一話 涙を拭うための魔法(4)☆
雨が降り出していた。
まるでわたしの心みたいだ、なんて安直なセリフが浮かぶような弱々しい雨が地面に汚いシミを作る。
同室のラシェーラにぐしゃぐしゃの顔を見られたくないから寮の部屋には戻れない。かといって他にどこか行くあてがあるわけでもなく、わたしは意味もなく雨に打たれながら歩き回った。
少なくとも、そうしていれば誰かに会うことはないと思ったから。
どれだけ小雨でも、小一時間も歩けば制服はすっかりびしょびしょになって、春とはいっても陽が落ちると冷たくなる風に、わたしは少し身震いした。
帰ろう。
そう思って、ふと疑問を覚える。
わたしは自分の居場所を見つけられていないのに、どこに帰るというんだろう。
実際、アカデミーの生徒であるわたしがこの時間にいるべき場所は寮の自室でしかなくて、わたしは重い足取りで寮への道を辿る。
すっかり暗くなった寮への小道を歩いていると、玄関先に人影が見えた。
雨降りの日のこんな時間に誰だろう、誰とも顔を合わせたくないんだけどな、と思い歩みを緩めたが、人影は一向にいなくならない。
わたしは諦めて普通の歩調で近づいていった。顔を合わせることが避けられないのなら、せめてさっさと通り過ぎてしまおう、と思ったわたしの目が、寮の窓から漏れる明かりの中でその人影が誰なのか捉える。
それは、ラシェーラだった。
誰か待っているのだろうか? きょろきょろと落ち着きがないように見える。
同室の子だし、あからさまに無視して通り過ぎるのも後で気まずそうだ。
意を決して近づいていくと、足音にラシェーラもわたしを見つけた。その顔が驚いたような表情を作る。
そっか、雨に濡れたまま歩いていたわたしはさぞ惨めな濡れネズミのように見えるんだろう。
驚かせてしまって申し訳ないような気持になって、わたしは会釈だけして通り過ぎようとした。が、
「ちょっと、カナ。あんた、びしょびしょじゃん」
そう言って、ラシェーラはわたしの手首を掴む。今度はわたしがびっくりする番だった。
「何してたんだよ……。まあいいや。タオル持ってくるからちょっと待ってて」
「え……、別に――」
「そんな濡れたまま放っておいたら風邪ひくでしょ」
ばたばたと寮の中へ引き返していくラシェーラを、わたしはぽかんと見送った。
いったいどうしたというんだろう?
戻ってきたラシェーラから乱暴に押し付けられたタオルで体を拭く。
部屋へと戻る彼女の少し後ろをわたしも歩いた。
「……あの、ラシェーラ。誰か待ってたんじゃ……?」
「あぁ、いや……。カナ、あんたが夜になっても戻ってこないから」
おずおずと問いかけると、ラシェーラは無愛想にそう答える。
「なんか心配になるでしょ」
わたしはまたもびっくりした。
「でもっ、別に関係ない……」
わたしとラシェーラの関係なんてただ寮の部屋が同じ、というだけだ。強いて言うなら、いつもわたしの失敗に巻き込んで迷惑をかけているけれど、疎まれこそすれ心配される理由なんてどこにも見つからない気がした。
この子も、わたしを憐れんでいるのだろうか。
雨で濡れそぼったわたしの胸から、またそんな感情が芽吹く。
「関係ないって……、そんな言い方しなくてもいいだろ」
ラシェーラの眉間にシワが寄った。いつも、わたしが何か失敗をした時に見せる怒ったような顔だ。
なんなの。そんな顔するくらいなら最初からわたしに構わなければいいじゃん。
普段はわたしの失敗が原因だからしょうがないけど、今は違った。
頼んでもいないのに勝手に心配して、その挙げ句勝手に怒っているラシェーラに、わたしは腹が立った。
「……だって、本当に関係ない。わたしたち、別に友達でもないし、心配される理由なんかない。……わたしのことなんて、何も知らないくせに――ッ」
寮の部屋にわたしの上ずった声が響く。
どうやらわたしは、感情が昂ぶるといつもよりちゃんとしゃべれるようになるらしい。なんて、そんなことをまるで他人事のように考えた。
ラシェーラは怒りと驚きを半々にしたみたいななんとも言えない表情で、わたしをじっと見つめた。
今しゃべったのが本当にわたしなのか、疑っているような目をしていた。
「……そりゃあ、知らないよ。だってあんた、いっつも黙っておどおどしてるだけじゃんか。そんな奴のこと、わかるわけない。ちゃんと話してくんなきゃわかんないだろ。今みたいに、言いたいことがあるならちゃんと言いなよ」
