いまだ輝かぬ星
「偽物…………」
トゥランは口の中で繰り返して、考えた。
星巫女は元々、誰もがおそらく「偽物」だった。本当に力を見せた者はいなかったし、名目通りの権力も備えていなかった。
ところが突然現れたあの女は、ほんの数日のうちに政治の中心に座を占めてしまった。国王がそれを許しているせいだ。
「偽物がいるってことは、本物もどこかにいるの?」
理屈ではそうなる。だが、ウルはそこには頓着しなかった。
「本物がこの世に存在するのかは知らん。ただ、あの女じゃない。あの女は危険だ。陛下が疑いもせずに傍に置いているのがまずキナ臭い」
間髪入れず、フィンが同意した。この話をするのを待っていたようだった。
「それですよ、殿下。王宮に台風の目ができたって話は聞こえてきたんですが、あまりにも動きが早すぎます。あれはもともと、陛下の手先なんではないですか?」
「ありえることだ」
肯定して、ウルは再度アロイスを見た。睨みつけた、という方が正しいほどの鋭さで射貫かれて、アロイスは黙ったままでいる。
「もう一度聞く。お前は何を知ってる。……いつから知っていた」
質問というよりは尋問だった。
無愛想でぶっきらぼうな兄だけれど、こんなにも険しい表情と威圧感を見せたことはこれまでなかった。トゥランに対する時の彼は、彼なりに穏やかに接してくれていたのだ。
アロイスは形の良い唇を薄くひらいた。あきらめたような、小さな声で語られた言葉は、それでいて明らかな確信を帯びていた。
「……確かなことは、何も。でも、概ねの見立ては、殿下と同じです。あの女性は、神から遣わされた星巫女ではありえない。誰かが差し向けた魔術師です」
「陛下の手先だとは思わないのか?」
「一見そう見えますが、違うと思います。今のところは陛下に有利に働いているように見えますが、陛下の指図を受けているわけではないと思います。むしろその逆でしょう」
アロイスの謎めいた言い回しに、トゥランは頭が混乱してきた。
結局、何がどうなっているのだろう。
「でも、あの人はエッカルト大臣の陰謀を暴いたでしょう? それに、不思議なことが色々と起こったし……」
目の前で奇跡を見たトゥランには、あの星巫女が偽物だということがまず、信じがたい。確かに、目の前で運命を導く星巫女の力を見たと思ったのに。
「元々エッカルト大臣の恨みを知っていて、けしかけた人物がいた可能性がある。それから、魔術師なら風を起こすくらい、わけもないことだ」
ウルは言って、念を押すようにアロイスを見やった。アロイスも、無表情のまま首を縦に振る。どこか、あきらめたような風情で。
「……じゃあ、あの人は誰のためにあんなことをしているの? 父上の政敵を追いやっているのに、父上の味方じゃないなら、一体どうして……」
“虚ろな唇に玉座は傾き”
“哀れなる貪欲の獣 もはや皇帝の姿とどめず”
フィンが口にした詩の一節に、トゥランは目を見開いた。
ヒエロニムスの詩だ。このところ何度も読みかえしたから、ほぼ完ぺきに覚えている。
“星待たずして朽ちる黄昏 夢は叶わじ”
反射的に、続く一節を口ずさんだ。
フィンと、目が合う。いつもの余裕も、芝居がかった仕草も見せず、立ち尽くしているフィンと。
「まさか」
そう声に出して打ち消さずにいられなかった。
詩に出てくる皇帝が、父王のことではないかと一瞬考えてしまった。今でもじっとこちらを見ているフィンは、きっと同じことを考えている。
「今のこのことを予言しているとは限らないわ……そうでしょう?」
フィンはいつも、ヒエロニムスの予言をあてはめたがる。けれど、トゥランにとってヒエロニムスは謎めいて素敵な詩にすぎず、自分の周りのこととは何の関わりもないように思える。
「ヒエロニムス? それは誰です?」
話についていけていない様子のゲルダが、おずおずと口をはさんだ。
話すべきか迷って、フィンを見やる。
黄昏の書は禁書だ。それに精通しているどころか所持しているのだから、公にはできない。ゲルダ夫人を巻き込むわけにはいかない。
リタも含め、交わす視線には迷いが浮かんでいたが、ウルはあっさりと正体を明かした。
「大昔の胡散臭い予言者だ。そいつの書いた予言書のような詩のような代物を、トゥランが――正式にはアウレリア妃殿下が持っていた。なんでか禁書らしいけどな。聞く限り、内容は意味不明だ」
