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引きこもり姫、恋を自覚する

「まず、短剣の強みは何だと思う?」

 アロイスの授業は、そんな問いから始まった。

「軽いところ?」

「そうだね。それから?」

「うーん……狙いを定めやすいところ」

「難しいところでもあるけれどね。一番の利点は、相手を警戒させないところ。相手の隙を突けることだよ」

「なるほど……」

「その代り、真っ向勝負では長剣には勝てない。だから、使えるチャンスは一度きりだと思って。一瞬の隙を突けなかったら、もう逃げることだけ考えた方がいい。特に、武装した相手ならね」

 思いのほか真面目な講義に、トゥランも神妙にうなずいた。


「タイミングが大事なのね」

「それと、ためらわないこと。もし命が危ない相手なら、あれこれ考えずに自分の身を守ることに専念する。いいね」

 そういう場面は思いつかないものの、再びうなずく。

 アロイスは素直な生徒に満足した様子で、それから羽交い絞めにされた時の抜け出し方や、簡単な関節技を教えてくれた。

「対抗手段は一つじゃない方がいい。常に両手が使えるとは限らないし、色んな方法を頭に入れておけば、余裕もできるからね」

 教え方には、妙に現実味がある。


「アロイスも、危険な目にあったことがあるの?」

 この優雅で穏やかで美しい人を攻撃する人がいるなんて、信じられない。そんなことをしても、大勢の令嬢を敵に回すだけのような気がする。

 そう思いつつの問いに、アロイスは意外にも「それなりにね」と答えた。

「どうして? もしかして、どこかの夫人がアロイスを好きになってしまったとか?」

 そういう不可抗力的な原因なら、分からなくもない。ウルだって、母が夢中になっているという理由で、ほとんど会ったこともないアロイスを毛嫌いしていた。


「違うよ。まあ、似たようなことはあったけどね。うちは昔から敵が多いんだ」

 うちは、ということは、アロイス個人の問題ではないのだろう。

「それは、お父さまが議長だから?」

「そう。父の力を借りようとする人以上に、失墜させようとする人は多いからね」

「それでどうしてアロイスが襲われるの? 直接お父さまを狙うんじゃないかしら、普通は」

「子供を襲えば父を脅せると思っている人もいるし、俺が将来的に何かしらの権力を持つと思っている人もいる。どちらも不正解だけどね」

 一見変わらぬ表情の中に、古びた悲しみを見た気がして、トゥランははっとする。

 誰よりも華やかに、愛されて生きているように見えても、見えているものが全てとは限らない。


「ここはそういう場所なんだ。いつも誰かが、誰かを陥れようとしている。嘘と嫉みと憎しみにまみれて……神にも見捨てられるわけだ」

 共感はできなかった。トゥランにはもっと、世界が素晴らしく見えている。冒険や、愛や友情や面白いことに溢れているように思える。大好きなイグナーツの本のように。

 でもきっとそれは、知らないからだ。自分を守るために、全てから顔を背けてきた。

 正しいのは、きっとアロイスなのだろう。王宮の人を信じるなと言った母でもあるのだろう。


「……もしそうなら、私はすっごく運が良いのね。最初にできた友達が、アロイスのような良い人だったもの。フィンもリタもお兄さまも、出会った人はみんな良い方ばかりだったわ」

 トゥランが恐れていたよりもずっと、宮の外の世界は楽しくてたまらなかった。ずっと引きこもっていたことを後悔するくらいに。


「私、お母さまを疑ったこともあったわ。どうしてどうして人と会うなと言ったのか、分からなかった。だってみんな良い方ばかりだもの。だから、お母さまは嘘をついたんじゃないかって思ったの。私のことが嫌いだから宮の中に閉じ込めて、そして置いていってしまったんじゃないかって」

