七話 この手を伸ばせば(5)◯
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お茶をご馳走する、と言われたのでてっきり街へ行くのかと思っていたカナだったが、少女に連れられてやってきたのはアカデミーの東端、もうすっかり見慣れた女子寮であった。
「ここだ」と、少女は二階の一室の扉をガチャリと開け放つ。「そこらへんでくつろいでいてくれ」と可愛らしい猫足テーブルを示すと部屋の奥へと向かった。
言われた通りにカナは椅子に腰かけて少女を待つ。その体が時折落ち着かないようにそわり、と揺れる。少女が向かったのはキッチンの方だが、何やらそちらから美味しそうな匂いと誰かの話し声が漏れてきている。
人が多いようならお暇しようかしら、と来たばかりなのに帰る算段を始めるカナ。ここまでくると人見知りも極まれり、といった感じだと自分でも苦笑してしまう。
「おーいキティ、お茶を飲みに来たぞ。二人分淹れてくれ」
奥で少女が誰かを呼ばわる声がする。てっきりあの少女の部屋だと思っていたのだが、口振りから察するにキティという子の部屋らしい。よくもまあ堂々と上がり込んだものである。
ん、というかキティって……?
聞こえてきた名前に思い当たる節があったカナが首を捻っていると、キッチンから「ちょっとシュシュ、いつも言っているけどここはカフェじゃないのよ! そんなにホイホイ飲み物が出てくると思わないでよね!」と元気のいい文句が聞こえる。
やっぱりこの声はキティ先輩だ、とカナは一度会ったことのある先輩の整った顔立ちを思い浮かべる。アカデミーでも屈指の美少女と名高い彼女だが、なぜだかカナの寮室にアップルパイを作りにきたことがあるのだ。
キッチンではキティの文句に少女の悠然とした声が応える。
「もちろんここがカフェだなんて思ってない。カフェと違ってキティはタダでお茶を飲ませてくれる」
「おいこらちびっ子」
「早くしてくれ、今日は他にも客がいるのだ」
「自分の部屋に招きなさいよ!」
まったくもう、というぼやき声と共に足音がとたとたと近づいてきた。
ひょこり、とキッチンの方から顔を覗かせたのは緩やかにウェーブした栗色の髪が印象的な可愛らしい女の子だった。料理の最中だったのか、上品なフリルのエプロンをして、鼻の頭にちょっぴり白い粉をつけている。
「あらっ、お客さんってあなただったのね。えーっと、カナ、でいいんだっけ?」
こちこちに座っているカナを見てキティは少し意外そうに目を丸くした。カナはカナで、アカデミーの有名人であるところのキティに名前を覚えてもらっていたことが意外というか恐れ多くて、なんとか首肯するのが精一杯であった。
「というか、カナとシュシュって仲良かったのね?」
「あ、いえ、初対面です……」
「え、そうなの?」
シュシュという名前も今知りました、と内心呟いたところで、ん、というかシュシュって……と再びの節に思い当たる。
確か、二年生のすごく頭がいいと言われている先輩だ。そう言えばさっき司書の先生にも成績が一番だと言っていた。
ぼんやりと思い出して、カナは一人で納得する。
「そいつには少し助けてもらってな。そのお礼にお茶をご馳走すると言ったのだ」
キティの後ろから顔を覗かせながらシュシュはのたまった。
「いや、なおさら自分でもてなしなさいよ」
もっともなキティの指摘にシュシュは肩をすくめる。
――その時、バボンっ、とキッチンから物騒な爆発音が響いた。突然のことにカナたちの肩がびくりと跳ねる。
え、何、テロ? と固まるカナとは対照的に即座に事態を把握したらしいキティは「まったく、またなの!?」とうんざりした様子でずかずかとキッチンへと突撃していく。
「ちょっとリジー! あんたはいったい何度ケーキを爆発させれば気が済むわけ!? ケーキかわたしに何か恨みでもあるの!?」
「――ごほっ、違うんだよキティ! おいしくしようと思って隠し味を……」
「何を入れたら爆発すんのよ! 火薬!?」
「い、入れないよそんなの!? ほら、きっとあれだよ、小麦粉とか使っているから、ふ、粉塵爆発!」
「そんなんホイホイ起こってたまるか!」
ぎゃあぎゃあと言い合う声の片割れに、カナは自分の聴覚が普段の百倍の感度で働き出すのを感じる。この声は。
思わずキティの後を追ってキッチンへ向かう。そぅ、と中を覗いたカナの瞳がそこにいた人物を映してぴかっと輝いた。
「り、リジー先輩っ」
