序章
胸いっぱいに息を吸ったら、むせ返るくらいの森の匂いが身体中を満たした。
空を仰げば、自分の身体の何倍あるか分からぬ太い樹木たちで満ちており、生茂る若々しい緑の間から淡い陽光が漏れている。僅かな木漏れ日は私の顔に落ちて影を揺らす。耳を澄ませて聞こえるのは、遠くに流れる川のせせらぎと鳥の鳴き声だけだ。目を閉じればどこかへ飛んで行ってしまいそうな感覚に襲われた。
そんな森の入口の様子とは裏腹に、背の高い樹木たちが立ち並ぶ森の奥は昼間であるのに夜のように暗い。葉などの自然の茂みが陽光を遮って、森そのものの空間を造り上げている。樹木たちが自らの太い根をうねうねと張り巡らせた地面は、幼い私には話でしか聞いたことのない海を思わせた。
森全体が呼吸をして、生きている。人が踏み入れることを決して許さないような、人を越えた何かがここに息づいているような気がした。
母から聞かされた、この森のカミの存在が不意に脳裏を過った。決して怒らせてはならぬ、想像もできない太古から私のムラを治めていると言われるカミ。それがどんな姿をし、どこにいるかは誰も知らないが、確かにこの森の中にいるように感じられた。
これ以上先に行くことだけは憚られたものの、後ろを振り返っても同じような風景が広がっている。もうどこに行けばいいかさえ分からない。自分のムラがある場所に帰るにはどうしたらいいのか。どこを通ればいいのかさっぱりだった。
幼い私は漠然とした恐怖を感じながら、よいしょと根の上によじ登り、汗で顔に張り付いた髪を手で払い、両手で顔をごしごしと擦った。顔に何か湿ったものが張り付いたと思い、自分の手に目をやると、掌には気づかない間に泥がついていた。母が縫ってくれた白と赤の衣も、枝に引っ掛かったのか所々破れ、汚れてしまっている。
衣で手の泥を拭いながら先程まで前を歩いていた兄の姿を探したが、深緑ばかりが視界を埋め尽くして何も見えなかった。戻って探しに来てくれはしないかと一縷の希望を抱くも、全く以てそんな気配もない。
根が這う道とも呼べぬ森の道を、あんなに早く歩かれたらついて行けるはずがない。行こうと言い出したのは兄なのに、足元もおぼつかない幼い妹を置いて先に行ってしまった兄は薄情だ。
ぶつぶつと兄の文句を頭で並べている内に、母の顔が頭に浮かんで離れなくなった。兄への苛立ちは次第に孤独の不安に変わる。
このまま森を出られなかったらどうしよう。大人が恐れる獣と遭遇して食べられてしまったらどうしよう。
宛てなく歩き続けているのも辛くなり、そのまま木の根の窪みに屈みこむ。どこからか聞こえる獣の遠吠えに身を小さくし、いよいよ泣き出したくなった時、視界の先にぼうっと光るものが見えた。
はっと息を呑む。遠くの黒い森の影に、青白く光り輝くものがある。目を擦っても、何度瞬きを繰り返してもそれは光り続け、陽の光よりも薄暗く、そしてまた青白く、不気味とも言えた。
身を起こし、中腰になりながら恐る恐る目を凝らしてみる。正体が何であるのか定かではない。
もしかしたら兄が火を起こしたのかも知れない。ここはとても暗いから。
どんな不気味な光と言えど、暗闇よりかはましだった。光る場所に何かがいるのは確かであるし、獰猛な獣であることはない。兄であることを必死に願いながら疲れ果てていたはずの両脚に力を入れる。
一目散に光に向かって駆け出そうとした瞬間、突如光が増し、目を開けていられなくなった。次に目を開いた時には光はなく、光っていた場所に一人、誰かが立っていた。
兄ではないことは明らかだ。齢十の兄よりもずっと背が高く、姿形からして大人だった。
あんなにも光っていたのだから化け物であるかもしれない。言い難い不安があったのに、私が彼に引き寄せられるかのように近づいたのは、差し出された白い手があまりに優しく思われたからだ。
黒い空間に、白い、大きな手がそっと私に向けられている。おいでと、声が聞こえて来そうなほどに柔らかな仕草だ。辺りが暗い所為で、白い手はとても映えた。
手を伸ばしたら、白い手はゆっくりと私の手を握った。握られた途端、奥にあった身体が視界の中に現れた。まるで形を得たかのように、影であった姿ははっきりとした輪郭を持ったのだ。
男だった。ムラにいるような、何の変哲もない男の人。握った手にぬくもりはあったが、人のそれというよりも、この森に息づく樹木の温かみに良く似ていた。
静かに引かれ、私たちは歩き出した。どこかに導こうとしているかのような彼の足取りに、自然と私の足も前に進んだ。手を引かれて歩く身体は、さっきよりもずっと軽い。まるで空を歩いているかのようだ。
