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七話 この手を伸ばせば(4)◯

 

 *


「うむむむ……悪いな」


 カナの先に立って図書館塔の階段を下っている少女は、振り向くといささかバツの悪そうな表情を浮かべた。一段下る度にその金色の髪が跳ねるようで、毬のように見えたのは彼女の頭部であった、とカナは遅まきながら思い至る。


「その、結局ほとんど持ってもらってしまって」


「い、いえ、大丈夫です……」


 腕がぷるぷるしそうなのを悟られないよう、カナはなんとか笑ってごまかした。結局二人の持つ書物の比率は一対九に落ち着いていた。もちろんカナが九だ。やっぱり損な性格なのかもしれない。


 カナは一歩一歩、慎重に踏みしめるように下っていく。木製の階段が重みに軋むように微かな音を立てる。


 階段を、下る、下る。

 下……は努めて見ないようにしてカナは歩いた。中央の吹き抜けから見下ろせば、きっと胃の底がひきつるような高さで。意識をすれば下界までの距離に心が折れそうだと思ったからである。


 代わりにちらり、と見上げると天窓からは相変わらず夏の煌めきが降り落ちていて、一度は触れられそうだったそれは次第に遠ざかる。


 やっぱり、夏は遠い。


 前を歩く少女の金色の髪が、振り落ちる陽光を反射して光る。特別な煌めきに思えたそれも、近づいてしまえばただの変わった少女でしかなく。


 重たい荷物を苦心しながら運んでいる状況と相まって、なんだかなぁ、とカナはがっかりしてしまうのだった。


「何をため息なんてついているのだ?」


「――っ」


 唐突に放たれた少女の問いかけにびっくりして、カナは階段を一段踏み外しかける。ドドドド、と牛の群れが通り過ぎたように心臓が激しく波打っていた。


「ため息、ついてました……?」


「あぁ、深ぁいやつをな」


「そ、そんなに……」


「何か悩みか? 手伝わせてしまったし、聞くだけ聞いてやってもいいぞ」


 小さな金色の少女は果てしなく上から目線で嘯く。小さな体で偉そうにふんぞり返る姿はどこか微笑ましい。


 けれどカナには少女の不遜な態度が頼もしくも見えた。それは、カナ自身はどう転んだってそんな自信満々には振る舞えないことがわかっていたからかもしれない。


 あるいは、やっぱりこの少々不思議な少女が特別な何かをもたらしてくれるような気がしたからか。


「……悩み、とは言えないかもしれないんですけど」


 カナは言うことも定まらないまま口を開く。

 ため息の理由。それはきっと。


「うむ」


「夏が」


 遠い天窓を見上げる。ガラスで隔てられた、夏の煌めき。


 それはカナがいつも水底から眺めていた、眩しい光景と重なって。


「夏が?」


 少女は促すように首を傾げて繰り返す。


 こんなことを言ったところで、どうにもなりはしないとわかってはいても。


 ただのないものねだりでしかないとしても。


「夏が、遠くて……。でも、触れてみたかったんです」


 本当は、水底から眺めるだけじゃなく、ガラス越しに隔てられるのでもなく。


 その煌めきの中に、自分も身を浸したかったのだ。アカデミーの教室で笑いさざめく子たちのように。


 勉強に打ち込んでいたのは、それができない自分から目を逸らしたかっただけだ。暗い日陰でしか生きられない自分を――ちっとも変われない自分をごまかすための言い訳だったのだ。


 抑えていた願望を口にして初めて、カナは自分の心を知る。それはすぐにでも目を背けたくなるような弱い、弱い心で。


 少女はあどけない顔立ちに疑問符を浮かべて「なんだ、ポエムか?」と呟いている。


 いきなり意味わからないよね、とカナは内心苦笑した。春頃に出会ったあけっぴろげな先輩の影響か、なんだか自分の弱さを他人に見せることが増えている気がする。


「……要するに、夏休みが終わるから落ち込んでいるのか?」


 解せぬ、というふうに少女はカナを振り返った。うーん、それはちょっと違うような、でも「じゃあちゃんと説明しろ」と言われてもできないしなぁ……と、ひとしきりためらった後、カナは小さく頷いた。


「なるほどなるほど」と、少女は得心がいったように二、三度頭を振った。悪戯な妖精の尻尾のように猫っ毛が揺れる。


「ちょうど、私の知り合いも同じようなことを言っていたな。なんだか夏休みというものを過大評価している気もしないではないが。私なんかは本を読む時間が増えたくらいにしか思っていなかったのだがな」


 ぶつぶつと呟き続けていた少女だったが、やがて何か思いついたかのように肩越しにカナを振り返る。


「本を運んでもらった礼だ。おいしいお茶でもご馳走しよう。夏の思い出に、というほど大層なものじゃないが」


 何もないよりはマシだろう、ともはや決定事項のように少女はトットっと毬のように跳ねながら階段を下っていく。


 わたしはあなたよりも沢山本を抱えているからそんなに速く下れないんですけど。というか、あなたの借りた本なんですけど。


 胸の内でだけ少女への文句を転がしながらも、カナは小さな金色の毬を慌てて追いかけた。



 ――――――



 カナの哀れな膝がガクガクと痙攣するようになった頃、ようやく二人は図書館塔の長ぁい階段を下りきった。


 もうしばらく図書館には来ないぞ、とカナはしみじみと決意する。新学期は初日から筋肉痛に苦しむことになりそうだ。


「あら、返却するのまで手伝ってくれたの? ありがとねー」


 息も絶え絶えにカウンターに書物の山を置いたカナに司書の先生は労うような笑顔を向けた。暗に「別にそこまでしなくても良かったのよ?」と言っている気がしないでもない。


「まったくだ。司書なら自分の仕事は自分でやりたまえよ」


 横合いから少女が偉そうに説教を垂れている。司書の先生も苦笑いだ。


「私の仕事は本の管理であって、問題児のお世話じゃないのよ」


「誰が問題児だと? 私の成績は学年で一番だが」


「あらま、世も末ね」


 少女と司書の先生は気の置けない軽口を叩き合っていて、返却の手続きの間カナは少し所在がない。誰かと誰かが親しそうにしている光景には無性に尻込みしてしまうのだ。


 少女は全ての返却を済ませると、へっぴり腰で二人から距離を取っていたカナのもとへ歩み寄る。


「待たせたな。それじゃ行こうか」


 そう言って図書館塔を出ていく背中をカナは追いかける。


 あ、そうそう、と少女は思い出したように振り向くと、


「あー、まだ礼を言っていなかったな。……ありがとう」


 どこかぶっきらぼうに言い捨てた。


 照れているのかしら、とカナは一瞬きょとんとした後ふふっと笑った。


 悪くない。誰かにお礼を言われるのは。

 それだけで今日まで空っぽだった夏がほんの少し温もるようだ。


 今日この少女と出会えて良かった、という気持ちがカナの胸にすとんと収まった。


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