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暁も宵闇も知らずまどろみ

 久しぶりに、長兄と次兄が昼食の席に集っていた。二人ともとうに結婚して家を出ており、長兄は辺境を抑える騎士団長として、次兄は宮廷官吏として働いている。普段はほとんど顔を合わせることもない。

 そんな二人の存在に、アロイスは嫌な予感がした。今日の夜には降臨祭がある。人間を見捨てて天に帰った女神に、再降臨を願うのだ。国王は神官を引き連れて月光神殿まで練り歩き、貴族たちもこの日ばかりは馬車でなく徒歩で移動する。国中の重鎮や貴婦人が神殿に集まる、厳かな祭事だ。

わざわざその前に集めたのは、その場で何かを企んでいるからかもしれない。


 会話をするには少々不便なほど大きなテーブルを囲んだ一家は、一様に美しかった。しかしその美質はそれぞれ異なっており、あまり似ていない三兄弟でもあった。

 父に容姿こそ似たものの、長男のディートリヒにトビアスのような柔和さはない。若さに似あわぬ厳めしさから、実年齢よりもずっと老成して見える。一方で次男のレオンは、怜悧にして隙のない雰囲気を纏い、感情を見せぬ表情は作り物めいている。そして母親の優美な美貌を一身に受け継いだのがアロイスだった。


 傍系王族の血を引き、莫大な資産と権力を蓄え、洗練された美を誇り、社交界の華と称される一族だが、家族間に流れる空気は冷え冷えとしている。

 母のパトリツィアは、食堂に入ってきてから一言も発していない。夜会で見せる華やかな笑顔が嘘のように、無表情で手元のフォークとナイフに目を落としている。

 トビアスと息子たちも、どこか儀礼的な挨拶を交わしたきり、団らんには程遠い雰囲気で食事を始めた。


「今宵、事が動く」

 柔らかく仕上げた鴨肉を口に運びながら、トビアスはなにげなく切り出した。よく通る豊かな声は、張り上げなくとも聞き取りやすい。

「混乱はあるだろうが、誰の肩も持つ必要はない。静観しているが良い」

 何の具体性もない発言に、長兄と次兄は困惑して目を見合わせた。そしてお互い理解できていないのを察すると、口々に尋ね返した。


「どのように事を起こされるのですか。人を使うのですか」

「謀反ですか。それとも、近頃異様に存在感を増している星巫女は父上の手飼いですか」

 レオンが口にした可能性は、アロイスが薄々考えていたことでもあった。父のやり方は、何となく予測がつく。理解したくもないことだが。

「あの愚か者は、まこと神の使いと信じているようだがな」

 品よくワインの香りを確かめながら、トビアスは口の端に嘲りを滲ませた。


(なんて醜いんだろう。この人の本当の顔は)

 アロイスはむっつりとうつむいて、料理を黙々と租借した。

 人前では快い言葉を舌にのせ、感じの良い微笑みを浮かべる紳士だが、それら全ては偽りに過ぎない。人格者と祭り上げられる父親が、誰よりも冷徹であることを知っている。


 トビアス・ラングには心がない。政を盤上遊戯が如くにもてあそび、思惑通りになろうがならまいが、大して気にも留めない。その様はまるで、退屈しのぎに興じているように見える。

