プロローグ
「星巫女が先月身罷ったことは知っているだろうな。トゥラン、お前を時代の星巫女に任命する。正式な就任は一年後だ。その間に準備を整えよ」
久しぶりに会った父王は、前置きなしでいきなり本題を告げた。
挨拶もなければ、近況を尋ね合うでもない。親子らしい情愛は一切感じられない空気の中、本当に用件を告げただけで、重い口はつぐまれてしまう。それ以上、話すことなどないとばかりに。
痩せても太ってもいない体躯、いかにも気難しそうに引き結ばれた口元。向き合っているのに、微妙に逸らされている目線。
この人が自分の父親だという実感はあまりないし、それは相手も同じだろう。こうして直接言葉を交わすのは、何年ぶりだろうか。面立ちもはっきりとは記憶になく、そういえばこんな顔だったと今思い出したくらいだ。
「分かりました」
同じく淡々とこたえて、それ以上父が何か言うつもりのないことを確かめると、トゥランは玉座に背を向けた。
たとえこれが今生の別れでも、父は何とも思わないだろう。七十人の妻と、二十二人の王子、三十一人の王女を持つ父にとって、十四番目の姫がどんな顔をしていてどんな運命をたどるかなんて、大した問題ではない。名前だって、ついさっき側近に尋ねて思い出したに決まってる。
姫の中には、隣国や国内の重鎮に嫁いだ者もあれば、歌い手や舞い手として名高い、才長けた者もいる。
そんな中、特筆すべきこともなく歴史に埋もれゆく姫もいる。それがトゥランだ。
遙か遠い極北の地で、一生を祈りに捧げる星巫女になれば、もう神殿の敷地外にも出られない。自由を奪われ、わずかな側近に囲まれるだけの、寂しい一生となるのが決まっている。
とはいえ、星巫女としての勤め自体が嫌なわけではなかった。どうせこれまでだって、自室に閉じこもって本ばかり読んでいたのだ。場所が変わり、お勤めが増えるだけで、日常は少しも変わらない。
そのまま細々と生きて、死ぬ。誰にも惜しまれることもなく、思い出されることもなく。
変わらない……けれど。
……そんな人生でも、存在している意味ってあるのかな。
悲しみよりも強く胸に湧き上がるのは、これで良いのかと問いかける声だった。
確かに自分は何もしてこなかった。それが母の願いだったから。
お付きの侍女以外は誰も信じてはいけない、誰ともなるべく関わってはいけない、部屋でじっとしているようにという言葉を残して、母は消えた。ある日目覚めたら、忽然といなくなっていたのだ。
母とトゥラン、そして侍女たちと和やかに過ごしていた宮から無くなったものはなく、襲われたのか、さらわれたのか、自主的にいなくなったのかも分からない。突然一人で取り残されても、トゥランはその言いつけを素直に守ってきた。
だから、夜会にも行ったことはなく、王宮の外へ出たことすらない。どうしても断れない行事以外では、姫らしく着飾ったこともない。
ひたすらに言いつけを守ることで、十二年前、突然姿を消した母と、わずかでもつながっているような気がしていた。いつか戻ってきてくれるのではないか、という夢も捨てきれない。本を読むのは好きだったから、図書室との往復だけの日々でも、それほど退屈はしなかった。
でも、本当にそれでいいのだろうか? このまま遠い地に一生閉じ込められて、いつか後悔しないだろうか?
トゥランには夢がある。ずっと読むばかりだった本を、いつか自分で書いてみたい。
けれど、トゥランは何も知らない。音楽や動物や風景や、物語を彩る全てのものを、本の中でしか知らないから、想像と現実がどの程度一致しているのかも分からない。
私の人生を本にしても、きっと一ページも埋まらない。
大量に読んできた本の主人公たちを、次々に思い浮かべた。押し寄せる苦難。驚きに満ちた冒険。熱い友情や恋。
引きこもり姫の想像力に任せるには、少々荷が重い。今のままでは、読んだことのある物語をなぞることしかできそうにない。その上一年もしたら、凍てつくような北の地で、言葉も忘れるような孤独と戦うことになるだろう。
――でもまだ、一年ある。
トゥランは足早に宮へ戻りながら、忙しく考えた。
一年の間で、何ができるかを。
できるだけ多くの風景を見て、多くの人と話しておきたい。本の中でしか知らなかったことを、この身で体験してみたい。
きっと、引きこもり姫が突然じたばたと動き回ろうと、父王は何も言わないだろう。一年やるというのはそういう意味だ。元よりあの父は、トゥランに格別の興味はない。
無性にわくわくし始めた一方で、トゥランの心の片隅には、後ろめたさが残っていた。
それはずっと枷でもありつつ、きっと何か意味があったもの。トゥランを守ってくれていたものだから。
ごめんなさい、お母さま。一年だけ、言いつけを破ります。でも、その後はお母さまの言う通り、誰とも会わないで過ごすわ。遠い場所で静かに暮らすって誓うから。
心の中で誓ったものの、母がもしいたらどんな顔をするのか、うまく想像できなかった。母が消えたのはトゥランが五歳の時だ。もう、顔もほとんど覚えていない。
優しく美しい人だったという気はするが、それは残った侍女に聞いた話のせいで、そう思い込んでいるのかもしれない。
その日は久しぶりに、母のことを思って眠りについた。
もしかすると、この一年、どこかで会えたりしないかしら。
そんなことを寝しなに考えていたので、夢の中で何か二人で話したような気がする。幸せで、寂しい夜だった。