引きこもり姫、魅惑の貴公子と踊る
「ファニー、夜会の招待状は届いてる?」
侍女頭のモリ手作りの桃のジャムをパンにをぬりながら尋ねると、美貌の侍女はいかにも怪訝な顔をした。それがどうかしたのかと言いたげだ。
「一応、議長主催のものが来ておりますが」
「返事は?」
「まだです」
「じゃあ、参加する」
ファニーは一拍おいてから、疑わしげに眉を上げた。
「正気ですか?」
とても姫相手とは思えない言い草だ。
ファニーはトゥランが五歳の時からそばにいて、気心も知れている。侍女頭がそばにいない時などは、ほとんど友達のような距離感だ。元々そういう立ち位置を期待していたのか、何かとお説教の多い侍女頭も、ファニーの率直さををたしなめることはあまりない。
「その夜会、いつ?」
「……本当に参加する気ですか?」
なかなか信じないファニーがおかしくて、トゥランはくつくつ笑った。はずみで、パンからジャムがこぼれ落ちそうになり、慌てて口にねじ込む。
「こんな嘘、ついたって仕方がないじゃない」
「退屈しのぎの冗談かと。ともかく、どんな風の吹き回しです? これまで絶対に参加しなかったのに」
「うん。一回くらい、行っておこうと思って」
「どうせなら、これまで断っていた分もこの一年でまとめて行かれては?」
「極端ねえ、ファニーは」
「十二年引きこもった殿下ほどじゃありませんよ」
話しながらきびきびと働くファニーは、それなりに裕福な商家の娘だと聞いている。着飾れば社交界の華となること間違いなしの、派手な容姿の持ち主だが、いまだ浮いた話はない。
引きこもりの主のせいだ、と言うけれど、その変わり者の主に仕えるのがわりと気に入っているらしい。権力も華やぎもまるでない宮で、甲斐甲斐しく働いてくれている。
トゥランが一年後に星巫女になるということ。
昨夜その話をした時、ファニーは一瞬絶句した。ファニーだけではない。モリも、ノラも、侍女たちは一様に衝撃を隠せない様子だった。
星巫女は位だけで言えば聖職全体で神官長に次ぐけれど、そんなのはお飾りで、誰もが任命されるのを怖れている。辺境に建つ極北の神殿の側には小さな村があるきりで、それも過疎化が進んでいるという。
星巫女は、身の清さを保つため、その村から外に出ることを許されない。恋愛も、結婚も許されない。神殿とは名ばかりの牢獄だ、とさえ言われるゆえんだ。
生活に楽しみがないだけでなく、一度任命されれば、高齢か病気になって勤めが難しくなるまで辞めることはできない、厳しい役目だ。その厳しさゆえに、何かしら罪を犯した令嬢や姫が指名されることもあるという。
星巫女は、死と同義である。
そう囁かれてきたくらいだ。
どうして殿下が、とファニーは怒り、優しいノラは泣いていた。それくらい、世間的にはひどい処遇なのだ。
あべこべにトゥランの方が、今だって引きこもってるから大して変わりはないとか、むしろ世間体を気にせずに引きこもれるから気が楽だとか、侍女たちを慰めていたほどだ。
「それは確かに」
と、思いのほか侍女たちもさっさと納得したおかげで、今日は昨日ほどしんみりした空気は流れていない。
「大丈夫、世間からすれば、私はとっくに死人みたいなものよ。顔を知ってる人だってほとんどいないし、夜会に忍び込んだところで、きっと大して興味も持たれないわ」
「それもそう……ですね。見つかったところで、幽霊が出た程度の騒ぎで済むかもしれません」
ファニーは妙な納得をしている。
幽霊騒ぎが「大したことのない騒ぎ」に入るのかどうかはさておき、トゥランはいたくその発想を気に入った。
「夜会に突如現れる幽霊って、ロマンチックね!」
しかもその後二度と現れることはなく、あれは夢だったのか、現実だったのかと時折人の口にのぼるようになるとしたら、それこそ怪奇小説の一編にできそうだ。
「私の知っているロマンとはだいぶ違いますけどね」
ばっさりと切り捨てながら、ファニーは侍女頭モリへ相談しに行った。この宮で実質的な主は、トゥランよりもモリである。
モリは何と言うだろう。
齢五十がらみの彼女は、元々トゥランの母、アウレリア妃に仕えていた人だ。規律正しさを重視するタイプだが、お説教の時も声を荒げることはなく、何を考えているのか分からないところがある。
かといって、苦手というわけでもなかった。基本的には頼りになる人だし、物知りで意外なことまでよく知っている。
