引きこもり姫、新たな扉を開く
ファニーを連れて後宮を訪ねてみると、ウルはちょうど留守だった。
「急な呼び出しがあったんですよ。陛下がお呼びだとか……珍しいこと」
出迎えたゲルダは、お茶とお菓子でトゥランを快くもてなしてくれた。急な訪問だったのに、話し相手ができたと嬉しそうだ。
「あの子はあの通り愛想がないし、世間話なんて付き合ってくれませんからね。良かったらいつでもいらしてくださいね」
少しも気取ったところのない、心やすい人だ。値踏みをしたり、詮索したりというような、油断ならない気配がない。この前だって、真心のこもった言葉をくれた。
そんな人だからこそ、トゥランはふと、尋ねてみる気になった。モリの話したがらない、昔のことを。
「あの……ゲルダさまは、私の母のことをご存じですか?」
ゲルダは茶器を傾ける手を止め、慎重に口を開いた。
「アウレリア妃殿下のことですか? もちろん、存じております。お姿を拝見したのは数えるほどでしたけれど」
「遠い国の王女だったんですよね」
「ええ……ですが、恐らく事実ではないのではないかと言われておりますね」
ためらいがちな言葉に、トゥランはうなずいた。
幼い頃にも不思議に思ったのだ、大人になればますます違和感が大きい。「遠方の」国とは一体どこにあるのか、どういう経緯で輿入れが決まったのか、いくらでも追及すべきことがある。
伝えられた母の出身国は聞いたこともない名前だったし、二人の出会いの物語は公になっていない。政略結婚にしては、母の国は無名にすぎる。
何もかもが不透明で、不自然なのだ。
「お美しい方でしたから、市井の方を王女ということにして、迎えられたのでは……というお話が有力ですが、私もそう考えておりました。本当に、女神のように輝かしいお方でしたから」
確かに、母は美しかったと思う。もう記憶よりも残された肖像画の方が鮮明なくらいだが、おぼろげな思い出の中の母は、まばゆいまでの美をまとっていた。そのせいで、母の本当の子供は自分ではなくファニーなのではないかと、根拠のない不安に襲われたことがあるくらいだ。
「母には、敵がいたんでしょうか」
いなければ、失踪するはずがない。でも、それが誰なのかが分からない。
この王宮は、とかく人が多すぎる。疑い始めればきりがなく、またトゥランはそもそも、人を疑うことが不得手なのだ。
「わたくしは親しくさせていただく機会はありませんでしたけど、誠実なお人柄とお聞きしておりました。でも、この王宮での人柄の良さは、必ずしも人心を集めるとは限りません」
ゲルダ夫人は悲しげに目を伏せた。
「ここでは、誠実さは弱さと等しく語られることがあるのです。アウレリア妃殿下は陛下に寵愛されていましたから、余計に敵意を集めやすいお立場でした」
「……そうなんですか」
母が寵愛されていたというのも、初めて聞くことだった。母がいなくなってからも宮を追い出されなかったのは、父王がまだ何かしらの感情を母に残しているからだろうか。言動の全てが無感情な父を思うと、どうも想像しにくいことではあるが。
とにかく、父王から冷たく扱われたから失踪したわけではなさそうだ。
「じゃあ、他のお妃様方にいじめられて、耐えられなかったとか?」
「あり得ぬことではありません。お妃様方の中には、いかなる手を使ってでも邪魔者を排除しようとなさる方がおられますから」
「殺してでも……ですか?」
ゲルダはうなずいた。
「少しでも平和を願うなら、目立ってはいけません。ですから、私は早くに陛下の寵を失ったことを、幸運と思っています。わざわざ私を気にかける者は、ほとんどいなくなりましたから」
そう言いつつも、ですが、とゲルダは続ける。
「アウレリア妃殿下がお姿を消したのは、おそらく違う理由ではないかと思います」
「どうしてですか?」
ゲルダはトゥランをじっと見つめて、力強く断言した。それはまさしく、母親の顔だった。
「あなたを残していかれたからです、殿下」
「私……ですか?」
「もし嫌がらせに耐えかねて出奔されたのだとしたら、そのような危険な場所に、あなたを置いてゆくはずがありません。まだ小さく、か弱く、何の後ろ盾もない殿下を必ず連れていかれたはずです」
力のこもった言葉に、トゥランはうつむいた。
十二年もの間、必死に打ち消そうとしながら、消しきれなかった思い。自分は母に捨てられたのだという暗い実感が、再び胸の奥を貫いた。