 アロイスは生まれてこのかた、父の怒りを目にしたことがなかった。褒められたことも、失望されたこともない。それを望むことも、とうの昔にやめてしまった。

 未だに固定の役職につかず、遊興に明け暮れているというのに、咎められたことすらない。むしろ、面白がっているふうさえあった。

 ひょっとすると、息子の一人が反抗の末に堕落してゆくのを期待していたかもしれない。そういう悪趣味なところがある。

けれどアロイスは、そこまで極端な行動に出る気もなかった。

 ただ静かに、絶望していた。


「人は誰しも、信じたものに裏切られるものだ」

 そういう父自身は、これまで何かを信じたことがあったのだろうか。

 アロイスが冷えた感情を抱くかたわら、兄たちと父の会話は進んでいる。

「ではあの星巫女が陛下を断罪されると?」

「言葉の力は、時に何よりも強い。それが最後に学ぶ教訓だ」

「ですが、星巫女の信奉者が陛下の勢力を上回っているとは思えません」

「だが、身命を賭してまで守ろうとする者もまた少ない。くだらぬ人間には、くだらぬ人間しか従わぬものだ。そろそろ掃除をするのも良いだろう」


 固有名詞を用いずに語るのが、トビアスの話術だった。まるで自然と変わりゆく情勢の中、何も手を下さずにただ佇んでいるかのように思わせる。

 それでいて、その中心にいるのは彼だ。言葉巧みに人を動かし、そうと気づかせぬまま操ってしまう。

 兄たちは、早口に今後のことを話し始めた。誰が玉座につき、誰が失脚し、誰が台頭するのかを。

 婉曲な言い回しを好む父と違って、兄たちは直截的だ。誰それは落ちぶれるだろうとか、誰それは無能だとか、断定的に価値を決めてゆく。


 そんな会話を遠く聞き流しながら、アロイスはトゥランのことを考えていた。

 もし国王が退けば、トゥランの立場は危うくなる。トゥランにはすでに母がない。兄である王太子が王座について、後宮が一新されたら、最悪の場合居場所を失う可能性だってある。

 どうすれば、あの無垢な姫君を守れるだろうか。

 現国王を守れば良いのか、とも思ったが、あまり良策とも思えない。守ったところで、恩返しをしてくれるような人物ではない。もしもトゥランが悲しむのなら選択肢の一つになりえるが、そうはならないような気もしている。


(この国には、二人の悪魔がいる……心なき悪魔が)

 いっそ、王宮の外のどこかにトゥランを逃がした方が良いのかもしれない。悪魔の気まぐれに翻弄されるのを見るよりは、ましかもしれない。

 そんなことを考え出したころ、おもむろにトビアスが水を向けた。

「お前はこのところ、雲隠れの姫に執心のようだが」

「…………」

 背中を嫌な寒気が渡った。

 まさかこの父が、あの変わり者の姫を好意的に語るとも思えない。そして彼が排除すると決めた人間は、迅速に、そして徹底的に破滅させられてしまう。


 言葉に詰まる三男を興味深げに眺めて、トビアスはワインの香りを楽しみ、舌の上で転がした。彼にとっては息子を含めた人間模様の全てが、日常を彩る嗜好品でしかない。

「社交界をほぼ手中に収めておきながら、妙なところに転がり落ちたものだが、あの王女が何者か知っているのか?」

「何者……とは」

 単なる身分のことを言っているのではない。

 アロイスはますます身を固くしながら、慎重に尋ねた。この人は、何かを知っている。恐らく、アロイスの知らない何かを。


 アロイスの緊張を冷めた目で見やって、トビアスの視線は再び料理に落ちる。

「その様子では、知らずに近づいたらしいな。あの娘の母親は元々貴族でも王族でもない。無理やり妃にしたのには呆れたが、あれは夫婦というより、教祖と信者の関係に近かった。なんでも、予言者の末裔だと思い込んでいたらしいな」

 予言者、との言葉に、アロイスは目を見開いた。

 父は、ヒエロニムスを知っている。けれど、予言者の「末裔」という言い方からして、アウレリア妃をただの人間だと思っているようだ。アウレリア妃がヒエロニムスその者かもしれない、とは考えていない。


 アロイスはひとまず落ち着こうと、水で口を湿した。

 動揺してはだめだ。術中にはまって余計なことを話しては。

 共有している情報と、していない情報を精査しなければ。

「アウレリア妃殿下の私物を宮から持ち出したのは父上ですか。それとも陛下が?」

「命じられたのは別の官吏だが、私も同行した」

 いかにもたやすいことのように言う。国王とて、信頼のおける官吏に命じたのであろうに、どんな甘言で説得したのやら。


「では黄昏の書もご覧に?」

「無論」

 兄たちは何のことか分からず、怪訝な顔をしている。

「父上、それは一体……」

 ディートリヒが問いかけたのを制して、トビアスは愉快気に目の奥を光らせた。

「思いのほか、よく知っているではないか。私にはおとぎ話の類にしか思えぬが、信じる者がいるならば叶えてやるのも一興だろう。おとぎ話も、使いようだ。その意味では感謝している」


 そもそも家族ですら信じない人間が、何の根拠もない予言を信じるわけがないのだった。

 アロイスは妙に納得した。そしてそこに父の弱点があるような気がした。

 トビアスは予言を利用したつもりでいるらしいが、結果的に見れば予言の成就に一役かっている。どちらの力が強く作用しているのは、終わってみないと分からない。


「では、その感謝に免じて、姫君との逢瀬をお許しいただけますか」

 にっこりと笑ってみせると、トビアスは鼻で笑った。

「もとより、禁じておらぬ。誰なりと、気の向いた女を誑かせるが良い。それがお前の生き様なのだろう」

 一見寛大な態度に、兄たちが「甘すぎるのでは」と声をあげた。アロイスにとっても不可解な気がしたが、トビアスの話はそこで終わらなかった。

「女遊びは構わぬが、そろそろ表向き妻を持ったらどうだ。そうすれば相手も本気にはせぬだろうし、後腐れがない。リヒテンブルグの令嬢辺りが適格だろう。あの娘はお前をよく知っている。多少の戯れには目をつむるはずだ」


