八話 かくれんぼの石牢(2)【ホラー】
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首筋をつー、と汗の雫が伝って、その生温さにじわっとした不快感が這い上がる。折しも夕暮れと夜の境目、その薄暗がりに小さな男の子の姿が見えるような気がして、リジーは少し身震いした。
「――っていう話があるから、補習受ける時は気をつけてね、リジー」
湿り気を帯びた停滞した空気を切り替えるように、キティは軽い調子でそう締めくくった。それを合図にするようにリジーも苦笑する。
「わたしは別の補習教室だから、大丈夫だよ」
「あ、そう? じゃあ続きは話さなくてもいいか」
「続き?」
まだ続くのか、と少し足踏みする気持ちよりも辛うじて興味が勝ったリジーは尋ねる。
「続き、というか、本題? さっきまでのは怪奇談である『ジーク坊や』の由来の話だから」
それもそうか、とリジーも頷く。聞いた限りでは怖い話というよりも悲しい話だ。
「ここまで聞いたんだから、気になるよー」
それに聞かない方が逆に色々と想像してしまうし、とリジーは視界の端、ロココ調の内装の寮の自室に生まれる陰影を見ないようにキティを促す。
「それもそうね。じゃあ話すわよ」
どことなく嬉しそうに目を細めるキティをリジーは少し意外に思う。付き合いは長いけれど、こんなに怪奇談が好きな子だったっけ?
まぁ、いいか。
小さな違和感をそっと飲み下しながらリジーはキティの語る話の続きに耳を傾けた。
「ジーク坊やはね、誰かが自分を見つけてくれるのを待っているの。そうじゃないとかくれんぼは終わらず、いつまでも石牢の中から出られないから」
「……かくれんぼなのに見つけられるのを待ってるなんて、変な感じだね」
「それは、隠れた場所が石牢のある部屋だったから。内側から開けることはできないから、誰かが外から開けてくれない限り出られないのよ」
なるほど、とリジーは一つ頷く。
「それで、ジーク坊やを見つけるとどうなるの? 見つけてくれてありがとう、じゃ怪奇談でもなんでもないよね?」
「もちろん。――あのね、ジーク坊やは、絶対に見つけてはいけないの」
茶化すようなリジーの言葉にも、キティは真剣な顔つきを崩すことなく告げた。
見つけてはいけない。
ジーク坊やがかくれんぼの隠れる側だとするならば、それはおかしな話だ。
だって、それでは結局かくれんぼは終わらないではないか。
リジーがそう指摘すると、キティはゆるゆるとかぶりを振った。
「見つけても、見つけなくても、結局かくれんぼは終わらないのよ」
「え?」
「だから、見つけてはダメなの」
いやに念を押すような調子でキティは繰り返す。
「いいえ、正確には見つけたことに気づかれてはいけない」
その言葉遊びのような言い直しにリジーは首を傾げた。
「……気づかれると、どうなるの?」
「気づかれるとね、――外に出たジーク坊やに石牢に閉じ込められるのよ」
「閉じ込められる……」
内側から開けることのできない石牢に閉じ込められる、ということはつまりジーク坊やと同じ末路を辿ることになるのだろう。ぞわり、とリジーの背に冷たい手で撫でられたような感触が過る。
「でもね、閉じ込められずに済む方法があるの」
それはね、とキティは意味ありげに目配せする。
「もし、ジーク坊やを見つけてしまっても――」
*
キティから『ジーク坊や』の怪奇談を聞いてからというもの、ふとした時に暗がりに目を遣るとそこに男の子が見えてしまうような、そんな落ち着かない気分に苛まれていたリジーだったが、その日はとりわけひどかった。
数日前からじっとりと降り続く陰鬱な雨のせいもあったかもしれない。
その日の放課後、いつも通り補習を受ける予定だったリジーは担任のロースウッドから教室の変更を言い渡されたのだ。
なんでも、いつも使っている補習教室が雨漏りの影響で使えなくなってしまった、とのことで、一抹の嫌な予感を胸に抱きながらリジーはロースウッドに尋ねる。
「それじゃあ、どの教室に行けばいいんですか?」
その問いかけにロースウッドが答えた場所は、リジーの嫌な予感が的中したことを告げていた。