 そう思う一方で、否定したい気持ちもあった。

 おぼろげな記憶の中の母は、トゥランに優しかった。実は嫌いだっただなんて、考えられない。考えたくない。


「妃殿下がきみに残した言葉は、きみを守るためのものだ。間違いないよ」

 アロイスに言われると、本当にそうだという気持ちになるから不思議だ。こんなことで不安に思ったことが馬鹿馬鹿しくなる。

「それに、幸運なのは俺のほうだよ。きみに会ってから、俺はもう一度人間を信じたくなった」

 大げさね、と笑いかけて、やめる。アロイスの目はどこまでも真剣だ。

「きみといると、世界が美しく見えるんだ、トゥラン。曇っていたのは、汚れていたのは世界じゃなくて、俺の目の方だったのかもしれない」

 見つめられるのはいつものことなのに、急に心臓が痛いほどはねた。苦しさに、思わず手を当てる。

 この動悸は何だろう。最近、時々こうしておかしな感覚に襲われる。病気の前触れだろうか。


「……稽古に戻ろうか」

 やがて視線を外したアロイスに救われたような気持ちで、そして同時になぜだか寂しいような気持ちで、トゥランはうなずいた。

 動悸は徐々に収まりつつある。でも、じりじりとくすぶるような痛みが残っている。

 やっぱり、おかしい。もう何度も起こっているから、気のせいではなさそうだ。

 宮に帰ったら、ファニーに相談しようと思った。



「……それで? 殿下は何か心当たりが?」

 掃除に精を出すファニーをつかまえて早速相談してみると、ファニーは手を止めて呆れた目を向けた。

「当然、分かっているでしょうね?」と言いたげだ。分からないから相談しているのに。

「ファニーには分かるの? 有名な病気?」

「分からないことが奇跡級ですけど」

 信じられない、と目をむかれて、トゥランはいよいよ焦りだした。きっと心配してくれるだろうと思ったのに、常識を疑われている。


「……これまで読んだ本にも出てきてるかな」

「そりゃあもう、読み飽きている程度にはご覧になったはずですよ」

「具体的にどの本?」

 ヒントをちょうだい、と詰め寄ると、ますますげんなりとしたファニーは、無言で本棚から数冊の本を抜き出してきた。どん、と音を立てて机に積む。

「これを読んでも分からなかったら、もう教えません」

「それって、自分で気づかないと一生分からないってことじゃない」

 文句を言うと、ファニーはじろりと主人を睨みつけた。

 美人なだけに、凄むと迫力がある。

「これ以上のヒントはありませんから。それに、何でも人に教えてもらえると思ったら大間違いですよ」

 

 よく分からないが、これ以上食い下がっても成果はなさそうなので、すごすごと本を手に取った。

 何度も読みかえしたお気に入りのロマンス小説だ。内容はもちろん覚えている。貧しく虐げられてきた少女が、貴族の青年に愛されて人生が変わる話だ。

(こんなの、今さら読んで何か発見があるかしら)

 大いに疑問を持ちながら、ページをめくった。そしてあっという間に、引き込まれていった。



「それで? 何か思いつきましたか?」

 積まれた本の半分くらいを読み終えたころ、ファニーが声をかけてきた。のんびりとティーカップを傾けていたトゥランは、はたと言われたことを思い出した。

「……そういえば普通に読んじゃってた」

「…………」

 視線が痛い。もうどうしようもありませんね、と顔に書いてある。

「だって! 何度読んでも面白いんだもの。でも、病気の人は出てこなかったと思うけど」


 ファニーは呆れと怒りを立て続けに顔に出したものの、言葉にはしなかった。疲れたようなため息にかえる。

「その調子じゃ、一生分かりそうにないですね」

「意地悪しないで、教えて。大変な病気なの?」

「人によっては一瞬で治りますが、一生続く場合もあるかと」

「そんな……どうしよう」

 不穏にして曖昧な返事に青ざめる。

 思ったよりも深刻そうだ。痛みはそれほどひどくないけれど、一生治らないのは困る。


「何か対策とか、ないのかしら。食べるものに気を付ければいいの?」

 これまで健康そのもので、寝込んだこともほとんどないけれど、医者を呼ぶべきだろうか、などと考えていると、ファニーは何やら小声で呟いた。

「人の心の分からぬ方ではないのに、どうしてこの方面だけ極端に鈍いんでしょうね……」

「えっ、なに?」

「何でも。この病で大切なことは、ご自分で原因に気が付くことです。ヒントは差し上げましたから、この機会にじっくりお考え下さい」

 それ以上のヒントをくれるつもりはないようで、ファニーはさっさと布巾を洗いに行ってしまった。


「一生続くかもしれないのに、心配じゃないのかしら」

 少々ふてくされながら、トゥランはファニーが積んでいった本を手に取った。

「これも、ロマンス小説……」

 孤児として育った主人公が、実は侯爵の娘だったことが分かり、陰謀渦巻く社交界で王子と恋に落ちる話だ。

 これも話の展開ははっきりと覚えている。怪我をするシーンはあっても、病気になるシーンはなかったはずだ。


「ヒントが難しいわよ、ファニー」

 文句を言いながら、カウチに寝そべって読み始めようとした手が止まる。

「ロマンス小説……?」

 まさか。

 ふと脳裏によぎる考えを打ち消しながら、素早くページをめくった。何度も読みかえした、お気に入りのシーンを探す。


――アデライドは激しく痛む胸を押さえて、後ずさりした。しかし同じ分だけ、いやそれ以上に王子が近づいてくるので、二人の距離はどんどん近づいてしまう。

「どうして逃げるの?」

 王子が尋ねる。

「僕が怖い?」

 アデライドはうなずいた。王子に見つめられるたび、近づかれるたび、心臓が破裂しそうになる。こんな感覚は初めてで、怖くてたまらない。

「僕のことが好きじゃない?」

 囁くような問いかけに、うなずくことはできなかった。こんなにもおそろしくて、逃げ出したいのに、それだけは肯定できない。

「……好きだと認めてしまうのが怖いんです」

 消え入るような声で告げたアデライドを、王子は優しく引き寄せて腕に閉じ込めた。

「認めておくれ。そうしたら、僕の全ては君のものだ」――


 まさか、から始まった疑念は、少しずつ「もしかして」に変わっていった。ぐらぐらと足元が崩れ落ちるような感覚に襲われて、開いたままの本に突っ伏す。

 似ている。アデライドの症状は自分に似ている。突然の胸の高鳴りと痛み。恋する相手を目の前に、成すすべもなく翻弄される心が。

(恋のせいなの? 私、アロイスに恋をしてしまったの……?)