 突然持ちかけられた縁談は、当然、気まぐれで口にしたのではなく、以前から考えていたのだろう。

 アロイスとて、以前ならば了承したかもしれなかった。幼少の頃から親しく、家格も見合うディアナは半ば公然と結婚相手として目されていたし、アロイスもそれは承知していた。

(適当な頃合いに、適当な人と結婚するのだろうと思っていた……トゥランと出会うまでは)

 貴族とはそういうものだ。そうあきらめていた。

 でも、今は到底うなずけない。想像もしたくない。自分の傍らに、トゥラン以外の女性が立っていることが。


「私の結婚で、誰かを悲しませるのが嫌なのです」

 実のところ、トゥランが悲しんでくれるのかどうかは甚だあやしいが。と内心で呟く。盛大に祝われるのが関の山だ。

 トビアスは腹を立てるでもなく、婚約を強制するでもなかった。持ちかけた時と同じくらい簡単に、提案を引き下げた。

「お前はまだ、誰も傷つけずに生きてゆくことが可能だと思っているらしいな。まあ良い。いずれ何が傷みの少ないやり方か、分かる時が来るだろう。来なければ、お前は救いようもない愚か者だったということだ」


 父の言葉は、鋭く胸に刺さった。

 かつては本気で、誰も傷つけずに生きてゆこうと思っていた。誰にでも親切に接し、好かれようと努めてきた。ためらいなく人を陥れる父への、ささやかな反抗のつもりもあった。

 でも今では理解しつつある。いつまでも「みんなのアロイス」でいることはできないのだと。

 今はもう、あらゆる人々に細やかな心を割くことはできない。アロイスの心には、もう一人の姫がいて、日に日に大きくなってゆく。自分の全てをその人に捧げてもなお、足りないような気がするのに、他の人に同じ気持ちを捧げることはできない。

 愛することの何たるかも知らなかった自分は、確かに大馬鹿者だったのだ。


 父と兄たちは、今晩の首尾についての話に戻っている。国王を失脚させた後は、増えすぎた王族を一掃するつもりでいるらしい。

「中には生まれの卑しい人間もいますからね。あれだけの人数を養い着飾らせるなど、国費の無駄というものです」

 普段は無駄口をきかないレオンが、珍しく饒舌だ。決して仲は良くないディートリヒも、調子を合わせている。

「しかし、追い出すにしてもある程度抵抗はあるだろうな。徒党を組まれると厄介だ」

「事前にめぼしいところは始末しておいた方が良いのでは?」

「そうだな。ワインに混ぜ物でもさせるか」

「直接人を向かわせると、どうしても足がつきやすいですからね」

 人の生死が、世間話のように語られる。それが昔からの日常だった。罪の意識はないのかと尋ねても、不思議な顔をされるだろう。

 ここはそういう場所なのだ。


 デザートまで食べ終えると、早々に席を立った。皿は綺麗に空にしたものの、食べたものの味は少しも覚えていない。砂利を詰め込んだように、胃のあたりが重い。

 それでも、つとめて優雅に振る舞った。

「ご用件はお済みでしょうから、先に失礼します。可愛い人に会いたいので」

 この出来そこないの放蕩者めが、というディートリヒの罵倒を聞き流して立ち去ろうとした矢先、鋭くパトリツィアの声が響いた。

「あなたの力で、没落する王女を救えるとでも?」


 足を止める。自分とよく似た顔立ちの美女に振り向いた。

年を重ねてかつての瑞々しさは失われたが、代わりに成熟した魅力が備わっている。今でも社交界では中心的存在だ。

「母」であることは向いていないと本人が公言する通り、親子として会話をしたことはほとんどない。表向き、親密に振る舞ったことはあるが、その実彼女は息子たちに何の関心も示してこなかった。こうして話しかけられて、驚いたほどだ。


「あなたにできることなど、何もないわ。トビアスがあなたを放っておくのは、何の害にもならないからよ。財力も権力も、トビアスのもの。ラング家のもの。あなた一人では、愛する女一人守れない。その王女をまだ側に置きたいならば、もう少し父におもねってはどうなの」

 嘲るような声だった。すでに、いやもしかすると最初から愛し合ってはいない夫婦だが、そういうところだけ妙に似ている。


 分かっている。そんなことは言われずとも分かっている!