――――――――
間断なく外壁を叩く雨音に包まれながら、リジーは城の西棟へと続く石廊を一人歩く。
採光のために大きく作られた窓も、陽の出ていないこんな日にはなんの役にも立たず、城内は湿り気のある薄闇にとっぷりと沈んでいた。
それにしても、とリジーは胸中で呟く。
あんな話を聞いたばかりだというのに、折悪しく件の石牢のある地下室で補習を受ける羽目になるなんて。ついていない。それどころか嫌な巡り合わせのようなものすら感じる。
「――っ」
人けのない廊下を一瞬冷たい風が吹き抜けて、それだけのことにもリジーの心臓は過剰に反応してしまった。
「……はぁ」
そんな反応は馬鹿げたことだと、自分に言い聞かせるように大きくため息を吐いてリジーは足早に西棟へと向かった。
――――――――
メザウィッヂ城西棟の側廊を奥まで進んだ先に、地下室へと通じる石段はあった。
外からの光も入ってこないそこは、闇それ自体がぽっかりと口を開けて待ち構えているような、そんな印象で。自然、リジーの歩みも躊躇いがちに止まってしまう。
「……もう、小さな子どもじゃないんだから」
そう口に出すことでリジーはようやく地下への石段に足をかける。
踏み込んだ足の先から粘度のある闇に呑まれていくような、気分の悪い想像がリジーの頭をじんわりと浸していく。
それを振り払うように一歩一歩、石段を下る。暗闇の中ではコツ、コツ、と石壁に反響する足音がやけに大きく聞こえる。
最後の一段を下ると、闇の先に空間が広がっているのがリジーの肌に伝わってきた。
手近な壁にあるランプ型の照明を手探りしスイッチを入れると、視界を覆っていた闇の一端が仄かな暖色に照らし出された。その光の輪から踏み出さないように、リジーは慎重に等間隔に設置された照明を点けていく。
やがて全ての灯りを点け終わると、波立っていた心が落ち着きを取り戻す程度には闇が取り払われる。リジーは左右に二つずつ並んだ長机の端に腰掛けると勉強道具を取り出して補習の準備をした。
どこからか、ピチョン、と微かな水音が聞こえる。
この部屋も雨漏りだろうか、いやでも地下室だしなぁ、となんの気なく部屋を見渡したリジーの目に、部屋の奥――照明の仄かな灯りの向こうに残る暗闇の残滓の中のそれが飛び込んできた。
背後に佇む真っ黒い、無骨な樫の扉。
ぎし、とリジーの座る椅子が怯えたように軋む。
慌てて目を逸らしても、目の奥には黒々とした扉の輪郭が鮮明に焼き付いていた。
見つけないようにしていたのに。
喉元まで心臓がせり上がってきたみたいにドクドクと脈打つ心音を落ち着かせようと、リジーは手元の教科書とノートを広げ、ペン先を無心に動かす。
カリカリ、カリカリ、とペンがノートの上を走る音に集中していると、次第に動悸も治まり、喉元の息苦しさも和らぐ。
――けれど。
それまで体の内側から耳を圧迫していた音が聞こえなくなったせいだろうか。
遠くから、くぐもった声が聞こえた気がした。
落ち着いてきたはずの心臓が一気に跳ね上がり、ひゅっ、と掠れた息が漏れる。
恐る恐るリジーが振り返ると、黒い樫の扉。さっきの声は遠くから聞こえたと思ったけれど、むしろ分厚い何かに隔てられたせいでそう聞こえたようにも思えて。
まるで、あの扉の向こう側で、誰かが叫び声をあげたかのような。
その考えにリジーは全身がぞわり、と粟立つのを感じる。
まさか。あんなものはただの怪奇談で、本当に何かがいるわけない。
そう自分に言い聞かせてみても、リジーの耳の奥には不気味にくぐもった声が張り付いているみたいだった。
ちらり、と先ほど下りてきた石段を見る。
先生はまだ来ないのだろうか。
「――……ぇ」
今度こそ、聞こえた。
声のようなもの、ではなく、確かに誰かの声だ。
見えない布で首をじわじわと締められているみたいに呼吸が浅くなっていく。
散逸しそうになる意識が石段と樫の扉の間を幾度も彷徨う。
早く、誰でもいいから早く来て。
そうでないと耐えられない。早く、早く。
祈るように何度も胸の内で呟くけれど、リジーの祈りは届くことなく地下室は静まり返っている。
…………。
静まり返っている。あの声も聞こえない。
そう気づいて、リジーはほんの少し気が緩む。