母が侍女のことなら信じて良いと言ったのは、同じようにモリのことを信頼していたからなのだろう。
「殿下、夜会に出られるのですか?」
やがて食堂に入ってきたモリは、深刻そうに眉を寄せていた。きりりとした印象の痩身は、今日も背筋が伸びている。きちんとした性格のあらわれで、前掛けはいつも糊がきいているし、髪は寸分のほつれもなく結い上げられている。
見た目の通り、真面目で浮ついたところのない人だ。
やはり反対、されるだろうか。
トゥランは少し肩に力を入れた。
「うん。これまでずっと、お母さまの言いつけを守ってきたでしょう。でも私、何も知らないまま星巫女になるのは嫌だよ。星巫女に指名されてから、急にそう思ったの。どうしてお母さまが誰とも会うなと言ったのか、その理由をしりたいの」
それとは別に、いつか書く小説のタネにしたい思惑もあったけれど、それは言わないでおく。
モリはじっとトゥランの目を見据え、それからひとつ、息をついた。
「妃殿下にも、人間らしいお心があったのですね」
ため息かと思いきや、安堵の息の方らしかった。
「これまで反抗されることもなければ、何かに心動かされるご様子もなく、ひたすら引きこもられる日々で、もしや私は幽霊に仕えているのかと思うこともございましたが」
「そ、そう思ってたの……」
まさか身内にまで幽霊扱いされていたとは知らなかった。
「ようやく、ご決断されたのですね。より知見を広めようという殿下のお気持ちは当然です。アウレリア様も、よもやここまで忠実に守られるとはお考えではなかったでしょう」
「破られる前提の言いつけだったってこと?」
モリは唇の端をなごませた。
「親の言うことを完璧に守る子などありません。いずれは自分の頭で考え、決める時がやってきます。それが大人になるということですから」
「な、なんだ、そういう?」
どっと力が抜けてしまって、トゥランは机に額ごとのめりこんだ。ファニーがその一瞬前に、空になった皿を俊敏に引き取って片づけている。有能な侍女だ。
「……絶対に破っちゃいけない約束だと思ってた」
「元々、不可能にも等しいお言いつけです。不可能を可能に変えつつあった殿下には驚かされました。もちろん、無意味なお言いつけだったとは思いませんが」
トゥランはうらめしげに、ほとんどばあやのような年齢の侍女を見やった。
「何か知ってるの、モリ」
モリは母が輿入れした日からずっと仕えているという。だから、十二年前のあの日のこと……母アウレリア妃失踪事件のことも、本当は何か知っているのではないかと思っている。
本当は母の命で、トゥランを見守っているのではないか。母の言いつけの真意も、何か知っているのではないかと。
厳しい役人からの追求に、知らぬ存ぜぬを貫き通したというが、他の人と同じように、トゥランもどこかでモリのことを疑っている。いや、期待と言えるかもしれない。この世で一人くらいは、真実を知る人がいて良いはずだと。
けれど、何度尋ねても、帰ってくる答えは同じだった。
「残念ながら、妃殿下の尊いお心遣いをお察しすることしかできません」
遠回しに、何も知らないと――あるいは、何も言うつもりはないと、しらを切られるだけ。
アウレリア妃は暗殺されたのだとか、さらわれたとか、市井の男と駆け落ちしたのだとか、様々な噂があることを知っている。いかに引きこもっていても、うっかり耳に入ってしまうほどだ。よほど声高に議論されているのだろう。
トゥランもまた、あれこれ想像をしていた。吟遊詩人になって各国を飛び回っている母や、どこかの農村で優しい人と一緒に暮らしている母の姿を。
どうしても、死んだということだけは信じられなかった。何の根拠もないけれど、どこかで元気にしているような気がしてならないのだ。
「ところで殿下。夜会に行くのはよろしゅうございますが、ドレスはお持ちなのですか?」
モリの言葉で、我に返る。
さりげなく話題をそらされたことに気づかず、トゥランは思わず真顔になった。
「持ってるの? 私」
「……お探しいたします」
今度は正真正銘のため息をついて、モリがいなくなった。
でも、モリが知らないのなら、恐らく持ってはいないだろう。さすがに正装は持っているが、夜会服など、社交界デビューの年にも作らなかった気がする。
大急ぎで仕立てる必要がありそうだった。
◆