 大声で叫びたかった。

 今の自分は、何もしないで恩恵だけ受けようとしている恥知らずだ。トゥランを守る力が欲しくば、ラング家男子として何かしらの役目を負うべきだと分かっている。

 けれど同時に、もう一つの事実についても理解していた。

 アロイス・ラングである限り、トゥランと結ばれることはない。それどころか、友人としてそばにいることさえ、いずれできなくなるだろう。この手は誰かの血に汚れ、怨嗟を浴び、人を人とも思わぬ悪魔に成り果てるだろう。

 捨てるしかないのだ、どちらかを。


 アロイスはまっすぐに母を見据えた。それから父を。兄たちを。人間らしい温度のない食卓を。

 愛していないどころか、嫌悪すらしている両親だが、嫌になるほどよく似てしまった。甘やかな舌で人を惑わし、見せかけの美しさを振りかざす。

 そうだ、憎いのは自分自身だ。憎みながら、同じようにしか生きてこられなかった自分の弱さだ。愚かさだ。

 何かを捨てるしかないならば、答えなど決まっている。今決めた。引き換えに何かを――あるいは全てを失うとしても、愛しい人に恥じぬ自分でありたい。


 胸をふくらませて、息を吸った。四つの双眸がこちらを見ている。情愛よりも敵意を強く感じさせる眼差しが。

 ああ、どうして自分はこれまで、こんな場所に在ることを受け入れてこられただろう。

「仰る通り、私は無害で、無益です。父上の駒にはなりえません。この家には、初めからふさわしくなかったのでしょう。これまで自由を許していただき、感謝します。お詫びのしるしに、もう家族の顔をして御前には参りません」

 応える声はない。引き留める声も。他人のような眼が投げられてくるばかり。

 この食堂で、食事をすることはもうないだろう。

 退屈そうな母の顔や、人を破滅に追いやることでしか生きがいを感じられない父の声を聞くこともない。父の駒であることに誇りを持つ兄たちになじられることもない。

 そう思うと、ふいに翼が生えたように体が軽く感じだ。


「今夜のところは、父上の企ての邪魔はしません。明日からは、ラングの名を語ることもしません。お目にかかることもなくなるでしょう。どうか、それで目をつむってください」

 返事を待たずに深く一礼をすると、今度こそ背を向けた。

 別れの挨拶をしようとは思わなかった。彼らにかけたい言葉はなかったし、第一それを望まれてもいないだろう。

 ただ、自分に驚いていた。こんなにも衝動的に決めてしまったことを。そして言い争いも斬り合いもなく、実行できてしまったことを。


(俺にとって、トゥランはもう全てなんだ。俺自身よりも大きくなってしまった。他に選択肢などなかった)

 泣き笑いのような表情を浮かべて、足早に部屋へ戻ると、最低限の荷をまとめて外に出た。

 追いかけてこなかった、誰も。すでに連絡が行き届いているのか、行き先を尋ねられもしなかった。番兵とも、家令とも目が合わない。まるで幽霊にでもなった気分だ。


 何らかの妨害はあるはずと思っていたのに、いっそ不気味なほどの静けさだった。父はともかく、あの兄たちが追ってこないのは妙だ。後から何か手厳しいしっぺ返しがくるかもしれない。

 馬車を呼ぼうとして思いとどまり、厩舎から愛馬を連れだした。牧場で仔馬の頃から馴らした馬だ。これくらいは大目に見てほしい。


 馬の背で感じる風が甘かった。辺り一面、花で埋め尽くされている。アロイスが丹精した花だ。初めて、ちくりと胸が痛んだ。

 痛みから逃れるために、馬を急がせる。甘い香りはじきに感じられなくなった。

 会いたい、会いたい、会いたい。向かう先にいるはずの、愛しの姫君に。話したいことがたくさんある。

 腰の剣と、愛馬と、美しい礼装と、いくばくかの金銭。それが、アロイスがラング家から持ちだした全てだった。その他には、情愛も未練も後悔も、かけらほどもありはしなかった。