カナの弾むような呼びかけに、少し煙たく霞んだキッチンの奥でリジーと呼ばれた少女が振り向いた。濃いメープル色の髪の二房が元気に跳ねる。
「あれ、カナ? なんでいるのー!?」
ぱぁ、と顔を輝かせたリジーはカナに駆け寄ってきた。思わずカナの顔にも笑みが浮かぶ。
「えっと、シュシュ先輩がお茶をご馳走してくれる、って」
「あはは、それでわたし達の部屋に連れてくるとか、シュシュらしいなぁ」
「いや、笑いごとじゃないんだけど」
普段から苦労していることが窺えるようなげんなりとした顔つきでキティは零す。
「まったく、シュシュもリジーもわたしに面倒ばっかりかけさせるんだから……」
そう言ってキティが深ぁいため息を吐き出しているとキッチンの外から慌ただしい足音が聞こえ、ひょっこりと第三の人物が顔を出した。その顔を見てカナはまた驚く。
「――足りなくなった材料買ってきましたー……って、煙くさっ! ていうか、カナ!?」
「え、えっと、なんでラシェーラまで……?」
そこにはカナと寮で同室の少女(そしてカナが唯一友達と呼べる少女)、ラシェーラが立っていた。この夏休み、彼女はほとんど実家に帰省していたから、カナは随分久し振りに会ったな、と感じる。
そんな彼女がなぜ、キティとリジーの部屋でケーキ作りなんてしているのだろう。事態がよく呑み込めずにカナは混乱してきた。
「ぅあ、えっと、これはその」
さばさばとしたお姉ちゃん気質であるラシェーラだが、カナの問いかけに珍しく狼狽えている。
「あっ、カナには内緒だったんだっけ!?」
傍らではリジーがはわわ、と口に手を当てているが、それをカナの目の前で言ってしまうあたりこの少女はどこか抜けている。キティも無言でそんなリジーをどついた。
ラシェーラを見るとどこか気まずそうに横髪を弄んでいて、カナはきゅっと胸を引き絞られたような痛みを覚える。
――わたしには言いたくない、知られたくないことなんて、あるに決まってるよね。最近は仲良くなれたと思っていたけれど――友達になれたと、思っていたのだけれど、それはきっと一方通行な気持ちでしかなかったのかな。
そんな気持ちがくるぶしの方からぞわぞわと這い上がってきて、カナの全身をひんやりと包み込んだ。
だって結局この夏も、カナは一人ぼっちで。
揺蕩うような、緩やかな孤独に浸された時間こそが、それを証明しているように思われたのだ。
「……あ、あの。わたし、帰り、ますっ」
邪魔してごめんなさい、とカナは頭を下げると誰の顔も見ないようにキッチンを飛び出した。「カナ!?」と驚くリジーの声が聞こえたけれど、振り返らずにそのまま部屋からも出ていこうとする。周りの音も、匂いも、景色も、全てが遠ざかっていくような気がした。
夏がまた、遠くなる。
「カナっ」
ぎゅっ、と腕に感じた熱さにカナが振り返ると、そこにいたのは、
「ラシェーラ……」
相変わらずバツが悪そうな顔をしているけれど、その手はカナの腕を掴んで離す気はないようだった。
「そうやってすぐ一人になろうとするの、やめてよ」
どこか諭すようなラシェーラの言葉に、瞬間、カナの瞳が熱を帯びる。眼窩の奥で涙の水源が湧き立つ。
――わたしが一人ぼっちなのは、わたしのせいなの?
涙と一緒に湧いた感情は、カナの胸の堰をたやすく破って奔流となり放たれた。
「――だって、ずっと一人だったんだもん! これまでも、この夏休みも、ずっと! わたし、と、友達なんて全然いなかったし! だから、今年だってどうせいままでと、か、変わらないって、わかってた、もん……!」
違う、こんなことが言いたいわけじゃないのに。
カナは自分の声が嗚咽に呑まれていくのを、頭の片隅でどこかぼんやりと聞いていた。自分の感情なのに、自分の言葉なのに、どうしてこんなにもままならない。
本当はただ、夏の煌めきに触れたかっただけなのに。
寂しかった、ただそれだけなのに。
初めて友達だと思えた相手に、そんな簡単なことすらカナは伝えられない。
本当に自分はどうしようもない――
「ごめん、カナ。寂しい思いをさせて」
ふわり、とカナの激情に毛布をかけるみたいな、柔らかくて温かな声が包み込んだ。小さく震える肩が少しぎこちなく引き寄せられる。
ラシェーラの手の平がぽんぽん、と優しくカナの後頭部を撫でた。こめかみに伝わる体温と、甘いような少し汗ばんだようなクラッとする匂いに、カナは自分がラシェーラに抱きしめられているんだ、と気づく。
「……どうして。寂しいなんて、わたし、」
言ってない。
それなのに、なんでラシェーラには伝わるの?