ラシェーラは怒鳴るでもなく、まるで言い聞かせるみたいに言った。
否定の言葉を探して開きかけたわたしの口は、彼女の言葉に何も言い返せずに閉じる。
彼女の言う通りだ。
わかるはずがない。ちゃんと言葉にして伝えなければ。
そんな子どもでもわかることが、わたしにはできない。
ぽとり、と水滴が床に落ちた。
タオルでちゃんと拭いたのにおかしいな、と思って下を向くとさらにぽたた、と水滴が落ちる。
「……あんた、泣いてんの?」
恐々としたラシェーラの声に、わたしはそれが自分の涙だと気づいた。
今まで、どんなにひどい失敗をしても教室やクラスの誰かの前では泣かないようにしていたのに。そんな、ちっぽけなプライドみたいなものが崩れてしまったことに、わたしは動転した。
他人からしたらどうでもいいことかもしれない。
失敗ばかりのカナ・スキレットのプライドなんてなんの価値もないだろう。
でも、どんなにちっぽけで些細なことでも、わたしにとっては譲れないことだった。
失敗したって、涙なんか誰にもみせたくなかった。
だって、惨めすぎる。
うまくいかなくて、みっともなく涙を流すなんて。情けなくて、恥ずかしい。
気づいたら半乾きの制服のまま、わたしは外に飛び出していた。
乾きかけの制服と髪が、瞬く間にしっとりと雨の水分を含む。
後ろでラシェーラが何かを言った気がしたけれど、わたしは振り返らなかった。
*
星が見たい。
雨の止んだ空を見上げたって一粒の輝きも見つけられなかったけれど、痛切にそう思った。
あの日リジー先輩と見た星の輝きが、自分では光ることができないわたしには必要な気がした。
だからだろうか。わたしはあの日先輩に手を引かれて上った尖塔を一人で上っていた。
ぐるぐると、天地を行ったりきたりしながら螺旋階段を上る。あの時よりも浮遊感が心許なくて、空寒くてふらふらした。
やっとの思いで塔の先端まで辿り着いたわたしは、丸窓を上に押し開ける。体を夜の空に投げ出すみたいにすると、ひんやりとした空気がわたしを包んだ。
けれど、どれだけ近づいたところで曇り空には星なんて見えなくて。
光のない夜空はひどくよそよそしく、わたしを拒むように真っ黒に沈んでいた。
なんて頼りないんだろう。あれほど煌めいていた星の光は、こんなにも容易く遮られて届かなくなってしまう。
所詮、そんなものなんだ。
自力で光るのなんて、高が知れている。
それなら、光れなくたって別に構わない。光ることもなく、光を浴びることもなく、これまでと変わらない日陰で生きていくのが、わたしにはお似合いなんだ。
俯くと、脳裏に二つの翡翠が瞬いて、わたしは泣きたくなった。
こんな気持ちになるのなら、いっそ知らなければ良かったのに。
夜空の星の煌めきも、彼女の笑顔も。
ふいに、足音が聞こえた。
その軽やかなステップに、わたしの胸は痛むように悶える。
どうして、あなたはそうなんだろう。
いつも、わたしが泣きたい時に現れる。
「カナ。やっぱり、ここにいた」
いつもの笑顔を、リジー先輩はわたしに向けていた。
まるで何事もなかったかのように、いつも通りで。
「星を見にきたの?」
世間話でもするような調子でわたしの向かいの窓枠に腰掛ける。
「……でも、見えません」
俯き、くぐもった声で応じる。
「曇り空じゃ、星は光れないから」
「光ってるよ。今はちょっと見えないだけ」
「そんなの、光ってないのと同じじゃないですか」
強情だ、と自分でも思った。リジー先輩にそんなことを言ったってどうしようもないのに。
ところが、リジー先輩は笑いながら言った。俯いていて彼女の表情は見えなかったけれど、その声を聞けばわかった。
「それならわたしが、カナに光を見せてあげるよ」
わたしが顔を上げると、リジー先輩は窓枠のところに足を乗せて危なっかしく立ち上がった。そして、暗い空に向かって手を伸ばす。
彼女の唇から、透き通った旋律が流れ出した。
それは不思議な詠唱だった。教科書に載っているような定型の魔法式じゃなくて、まるで一編の詩のような。
「――君の名はスピカ。春の夜に輝く星。名もなき僕の頭上に光り、どうか教えておくれ」
彼女の唱えた魔法は夜のしじまに淡く溶けていった。
聞き惚れていたわたしははっとして夜空を見上げたけれど、依然として空は暗く、星はその闇に沈んだままで。
「あははっ、失敗だねぇ」
今のはちょっと格好悪かったかなぁ、と先輩は頭をかいた。
