五話 「愛している」とアップルパイ(3)☆
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夏休みも折り返し地点、あたしは荘重な正門をくぐり、まだ学生の姿がまばらなアカデミーに戻ってきた。校舎であるメザウィッヂ城の本棟から寮まで、瑞々しく若草色に萌える生垣を横目に歩く。
校舎よりもモダンな内装の女子寮の自室の扉を開けると、カラーシャツにジーンズというラフな格好のカナ・スキレットが椅子の上に寝転がって本を読んでいた。
カナとは寮が同室で、最初の頃はとっつきにくかったけれど今ではわりと仲が良いとあたしは思っている。
「だらけてるなぁ」
あたしが自分のベッドの方にボストンバッグをぶん投げながらカナに声をかけると、彼女は慌てて起き上がった。
「あっ、えと、お帰りラシェーラっ」
カナは赤面しながら言った。
「ただいま、カナ」
なぜだか家に帰っても言えなかった言葉がすんなりと出てきて、おかしかった。
あぁ、むしろあたしの方があそこを自分の家庭だと、家族のいるところだと思ってなかったんだなぁ。それなのに、エレナには自分のことを愛して欲しがっていただなんて、勝手だ。すごく自分勝手だ。
「ラシェーラ、なんか元気ない……?」
カナは読んでいる本越しにあたしに物問いたげな視線を送ってきた。というか、何を読んでるのかと思えばこの子、せっかくの夏休みに教科書なんて読んでるよ。真面目か。
「んー、ちょっと疲れてるだけ」
そう言ってあたしはベッドに倒れ込んだ。疲れているのは本当だ。昨日からずっとエレナの言った言葉をぐるぐると考え続けていたから。
『あなたは私を愛したいと思っているの?』
胸の内でその言葉に何度も答えようとするけれど、あたしはその術を持たない。
あたしは彼女を愛したいのだろうか。
愛して欲しいのと、愛したいのとではどれぐらい隔たりがあるんだろう。
なぜだか瞑った目の裏側がじんとした。
どれぐらいそうしてじっとしていただろう。
頬を柔らかい何かがくすぐるのを感じた。
あたしが目を開けると、カナの心配そうな顔が上から覗き込んでいた。頬をくすぐったのは普段は三つ編みにしている彼女の長い黒髪だ。今は手で梳かしただけでまっすぐにおろしているその毛先を、あたしは凝視した。なぜカナはあたしの寝顔を眺めているのだろう?
「……な、何?」
若干面食らいながら尋ねる。
「あ、あのさ、もしかして何か悩んでたりする……?」
そう言って、カナは恥ずかしそうに髪の毛先をもそもそと弄った。
いったいなんだというのか。
ベッドから身を起こしカナに向き直る。
「あたし、そんなに悩んでるように見える?」
自分では普通にしていたつもりだったから自信がなくなる。
けれどカナはふるふると首を横に振った。
「そうじゃないの。ただ、なんとなくラシェーラが泣きたそうに見えたから……」
「なんじゃそりゃ」
予想外の答えに変な声が出た。
あたしはぺちぺちと自分の頬を叩く。そんなにおセンチな表情など浮かべていただろうか。
「ち、違ってたらごめんね。でもわたし、悲しげな顔はいつも鏡で見慣れてるから……」
自虐っぽい笑みを片頬に浮かべたカナに、あたしは慌てた。
「いや、最近のカナは本当に明るくなったよ! 笑顔も素敵だし!」
「そうかな……って、そうじゃなくて」
ほんのりと頬を染めるカナだったが、我に返ったように頭を振る。
「もし、何か悩んでることがあるなら相談してみない?」
躊躇いがちなカナの提案にあたしは何度か瞬きした。
「でも相談して解決するようなことじゃ……」
「ううん、話せば気持ちも変わると思うの」
「えぇ、そうかな……?」
なんだかやけに熱心に言い募るカナに気圧されるように、あたしは頷かざるを得なかった。
*
「――で、どこに向かってるの?」
てっきりカナに相談するものだと思っていたあたしは、なぜか夏休みで閑散としているアカデミーの廊下を彼女に引っ張られて歩いていた。石造りの廊壁に二人分の小さな足音だけが響く。
「あ、うん。そろそろ補習が終わる時間だと思うから。その教室に行こうかと」
「そこにお悩み相談のエキスパートだっていう先輩がいるのね」
