!」

「裏に仕掛け人がいるに違いありません。このような状況で得しているのは誰なのか、お調べください!」

「このような侮辱を許してもよいとお考えなのですか、陛下?」


 王子や、名だたる領主や、官吏たちが次々に声をあげるのを、王は虚ろな目で見やっている。何一つ心動かされていないのは明白だった。

「偽物か。ありえなくもないが」

 他人事のように呟いている。

「どちらにしろ女神が現れないのであれば、私にとっての価値はない」

 自分を擁護する者たちすら無視して立ち去ろうとする王に立ちはだかる者と、王を守ろうとする者が現れ、さらには剣を抜いた者まであったので、聖堂は悲鳴や怒号やその他色んな声でいっぱいになった。


 逃げ出そうとする人に押しのけられながら、トゥランはぐらりとからだを傾げた。ふいに気が遠くなったのだ。頭の中が空洞になったような、妙な感覚がして、そしてその虚に誰かの声がした。

“哀れだわ。知っていても、見ていられない”

 その声が誰なのか、トゥランは知っていた。

 ずっと前に聞いた声、もう覚えてなどいないのに、すんなりと理解できていた。そして受け入れていた。十二年前に失踪した、母アウレリアなのだと。


(お母さま)

 目から熱いものがあふれた。

「トゥラン、トゥラン!」

 必死にアロイスが呼びかけ、抱きすくめているのにも気づかなかった。トゥランはその時、自分の内側で母と十二年ぶりの再会を果たしていたのだ。

(お母さま、どうして)

 問いかけたのを、アウレリアの声は遮った。

“何もかも、いずれ分かるわ。いつだって知るべきは過去よりも今のことなのよ”

 教えてくれるつもりはないようだ。

 食い下がるのはやめて、質問を変えた。


(これからどうすればいいの。お父さまはどうなるの)

 きっと、母は父の窮地を救いに来たに違いない。

 トゥランはそう思い込んでいた。あれほど王が会いたがっているのだ、母も本当は会いたかったのかもしれない、これまで身を隠していたのは、何か理由があったに違いない、と。

 だが、そうではなかった。


“私が残した力が、少しずつあなたの中に満ち始めた。望みなさい。祈りなさい。あなたは新しい世界になるの”

 母の言うことは、ちっとも意味が分からなかった。

 一つ一つの言葉について、いちいち尋ねたいくらいだ。祈りの力とは何なのか、望みとは何のことか、どう助けてくれるのか、世界が変わるのはどういう意味か。

(どういうこと?)

 結局、我ながら鈍くさい質問を返したが、それに返ってきた言葉もまた、トゥランを悩ませるばかりだった。


“あなたは運命の輪。変容をつかさどる私の娘。でも、まだ目覚めていないの。繭の中のさなぎのよう。いつまでも起きないから、こうして起こしに来たのよ、お寝坊さん”

(お母さまに会いたい)

“会えるわ。いつかあなたの力が完全に充ちたらね”

(力って何? どうすれば充ちるの?)

“祈りなさい。ただそれだけよ、トゥラン。私たちの力の本質とはそういうものなの”


 何を祈れば良いの、と尋ねようとして、トゥランはぱちりと目を開いた。そして絶望した。

母との会話は終わってしまった!

 話したいことはたくさんあったのに、訳の分からないことをほんの少し話しただけで終わってしまうなんて。

 まだぼんやりとしたまま、何度かまばたきをした。

 ずいぶんと辺りが騒がしかった。怒号や悲鳴や大勢の足音が入り混じって聞こえてくる。気を失う前よりも、ひどくなったようだ。

「良かった、トゥラン。気が付いたね」

 すぐそばでアロイスの声がした。気づけば、彼のマントごと両腕に包まれているのだった。首を回すと、すぐ後ろは壁だった。いつのまにか、聖堂の端で二人、身を寄せ合っているらしい。


「気分は? 歩けるかい?」

 アロイスの問いにはこたえずに、トゥランはひとまず一番大切なことを伝えた。

「お母さまの声がしたの」

「……え?」

 怪訝そうな顔をするアロイスに、重ねて告げる。

「頭の中で、お母さまの声がしたの。でも、何を言っていたのかよく分からなくて……」

 後半はほとんど独り言だった。

 トゥランよりさらに断片的な情報を与えられて、意味が分かったはずはないが、アロイスは注意深くあたりに気を配りながら、辛抱強く問い返した。


「間違いなく、妃殿下だった?」

「間違いないわ。私の娘、と呼んでくれたもの。私を起こしに来たって……私、寝てなんかいなかったのに」

 結局、何が何だか分からなかった。ただ一つ言えるのは、母はやはりただの人間ではなさそうだということだけ。

 本当に女神だったのかもしれない。

 でもそうなると、その娘である自分も人間ではないことになる。


「また会えると言ってた……祈れば会えるって。でも、何を祈れば良いの? 訊こうと思ったのに、目が覚めてしまったの」

「…………」

 アロイスは怖いくらいに真剣な目で、トゥランを見つめた。そして、乱れた髪をそっと長い指で梳いてくれた。語り掛けるような瞳に見つめられると、少しずつ心が落ち着いてくる。

「きっと答えはきみの中にあるんだ」

 宥めるような声には、確信めいた響きがある。

(アロイスには、お母さまの言いたいことが分かっているのかしら。いつだって、私が最後にたどり着くんだわ)

 もどかしさと悔しさがこみあげてくる。どうして自分はいつも、真実を見つけるのが遅いのだろう。


(お父さまを助けてって祈れば良いの? それとも単純に、お母さまの再臨を祈れば良いの?)