「でも……どんな理由だったとしても、私は置いていかれました」
きっと、他にどうしようもない状況だったのだと思う。そうどんなに自分に言い聞かせても、置いていかれた悲しみは消えない。心の奥深くに、ひそやかに残り続けている。
「お母さまを恨みたくはありません。でもやっぱり、割り切れないです。だから、知りたいんです。どうしてお母さまは突然いなくなったのか」
それから、どうして戻ってこないのかも。
神殿の壁画の間でのことを思い出す。トゥランを迎えるように包み込んだ、何かの気配。母だと直感した、あの力の正体を知りたい。あれは本当に母だったのか。あの力は、トゥランに何を伝えようとしていたのかを。
「お気持ちは分かります。ですがくれぐれも、気を付けてください。敵はいつでも、味方のような顔で近づいてきます。親切な人ほど、疑うべきです」
「……だとしたら、真っ先にゲルダさまのことを疑わないと」
こんなに親切にしてくださるのだから、と冗談めいた笑みを浮かべたが、ゲルダは真剣にうなずいた。
「ええ、そうでなくてはいけません。目立たぬことと疑うことが、身を守る術ですわ。なるべくなら、外出も控えられた方が」
どれもこれも、トゥランには難しいことばかりだ。
「宮から出ずに、お母さまのことを調べるのは難しいです。だから私、何か武術を身に着けようとして来たんです。自分の身を守れるようになったら、少しは安心かと思って」
ようやく、本題を持ち出せた。
正直なところ、自分でも忘れかけていたところだ。
「まあ、うちの子に教わるおつもりですか? 手加減のできない、不器用な子ですよ。女性に教えるには向きません。お怪我をされないか心配です」
ゲルダは急に慌て出した。
「でも、他に教えてくれる人もいませんし、お父さまはきっと取り合ってくださらないし……」
言いながら、ふともう一人の顔が頭に浮かんだ。
「アロイス……なら教えてくれるかしら」
強さの程はよく知らないが、弓術に優れると聞く。少なくとも、一通りの武術は身に着けていそうだ。
「それが良いですわ。アロイス殿なら、教えるのも上手そうですし、きっと殿下を傷つけはいたしませんもの」
「多少の怪我は、覚悟しています」
「いけませんわ。たとえ王族同士でも、殿下に怪我をさせたとなったら大変なことです。それに、御身を大事にしてくださいませ。まだ嫁入り前の大事なお体ですもの」
自分がお嫁にいく未来はいまいち想像できなかったが、トゥランはひとまずうなずいた。
ゲルダに死ぬほど気を揉ませてまで、教わりたいわけじゃない。それに、確かにアロイスの方が教えるのは上手そうな気がしてきた。
「アロイスが戦うところは見たことありませんけど、お強いんでしょうか」
「もちろんです。完全無欠の貴公子と言われるお方ですもの。不得手なことは聞いたことがありません」
「すごいですね……」
あの美貌に有能さを併せ持つとしたら、何もしなくても人気の出そうなものだが、それで好かれる努力を怠らないのだから、社交界一の貴公子と言われるのも当然の流れだ。
「殿下がうらやましいですわ。親しくていらっしゃいますもの。あの微笑みに身のこなし! あんな方に優しくされたら、きっと夢心地でしょうね」
ほう、とため息をつくゲルダは恋する乙女のようだ。年齢を感じさせない可愛らしさに、ついトゥランの頬もほころぶ。
「今度、一緒にお茶会でもいかがですか? アロイスも呼んでみます」
「よろしいの?」
勢いよく身を乗り出してくるゲルダに思わず笑いだしながら、そういえばお茶会を開くのは初めてだと気が付いた。
「是非、いらしてください。お茶会を開くのは初めてなので、色々と教えていただけますか?」
「もちろんです。嬉しいこと。こんな可愛い娘がいたらと思っていたんですよ。ウルは優しいけど、女同士の話はできませんもの」
そうだ、もし母がまだ一緒に暮らしていたら、こんな話もできたはずだ。流行のドレスの話も、夜会で会った素敵な貴公子の話も、新しくできた友達の話もできただろう。お茶会や祭事のマナーも教えてくれただろうし、こっそり町へ抜け出す手伝いもしてくれたかもしれない。
話したいことは日に日に増えてゆくのに、いつか会えるのかどうかもわからない。
「ああ、それにしてもどうしましょう。アロイス様とお茶会だなんて、夢のよう。あの美の化身のような顔を近くで見るだけで意識が遠ざかるのに、お話までできるなんて……幸福すぎてどうかしてしまいそう」