「う、うん、そうだよ」
どうしてこうなった、とあたしは天井を仰いだ。
カナに相談するという話ならわかる。同室で、最近はそれなりに気心の知れた仲だし。でも、それがまったく面識のない先輩相手となると話は別だ。
先ほど寮の自室で意を決して口を開きかけたあたしを制してカナは言った。
「あ、わたしじゃなくて、先輩に相談してみない? って意味で……」
「先輩って?」
出鼻をくじかれたあたしは仕方なく聞いた。
「リジー先輩」
いや誰だよ。なんで見ず知らずのリジー先輩だか誰だかにあたしの超個人的な相談をしなきゃいけないのか。
正直まったく気は乗らなかった。
けれどその何某先輩の名前を口にした時のカナの表情が、あたしを言われるがままにさせたのだと思う。信頼とも親愛ともつかないその表情があたしは気になったのだ。あたしはきっと、そんなふうにエレナの名前を口にしたことはないから。
あたしの少し先を歩いていたカナが立ち止まる。教室の中を覗いてお目当ての先輩の姿を探しているのだろう。
「――あっ、あの、リジー先輩っ」
緊張で上ずったような声を上げるカナの肩越しに教室の中を見遣ると、タイミング良く一人の少女と目が合った。
瞬間、少女の顔が眩しいくらいに笑みを浮かべる。
似てる、と思った。エレナの笑った顔に。
「こんにちは、カナ。珍しいね、教室までくるなんて?」
にこにこと、少女は二つ結びにした濃いメープル色の髪を揺らしながら駆け寄ってきた。
「す、すみません急に! ご迷惑でしたよね……」
たちまち卑屈モードに入ろうとするカナをリジー先輩はぎゅっとした。
「カナが迷惑なわけないでしょ! むしろ会えて嬉しいよ!」
リジー先輩の浮かべる優しげな表情にまた既視感を覚える。
他人を思い遣れる人の笑顔だ、とあたしは思う。それはとても眩しくて温かくて、尊いものだ。けれど、それはどこまでいっても他人に対する笑顔でしかない。
リジー先輩の笑顔にエレナを重ねて、あたしはまた怒りとも悲しみともつかない感情を抱えた。
「あ、リジー先輩、今日はわたしじゃなくて、友達の話を聞いて欲しくて」
ひとしきり先輩にぎゅっとされご満悦な様子のカナは思い出したようにあたしを振り返った。何を見せられているんだろう、と思い始めていたので助かった。
リジー先輩はパッとカナから離れるとあたしにその笑顔を向ける。
「こんにちは。わたしはリジー」
「あ、ラシェーラ・ミーガンです」
リジー先輩は笑顔のままあたしの顔を覗き込んできて、落ち着かない気持ちになった。
「話って何かな?」
「えぇっと……」
にこにこと問う彼女にあたしが口ごもっていると、横合いからカナが助け舟を出してくれた。
「あの、ラシェーラが悩んでるみたいで……リジー先輩にお話すればきっと良くなると思って!」
「良くなるって……病気じゃないんだから」
リジー先輩に憧れの視線を向けるカナに、あたしは苦笑する。けど、病気という言葉に、自分で言っておきながらハッとした。
リジー先輩はカナとあたしを見比べると、二、三度頷いた。
「なるほどね。わかったよ」
笑顔でそう言うと、リジー先輩はカナに何やら耳打ちした。カナはふんふんと熱心に頷いている。その様子が親と子みたいで微笑ましくて、それなのになんだか寂しい気持ちにもなった。どうもあたしの心は不安定になっているみたいだ。
「それじゃ、リジー先輩後はよろしくお願いします」
話が終わったようで、カナはぺこりと頭を下げると教室を出ていった。
「えっ、ちょっとカナ? ――って、行っちゃったよ……」
よく知らない先輩と二人、取り残されたあたしはしばし立ち尽くす。この展開はちょっと予想してなかった。
気まずさを感じていると、リジー先輩は手近な椅子を引いて「まぁ座ったら?」と言った。
「ど、どうも」
帰るタイミングを逃したあたしは仕方なく椅子に座る。リジー先輩も隣の席にすとん、と腰を下ろした。
いつまでも無言でいるのも気まずいし、かと言ってやっぱり相談するのは気乗りしない。
そうやってあたしが悶々としていると、リジー先輩はやおら苦笑した。
「ねぇ、別に無理に話さなくてもいいよ?」
「え、でも」