どうして。
わたしは彼女が笑う理由がわからなくて、だからこそ知りたかった。
「……どうして先輩は、失敗しても笑っていられるんですか?」
「どうして、かぁ」
彼女は再び窓枠に腰を下ろしてわたしと向かい合った。
「わたしは……わたしと全然違う先輩のことが、わからなくて」
「全然違う……かぁ。ねぇカナ。わたしは逆なんだよ。初めて会った時から、カナのこと、わたしと似てるなぁ、って思ってたの」
リジー先輩は、どこか懐かしむような色をその瞳に湛えてわたしを見つめた。
信じられない。そんなの、誰が見たって嘘だと思うに決まってる。
そんな思いが顔に出ていたのだろうか、先輩はぷっ、と吹き出した。
「信じられない?」
「……全然」
「じゃあ、少しわたしの昔話に付き合ってくれる? そうすればきっと信じてくれる気がする」
にこっ、とリジー先輩は微笑んだ。
ずるい。そんな顔を見せられたら断れるわけない。
仕方なく頷こうとすると、「くしゅッ」とくしゃみが出た。思えば、濡れそぼったまま塔の上で吹きっさらしだ。冷えるに決まっている。
すると、ふわり、と肩に柔らかな感触が掛かった。見ると、リジー先輩が自分のマントを脱いで、わたしに掛けてくれていた。
「夜は冷えるねぇ」
言ったそばから彼女も大きなくしゃみをした。
「あ、あの、これは先輩が着ててください……」
「いいよいいよ、カナが着てっ」
マントを返却しようとするわたしと、貸し出そうとするリジー先輩で押し問答のようになる。
「あーもう、それじゃこうしよっ」
埒があかないと思ったのか、リジー先輩はマントの片端をわたしに掛け、もう片端を自分の肩に掛けて座った。
ぎゅっ、と彼女の左肩の柔らかい感触がわたしの右肩に伝わる。
「うん、これであったかいねぇ」
「……は、はい」
正直、わたしは照れた。こんなことされるの初めてだったから。彼女の温もりが、その鼓動が伝わってきそうなほど近くにあったから。
「わたしが落ちこぼれ、なんて呼ばれてるのは知ってるよね」
リジー先輩は静かに切り出した。
わたしは黙って頷く。
「それはわたしが一年生の時にすごいうっかりをしちゃったことが原因なんだ。魔法師になるための必須単位の内、一年生で取らなきゃいけない単位を一つも取ってなくて。一学期が終わった頃に先生に呼び出されて『お前、ヤバイぞ』って。それで、先生に頼み込んで、なんとか二学期から授業を受けさせてはもらえたんだけど、今度は授業内容に全然ついていけなくてさ」
リジー先輩は訥々と語った。笑顔を浮かべてはいるが、それはどこか寂しそうで。
「あの頃が一番辛かったなぁ。一学期分、周りの子よりも遅れてるから授業は全然わかんなくて、毎日何かしら失敗して。そんなだからみんなにはバカにされて、友達だって、アカデミーに入る前からの付き合いの二人以外はできなくて」
それはきっと、わたしが今日見かけたあの二人のことなんだろうな。彼女たちの距離感を思い出して、そう考えた。
「だから、毎日が嫌だった。ううん、怖かったの」
わたしは思わずリジー先輩の方に顔を向けた。
だって、嫌だとか、怖いとか、まるで彼女に似合わない言葉がその口から出てきたから。
すると、至近距離から彼女の翡翠の瞳が見えた。いつも明るく瞬いていたはずのそれに、今はなんだか悲しげな色がちらつくようで、わたしは小さく息を呑む。
「怖かったよ。失敗する度に、周りのみんなの視線が痛くって。急に、どうやったら普通に息ができるのかわからなくなるくらい苦しくなるの。いっつも泣きたくて、でもそんなの誰にも見せられなくて。ここでよく一人で泣いてた」
リジー先輩はいつも笑ってる。わたしはそう思っていた。だから、わたしとは全然違うって。
でも、彼女の話を聞いて見えてきた女の子の背中は、なんだかわたしに似ていた。
不器用で臆病な、泣き虫の女の子。でも。
「……その話が本当なら、先輩はどうやって変われたんですか?」
人はそう簡単には変わらない。変われない。
わたしだって、こんな自分を変えたいって、リジー先輩みたいにいつも笑っていられるようになりたいって思うよ。でも、思うばっかりなんだ。
「変われたのかは、わたしにも正直よくわかんないや。今だって失敗ばっかりなのは変わらないし、わたしをバカにする人もいなくならない」
でもね、とリジー先輩はマントの下でわたしの手をぎゅっと握った。
「でも、涙を拭うことはできたよ」
涙を、拭う?