想像だけで感極まっているゲルダの浮かれようが、トゥランには少し分かる気がした。
一人でいたら、きっとこうも胸がいっぱいになることはない。聞いてくれる人がいるのは、いい。夢中になって話したい話があるのもいい。
引きこもっていた頃には分からなかった感覚だ。
「お兄さまには、内緒にしておいてくださいね。アロイスのことになると、むきになってしまうんです」
「そうね。でもあの二人、何かきっかけがあればきっと親しくなると思うのよ。少なくとも、相手に強い興味があるのだもの。ロマンス小説でも、最初の印象が悪いほど強く惹かれあうものでしょう?」
なぜロマンス小説に例えたのかはよく分からなかったが、ウルとアロイスがもし仲良くなってくれれば、それに越したことはない。
「アロイスは男の人にも人気があると聞きましたけど、お兄さまは例外なんでしょうか?」
なにげなく口にした質問は、思いがけずゲルダの何かを強く刺激してしまったらしい。
異様に真剣な目が、ほとんど睨みつけるようにして向かってきた。
「それなのよ。アロイス様を嫌う方って、かなり珍しいんです。アロイス様の方でも、ウルのことが気にかかるはず……そうよね?」
「え? ええ……そうかもしれませんね」
心なしか口調も変わっているような。
どうしたのだろう、と訝しく思う間もなく、ゲルダはさらなる早口でまくしたてた。
「出会う前からの確執、幾度ものぶつかり合い、そして障害を乗り越えた先には何があると思って? 誰にも邪魔できない、二人だけの世界よ。そして二人は分かちがたく結び合い、永遠の友情を誓うの。己の心に芽生えた、新たな感情の正体も知らないで」
「新たな感情……?」
友情でないとしたら、一体何なのだろう。
考え込むトゥランの手を、ゲルダががっしとつかんだ。
強い力だ。
「わたくしが聖典よりも読み返している本をお貸ししますわ。それを読めば、きっと殿下にもお分かりいただけるはず」
「あ、ありがとうございます」
突然の情熱と勢いに気圧されながら、とりあえずこくこくとうなずいた。
何だか急に言っていることがまるで分からなくなったが、新しい本が読めるのは楽しみだ。お返しに自分の好きな本を何冊か貸すことを約束して、宮に戻った。
◆
夕食後、ゲルダに借りた本を読み始めたトゥランは、久しぶりに止まらなくなり、朝までかかって読み終えた。最後の頁をめくる頃には、頬を伝う涙が止まらなかった。
「なんて儚くて美しくて残酷なの……」
それは読んだことのない種類の物語だった。性別や欲望を越えた、無償の愛。魂で結びついた二人。度重なる困難を乗り越えてゆきながら、最後には違う道を歩んでゆく。
恋愛でもなければ家族愛でもなく、友情という言葉では物足りない。けれど、そんな二人も最初の出会いは最悪だった。それでも強烈に意識し続けるうちに、互いを知り、理解していったのだ。
(もしかして、お兄さまとアロイスもいつかこんな風に親しくなるかしら。そうだったらいいのに)
読後の余韻さめやらぬトゥランの元へ、折よくと言うべきか、アロイスが訪ねてきた。いつもの花を携え、甘い微笑を惜しげもなく振りまいている。
「アロイス! ちょうどあなたのことを考えていたの」
駆け寄ると、アロイスはいっそう嬉しそうに頬を緩ませて、トゥランをのぞきこんだ。
「どうして? もしかして、夢の中で会えたのかな。そうだといいんだけど」
「そうじゃないの。でも、お願いしたいことがあってね」
手を引いて客間に案内しながら、事の経緯を説明した。昨日ウルに会いに行って、不在だったこと。代わりにゲルダと話して、お茶会を開くことになったこと。
「それでね、お茶会なんだけど、アロイスはいつだったら時間あるかしら」
「きみの誘いならいつでも」
「本当? ゲルダさまも喜ぶわ。一緒にお話したがっていたもの」
「光栄だな」
「それと、お兄さまも呼ぶつもりなの」
「へえ、でも殿下は来るかな。そういうの、あまり好きではなさそうだけど」
「内輪の集まりだから、きっと来てくれるわ。お兄さまはゲルダさまのお願いに弱いもの」
「きみのお願いにもね」
アロイスはトゥランをカウチに座らせると、もってきた花束から一輪の花を抜き出し、トゥランの耳にあしらった。
「……今日も綺麗だ」
「本当ね、これもお庭で育てているの?」