「だってあまり話したくなさそう。多分だけど、カナに無理やり引っ張ってこられたんじゃない?」
図星を突かれてあたしは目を泳がせた。
「……まぁ、そんな感じです」
「やっぱり」
リジー先輩は小さく息を吐くと、ちろり、とあたしに共犯者みたいな笑みを向けた。カナといる時の屈託のない笑顔と違って少し陰を帯びたそれにドキリとする。
「カナは、わたしのことを買い被ってるみたいだからねぇ」
そう言って捉えどころのない笑みを零す。最初に抱いた印象とはだいぶ違っていて、あたしは戸惑った。
「買い被ってるって?」
「うーん、わたしならどんな問題でも解決できる、って思ってる節があるんだよねぇ。実際は全然そんなことなくて、今日だって補習で解けない問題ばっかりで怒られたし」
そう言ってリジー先輩はぺろりと舌を出す。
あたしはなんと返して良いやら考えあぐねて、結局「夏休みに補習なんて大変ですね」という微妙にズレた返しをしてしまった。
「そうだよぅ。だからそうならないように普段からしっかり勉強しておくといいよ」
リジー先輩はそれに応えるようにくりくりと悪戯っぽく目を動かした。
どうやら本当に話を聞き出そうというつもりはないらしい、とあたしは確信する。すると、あたしは妙に安心してしまった。
「大丈夫です。あたしはしっかりしてるんで」
安心したせいか、ついそんな軽口が出た。
しっかりすることには慣れてる。あの家でのあたしはしっかり者のお姉ちゃんだから。
「そうなんだ。わたしは全然ダメ。どうやったらしっかり者になれるのか見当もつかないの」
リジー先輩は大げさに眉根を寄せた。確かに、夏休みに補習を受けるなんてよっぽど抜けているんだろう。
「あたしだって別になりたくてなったわけじゃないですよ。気づいたらそうならざるを得なかったというか」
「周りにわたしみたいな抜けてる人でもいたのかな?」
「……そういうわけじゃなくて。あたし、今の家族と血が繋がってないんですよね、父親以外とは」
気づけばぽろりとそんなことを零していた。悩みを打ち明けるつもりなんてなかったはずなのに。
一度話し出すと止まらなくなって、あたしは抱え込んでいた気持ちを全部吐き出していた。
新しい家族を無邪気に喜べるほど子どもでもなく、また、うまく受け入れられるほど大人にもなれない中ぶらりんなあたしの気持ちを。
愛したいのと、愛されたいのと、アップルパイについてと。
「――それであたし、エレナのことを愛したいと思っているのか? って訊かれて、うまく答えられなかったんです。あたし、今までずっとエレナがあたしのことを愛していないんだ、ってことばかり考えてて、自分はどうかなんて考えもしなかった……」
リジー先輩は余計な口を挟まず、ただ黙って聞いていた。あたしが口を閉ざした後もしばらくは何を言うでもなく、黙って椅子に座ったまま爪先を揺らしていた。
「……って、なんか結局話聞いてもらっちゃって、ありがとうございました」
どことなく胸の底の方が軽くなった気分であたしは頭を下げた。カナの言った通り、心の具合が少しだけ良くなったみたいだった。
「そんな、お礼を言われるようなこともしてないよ」
リジー先輩はひらひらと手を振る。そして、つい、とあたしの目を覗き込んで言った。
「わたしにはあなたの悩みを解決することはできないけれど、一つだけ言えることがあるの」
それはね、とリジー先輩は優しげに目を細めた。
「誰かのことを考えて悩んでしまうのって、きっとすごく心に負担がかかると思う。疲れて、投げ出したくなることもあると思うの。でも、ラシェーラはそれでもエレナさんのことを考えて必死で悩んでる。それだって、きっと一つの愛なんじゃないかな」
だから、あなたなりの愛し方で大丈夫だよ。
そう言ってリジー先輩は微笑んだ。
その言葉で、喉奥でモヤモヤしていたものがふいにストンと体の中に落ちていって、あるべき場所に収まった気がした。そうか、あたしは愛そうしていたのか、愛せていたのかって。
リジー先輩の言葉は、ガチゴチに肩肘を張っていたあたしの考えを柔らかくほぐしてくれたのかもしれない。
きた時よりも幾分軽やかな自分の足音が廊下に反響するのを聞きながら、あたしはそんなことを思った。