おそろしく雑な説明に、フィンは顔をしかめた。
たぶん、相手が王子でなければ食ってかかっている。が、賢明にもその衝動は抑えて、咳払いをするに留めた。
「難解な部分もありますが、神秘と謎に満ちた魅惑的な書物ですよ。禁書となったのは、あまりに人の心を惹きつけるせいかもしれません」
「まあ、それは読んでみたくなりますね」
目を輝かせるゲルダに嬉しくなって、トゥランは立ち上がった。そんな怪しげなものは捨てなさい、などと言わない柔軟さもゲルダ夫人の魅力だ。
「良かったら、持ってきましょうか」
「よろしいの?」
ゲルダに、次いでウルに確認のためうなずいてみせる。ゲルダ夫人は誰かに言いふらすことなど、ないだろう。
ウルは気のない様子で肩をすくめた。
「期待しない方がいいぞ。本当に予言かどうかも疑わしいからな」
「予言じゃない根拠だってないわ。お兄さまったら、ロマンがないんだから」
トゥランの文句に、ゲルダが追撃する。
「そうなんですよ。美男に産んだのに、成長するたび石のように頑なになってしまって。おかげでこの歳で女性の影もありませんの」
「ええっ、王子様なのに?」
急にリタが目の色を変えてウルを眺めた。
何かが心の琴線に触れたらしい。
「愛を知らない王子様……悪くないね。こういう手合いは素朴な庶民に弱いときてるし」
「リタ、声に出てるぞ」
脱線しはじめた面々を、ウルは無視することに決めたらしい。ちょいちょいとトゥランを指で促して、自分は背もたれに背を預ける。
母の部屋からヒエロニムスの「黄昏の書」と母の手による写本を抜き出して戻ると、トゥランのいた場所、ウルの隣にリタが移動していたので、フィンの隣に腰を下ろした。
「これが黄昏の書で、こっちは母の写したものです」
並べると、ゲルダは写本の方を手に取って開いた。
「美しい字……」
呟いて、ページをめくる。
「確かに、予言書と言われなければそうとは分かりませんね。謎めいた言葉が素敵ですけど」
「私も、ずっとただの詩だと思っていました。フィンが教えてくれたんです。予言書だって」
「この詩が、今の状況を予言していると?」
フィンはわざわざ手袋をはめ、恭しく「黄昏の書」を開いた。
「失踪されたアウレリア妃殿下がこの本を持っていて、トゥラン殿下の元に残されたということに、何か意味があると思うのですよ」
長い指が愛おしげに文字の上を滑り、なぞる。まるで恋をしているかのように。
フィンは心から謎を愛している。
「……そうでないとしても、美しい本ではありませんか。この黄昏色の装丁や、青みがかったインクの色も素晴らしい。この写本師は凄腕ですね。字体の雅やかさはもはや芸術です。焚書になったことが心底腹立たしいですよ。大変な損失です」
うっとりと語るフィンに微笑みながら、ゲルダも同じように写本の文字をなぞった。
「妃殿下の写本も素晴らしく手が込んでいますね。よほどこの本を愛されたのでしょうか……この紙、見たこともないほど滑らかですが、どちらで手に入れたのでしょう。つい最近書かれたもののように真新しく見えますね」
その言葉に目をあげたフィンの顔色が、徐々に変わった。食い入るように写本を見つめるあまり、目がこぼれおちそうになっている。「失礼」と声をかけてゲルダの手から受け取ると、あちこち角度を変えてのぞき込んだかと思うと、匂いを嗅ぎ、ついでパラパラと頁をめくった。
「そんなことが……まさか……いや、そうだ、なんてことだ」
うろたえたように呟きながら、震える指で写本に触れる。
「どうしたのさ? フィン」
訝しげなリタの声に弾かれたように、フィンは立ち上がった。
「魔術書だ! そうとしか思えない。この見たこともない紙質も、まるで劣化のない真新しさも、陽に透かすと淡く金に輝くインクも、当たり前の本であるはずがない。どうして気づかなかったんだ……内容ばかりに気にとられていたよ。本質を見落とすなんて!」
頭を掻きむしらんばかりのフィンを、一同は呆気にとられて眺めていたが、改めてアウレリア妃の写本に目を落とした。
「確かに、魔法がかけられたみたいに新しいわね。日焼けもしていないし」
「少なくとも十年以上経っている本とは思えないですね」