 試しに両方とも心の中で祈ってみたが、何も起こらなかった。

 あるいは、声に出さないといけないのだろうか。分からないことだらけだ。

(やっぱり、私に特別な力なんて何もないんじゃないかしら)

 そんなことを考え始めた時だ。

 突如強い光がさして、思わず目をつむった。聖堂中を射抜くような光に、ほとんど全員が顔を覆ったため、乱闘や悲鳴はたちどころに収まった。

 息詰まるような静寂ののち、それまでとは違ったざわめきが、祭壇の方から聞こえてきた。


「父上、父上!」

「揺さぶるな、侍医を呼べ!」

 ただならぬことが起きたと分かる声に、トゥランの身はすくんだ。すぐにでも確かめたいのに、足ががくがくと震えている。

 そこへ、星巫女の大音声が響いた。

「これは神の裁きだ! 神聖なる儀式を汚した罰が下ったのだ!」

 心臓が早鐘のように打っている。何が起こったのか知りたいけれど、知りたくない。

 立ちすくむトゥランの脇を、誰かが通り過ぎて行った。白いマントを片側にはためかせた長身の男――隙のない、敏捷な獣のような身のこなし。

 ウルだ。さすがにこの日ばかりは、黒の礼装を咎められたのだろう、見慣れぬ色を纏った姿は王子然として見える。


「……死んでる」

 やがて人垣の中から、ウルの声がした。

 するとある者は半狂乱になって聖堂から逃げ出し、またある者は誰が殺したのかと大声で呼ばわった。静かに平伏し、弔意を示す者もいた。

 混沌の中、トゥランは弾かれたようにして走り出した。

「トゥラン!」

 すぐにアロイスも追いかけてくる。

 人垣を分け入りながら壇上に登ると、王は倒れていた。不思議なことに怪我らしきものはほとんど見当たらず、衣服の乱れも少ない。何が死因なのか、一目では分からない。


 湧き上がったのは、言いしれぬ感情だった。

 愛された記憶はなく、愛したこともない父だが、それでもこうして無力な姿と対面すると、気持ちが沈む。

 話したいことがあった。今思えば、話しかけてみれば良かった。どうせ話してくれないだろうと決めつけていたが、試してみなければ分からないことだった。

 王のそばには、他にも何人かの王子や側近が膝をついていた。

 しかし、そのうちの誰一人として、心から悲しむ表情は見せていない。それよりも、もっと別のことを怖れているようだった。これからどうなるのかと、青ざめた目を見合わせている。


(でもそれは、お父さまのせいなんだわ。誰のことも信じなかったんだもの。幸せになる方法を知らなかったのね、かわいそうなお父さま)

 どこか冷静に考えながら、トゥランは一粒の涙をこぼした。

 父は強い王だった。横暴で無慈悲な王でありながらこれまで謀反に倒れることがなかったのは、恐怖によって人を制御してきたせいだ。

 それでも、死ぬときはこんなにも孤独で、無力で哀れだ。


「祈ってさしあげよう。僕らだけでも」

 耳元で、アロイスが囁いた。

 トゥランはうなずいて、両手を組んだ。

 ふと、祈りなさい、といった母の言葉が思い出された。

「祈ったら……何か起こるかしら」

 ふと怖くなって呟いたトゥランの肩を、アロイスが引き寄せる。

「起こるべくして起こるものなら、きっと逃げることなんてできないよ。でも、何があっても僕はそばにいるし、きみはきみのままでいればいいんだ」

 それなら、怖いものなんてない。

 トゥランはふとほころんだ気持ちになって、改めて目をつむった。

 祈りの言葉は、探さなくともいつのまにか胸の中にあった。それを唇にのせるだけで良かった。


「もうこれ以上苦しむことも、誰かを苦しめることもありませんように」

 餓えた獣のように、奪うことしか知らなかった父。そして、決して満たされることのなかった父。その苦しみは王宮全体に広がっていた。絶えず続いた継承権争いや、男女の諍いや、裏切り、陰謀。不信と憎しみに包まれて生きるしかなかった人々。

 父がいなくなれば、そんなことも変わっていくだろうか。

「みんな、誰かを信じられるようになりますように」


 そばにいないと聞こえないような、微かな声で祈りが囁かれた、すぐ後のこと。

 ふいに星巫女が叫び声をあげたかと思うと、その手から錫杖がひとりでに離れ、宙を飛んでトゥランの側に落ちてきた。何か語りかけるかのように淡く光を放つ星読みの杖を、ぽかんと見つめたトゥランだったが、本能に動かされるようにして手に取った。