初めて着る夜会用のドレスは、動きづらいことこの上なかった。
裾は歩いても爪先が見えないように長くするのが決まりで、踏まないようにするので精いっぱいだ。しかも、幾重にも重なる生地は重くてたまらず、軽やかとは程遠い足取りになる。
こんな服で踊れるなんて、世の中の姫君たちは特殊な訓練を受けているのかな。
首をひねりつつ、もたもたと広間に足を踏み入れると、宝石のごとくきらめく姫君や令嬢が、笑いさざめきながら右に左に通り過ぎた。
誰もが目元を隠す仮面をつけているので、知っている人かどうかは分からない。おかげでトゥランも、簡単に人波に紛れることができた。
本当は招待主に挨拶をするべきところだが、議長が忙しそうにしているのを良いことに、横をすり抜けることに成功した。ずっと社交界から遠ざかっていたのになぜ急に参加したのかと、探りを入れられては面倒だし、星巫女に任命されたことで妙な気遣いを受けるのも面倒だ。
もっとも、星巫女の件はどこまで広まっているのか分からないけれど。
ひとまず贅をこらした料理を頬張りながら、周りの会話に耳をすませる。しばらくすると、ご婦人方の注目はある一点に注がれているらしいことが分かってきた。
「アロイス様は今宵も大変な人気ですわね」
「ひと声かけるので精いっぱい」
「一度でいいから踊っていただきたいわ」
「まるで羽が生えたように踊れるんですってね」
「リードがお上手なのよ。きっと踊ったことがなくても踊れるわ」
女性たちの視線を追ってみると、話題の主はじきに絞り込めた。颯爽とした長身の、おそらく若い男が、次々にダンスを申し込まれている。
こういうのって、普通は逆じゃないかしら。
本で読んだ夜会では、男が女に申し込むのが当たり前だった。でも、令嬢たちは我先にとその男に群がっている。
みんなダンスをあの人に教わりたいのかな。
トゥランはまたもや首をひねりながら、踊る人々の所作をじっと観察してみた。
くるくる回ったり、進んだり下がったり、身を反らしたり。法則があるようでいて、単純な繰り返しではない。一目で覚えるのは難しい。
正直なところ、トゥランはダンスが踊れない。母がいた頃に教わっていたような気もするが、もうすっかり忘れてしまった。
今になって後悔しながら、トゥランは思い切ってダンスの輪に向かって歩き出した。みんなが夢中なダンスなるものを、覚えてみたくなったのだ。
ダンスフロアの片隅で、周りの女の人を真似てステップを踏んだ。両腕は、誰かと組みあっている体で、宙に浮いている。
音楽のリズムに合わせてステップを踏むうち、次第に楽しくなってきた。まるで自分も、音楽の一部みたいだ。三拍子に引きずられるように、心が浮き立つ。邪魔な裾も、だんだん慣れてくると無意識に捌けるようになってくる。一、二、三、一、二、三。
きっと、ステップはまるででたらめなのだろうけれど。踊るってこんなに楽しいことだったんだ。
早くも、知らなかったことを一つ体験できた高揚感も手伝って、気分は最高潮だ。
すっかり夢中になっていたので、周りから奇異の目で見られていることには気づいていなかった。そして、女性陣の注目の的である「アロイス」が、こちらに近づいてきたことも。
まるで魔法のように、その人はトゥランの腕の中に滑り込んできた。宙に浮いていた両腕の間にするりと収まると、トゥランの腰と肩を引き寄せる。
「ダンスは二人で踊るものだよ」
とろけるような甘い声が、耳朶に熱をふきかけた。
トゥランは目をしばたかせて、男の目元を隠している、いかにも高級なつくりの黒の仮面や、いつの間にかつながれている手を確認した。
トゥランが呆然としている間にも、男は巧みにトゥランをリードして、音楽の波に乗っている。振り回されるような感覚はないのに、まるで自分の脚やからだが勝手に動くみたいに、男の動きに合わせてゆく。
一人の時とはまた違う面白さに、トゥランはまた楽しくなって笑った。相手が誰なのかという疑問は、あっという間に吹き飛んでいる。
男はリードするだけでなく、巧みにトゥランに合わせてくれた。時には軽く持ち上げたり、トゥランの踏み込みに合わせて身を引いたり、踏まれそうな足を素早くずらしたり、その全てが華麗で美しい。
すぐ近くで踊る人々が、まるで背景のように遠く思えた。世界にたった二人きりでいるような、不思議な没入感。こんな高揚感は初めてだ。
「これがダンスなのね」