「本当だ、よく見ると字がキラキラ光ってる! 綺麗だねえ」
何度も読みかえした本なのに、そういうところを気にかけたことがなかった。トゥランも新鮮な驚きを持って母の残した本を見つめる。
「お母さまは、どうしてこの本を持っていたのかしら。もしかして、お母さまも魔術師だったの?」
「あり得る、大いにあり得る」
何度もうなずくフィンは興奮もあらわだ。
「神殿で気配を感じたと言っていたね? 神殿にも何か大掛かりな魔術が仕掛けられているのかもしれない」
「どんな魔術が?」
「分からないさ。ああ、素晴らしいな、分からないってことは!」
深まる謎に恍惚としながら、フィンは両手を広げてくるりと回った。
その頭をぱたんとはたいて、リタが座らせる。
「まったく、落ち着きなよ。最高に面白いのは否定しないけどさ、姫様にとっては大事なことなんだから」
「分かってる、分かっているとも! だがこれが落ち着いてなんていられるか? この魔術書はおそらく原書だ。これこそが最初に書かれた一冊で、こっちの方が写本なんだ!」
「そんなはずはないわ」
思わず、口をはさんだ。それだけはありえないはずだ。
「ヒエロニムスはずっと昔の人でしょう? でもこれは確かにお母さまの字よ。残された手書きの物は少ないけど、間違いないわ」
「だが……いや、だとしたら……」
フィンの声がわななき、かすれた。
「これを書いたのがアウレリア妃殿下に間違いなく、またこれが原書であることも確かなら、アウレリア妃殿下は人ではないということになるぞ……」
唐突に、沈黙がその場を包み込んだ。
あまりに急速な話の流れに、誰もが聞いてはならないことを耳にしたかのように、息を殺している。疑いと畏怖を交錯させながら、少しの間、互いのまなざしだけがせわしなく飛び交った。
もし、母がただの人でなく、魔術師でもないとしたら、一体何者だというのだろう?
そして自分は、何者なのだろう?
自分の腕を、自分で強く抱きしめる。
「でも私は……ただの人間よ。そうよね?」
もう何も分からない。何を疑い、何を信じるべきなのかも。この国に何が起こっていて、これからどうなってゆくのかも。
「トゥラン」
それまで空気のようにひっそりと黙り込んでいたアロイスが、おもむろに立ち上げると、風のようにそばに寄り添い、しっかりと肩を抱いた。
堂々たる行為に、リタは「わお」と面白そうな声をあげ、ウルの喉からは呻り声が聞こえてきたが、混乱するトゥランはそんなことを気にしてはいられなかった。
最も安心できる場所――アロイスの胸元に額を押し付ける。途端、ぷつりと糸が切れるようにして、涙があふれた。
「どうしてお母さまは私を置いていなくなってしまったの。どうして何も教えてくれなかったの。私はどうすればいいの」
いつだって、トゥランは何も知らない。自分自身のことさえも。
「トゥラン。誰だって、与えられるものだけで生きていくことはできないんだよ」
アロイスの言葉は突き放すようでもあったが、その手はあやすように背を撫でている。
「泣かないで。きみの知りたいことは、何でも一緒に見つけに行くから。決して一人にはしないから」
なんて優しい嘘だろう。
アロイスのぬくもりに包まれながら、トゥランは涙が止まらなかった。アロイスは人に愛されたいがあまり、愛しすぎる。その手の届く全てのものを守ろうとしてしまうのだ、きっと。本当は、そんなことできっこないのに。
でも今は、その優しさに甘えていたかった。いつかは誰かのものになるだろうこの場所で、思いきり泣いてしまいたかった。
「……つきあってないんだよね?」
「と思うが、無自覚とは恐ろしいな」
「ふふ、見守りましょう。このお二人なら、まっすぐ歩んでいかれるはずですよ」
「一時の気の迷いであれ」
「あ、なんか呪ってる」
至近距離で交わされたそんな囁き声を、アロイスは耳にしたのだろうが、トゥランは聞いていなかった。アロイスのマントにすっぽり包みこまれ、背を撫でられているうちにだんだん昂ぶりも収まって、陽だまりの猫のように眠くなってきていた。
「アロイス」
「ん?」
「ありがとう」
「ふふ、何もしてないよ」
ふわふわとした会話をしていると、たまりかねた様子のウルが咳払いをして割り込んだ。