きっと気のせいだったんだ。風の音か何かを聞き間違えたんだ。
そんなありがちな結末を想像して苦笑しかけた瞬間――
「――……けてぇ」
まるでリジーの考えを見透かしたように、さっきよりもはっきりと声がした。
間違えようもなく背後の樫の扉の向こう、石牢の部屋から漏れ出ているとわかる。
もう限界だった。正体もわからないまま怯えているのは。
震えそうになる足を叱咤してリジーは立ち上がる。
重い足取りでぼんやりとした光の外へ踏み出し、暗闇の中にあってなお黒々とした樫の扉の前に立つ。
大丈夫、開けて中に何もないことを確認するだけ。
リジーは扉の前で数度、深呼吸をして手を伸ばす。
重い手応えがあるだろう、という予想に反して、呆気なく樫の扉は内側に向かって開いた。力んでいた体が空回り、バランスを崩して数歩たたらを踏む。
その拍子に、コツン、と何かがリジーの手を離れ石牢の暗闇の中へと転がっていった。
ペンだ。
ずっと緊張して体に力が入っていたせいで、握り込んでいたことに気づかなかったのだ。
石牢の入口付近は辛うじて照明の灯りで見渡せるが、ペンはその先の方――黒く沈む闇の中に溶けていってしまっている。
ごくり、とリジーの喉が大きく鳴る。
中に何もないことを確認できれば、それだけで良かったのに。中に入るつもりなんかなかったのに。
喉がカラカラで、気持ちまで干からびそうだった。
それでもなんとか気持ちを奮い起こし、リジーは一歩、石牢へと足を踏み入れる。
転がってしまったペンを探して、視線を床に向けて目を凝らす。
次第に目が暗さに慣れてくるが、黒く煤けた床には埃が堆積しているばかりで。
リジーはさらに一歩、足を進める。
二歩、三歩、と石牢の奥へと近づく度に、闇がねっとりと体にまとわりつくような不快感が襲う。まだ夏だというのにリジーの体は底冷えしたように震えが止まらない。
闇の中を見通せるように目を凝らすけれど、見たくはないものが見えてしまったらどうしよう、という恐怖に瞼はぴくぴくと引き攣る。
そうして、ひどく重く長く感じられた数歩の後。
リジーの目が何やら細長い棒のようなものを捉えた。等間隔で並ぶそれが鉄格子である、と遅れて理解する。
本当に石牢だったんだな、とリジーは少し物珍しい気持ちになって指先で鉄格子に触れてみると、ざらり、と粗く冷たい感触に心の表面が波立つ。
というか、とリジーははたと思い当たる。
鉄格子で仕切られているということはここが行き止まりだ。けれど、暗闇に慣れた目でいくら奥の方を眇めても、ペンは見当たらない。
見落としていたかしら、と振り返る。
内向きに開いた扉からはぼんやりとした光が入ってきていて、暗闇に慣れた目が一瞬眩んだ。
ぱちぱちと二、三度瞬きをすると、ぼやけた視界がはっきりしてくる。
あった。
入口からは死角になっている扉と壁の間、そこに先ほど落としたペンは転がっていた。
ホッとして足早に駆け寄りそうになって、けれどふと立ち止まる。
視線が転がったペンを越え、その先の扉の陰で一段と濃くなった闇へと向く。
――いや、闇ではない。
何かが、そこにいた。
扉の陰で、それは微かに蠢いた。
見たくないのに、引き寄せられるように視線が上がっていく。
黒っぽい輪郭が、徐々に鮮明になる。
埃に塗れて薄汚れた古い革靴。細く、華奢な子どもの足。
だらりと垂れ下がった腕。その手の先にはどす黒い汚れがこびりついている。
そして、リジーは見た。
いや、見られていた。
扉の陰から、二つの暗い眼窩がじっと、リジーを見つめていた。
喉の奥から声にならない悲鳴が漏れ出しそうになるのを必死で堪える。
ふとキティの語った話を思い出した。
その話の中で、ジーク坊やは最期まで扉を開けようとして、結局開けることができずに死んだ。
それなら彼がいるのは石牢の奥ではなく、扉のすぐ裏側のはずだ。
どうしてそんな簡単なことを忘れていたのだろう。
湧き上がる後悔と恐怖は今すぐ逃げろと叫んでいるのに、じっと注がれる暗い視線に捉えられたようにリジーの足は凍りついて動かない。
『見つけたことに気づかれてはいけない』
『気づかれるとね、――外に出たジーク坊やに石牢に閉じ込められるのよ』