 トゥランの宮に着くと、ノラは少々困った顔をしたものの、結局は通してくれた。ためらったのは、宮の中が雑然としているせいだったらしい。見れば、トゥランとファニーが、今宵の祭事で着るドレスを選んでいる最中だった。

「アロイス! いいところに来てくれたわ。ちょっと相談に乗ってほしいの」

 出迎えたトゥランはぐいぐいアロイスの袖を引っ張ると、居間の椅子やら机やらいっぱいに広げたドレスを指さした。

「こっちはおろしたてなんだけど、ちょっと派手かと思うの。こっちは少し地味すぎる気もするし、これは少し重いのよね……。でも、今日はダンスがないはずだから大丈夫かしら」


 普通、令嬢は美しく着飾った後に見せたがるものだが、トゥランはそんなことを気にしない。飾り気のないドレスに薄化粧のままで、散らかった部屋も平気で見せている。

 気を許してくれているのが嬉しい一方で、男として意識されていないのかと思うと少々悲しい。

「そうだね……僕はこれが良いと思うよ。白百合のように清楚で軽やかで、今にも天に昇ってしまいそうに見える。本当は全てのドレスをまとった君を見てみたいけれどね」

「そう? じゃあこれにする」

 トゥランは素直に聞き入れて、今度はそのドレスに合う靴と首飾りを選び始めた。それほど見てくれにこだわる性質ではないが、着飾るのはそれなりに好きらしい。


 最近は、こうして王宮での行事にもよく顔を出している。そろそろ、雲隠れの姫とも言われなくなってくる頃合いだ。

 もしも何も起きなければ、こうしてずっと一緒に過ごせる未来もあっただろうか。変わり者の姫と、議長の息子。多少奇異な目で見られても、身分違いとまではいかなかっただろう。

 つかの間の妄想にふけりながら、楽しげなトゥランの横顔を堪能した。名高い美女であったアウレリア妃の娘にしては、特筆すべきところのない容姿だが、アロイスにはどれだけ見ても飽き足らない。なにげない仕草や表情のひとつひとつが、胸を甘く疼かせる。


「前から“僕”って言ってたかしら?」

 ふいにトゥランが振り向いて尋ねた。

 案外、細かなところに気づいてくれるものだ。つい、口の端がほころんでしまう。

「何となく、その方が自然な気がしたんだ」

「そうなの?」

 ちょっと不思議そうな顔をしたものの、トゥランの興味はすぐ他に移っていった。

「そういえば、今日は何か用があったの? もう着替えているのね。もしかして、一緒に行くお誘い?」


 一緒に――行くべきか、逃げるべきか。改めて考えてみると、どちらが正解なのかは分からない。けれど、トゥランならばきっと、答えは一つなのだろう。

「出かける前に、少し話したいことがあってね。でも、先に着替えてくるといいよ。僕はこちらで待っているから」

「そう? じゃあ、ちょっと待っててね」

 華奢な姿が奥の間に消えるのを見送って、アロイスは一つ息をついた。

 何から、どこまでを話すべきか。

 勢いのまま飛び出してきてしまったから、まだアロイス自身も整理ができていない。


 トゥランはまるで、陽だまりにまどろむ妖精だ。宵闇の底も知らず、明るくあたたかな真昼の中だけで生きてきたかのような。

 できるなら、ずっとそんな優しい世界の中にトゥランを閉じ込めてしまいたい。美しい景色だけを見せて、喜ぶ顔を見ていたい。

 その一方で、その無垢さに救いを求めてしまう自分がいる。こうして何もかも捨ててそばに来てしまったのだって、逃げ込んできたようなものだ。

(僕は結局、何もかもあの人に負わせてしまうのかもしれない)


 ことりと小さな音を立てて、茶器が目の前のテーブルに置かれた。続いて、花弁を煮詰めたジャムや杏のケーキを、モリが膝をついて並べている。

「ありがとう」

 ぼんやりとしながら礼を言うと、モリは珍しく、話しかけてきた。

「何やら、思いつめていらっしゃるご様子」

「……そう見えるかな」

 もちろん、そう見えるから話しかけてきたのだろう。普段のモリは、客人の前に出てくること自体、まれだ。いつも影のように動き、その働きぶりを意識させない。


「何もかも、変わってしまいそうなんだ。私の手にはとても負えない。けれど、どうにかしてあの人を守りたい」

 こんな漠然とした言い方では、何一つ伝わっていないだろう。

 けれど、モリはなぜだか納得したふうにひとつうなずいた。

「ご案じなさいますな。人の手に負えないことは、神の手にゆだねるしかございません。貴方が苦しむことはありません」

「だが神は……」

 天に帰ったではないか。そう言いかけて、ふと顔を上げた。


 何か、知っているのだろうか?