「そうだよ。褒めたのは花じゃなくてきみの方だけどね」
相変わらず、朝から容赦なく甘い言葉が飛んでくる。
「ふふ、ありがとう。アロイスにかかればみんな美男美女気分ね」
「本気でそう思っているんだよ。きみはこの世の何よりも綺麗だ」
本当に真面目な顔をして言うから困る。褒められるのはあまり慣れていない。
「そういうの、どう返せばいいのか分からないわ」
「じゃあ、何も言わないで。ただ受け取って。俺の言葉を」
そう言われても、なんだかそわそわしてしまう。
話題を変えようと、もう一つの「お願い」を持ち出すことにした。
「あ、あのね、実はもう一つ頼みがあるんだけど」
「なんなりと、姫君」
アロイスはトゥランの隣に腰かけながら、余裕たっぷりに微笑んだ。カウチの背もたれに片腕を乗せて、優雅に頬杖をつく。やわらかな金髪が乱れ、細めた瞳の睫毛が影をつくる。狙ってのことかどうか知れないが、匂い立つような色気だ。
例のご令嬢方ならうっとりとため息をつく場面だが、トゥランは話題が変えられたことにほっとして切り出した。
「懐剣の使い方を教えてほしいの。本当は剣術を教えてほしいけど、まずは手ごろなところから始めようと思って」
予想外だったのだろう、アロイスは面食らった様子だ。
「急にどうしたの? 最近、何か危険な目に遭った?」
「ううん。でも、最低限自分の身は自分で守れるようにって、前から思っていたの。お兄さまに頼もうかと思ったけど、一度断られているし、ゲルダさまも他の人の方が良いと言うから」
アロイスなら断らないだろうし、という密かな算段もあったが、意外にもアロイスは即答しなかった。
「……できれば、きみの身を守るのは俺でありたいんだけどな」
というのがその理由らしい。
「でも、いざという時、アロイスがいてくれる保証はないもの」
「いつでもきみのそばにいたい、という意味で言ったんだよ。でも、そうだね。懐剣くらいはうまく使えた方がいいかもしれない」
何も知らない娘が聞けば百発百中で誤解してしまいそうなことを口走りながら、アロイスはしぶしぶ了承した。
「でも、懐剣は運が良ければ一時しのぎになる程度のものだから、過信してはいけないよ。まず、危険に一人で飛び込まないこと。いつも俺の手の届くところにいてほしい。いいね」
その過保護ぶりときたら、モリをはるかに上回る。どうやら、少しも信頼されていない。
「アロイスは心配性ね」
「そうだね。いずれきみのせいで死ぬかもしれない」
「心配し過ぎて?」
「そう」
「そんな心配されるほど無茶なこと、したことないのに」
「迷子になった挙句にさらわれたのに? あの時、早くも一度死にかけたよ」
「その話、一生されそうね」
口を尖らせてむくれたトゥランに、アロイスは「一生そばにいてもいいってことかな」となぜだか嬉しそうにする。
恋人めいたことを言うのはいつものことだけれど、今日はひときわ絶好調だ。
「今日はなんだか機嫌が良いのね。何かいいことがあったの?」
「朝からきみに会えた」
「それだけ? 片想いの人と何か進展があったのかと思ったわ」
言いながら、なぜだか胸が痛んだ気がして、思わず手を当てた。
けれど、何度か深呼吸してみても特に痛くない。気のせいのようだ。
「何もないよ。今はただ、顔が見られるだけで嬉しいんだ」
落ち着いた声音で答えながら、アロイスはとろりとしたまなざしをトゥランに注いでいる。
「そういうものなの? ……何だか眠そうね。寝不足?」
「いや、眩しいだけだよ」
「日覆いを下ろす?」
立ち上がりかけたトゥランの手が引かれ、座り直させられる。
「いいんだ。ここにいて」
まるで意図のつかめない友人に困惑しながら、ただ隣に座って、たわいもない話をした。庭で咲いた花や、異国から献上されたという噂の珍しい動物や、最近読んだ本のことなどを。
朝から来たので何か用事があったのかと思えば、そういうわけでもないらしい。
トゥランも、今朝読んだ本の話をした。男同士の友情の話だと説明し、好きな一説を読み聞かせなどするうち、急に徹夜の眠気が襲ってきて、アロイスの肩にもたれたまま眠ってしまった。
その時見た夢は、アロイスとウルが出てきた気がする。喧嘩ばかりしていた二人が、共通の敵と戦いながら、近づいていく夢だ。
本当にそうなればいいのに、と目覚めて言うと、アロイスはどこか困ったように、「命がけで守るのはきみだけで十分だよ」とぼやいた。




