繋がれた命
* * * * *
社を出て眺める光景は、いつになく穏やかだった。
雨も風も嵐もなく、季節さえ春から変わらずに穏やかさだけが私を包んでいる。
時が無い。同じように朝が来て夜が来て、再び同じ朝が来る。そのことに何の煩わしさも感じないこの感覚の所以は、ここが人の世界ではないからだろうか。
樹や泉、獣や鳥が私の周りにある。その光景も見慣れ、唯一の人として存在する自分もその中の一部になったような感覚が、私の身体の中にはあった。
ふと、自分の腹部に視線を落とす。あの人の子を宿す腹部は、足元が見えなくなるほどに大きくなっていた。生まれるのもあと少しだろうかと撫でながら考え、そして私は歩き出す。
出産がどのようなものなのか、あまりよく分かっていなかった。
身籠ってからどれくらいで生まれるのかも知らない。これらに関して今まで知る機会が無かった。与えられなかった。
そもそも森の巫女として生きるよう決められた私が、誰かの子を身に宿すなどとは誰も想像すらしていなかったのだ。それは私も母も違わない。故に、それらに関する知識を得る機会がないまま私はここまで来てしまっていた。
今思えば社に一時期戻っていたのだからその時に母になりユキになり聞いておけば良かったと後悔があるが、あの時はとても尋ねられる状況ではなかった。
母も兄も、私の置かれた立場を受け入れるのに精一杯だったのだから。
母や兄のことを思い返していると、腹の子が大きく動いたのを感じた。まったく動かない時もあるのに対して、今はこれでもかと大きく動く。数日前から腹部が張っているようにも感じていた。
もう少しでここから出ようとしているのだろうか。いやしかし、そうでもないようにも思う。
よく、分からない。漠然とした不安だけがある。
出産にはとりあえず痛みが伴うということ、それから生死を分かつものになり得ることだけは理解していた。
夜になれば彼はいたが、昼間の一人の間で生まれることになることも考え、幼い頃に一回だけ母と共に立ち会ったムラの女性の出産を思い出しながら社の中で準備を整えていた。
今朝も朝起きると隣に彼はいなかった。
いつものように起き、社を出て身を清め、衣を洗い、小さな畑の様子を見て、炊事をし、外の梅の樹の下で生まれてくる子のための衣を繕うことをした。いつもの日課をこなしていたが、昼頃になってなんとなく感じていた張りが痛みに変わったのに気づいた。
もう戻った方がいいだろうかと立ち上がると、傍においていた作りかけの衣が吹いてきた風でふわりと宙を舞った。
あ、と思ったときには、巨大な木々の間に入っていくところだった。
少ない生地をやりくりしてきたこともあり、なくしてはいけないと考える前に身体は衣を追いかけていた。
自分の身の丈ほど太さのある根の上を歩いて行く。繕っていた衣が飛ばされてしまうことはこれが最初ではない。先程の風ならこのあたりに落ちているはずだと、目星をつけて大きな木の根の上から探したのだがどうも見当たらない。もう少し先も探してみようかと思い悩んだが、思い止まった。
これ以上行くのも、膨らんだ腹部で足下が見えない状態では危険だろう。
ましてや私は彼のようなカミの力を持ち合わせていない。人である私をそこまでこの先の森の世界が受け入れているとも思えなかった。私の話を聞かない、誇り高い獣もいるというのに。
社や泉、梅の樹の周辺ならば彼の力が働いているため安全であるものの、外ではそうはいかない。森にとって、人の身体を持つ私は排他すべき存在となり得るのだ。
定期的にやってくる腹部の痛みが無視できないくらいになってきていたこともあり、諦めて帰ろうとした時、大きく風が吹いて煽られた。
息が止まるほどの強さ。警戒の音。戻れと言っている。
何故。
風が吹き流れる、遠くの森の闇に目を凝らした。あちらに何かがいるのだ。そしてその何かが、やってくる。
ここから離れなければ。何かがやってくるのだと分かっても、私にはそれを防ぎ、己を守る能力がない。足を浮かすと、風に呼応したかのように己の身体が一度大きく脈打った。
お腹の子が、どくんと、跳ねる。
目眩がする。世界が揺れる。
ふっと、足場がなくなった。
風に煽られ、苔むした大きな根から足を踏み外した。落ちる、と思った時には遅かった。
掴めるものがない。宙を切った自分の手を見、その直後、自分の身体に大きな衝撃があり、視界が白黒に点滅した。
大きく息を吐いた。
落ちたのだと、仰ぐ先に揺れる木々の枝を見て思った。ゆっくりと身体を起こしたが、足が痛んだ。挫いたようで立つことが出来なかった。どうにか樹の根にしがみつきながら立ち上がろうとしたものの、足の痛みでままならない。
天を仰ぐ。
風がやんでいた。静かな空間だけが私を取り残すように広がっている。