 単なる勘に過ぎなかったが、根拠がないわけでもない。

 この老女は、元々アウレリア妃に仕えていたはずだ。

「この世に変わらぬものなどございません。その一つ一つに迷う必要はないのです。結局、その時にできることを成すしかないのですから。老婆のつまらぬ知恵でございますが」

 恬淡とした態度、見透かすような言い回しに、ますます確信を深めながら、アロイスは微笑んだ。

 思いのほか、悲観する状況でもないのかもしれない。


「仰る通りだ。忠告、痛み入る」

「とんでもございません。……今宵はどうか、王女殿下をお願いいたします」

 意味深長に言い含めてモリが去ると、アロイスは薫り高い茶を口に含みながら、見慣れた天井を仰いだ。

 いつも居心地よく整えられた部屋には、アロイスの贈った花々が飾られている。このカウチに座って、トゥランと色んな話をした。眠ってしまった彼女の枕を務めたこともあった。

 そんなことが妙に懐かしく思われるのは、もうここには来ないような気がしているからだ。

 

「ファニー」

 すっかり顔なじみの侍女を呼んだアロイスは、夜に向けて、あることを頼んだ。

 有能な侍女が急いでいなくなるのと入れ替わりに、着換えを済ませたトゥランが戻ってきた。

 繊細な白のレースに金の花の縫い取りのついた軽やかなドレスを着て、くるりと一回転してみせる。

「こういうひらひらの服って好きだわ。くるくる回ると、自分が花になったみたいな気持ちになるの。ほら、この裾のところ、そう見えない?」

 楽しげな姿は花弁たっぷりの花そのものの愛らしさで、アロイスはすぐさま抱きしめたくなるのを抑えるのに苦労した。


「きみはいつだって花のように見えるよ」

 アロイスは本当のことを言ったのに、トゥランはくすくす笑って受け流す。

「アロイスには、女の人がみんな花のように見えるんでしょう」

 確かに美しく着飾った花のような令嬢たちは、目に慕わしく思えたものだが、トゥランに感じた気持ちと同じではない。

 けれど、それが伝わらないのは自分のせいだ。愛を安売りすれば、やがてその価値も真実味も失ってしまう。そんなことにも気づけなかった。

 愚かなのは自分で、トゥランではない。だから、伝わらないことに苛立っても仕方がない。一縷の望みをかけて、伝え続けるしかない。


「そうだね。でもきみは世界にただ一つの、何よりも美しい花に見えるし、貝の中で眠る真珠にも、けがれなき白雪にも、夕明かりに一つだけ輝く星のようにも見えるよ」

 この世の美の全てがきみに見えると言っても、この気持ちは伝わらないんだろうか。

 アロイスは半ば絶望に似た気持ちでトゥランの手をとり、甲にくちづけた。小さな手を離しがたくて、そのまま持ち上げたままでいると、にわかに熱を帯びてきたように思えて、ふと顔を上げた。