 あの得体のしれない動悸と痛みの正体が、恋だったとしたら。

 アロイスといた時ばかりに痛んだことや、見つめられるとそわそわしたことを思い出しながら、トゥランはジタバタと足を動かした。

 恋の話は好きだった。幸せで、胸がときめいて、読むのが楽しい。けれど、それが自分に降りかかってくると、どうしてこんなに不安で、落ち着かない気持ちになるのだろう。


(恋なんか、するつもりなかったのに。アロイスとはずっと友達でいたかったのに)

 アロイスには想い人がいる。叶うはずのない恋に気づいて苦しむくらいなら、ずっと気づかないままでいたかった。

 自分から知りたがったくせに、ファニーに恨みめいた気持ちまで抱きながら、トゥランはため息をついた。

 思えばアロイスは初めてできた友達で、いつでも味方でいてくれた。出会って間もない頃から、不思議なほど良くしてくれた。

 誰かを褒めるのが得意な人だ。人に失望していながら、人を愛そうとし、愛されようとする。自虐的なところがあるけれど、トゥランには彼の欠点が見えてこない。良いところばかり、思いつく。

 

 意識したことなど、なかったはずなのに。いつの間に、こんな気持ちが芽生えていたのだろう。

 思い返しても、それがよく分からなかった。

 本当にこの気持ちが、恋なのだろうか。

 あれこれ考えすぎて、だんだん自信がなくなってきた。

 誰かが、それが恋だとか、恋じゃないとか、教えてくれれば良いのに。自分の気持ちは自分にしか分からないのに、自分でも分からないならどうすれば良いのだろう。


 迷宮に入り込んでしまった心持で、カウチで一人ジタバタしているうちに、夜になってしまった。不毛な考え事で、ぐったりと疲れている。

「なんか、思っていたのと違うわ」

 香草の添えられた子羊のソテーを頬張りながらぼやいた。

「恋をしたら、食欲がなくなるものかと思ってた」

 まあ、とノラが微笑んだ。動じない様子からして、ファニーが話したのかもしれない。別に構わないけれど。


「その様子だと、食欲には問題なさそうですわね」

 ファニーは、明らかに面白がっている。

「考えすぎてお腹が空いちゃった。これ、美味しいわね」

「ちょっとしたお祝いです」

「失恋の?」

「どうしてもう終わっている前提なんです?」

「だって、アロイスには好きな人がいるじゃない」

「それがご自分だとは思わないんですか?」

「もしそうなら、とっくに告白されていると思うわ」

 あれだけそばにいて、二人きりの時間だってあった。アロイスは、チャンスをことごとく逃すほど奥手ではないはずだ。


 実際、告白らしきことは何度もされているのだが、トゥランにその自覚はない。

 ファニーは何とも言えない顔になって、ノラと目配せを交わした。

 かわいそうに、とでも思っているのかしら。

 柔らかな子羊肉を飲み込みながら、トゥランは考えた。けれどトゥラン自身は、それほど悲観しているわけではなかった。

「でも、お祝いってのは良い考えね。片想いだとしても、好きになれる人と出会えたのは幸運なことだもの」

 誰も愛さず、誰からも愛されずに星巫女になっていたかもしれないことを思えば、ずっといい。

 

「じゃあ、告白はしないんですか?」

 いつも控えめなノラが、おずおずと尋ねてくる。

「しないわ。わざわざ困らせるより、もっと楽しいことをしたいもの。そうだ、今度のお茶会、お菓子は何が良いと思う? アロイスにはもらってばかりだから、美味しいものをごちそうしたいわ」

 今はただ、アロイスに恩返しをしたい気分だ。

 これまで、あり余るほどの贈り物と優しさをくれた人に、返せるものは何だろう。彼が喜ぶものは何だろう。


 難題には違いないが、そうしてアロイスのことを考えるのは楽しかった。好きな食べ物を食べ、好きな本を読むのと同じく、好きな人のことを考えるのが幸せなのは当然の摂理で、結局トゥランは認めざるを得なかった。

 アロイスのことを考えるだけで幸せになってしまう自分を。そしてそんな自分自身以上に、彼の幸せを願ってしまうことの意味を、自覚せざるをえなかった。



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