スイセンの私とスノードロップ
冬は嫌いではない。その寒さも乾いた空気も師すら走り回る季節柄の忙しさも、嫌いではない。
なぜかと言われると…私にその答えを返す手段はない、と思う。嫌いなら嫌いで好きなら好きで何らかの理由を述べるのは難しいことではないだろうと思うのだが、ただ嫌いではないというのはなんというか感覚的なものなのだ。その感覚的なものを私は何かの言葉で表すことができない。どうしてだろうか。どうして。私にとってはそれを一つの言語の形に収めることがいかほどの意味を持つのか分からない。でも、なんだか気になってしまっているのだから解決しないと。そんな気がしてならない。
冬はじんじんとしみるような寒さに包まれている。風が吹いてしまえば私の感情的な熱まで奪ってしまいそうだ。部屋に入るときは温度差で耳がじんじんするし思いっきり息を吸い込んだら肺の奥までつんざくような違和感に苛まれる。でも、嫌いじゃない。この気持ちは何なのだろうか。やっぱり言語化できない。そりゃあそうだ。言語化できないという話をしていたのだからできないに決まってる。ちょっと話を他にそらしたところ私は別の人間にもなれないし急に賢くなったりもしない。だからやっぱり、冬は嫌いではない。
冬はあまりにあいまいで。だんだん私は考えることが億劫になってきて、もうどうでもいいかと思い始めてきた。考えれば考えるだけ苦しくなっていくならひと時のモヤモヤに身を任せてしまった方がいいのかもしれない、なんてそんな風に。
冬の始まりは唐突で、冬の終わりも唐突で。どこかの誰かが決めたルールならしっかりと冬が決まっているのだろうけど知らない私にその定義はあってないものだ。ならどこから冬になるかなんてのは感覚的なもので。寒いから冬?雪が降るから冬?馴染みの店が品替えをしたから冬?やっぱり冬は私の手の中にはない。
冬に生きる私は冬以外に生きている別人の冬を生きることができない。そりゃそうだ。さっき別人になんてなれないって話をしたばっかなんだから当然だ。だからっておんなじ定義を持っている者が同一人物なんて言う暴論をかざすつもりも毛頭ない。そんなもの、それこそ何処かの誰かが正式に発表しているであろう定義を信じる者が全員同じになってしまうではないか。知識を伝染する同一化症状なんてひどい話だ。
冬は寒さに包まれているのにどこか暖かいのはどうしてなのだろうか。冬に感じる空気がやけに心地いいときは私は何を思っているのだろうか。冬はやはり私の心を弄んでいる。どれだけ考えたって答えなんてでないってもう私は結論を出したはずなのに。それでも止めるか決めるかしたくなる。これは私が悪いのだろうか。おかしい。おかしくてたまらない。でもおかしいと自覚してもなにも変わらない。おかしな話だ。外から見た私は大変滑稽に見えるだろう。いや、案外私は演技上手で周囲にはこの醜態をさらしていないのかもしれない。それの方が私にとっては深刻な苦しみに繋がっているのかもしれない。
冬は嫌いではないと言ったが他はどうなんだ。どれもこれも欠かせないものばかりで、でもやっぱりこれといったものはないように思える。ではやっぱり私にとって冬は大切な何かなんだということは自覚しなければならないだろう。これだけ好きじゃない好きじゃないといったにもかかわらず他のものについては全く語れなかったのだからしょうがない。好きも嫌いもないと語って、他の何かならさも簡単に言語化可能な感傷を抱いているといいだけな語り口をしたにもかかわらずそれでも今の私は冬を中心に回っている。
冬は悪いことばかりではない。それはそうだろう。だってそうじゃなきゃ嫌いにならない理由がない。そんなもの、嫌いであるべきだ。こんなにも私を悩ませる冬とはなんだ。
冬に咲く花は美しい。一息で消えそうな儚さとそれでも厳しい寒さを耐え抜く力強さを持っている。マーガレットもクリスマスローズもシャコバサボテンもスイセンも。どれも綺麗で、触れがたい。でも…。
冬にはまだ届かないから、スノードロップをそっと心の奥に秘めて。スイセンのままの私でいよう。どこか逃避じみたそれがなんとなくちょうどいいと思えた。きっとそれが私にあっている。そんな風に思えた。くどくどと自分を納得させるための言葉を並べてきたからこそ、分かりやすく、すとんっと胸の中に落ち着いた。
冬はやっぱり嫌いじゃない。話の結論はどこかに飛んでいってしまったけれどそれでも私の心は少しだけ、ほんの少しだけ晴れやかだ。ふと、頭をあげるともうこんな時間になっている。ずっとうつむいて考え事をしていたから気が付かなかった。さんざんなことだ。こんな曖昧なことを考えるだけでこんなにも時間をかけてしまうなんて。そんなことを考えながら苦笑いをしている自分を自覚しつつ、何気なく取り出した携帯に一言だけ添えて。
『あけましておめでとう』
望みはひとつ。晴れやかな明日を。