けれどその問いかけは口には出せず、カナは答えを待つようにラシェーラをじっと見つめる。
至近距離で交錯する視線に照れたのか、ラシェーラはつい、と目を逸らした。
「カナはさ、何も言わなかったけど、教室で夏休みの話とかしてる子達のことよく見てたから。なんとなくそういうのを期待してるんだろうなぁ、ってわかってたんだよ」
でもさ、とラシェーラは言い淀む。
「あたしも家のこととかあって、それで結果的に夏休みの間カナのこと放っておいたみたいになっちゃって。だから、最後くらい何かしてあげたいなって思って、キティ先輩たちに手伝ってもらって、カナにサプライズでケーキを作ってたんだ。あたし、不器用だから、あれこれ言葉にするよりもその方が伝わると思って」
カナの背中と頭に回されたラシェーラの手に熱が籠る。
「でも、ダメだなぁ。やっぱり言葉にしなきゃ伝わんないよね。家族のことで懲りたと思ったんだけど、そう簡単には変われないや」
そう言ってラシェーラはようやく真っ直ぐにカナと目を合わせる。
「ごめんね、一人にして。寂しい思いをさせて」
大事な友達なのに。
優しげに滲んだその一言が吐息と共にカナの耳を揺らす。体に感じる熱と、その言葉の温かさにカナの視界は溶けたようにぐんにゃりと歪む。
もう泣かないって、そう思っていたのに。それなのに、カナの目からは熱い雫がぽとぽとと溢れて止まらないのだ。
友達だと、言ってくれた。その事実がカナの胸の内を張り裂けんばかりに満たして、それだけでどんなサプライズよりも嬉しかったのだ。みっともなく泣き出してしまうほどに。
そうだ、これは悲しくて流れる涙じゃない。冷たくて胸を空っぽにさせるものじゃなく、温かくて胸を柔らかに満たすものだ。
だからきっと、この涙は拭わなくてもいい。
おでこを押し当てたラシェーラの肩口を熱い雫で濡らしながら、カナは初めて流れる涙を愛おしく思った。
――――――
「やっと完成したよぉー!!」
「あんたが何度も爆破しなければもっと早くできてたのよ」
歓喜の咆哮を上げるリジーに平手を打ちつつ、キティが出来上がったシフォンケーキを切り分けていく。
「はい、カナ」
そのほんのりと甘い匂いのする一切れをラシェーラがお皿に載せ、そっと差し出す。
「ありがと、ラシェーラ」
もうすっかり涙も乾いていたが、その笑みには少しの気恥ずかしさが混じる。
「カナっ、わたしも美味しくなるように隠し味とか頑張ったよっ」
「リジー先輩も、ありがとうございます」
はいはいっ、と挙手してアピールするリジーにカナは苦笑して応えてから、
「あと、キティ先輩も、シュシュ先輩も」
順々に頭を下げた。
「リジーの後っていうのは釈然としないけど、どういたしまして」
「うむ、気にするな。私は何もしてないけどな」
キティはいそいそと紅茶を淹れながら、シュシュはそれを偉そうに待ちながら、それぞれ応える。
即席のお茶会のようになってしまったその席で、カナは自然に笑みを零した。
カップからほぅわりと立ち昇る湯気の向こう、そこにはカナがずっと遠くから眺めていた景色があって。
「どうしたのさ、カナ?」
「……うぅん、なんでもない」
笑っているカナを不思議に思ったのか、ラシェーラが尋ねてくる。
多分、これは言ってもよくわからないだろうから。
だからカナは胸の内で一人呟いてみる。
ずっと焦がれていた煌めきに、わたし、やっと触れたよ。
七話完結となります。
次回は趣向を変えてホラー回です(夏だからね)
明後日更新予定となります。