手立てがなく、その場に腰を下ろし直すと、座ったところの手元に探していた衣があった。こんな樹の真下に落ちていては気づかないのも当たり前だ。大きな樹だからその根元の影に落ちれば上からは見えない。
どうしたものかと根の上を見上げる。根を伝ってどこからか上がれるかもしれない。うまくいけば社に戻れるかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、身体を引きずるようにして進んでみたが、しばらくして腹部の痛みが増していることに気づかざるを得なくなった。
生まれるのだと嫌でも分かった。そうと分かれば嫌な汗が額に滲んだ。
ああ、まさか。
こんなところで。
このままこれ以上先へ進めるものではない。痛みがあってから生まれるまで時間があることは知っていたものの、思っていた以上に痛みの増し具合が早く、加えてこんなにも痛むとは思ってもみず、狼狽した。
腹の張りを感じた時点でいつもの日課は止すべきだった。
外に出なければ良かった。後悔ばかりが溢れてくるが、どちらにしろ私は戻っても一人だということを思い出した。
夜にならなければ彼は姿を持てない。まだ昼過ぎだ。日が暮れるまで一体どれくらい時間があるか。それに動けないならばここで、一人で産むしかない。
一人であることの不安が初めて自分の中に沸いた。
いや、違う。
不安の後に気づいた。私が自ら一人になったのではないか。
なんて愚かだろう。
彼が人ではないことを知り、昼間は姿を持たないことを知り、その上母や兄たち、人の世と別れを告げたのは間違いなく己自身ではないか。
宿った子が人の子ではないことも、出産の時も彼以外誰もいないだろうことを分かっていて、私は母たちのもとを離れたのではなかったか。その覚悟もしてきたはずではないか。
ひとつしか道はない。私はここで我が子を一人で産むのだ。
意を決し、風は避けるために根の間に身を置いた。どんな体勢でも辛かったが、自分が落ちた木の根に寄りかかって過ごすことにした。
定期的にやってくる痛みに歯を食いしばる。寄りかかっているだけではどうも痛みを逃がせず、四つん這いになり、呻くように息をする。どう身体をおいてみても痛みは強くなるばかりだった。
水が飲みたくとも近くに泉はない。泉がある場所は分かるのに、この身体では辿り着けない。
こんなにも痛みが伴うものだとは知らなかった。痛みに呼吸が止まる。頭が真っ白になり、これでは駄目だと意識に覆い被さる靄を振り払う。
どれだけそうしていたかは分からない。痛みに悲鳴に似た声をあげて耐え、恐ろしいくらいの汗が流れた。足下はいつの間にか血と水で濡れている。
夕暮れ近くになった頃、自分の足の間に何かが出てきたことを知った。
手を伸ばしてみて、子の、頭だと、ぼんやりと思った。
そこからはよく分からないまま、力を込めた。足の間にあったものがぬるりと進み出て、痛みが急に引いた。何が起きたのか飲み込めない状態で私は肩で息をする。
ぐったりとした。思考がついていかない。
その時だった。咳き込むような小さな声が聞こえた。
誰の、声。
赤子、の声。
誰、の。
私の。あの人の。
私が、今、一人で産んだ、私の子の。声。
澄んだ空気の中、炎のような夕暮れの陽光の煌めきのずっと向こうで、小さく震える泣き声が響いていた。大きく息を吐き、その声に聞き入ると、声は真っ直ぐ私の鼓膜に吸い込まれていった。耳の奥が切なく痛んだ。
「……ああ」
残った力を振り絞り、震える手を声のする方へ伸ばした。一点の暖かみに触れ、自分の足の間から引き寄せ、顔を見る余裕もなく、臍帯で繋がったままの小さな存在を胸に抱いた。
冷やしてはいけないと思った。見つけた衣でその子をどうにか包み、抱き直す。
この子のために今まで大事に作ってきた小さな衣だった。衣越しに感じる小さなぬくもりを胸にしながらもう一度大きく息をつく。
もう、力が入らなかった。出血が多かったのだろうか。頭が朦朧とする。手足が小刻みに震える。
足元は血だらけだった。これが自分の血だと思うとぞっとした。
この時ばかりは、母の顔が思い浮かんだ。母の、心配そうな、あの顔。私の出産をどれだけ心配していただろう。
眠いわけではないのに、勝手に瞼が落ちる。意識が離れる。
こんなところで手放すわけにはいかないと思うのに、身体が動かない。
否応なく、小さな子を腕に抱いたままの身体はずるずると横に倒れていった。
夕陽の橙にあった世界が、横たわる巨大な樹の根で視界にいっぱいになる。
その視界が、霞む。暗闇になる。それに包まれる。遠のく。消える。
視界も、記憶も、感情も、震えも、痛みも、何もかも。
そうして、ああ。
近づいてくる。あの黒く、冷たいあの存在。