「……どういう、意味ですか?」
「わたしの憧れの魔法師の人が昔言ってたの。『涙を拭う魔法を探している』って。わたしの涙を拭ってくれた。だから、わたしもいつか彼女のような魔法師になって、どんな涙も拭える魔法を探すんだって」
リジー先輩は過去の風景をそこに見ているかのように、遠くを見つめていた。
「だから、いつまでも一人で泣いていられないって思ったんだ。たとえどんなに辛くたって、自分の涙も拭えなければ、他の誰の涙を拭うことだってきっとできないから。だから、わたしは涙を拭う魔法を作ったの」
「え、作ったんですか?」
驚くわたしにリジー先輩はくすくすと笑った。
「でもね、それは自分にしか効かない魔法なの。自分の涙を拭うことしかできない、未熟な魔法」
「……どんな、魔法なんですか?」
考えるよりも先に、わたしは訊いていた。
リジー先輩はにっこりと微笑む。
「泣きたくなったら、笑うの。無理矢理でもなんでも。それが、わたしの涙を拭う魔法だよ」
その答えは拍子抜けしてしまうほどシンプルで。
「それって、魔法じゃないような……」
「あはは、そうかもね」
呆れたように言うと、リジー先輩は笑う。
その笑顔の裏には、きっとたくさんの涙があったんだろう。
今のわたしには、自然とそう感じられた。
だからこそ、わたしは彼女の笑顔に強く惹かれたんだと思うから。
「……でも、わたしにはきっと、それくらいが丁度いいです」
何をしても失敗ばかりのわたしでも、その魔法とも言えないような未熟な魔法ならきっとできるって、そう思えたから。
「きっとできるよ」
そう言って空を見上げた先輩は、小さく息を呑んだ。
釣られてわたしも見上げると、雲間から一粒の光が、こちらに向かって煌めいていて。
一つだけのその光は広大な夜空の海ではひどく頼りなく、けれど確かに自力で光っている。
「笑っていれば、いつかきっと光は見えるよ」
わたしは何も言えなくて、リジー先輩の肩に頭を預けた。
そうして、長い間ずっと、小さな星の光を見つめていた。
*
翌日の魔法学概説の授業で、わたしはまたしてもラシェーラとペアを組んで課題をやることになった。
予習をしてもよくわからなかった部分で、わたしは鼓動が速くなる。
「カナ。次あんたの番だよ」
ラシェーラのぶっきらぼうな声。
また、失敗する。
そんな考えが頭をよぎったからか、震え声のわたしの詠唱は何事も起こさず終わった。
周りからは呆れたような視線が遠慮なく注がれて、皮膚の表面が火傷したかのように熱く感じる。
くすくすという忍び笑いに、わたしの心臓は今日もきゅうきゅうと泣くばっかりだ。
俯きそうになって、でもぐっと堪えた。
それじゃ、きっと何も変わらない。
彼女みたいには、なれないんだ。
だから、わたしは恥ずかしさで赤い顔を――泣きそうに歪んだ顔を上げる。
笑うんだ。辛くても、泣きそうでも。
わたしは、変わりたい。
リジー先輩の言葉と、ラシェーラに言われた言葉を思い浮かべる。
無理矢理でも笑って、言葉にして伝えるんだ。
「あ、あの……ラシェーラ」
しゃべりながら、顔の筋肉が不自然に引きつるのを感じる。普段めったに笑わないわたしは、きっとひどく不恰好な表情だろう。
鼓動が速くて、息苦しい。
自分の声が、しゃべり方が嫌いで、ずっと俯いて黙ってきたから、うまく伝えられないかもしれない。でも、
「わたし、この部分がよくわからなくて……だから、教えてくれない、かな?」
それは笑顔というよりも泣き顔に近いくらい歪んでしまっていて。
でも、それは今のわたしの精一杯の笑顔だ。
彼女のように笑える日は、きっとまだまだ遠い。そんな日がくるのかもわからない。
「……なんだよ、その顔。いいよ。どこがわかんないの?」
きっとラシェーラはわたしの顔が面白くて笑ったんだと思う。
それでも良かった。
笑っていれば、いつかきっと光れる。そう思いたいんだ。
「――よし、今教えたところに気をつけて、もう一回やってみな」
ぽんと肩を叩かれ、わたしは深呼吸する。
何度失敗したっていい。
わたしはもう、自分の涙を拭うための魔法を持っているから。
一話完結となります。
次回は一話直後のアフターストーリー的な番外編を公開予定です。