 トゥランは珍しく言葉を失って、頬を染めていた。何を言っても、本気にしなかったトゥランが。


「トゥラン……?」

 おずおずと声をかけると、トゥランは手を引っ込めてしまった。

「……前から思っていたんだけど」

「うん」

「私はもうアロイスのこと大好きなんだから、そんな風に褒めちぎらなくたっていいのよ」

 何のてらいもなく言いながら、困ったように見上げてくる顔に触れずにいられたのは、ただ自分の忍耐力を褒めるべき場面だったろう。

 世界でどれだけの男が、恋する女性にそんなことを言われて平然としていられるというのだ。


 アロイスは壁に頭を打ち付けたくなるのをどうにかこらえながら、ため息をついた。息を吐き尽くしても、しばらく吸うのを忘れたままでいた。

 それだけの威力だった。これが試合なら、もろ手をあげて降参しているところだ。

 けれど、二人の間には決定的な齟齬がある。ずっと前からのことだが、やはり放ってはおけない。


 アロイスは気力を振り絞ってトゥランの目を見つめた。夜を思わせる青褐色の瞳に、星のような輝きが宿っている。

 彼女は最初から、アロイスの星だった。その光に焦がれ、手をのばし、応えられなくとも見つめずにはいられない。

「僕は欲張りだから――それでももっと、きみに好きになってほしいんだ」

 抑えた声で、囁きかける。想いの十分の一だけでも、正確に伝わってくれぬかと祈りながら。


「……困るわ」

 やがてかぼそい声が呟いた言葉に、心臓が潰れるように痛んだ。

 トゥランはこれまで驚いたり笑い飛ばしたりはしても、拒絶だけはしてこなかったのに。

 どうしても届かない想いだったのかと、さらなる絶望にうちひしがれかけた時、思わぬ言葉がそれに続いた。

「これ以上好きになったら、あなたの幸せを祈ってあげられなくなるんだもの。アロイスの良い友達でいたいのに、違う気持ちを求めてしまいそうでぐらぐらするの。だから、もうそんな風に褒めないで」

 それは、つまり――

 千載一遇のチャンスが訪れたというのに、アロイスはたっぷり十秒以上は硬直していた。とても現実のこととして信じられなかったのだ。


 返事がないのを怪訝に思ってか、トゥランがいたたまれなさそうに様子をうかがってきた。

「あのね、アロイス――」

 何か言いかけたのを遮って、ようやく震える唇を開いた。

「僕の最大の幸せはね、トゥラン……きみが僕に恋をしてくれることだよ」

 こんなにも強く、切望したことはなかった。どうか気のせいでも夢でもなく現実であってくれと、身もだえするほど願ったことはなかった。


 トゥランは混乱した様子で目を泳がせる。

「でも、好きな人がいたんじゃ……」

「きみ以外に誰がいると思う? 僕は最初から伝えてきたつもりだよ。それがきみに伝わらなかったとき、初めて自分の愚かさを知ったんだ。たとえ全ての人に好かれても、きみに想いが通じないなら、何の意味もなかった。自分の何もかもを失っても、ただきみのそばにいたいとさえ思ったのに」

 早口にまくしたてるのを、トゥランは手を振って止めようとした。

「待って、待ってアロイス」

 こぼれおちそうな丸い目をますます見開いて、ほとんど泣きだしそうな顔をしている。


「アロイスは、私に恋をしてるの……?」

 アロイスの方も、泣きだしたい気持ちだった。長くたたき続けてきた扉が、ようやく開こうとしている。言葉が、その言葉通りに届くまで、どれだけ投げかけてきただろう。

「……愛してるよ。いつまでもそばにいたい。きみの心がほしい。でも、きっときみがふりむいてくれなくても、きみを想わずにはいられない」

 恋はこんなにも無力だ。祈り、すがることしかできはしない。

 これまで戯れの恋愛ごっこをしてきた女性たちも、こんな思いをしていたのだろうか。そうだとしたら、自分の罪は計り知れない。


 断罪を待つ罪人のように立ち尽くすアロイスに、トゥランはふわりと近づいて細い腕を回した。白い花のような姿が、アロイスを抱きしめる。

「私もアロイスが大好き。アロイスが他の人を好きでも、きっとずっと好きだったわ」

 特別な言葉ではなかった。トゥランは誰にでも大好きと言うのだから。

 でも、今のそれがいつものそれとは意味が違うことくらい、さすがに理解できた。

 たまらなくなって、アロイスも自分の腕を回した。華奢な姫を抱きしめても腕が余ってしまうから、つい余計な力を入れてしまいそうになる。壊れやすい花のような姫なのに。


「愛してる……大好きだよ」

 抱きしめるだけでは到底足りなくて、何度も繰り返した。

 通じ合ったことが信じられなかった。夢ならば一生覚めてくれるなと願った。

 勢い、それ以上の行為に及びたいのも山々だったが、トゥランにはその用意ができていないことも分かっている。それでも昂ぶりを抑えられずに首筋に口づけると、トゥランは真っ赤になって身をかたくした。

 愛おしくて、どうにかなりそうだ。


 身をかがめ、額に額を押し付けながら、しばらく互いの呼吸の音を聞いていた。分け合う体温が熱かった。

 一生だってそうしていたかったけれど、無情にも時は迫っていた。

 アロイスはやがて腕を緩めると、美しく結い上げられた恋人の頭に優しく触れた。

「話しておかないといけないことがあるんだ」

 物問い顔でトゥランが目を上げる。

「今夜、陛下が失脚させられるかもしれない。星巫女はやはり議長の手の者だったよ。最悪、王宮が一変する」

 びくりとからだを震わせて、トゥランは言葉もない。うすく開いた唇から、浅く息をついている。

「それから、僕は家を出てきた。父や兄がどう出るか分からないけれど、きっとただではすまない。今日の祭事のあと、王宮には戻らないつもりだ。ひとまずフィンたちを頼るよ」