頭の中でキティの言葉が木霊する。
まだ、大丈夫だ。まだ、見つけたことに気づかれていないのなら。
『でもね、閉じ込められずに済む方法があるの』
『もし、ジーク坊やを見つけてしまっても――彼に気づかれる前に、別のものを見つければいいの』
リジーは必死で記憶を遡る。
そうだ、ジーク坊や以外の何かを見つけて、『~~見つけた』と宣言してそれを回収する。それでいいのだ。
そうだ、落としたペンがある。それを拾えばいい。
凍りついていた足を無理やり引き剥がし、リジーは埃っぽい床に転がったペンだけを見据えながら歩き出す。
『気をつけなきゃいけないのは、絶対に目を合わせてはいけないこと。目が合ったら一発で気づかれるからね』
キティの忠告が脳裏を掠める。
目を合わせない。絶対に。
けれど、ペンはジーク坊やのすぐ足元。顔を上げれば暗い闇を湛えた二つの眼窩がこちらを見つめていると思うと、リジーの体は恐怖で震え出す。
ズクズクと頭が鈍く痛んで、意識が浮つく。
踏み出した足が平衡感覚を失ったように頼りない。
一歩一歩、近づいていく。
扉はもう目と鼻の先だ。
落ちているペンを拾うため、しゃがみ込む。否が応にも視界の端に映り込む男の子の足を意識の外に追いやるように、震えそうになる手でペンを引き寄せる。
二、三度指先がペンを引っかいた。
逸るあまりにうまく掴むことができずにリジーは焦りに満ちた吐息を歯の間から漏らす。
「あ……っ」
掴み損ねたペンは小さく転がり、こつん、と薄汚れた革靴の爪先に当たって止まった。
その瞬間、リジーの呼吸も止まる。
俯いて固まるリジーの後頭部に感じる気配が、一段と濃くなったように感じた。
まるで、「今、気づいたよね?」と首を傾げているような、そんな気配。
背筋が震え、目の奥がぶわりと粟立つ。
気づかれた?
耐えきれずにリジーは固く瞼を閉ざした。
一秒、二秒と果てしなく思える数秒が過ぎ、それでも何も起こらずリジーは恐る恐る目を開く。
薄く開けた視界にぼやけた像が焦点を結んでいく。
目に入ってきた光景に、リジーは寸の間思考が停止した。
そこにはペンが落ちているだけだった。
扉の陰の暗がりも、ただの暗がりだ。
そこには男の子の姿など見当たらなかったのだ。
はぁぁ、と引き結んでいた唇から緊張が流れ出していくのを感じる。
今度は落ち着いて落ちているペンを拾い上げると、リジーは石牢を出ようと、体の向きを変えた。
俯いていた視線を持ち上げる。
――ギョロリ、と虚ろな眼窩が浮かんでいた。
リジーの顔にすぐ触れそうな距離に。
「今度こそ、気づいたよね?」というようにその暗く淀んだ顔が笑みのようなものを形作る。
『見つけたことに気づかれてはいけない』
俯くと、力なく空いた唇からは言葉にならない嗚咽が漏れる。
『絶対に目を合わせてはいけない』
目は合ってしまったのか? まだ大丈夫?
ガンガンと頭が鳴って、吐き気が込み上げてくる。
何もわからない。けれど――
「ペン……見つけた」
手に持ったものに向けて、ほとんど囁くようにリジーは吐き出した。
祈るように両手で握りしめる。
すると――
ふわっ、と濃厚な気配が軽くなったような気がした。
体にまとわりついていた闇が一歩遠ざかるような感覚。
俯いていた顔を上げると、目の前にいた男の子の姿はもうなかった。
今度こそ慎重に、と足元を見るようにして周囲を確認するも、何もいない。
そこまで確認して、リジーは弾かれたように石牢の入口へと駆けた。
開け放たれていた扉を駆け抜け、地下室の照明の下に逃げ込む。
リジーが肩で息をしながら振り向くと、石牢の扉はゆっくりと閉まるところだった。
触れてもいないのになぜ、とそんなところまで意識を回す余裕はなく、リジーはただぼんやりとそれを見た。
やがて、重い樫の扉は軋む音と共に、石牢に闇を閉じ込める。
それを待っていたかのように、地上へと続く階段から足音が響き、先生がリジーを呼ぶ声がした。
安堵したように応えながら、リジーは樫の扉に背を向ける。
だから、彼女は気づかなかった。
閉まりきる最後の一瞬、一条の隙間からぽっかりと虚ろな眼窩が彼女をじっと見つめていたことを。