誰、とは聞けなかった。背の高い彼は、私の手を握ったまま、ただ前を見据えて無言で歩き続ける。
先を見つめる目元に、透き通る青が見えた気がしたものの、次に見た時は黒い瞳に戻っていた。見間違えだったのだと思い直して、唇を固く結んで前を向く。
彼には不思議と足音が無かった。滑るように滑らかに木の根の上を行くのだ。進みながら私は救いの手を差し伸べてくれた相手の姿をじっと眺めてみた。
髪は兄や父と同じように美豆良で、耳の横に長い黒髪を結っている。白い衣は筒袖、ゆったりとした袴を着け、倭文布の帯に頸珠、手玉、足結を施し、皮履を履いていた。まるで祭事にでも参加するかのような格好でありながら、太刀だけが足りなかった。
豪華ではあるが、あまりにムラの男たちと風貌が似ていたので、私が知らないどこか裕福な生まれの若者なのかもしれないと思い始める。迷子で蹲っていた私を見つけて、ムラへ戻そうとしてくれている。
身長が違いすぎて顔は良く見ることはできないが、よくよく見れば、見知った人の可能性もある。
心地良い沈黙が続く道の途中で、辺りに梅の匂いが満ちた。顔を上げると、一本だけ、梅の大樹があった。周りの緑の木々がこの一本の樹木を守るかの如くそびえ立ち、守られた梅の木は零れんばかりの真紅を太い枝に抱えている。紅い雪を降らすように、辺りに花を散らしていた。
「……きれい」
幼い私の喉から、ようやくこぽりと言葉が零れた。梅の樹はムラにもあるが、初めて見るような神々しさだ。さすがはカミの森にある梅の樹と言うところだろうか。
しばらく二人で立ち止まって大きな真紅の樹を眺めていた。
「──好きか?」
不意に優しい声が頭上から降って来て、私はこくりと頷いた。その人は空いている方の手を宙に差し出し、何かを掴むと、私の目の前でその手を開いてくれた。零れた梅の花が一輪だけある。たった今、あの枝から零れたばかりの梅。
私に、くれるのだろうか。
礼を言うのも忘れた私がその白い手から梅の花を取ると、彼は再び私の手を引いた。どれくらい進んで行ったのかは覚えていない。疲れは感じなかった。
どこまでも、どこまでも自由に歩いて行ける。
恐ろしいと感じていた森が、命に満ちた場所であるように思えた。
そうしてやがて、見覚えのある建物が見えてきた。深い緑たちの中によく映える古めかしい茶色は、見覚えのある、戻りたかった場所である何よりの証だった。この森のカミを奉るお社だ。その周りに沢山の火が右往左往している。ムラの人々が社の周りに集まっていた。人の集団の中に、誰よりも会いたかった姿が見えて、私は思わず隣の人の手を離して駆け出した。
「かあさまっ!!」
叫ぶと、一人のムラの男が私に気づく。
「沙耶だ!」
その声を合図に、皆が私の姿を認めるなり、沙耶だ、沙耶だ、と口々に叫んだ。
「帰ってきたぞ!カミの森から!!」
地面に膝をつき、両腕を広げる母の胸に一目散に飛び込んだ。
「沙耶……!」
ぎゅっと抱きしめられて、我慢していた涙が一気に溢れ、わんわんと声を上げて泣いてしまった。母の隣に父もいた。森の中ではぐれたはずの兄もいる。
良かった。戻ってこられた。
「ああ、沙耶!何故森へなど入ったのです。危険だと何度言ったら分かるの。カミの怒りに触れたらどうするつもりだったのです」
入った時は昼だったのに、今はもう夜だ。森の中は時間の存在を忘れさせるものがあったとは言え、そんなに長い時間いたとは思いもしなかった。
「こんなに衣を汚して……髪もまあ、こんなに」
私の乱れた髪を何度も撫で、母は私の背をもう一度擦った。周囲のムラの人々も良かったと言い合い、笑っている。
「沙耶、」
皺がれた声に、母の胸から顔を上げると、老婆が私を覗き込んでいた。森に仕える、私の曾祖母の姉、大巫女だ。深い皺が刻まれた顔は、辺りの火の光に照らされ、幼い私の目にはやや不気味に映った。
「一人で戻ってこられたのかね」
母に抱かれながら首を横に振った。一人ではとても、戻っては来られなかった。
「誰に、連れて来てもらったのかね」
「……おとこのひと」
そう言って、自分が手を払ってしまった人の姿がある森の方を見やった。だが、いるはずのところには誰もいない。暗い森がどこまでも続いているだけだ。
帰ってしまったのだろうか。私がムラの人々に会えたから。
「人に?あの森に人がいたのですか、沙耶」
頷くと、母は何やら顔色を変えて、隣の父を見上げ、それから大巫女に視線をやった。大巫女は目を細め、森を見やってから額の前で両手を合わせ、森を仰ぐ。
「そうか、人がいたか。このカミの森に」
巫女の装束が風に大きく揺れている。掌にある梅が途端に香った気がした。