風が私に警告していたのはこれだ。前に一度、それは私の近くに来たことがある。
あれは「死」だ。
じと、じと、と地べたを張って私に近づく。
こんな奥まったところにも「あれ」はいるのだ。
腕の子にだけは触れさせまいと思うが、私はこれ以上動けない。
来る。こちらへ。
姿が見えなくとも分かる。こちらにその身を伸ばしてくる。
こちらへ。こちらへ。
そうしてついに。
「死」は私の投げ出した足先にひたと触れた。
そこからじわじわと滲むように冷たさが生まれた。
瞼は閉じていく。みるみる内に冷え切っていく自分の身体の中で、胸元だけが一点、暖かい。
ああ、寒い。
とても──。
火の音がした。ぱちぱちと、小さく弾ける音。聞き慣れた音。もう持ち上がらないと思った瞼が開く。大きく息をし、あたりを見渡して、ここが社であることを知った。
自分の身は寝具にあった。
あの子はどこだろうと更に視線を巡らすと、すぐ隣に私が前々から植物の茎や落ちていた枝で編んでいた篭があり、そこから小さな手が覗いていることに安堵した。
動こうとしても、身体はうまく動かない。
我が子の姿を確認したくて、どうにか手を伸ばして篭を掴むと、その揺れた反動で小さな子が弱々しく泣いた。
時間をかけて上半身を起こし、篭を覗く。
小さな子がいた。頬を赤くして、小さな手足をかすかに動かしている。
生えた短い髪は黒。人の姿の彼や、私と同じように人の形をしていた。頬を真っ赤にした姿に泣いてしまいそうなほどに愛おしさが溢れた。
その子に伸ばした自分の腕がひどく震えているのを知った。
身体を完全に起こさなければ腕には抱けないと、身体に力を込めるが、やはりこれ以上は動かなかった。篭に触れ、ゆるやかに揺らしてやるとその子は徐々に泣き止み、口元をむにゃむにゃと動かして再び眠りについた。
改めて自分の身体を確認する。驚くほどに身体が冷え切っていた。傍に火が焚かれているのにまるで死人のようだと思った。この手でこの子に触れてしまったらひどく驚かせてしまうに違いなかった。
目を閉じて、記憶を遡る。
私はこの子を、一人森で産んだ。だが森で力尽きたはずだ。もう駄目だとも思った。死ぬのだと、漠然と思っていた。森で「死」が私に触れた瞬間から。
でも私はここにいる。私をここに連れてきてくれたのは、彼だろうか。日が暮れて、彼が私を迎えに来てくれたのだろうか。
ふと、風の音がした。緩やかな春の日差しのような暖かな風だと分かる。
彼が戻った時の気配。彼を乗せた風の音だ。社の入り口に目をやると、姿を犬から人の形へと変えながら彼が現れた。
「沙耶」
私に呼びかけ、篭の方に無理な体勢で乗り出す私の身体を支え、抱き上げると、自らの腕に閉じ込めてその場に座った。彼の暖かさに安堵し、そうして今自分が寒さを感じていたことに初めて気づいた。
まるで、私の身体がつい先程まで死んでいたように様々な感覚が遠くにある。
「……あ、なた」
話したいことが沢山あるのに、声が出ない。
「水を」
そう言って彼は私に水を飲むよう促した。
飲み込んだ水は私に生を与えるかのように温かく感じた。安心したからだろうか、身体がぐったりとした。
「……あの、子」
ただどうしても我が子が見たくて篭に視線を向けると、それに気づいた彼が篭を近くに引き寄せた。すやすやと眠っている姿を見て、再び力が抜ける。
「沙耶は、一度死んだのだ」
彼は、我が子を眺めながら静かに告げた。
「私が姿を得た時、沙耶は泣いているこの子を抱いたまま命尽きていた」
やはりそうだったのかと息を飲んだ。あれだけの出血、あれだけの寒さ。死んでいたと言われてもおかしくはない。
だが、今私は生きている。
息を吸う。息を吐く。相手の吐息を感じる。ぬくもりが満ちる。自分の胸の鼓動を聞く。
私は、生きているのだ。
「沙耶は、一度死に、私が命を繋いだ」
彼は私に顔を寄せ、母犬が子犬にそうするように、私の額に口付ける。私はそれを受け入れた。
「沙耶は私と共にある」
私の生は、この人と繋がっている。
「生きるも死ぬも。何においても」
彼が生き続けるのならば、私も生き続け、彼の命が絶えるのであれば、私も死ぬ。そういうことなのだ。梅の樹の命の糸に青い光が混じっていたのと同じように、私の命の糸はこの人によって繋がれた。
私は人ではなくなった。私は、あの梅の樹と同じになったのだ。
「……ありがとう、ございました」
彼の傍に、この子の傍に居られるのなら本望だ。
人のままであったなら、私はきっとこの人とこの子をおいて逝かなければならない日がやってくる。でもこれからは、彼と死まで共にあることができる。
「私には判断がつかない。これで良かったのか」
私を深く抱き込み、呟くようにそう言った彼の顔はどこか憂いのようなものを浮かべているようでもあった。