つい興奮して話しかけると、男は口元をおかしそうにほころばせた。
「ダンス、初めて?」
「ええ。夜会も初めて」
「へえ?」
男が不思議そうにしたのも無理はない。普通、夜会デビューは十三くらいで済ますものだ。トゥランのように十七で初めてなんて、病気などの理由がない限りはありえない。
けれど、男は馬鹿にしたり詮索したりもせず、ただ上品に微笑んでいる。
「あなたって、有名なダンスの先生なのね。みんなあなたと踊りたがっているのに、どうして約束していない私と踊ってくれるの?」
「先生になったつもりはないよ」
男はまた笑って、トゥランの耳元に口を寄せる。
周りがうるさいからかしら、とトゥランは思い、耳をすませた。
「俺が君と踊ってみたかったから」
それはまさしく金の蜜でできたような声だったのだが、トゥランにはその威力も全く通じなかった。きょとんとして、なるべく大きな声で尋ねた。
「私があまりに下手だったから、見かねたの?」
男は声を立てて笑いだしながら、トゥランの腰を支える手に力をこめた。物静かな印象だったが、笑うと子供のように無邪気で、可愛らしくもある。
「違うよ。君があんまり楽しそうだったから、一緒に踊れば楽しいかと思って」
「確かに、一人より二人の方がずっと楽しいわ。本で読んで想像してたよりもずっと。思い切って来てみて良かった」
すっかり浮かれていたトゥランだが、ふと異変を感じて周りに目をやった。
ダンスのお相手は元々目立つ人ではあるのだが、それにしても、フロア中のほとんどの女性がこちらを見ているのはどういうわけだろう。しかも、ご令嬢の間では、何やらざわめきが広がっている。
(もしかして、約束もないのに人気者と踊ってしまって、顰蹙を買ってるのかな)
必要以上に目立つのは、望むところではない。しっかり食べたし踊れたし、夜会の雰囲気もつかめたし、そろそろ引き際かもしれない。騒ぎになる前に、退散したいところだ。
「ねえ、そろそろ踊るの、やめにするわ。あなたを独占してると周りのご令嬢に殺されそうだから」
なるべく顔を寄せて、ひそめた声で言うと、男もずいと顔を寄せてきた。
「わかった、ダンスはおしまいにしよう。でもこれから少し、話さない? 落ち着いて話せる場所、知ってるんだ」
「ううん、もう帰るわ」
あっさりと言うトゥランに、男は慌てだした。
「もう? 何か用事があるの?」
「ないけど、十分堪能したから。踊ってくれてありがとう。とっても楽しかった」
ぺこりと頭を下げると、くるりと背を向ける。なるべく早足でフロアを横切った。無数の視線が、それも決して好意的でないものが、刺さるようにして追いかけてくる。
(お母さまが人と関わるなっていうのは、こういうことのせいかもしれないな)
うっかり輪を乱すと、こうも簡単に嫌われてしまう。夜会の楽しさと難しさを同時に学んだような気分だ。でもそれは、世間知らずの自分がきっと何か粗相をしたせいなのだろう。
「待って、名前は?」
広間を出て廊下を早足で進んでいると、少し離れた後ろから、さっきの男の声がした。
トゥランが振り返ると、男は仮面を外していた。
銀に縁どられた黒の仮面も美しかったが、その奥に隠されていたのは、まさに輝くような美貌だった。くっきりと印象的な緑の瞳に、優美に流れる顎の線、頬に柔らかくこぼれる金の巻き毛。一目見たら、目を離せなくなる引力がある。
この人があんなにも人気だったのは、ダンスの腕前のせいだけではないのかもしれない、とようやく気づく。
(ファニーと並んだら絵になりそう)
思わずじっくりと眺めたくなったが、そういうわけにもいかない。
それに、こんなところで名を明かしたら、大変な騒ぎになりそうだ。十二年も雲隠れしていた姫が突然現れて、人気者の貴公子と踊ったなんてことになったら。
だから、心苦しくはありつつも、人差し指を唇の前にかざしてみせる。そして、ほとんど走るようにして逃げきった。男は無理に追ってはこなかった。
まるで夢のように美しい、一夜限りのダンスのお相手。もうこれで二度と会うこともないだろう。
最初で最後の夜会は、素敵な思い出になりそうだった。それこそ、物語の一場面のように。
自分の宮に戻ったトゥランは、興奮気味にその夜の話をファニーにまくしたて、満足して眠った。
ただ一つ誤算だったのは、それが彼との最後の邂逅とはならなかったことである。