「ど……どうして?」

 悲鳴のような声をあげて、トゥランが尋ねた。

 無理もない。宥めるように、その背を撫でる。

「あの人たちは、人の命を紙くずみたいに思ってる。もう家族でいたくなかったんだ。大丈夫、あの人たちは他に大事なことがあるし、醜聞を嫌うから、今日だけは僕に構っている暇なんてないよ」

「そう……」

 トゥランは口の中で呟いて、アロイスの胸に顔をうずめた。

「じゃあ、私がアロイスの家族になるわ。どこへでも、一緒に連れて行って。まさか、置いていかないでしょう?」


 アロイスは胸がいっぱいで、もう息をするのも苦しく思いながら、恋人を再び抱きすくめた。

 何もかも失ったと思っていたのに、こんなにかけがえのないものが飛び込んできてくれた。これ以上に幸せなことなんて、あるはずがない。

「僕だって、もう離れるなんて無理だよ。でも、焦らずによく考えて。きみには大切な侍女たちがいるし、アウレリア妃殿下の残したものがたくさんあるだろう。それに、議長の企みが成功するとは限らない。冷静に、どうしたいか考えるんだ」

「うん……分かった。でも、いつでも出ていける準備はしておかなくちゃ。今日、何が起こるか分からないもの」


 トゥランは早速、自室やアウレリア妃の部屋に入ると、貴重品をまとめだした。ノラやモリも呼んで事情を話す。

 ノラはひどく取り乱したが、モリはいつも通り、落ち着いててきぱきと働いた。その様子は、まるでこうなることを知っていたかのようでもあった。


「陛下のことは、守れるなら守りたいと思う?」

 尋ねてみると、宝石箱からアロイスにもらった髪飾りを取り出していたトゥランは手を止めた。

「……分からないわ。そんな風に思うほど、関わってこなかったもの。私は放っておかれていたけど、酷い人だと思うことも多かったし」

 女性関係は激しく、そして情のない扱いの多かった国王は、恨んでいる者も多いだろう。いつも表情に乏しく、人間的に魅力があるとも言いがたかった。政は苛烈にして独断専行、家臣たちは振り回されてばかりで、やはり疎まれていた。

 要するに、あまり擁護したいと思わない人物なのだ。


 アロイスはトゥランの手から蝶の髪飾りをとりあげると、トゥランの結い上げた頭にそっと挿した。まばゆく輝く蝶が、花弁の上で羽を休ませるかのように。

「今思うと、お父さまってかわいそうだわ。あんな風に側室をたくさん作ったのは、きっと満たされなかったからだと思うの。お父さまには、家族ができなかったのね」

 寵愛されていたというお母さまは、いなくなってしまったし。

 ぽつりと呟いたトゥランは、その時初めて父親の心情に思いを馳せたのかもしれない。

 同じくアロイスも、自分の家族だった人々のことを考えた。幸福という言葉を味わったことがあるかどうかも分からない、餓えた獣のように餓えた人々を。

 自分はただ、運が良かったのだ。もしもトゥランと出会わなかったら、今も令嬢たちにもてはやされ、虚ろな安寧を手に入れようとしていただろう。本当の喜びを知らずに生き、平然と行われる無情な政争にも心を動かさなくなっただろう。

 いずれは父や国王のようになったとは思いたくないが――


「そういえば陛下は、アウレリア妃殿下が予言者とかかわりのあることを知っていたみたいだよ」

 実際のところ、二人の間にあったものが愛情だったのか信仰だったのかは分からない。国王がどこでアウレリア妃と出会い、そしてなぜ別れたのかも。

 どちらにしても、アロイスは国王と話がしてみたかった。そしてそれはトゥランも同じだった。誰も知り得ぬことを、きっと何か知っているはずだ。その上、その機会は今日を最後に訪れないかもしれないのだ。


 ぎりぎりまでかかってあれこれ侍女たちと打ち合わせると、明日をも知れぬ身の二人は宮を出た。

外はもう黄昏時を過ぎ、薄暗くなりつつある。その中を、従者に灯りを持たせた王侯貴族たちが、門に向かって歩いてゆく。

 アロイスはトゥランの背に腕を回し、エスコートしながらその列に加わった。

 アロイス・ラングの、そして十四王女トゥランとしての、最後の夜の始まりだった。


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