「俺は妹が軟派男の毒牙にかかるのを見せられるために呼ばれたのか?」
「お兄さまってば、まだアロイスのことをそんな風に思っているの?」
「それはこちらのセリフだ」
「仲良くしてほしくて一緒に呼んでいるのに」
「叶わぬ願いだ。あきらめろ」
とりつく島もなさにむくれていると、アロイスは名残惜しげに腕を解いてトゥランから離れ、ウルと正面から向かい合った。
「トゥランの望みです。叶えましょう。私は元々、殿下のまっすぐなご気性を好ましく思っていますよ」
極上の微笑を向けられて、ウルは苦り切った表情を浮かべる。
「やめろ、べたべたした目で見るな」
鳥肌でも立ったのか、自分の腕をさすっている。
「生まれつきの顔を変えるのは難しいですが、そうですね。今度お手合わせなどいかがでしょう? 殿下の腕にはかないませんが、鍛錬の相手くらいは務まるつもりです。真剣勝負の内でしか伝わらないものもありましょうから」
「伝えなくていい」
さすがの人たらしアロイスも、ウル相手だと苦戦しているようだ。
気が付くといつものように笑いあっている仲間たちに囲まれて、トゥランのうちには不思議な強さがみなぎった。
たとえ自分が何者だとしても、この人たちはそばにいてくれる。そんな気がする。
だから、どんなに驚くべきことがこの先に待っていても、きっと大丈夫だ。一人でないなら、どうにかなる。
いくらかの戯れの会話で場が和んだ頃、フィンは改まって切り出した。
「これから、確かめないといけないことがいくつかありますね」
「お母さまのこと?」
「それから星巫女のこともです」
その両方について、何か知っている可能性があるのは、父王だ。素直に話してくれるとも思えないが、尋ねてみないことには始まらない。
「近々、開戦の触れが出るだろう。出陣となれば、陛下も俺もここを離れることになる。何か聞いておくなら、早くした方がいい」
ウルが釘をさす。
そうだ、戦争のこともあったのだった。ヒエロニムスや母のことで頭がいっぱいで、早くも忘れかけていた。そのまま忘れていたかった気もする。
「何だか、色んなことが一気に起きすぎだと思うわ」
ぼやくと、ゲルダがあたたかく微笑んだ。
「自分さえ見失わなければ良いのですよ。何が起ころうとも」
「……それでも、できれば避けたい未来もあるんです」
例えば、偽の星巫女によって国が乱れること。不要な戦禍で人々が――もしかすると兄やアロイスが傷つくこと。母について知る機会を、永遠に失うこと。
その全てを避けて通れる道を見つけなくてはいけない。
お茶会はいつしか作戦会議となり、モリたちは急きょ、客人のために晩餐まで用意することになって大わらわとなった。
話は尽きなかった。
ゲルダが在りし日のアウレリア妃の話を披露したかと思えば、フィンは「黄昏の書」の解釈を述べ、リタは隙あらばウルの気を引こうと躍起だった。トゥランは神殿で見た絵の話をし、ウルは王が征服しようとしている国の話をした。
「何にせよ、一つの歴史が変わろうとしているのかもしれないな」
フィンの目は、眠気とそれを上回る熱気で潤んでいた。
「今は、嵐の前の静けさ、か」
嵐が起こって、その後に何が残るだろうか。
トゥランは母の字で書かれた魔術書を再びめくった。
もしこれが本当に予言書で、今のこの王宮の中を模しているとしたら、父王はじきに玉座から追い落とされることになる。
それを喜ぶ気にはなれないが、かといって悲しむ気にもなれなかった。ほとんど言葉も交わしたことのない父に情はなく、さりとて憎しみもない。
ただ、あの偽の星巫女の思うままにはさせておけない。女の望みは分からないが、なぜだか無性に嫌な予感がした。
「あの星巫女は、“星”ではないのね」
黄昏の書には、何度も“星”が言及される。希望の象徴として。
王宮内の粛清を進める星巫女は、清廉な存在にも見える。けれど、そうではないのだという。
ならば星はどこにあるだろう?
この国を導き照らす星は、いつ現れるだろう?
ふと目が合ったアロイスは、何か言いたげな顔をしている。けれどどうしたの、と尋ねると、その言葉を飲み込んでしまった。
そういえば今日は少し様子がおかしいようだと思ったが、アロイスはそれを認めようとしなかった。トゥランがその理由を知ることになるのは、もう少し先の話である。




