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旅立ち

作者: 長倉千広

 たぶん起こりえない物語。


 東京、新宿区、新国立競技場。


 競技場の完成からまだ5年くらい。ですが、完成した時はあんなにきれいだったのに、外壁にはところどころ黒ずみやひび割れが目立っていました。その競技場に、一組の親子連れがやってきました。もう初老で髪に白髪が混じる母親の方は今にも泣きだしそうな顔つきなのに、子どものほう、といっても二十歳前後の方の顔はどこか笑っているのが対照的でした。


 彼女は家から駅に行くまでの間、いままで息子と暮らしてきて楽しかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、など、様々なことを思い出しては泣き、泣いては思い出していました。赤ちゃんのころからずっと面倒をみて、人生のすべてをささげてきた。はじめてしゃべったときは飛び上るほどうれしかったし、息子が成長していたときはそれだけですべてが満たされたような気分になった。反対に、期待を裏切られたり、反抗されたときはがっかりして、何度も叱ってしまった。大学に息子が合格して、とても喜んでいたとき、自分まで嬉しくなった。気持ちが一体だった。息子がうれしくなれば私もうれしくなり、悲しくなれば悲しくなった。

 息子と一緒にいるということがなかなかいいこと、喜ぶこととして見られない世情のなか、どうにか必死で食事をつくり、会話をして、アルバイトもして二人で生きてきた。でも今日でそれもおしまい。なにもかもが終わってしまう。それを世間が望んでいるというのは嫌になるほど知っているし、断れない。今まで二人で生きてきた流れを、強制的に誰かに中断されてしまう。いままでの自分の人生すべてが失わさせられてしまったかのよう。こんなことになったのは、わたしのせい?


 そんな気持ちを全く理解していないのか、はたまた理解しているのか、彼は全く口を開こうとしません。彼は自分というものが誰かのためになればいい、そのためには自分というものがどうなっても構わないと思っています。自分を犠牲にしても、誰かのために尽くす。自己犠牲の精神が彼の精神構造の根幹をなしていました。そのために、彼はじぶんがなんのために生まれてきたのかを自分なりに決定していたのです。たとえそれが彼女の願いと全く逆転していたとしても。


 彼女は泣きだしそうというか、もはや泣いています。歩く親子の周りの人たちも

「よくあることだ」

「気持ちはわかるよ」

という風に、気にも留めません。それどころか、同情したように涙を流しているおばあさんすらいます。このおじいさん、大丈夫ですかね。この時代じゃ捕まってぼこぼこにされるでしょう。


 もうさいごだというのに、ふたりとも決して口をひらきません。案外、別れというのはあっさりとしたものなのでしょうか。でも、さっきと違うところがひとつありました。


 ふたりが手をつないでいました。彼も彼女の気持ちに寄り添うように、悲しい顔を精一杯作っていました。彼女の泣きはらした目をみて、彼はようやくこの時代の熱狂した空気から脱出し、彼女の目を見て、一筋の涙を流しました。自分の気持ちに素直になったかれは、今まで自分で作った自己欺瞞の精神を開放し、はじめて母親と向かい合い、いまではずいぶんと大きくなってしまった体で抱きしめ、それが最後。



 見ていた誘導員の女性たちが、意地悪な顔で二人をひきはがし、競技場のなかに彼を連れて行きました。むりやり息子を引きはがされた彼女は、息子の名を呼んで追いすがるも、もはやだれにもどうすることもできないということは、彼女自身もよくわかっていたでしょう。この時代ではよく見られる、そういうものなのでした。


 彼女の息子と同じような人たちが、競技場に並んできれいに行進しています。偉い人たちはそれを見てニコニコ笑っています。


 




 

 彼は行ったきり帰ることはありませんでした。



 多大な犠牲を払った戦争に日本が勝ち、世間が喜びに充ち溢れていました。


 しかし、彼女だけは一人、いつまでもあの時代に取り残されていたよう。

 

 何年かののち、もう一度戦争をするらしい、という空気になっていった。戦争をするかどうかの投票が行われ、戦争をするということになった。彼女は戦争に賛成票を入れました。

 

 こうして、世間の同意で戦争は再び始まりました。

 出陣式が今年も行われます。



 そして、東京、新宿区、新国立競技場


 その競技場に、一組の親子連れがやってきました。

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