 すると、誰も聞いたことのないような清々しい音と柔らかな風が、聖堂中に巻き起こった。鐘よりも優しく、木管よりも温かく、鈴よりも澄んだ音に、人々は一瞬何もかも忘れて聞き入った。

 まさしく天上の音だった。

 そして重苦しい空気を洗い流すかのような風が、人々の髪や乱れた裳裾をゆるく撫でつけ、くすぐった。心浮き立つ春風のごとくかぐわしく、胸躍らせる風だった。


 星読みの杖は、初めから自分のものだったかのように、手に馴染んだ。使い方も、分かる気がした。それを手にした瞬間から、目には見えないはずのものが見え始めている。

 トゥランは自分が何者であるのか、はっきりと理解した。今となっては、なぜこれまで力が解放されずにいたのか不思議なほどだった。それほどまでに、新たに得た力はすでに自分の一部だった。

「邪悪なる魔術師よ、我が杖を返却せよ! さもなくば、災いが降りかかるだろう!」

 星巫女の声が聞こえる。いや、星巫女を装っていた女の声が。

 トゥランは振り返ると、首を振った。


「魔術師はあなたの方だわ。星巫女のふりをして、皆をだましていたのね」

 冷静な対応が予想外だったのか、星巫女はさっと顔に血をのぼらせた。

「たやすく偽りを述べる舌よ、呪いあれ!」

「そんな呪いをかけても良いの? 嘘をついているのはあなたの方なのに」

 トゥランが言うやいなや、星巫女は口元を押さえてもがき苦しみだした。立っていられないのか、あちこちによろめきながらうめいている。

 痛ましく思ったが、あいにく自分がかけたわけでもない呪いの解き方は分からない。


「……もう少し早くこれを手にしていたら、お父さまは死なずにすんだのかしら」

 脈打つようにしてからだ中に満ちてゆく力を感じながら、トゥランはやるせない気持ちになった。今回もやはり、遅すぎたのかもしれない。

 まわりを見回すと、人々は疑心暗鬼の表情でこちらを見ていた。

 無理もない。今日はめまぐるしく事が起きすぎた。いま何が起きていて、何を信じて良いのか分からないのだろう。

(あの星巫女が偽物で、お母さまは女神だったと言っても、きっと全ての人が信じてはくれないわね)

 それどころか、信じてくれる人の方が少ないかもしれない。自分だって、いまだに夢をみているような気持なのだ。


 でも、夢じゃない。

 星読みの杖がほんのりと熱を持ち、ひときわ明るく輝いたかと思うと、美しい女の姿がもやのように曖昧な輪郭で現れ、微笑みかけた。

 十二年ぶりに見る母は、おぼろげな記憶の中の姿と少しも変わらない。

「新たな女神に祝福を」

 それだけを伝えると、トゥランが声をかける間もなく、光となって消えてしまった。白く煙った朝もやのような名残を見つめながら、トゥランは泣いた。

 悲しいのではなかった。嬉しいわけでもなさそうだ。ただ、生まれ落ちた日のように胸がいっぱいで、自然とあふれてくるのだった。


 その目元を、アロイスの指が拭ってくれた。彼は全くいつもと変わらず、壇下の人々と違って、疑念や畏れや混乱を浮かべていない。

「私、神さまの娘だったみたい」

 おずおずと口にしてみると、アロイスは春を思わせる微笑を浮かべて言った。

「きみは出会った時から、僕の女神で輝ける星だったよ」

 これまた、いつも通りの賛辞をくれる。

 感激しながら周りを見れば、ウルは心底げんなりした顔でそのやりとりを見守っていた。こちらもある意味ではいつも通りだ。

 変わらぬ人々。変わらぬ愛情。

 

 けれど、変わりゆくものもあった。

 女神として目覚めたトゥランの前に、一人の男が近づいてきた。

 アロイスの父、トビアスだ。

「思わぬところから降臨めされたものだが、女神よ、我らの願いを一つお聞きいただきたい」

「……どうぞ」

 不穏な変容の兆しを感じながらうなずく。


 優雅に一礼をすると、衆人の視線を集めながら、トビアスは豊かな声を張り上げた。

「我らは支配に倦み疲れている! 横暴な王による支配、気まぐれな神による支配、偽りの巫女による支配にもだ! 思えば数千年もの間、我らは常に支配を受け、翻弄され、混沌の中にあった。だがその歴史ももう終わらせる時ではないのか? 我らは我らの足で歩みだす時ではないのか? 我らはもはや、神も王も求めない! ゆえに女神よ、どうか再び眠りにつき、我らに自由を与えたまえ!」

 それは唐突にして明確な独立宣言だった。

 聖堂は静まり返り、戸惑いの気配だけが漂っていたが、じきにどこからか拍手が鳴り、徐々にそれは大きくなった。

 人々は目覚めたばかりの女神を、排除しようとしていた。

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