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五話 「愛している」とアップルパイ(2)☆

 *


 でも、振りなんて所詮振りでしかなかった。


 どだい無理だったのだ、あたしには。


 それは父親からの電話が原因だった。いや、直接的にはそうかもしれないけれど、最初にあたしの頭をよぎったのはやっぱりアップルパイだった。


 あたしが家に帰ってきてから四週目の、翌日にはアカデミーに戻る、という日。


 エレナは「今日の夕飯はとびきり腕を振るうわね」と、意気揚々と買い出しに出かけたところで、あたしは最後の務め、とばかりに弟たちの遊び相手をして過ごしていた。


 子供部屋であたしがブロックで作ったノートルダム大聖堂に、ジョンの拳の隕石とケビンのオモチャの恐竜が同時に襲来するというパニック映画さながらの場面が繰り広げられていたその時、リビングで電話が鳴った。


 受話器を取ると、あたしが名乗る暇もなく切迫した父の声が耳に飛び込んできた。


「エレナ、その後具合はどうなんだい? 検査の結果は? また病院には行ったんだろう? 何も連絡をくれないから心配で……」


 あたしの頭は突然聞こえてきた単語の意味をなかなか理解できなかった。

 病院。検査。心配。でも、エレナは今日だって元気に買い物に……。


「――もしもし、エレナ? 黙ったままでどうしたんだい? もしかして検査結果が悪くて――」

「どういうこと……」


 あたしはようやくその一言だけを絞り出した。電話の向こうで一瞬息を呑む気配がする。


「ラシェーラ、どうして…………、そうか、夏休みか」


 困ったような父の声にあたしは瞬間、怒りが湧きあがった。


「エレナ、どこか悪いの? その口振りだと、父さんは結構前から知ってたんだよね。なんであたしには何も言ってくれなかったの」

「いや、それは……」


 思ったよりもキツい口調になってしまったとは思ったけれど、怒りはむしろ大きくなっていった。父さんは知ってたのにあたしに黙っていた。エレナも。この一ヶ月ずっと一緒に暮らしてたのに、そんなこと一言だって漏らさなかった。具合の悪い様子すら見せずに。


「エレナに頼まれたんだ。ラシェーラには言わないでほしいって」

「…………何、それ」


 あたしには何も言わなくたっていい? なんで? 本当の家族じゃないから?


「もう、いい」


 受話器を戻すと、ガチャンと耳障りな音がリビングに漂った。


 キッチンに入り、色んな引き出しを引っかき回すと見つかった。大量の薬が。


 それを見てあたしは、ホントに何も知らなかったんだなぁ、となんだか虚しくて、泣きたい気持ちになった。


 もう弟たちと遊ぶなんて気分になれるはずもなく、のろのろと階段を上り自分の部屋に入ると明かりもつけずにベッドに倒れこむ。


 無性に悲しくて悔しくて怒っていて、それでいてどの言葉も今のこの気持ちとは微妙に食い違っている気がした。




 階下から微かに足音が聞こえ、あたしは蛇のように首をもたげる。どうやらエレナが帰ってきたらしい。しばらくしてあたしを呼ぶ声が聞こえたけど、それを無視してあたしはベッドの上でトグロを巻いていた。


 そのまま頑なに返事をしないでいると今度はトントン、と階段を上ってくる足音がした。ついでにノックの音と「ラシェーラ、どうしたの?」というエレナの声も。それでもあたしは返事をしなかった。


 あたしの部屋に鍵は付いていなくて、エレナは勝手に入ってくることができたから無駄な抵抗ではあったのだけれど。


 エレナが部屋に入ってきた気配を感じてもあたしは寝転んだまま扉とは反対側の壁を凝視していた。囚人みたいに壁紙のシミを人の顔に見立ててみたりした。全部があたしを嘲笑ってるみたいな顔に見えて、すぐやめたけど。


「ねえ、ラシェーラどうしたの? 具合でも悪いの?」


 純粋にあたしを心配しているようなその口調に、あたしは反発を覚えた。要はムカついたのだ。具合が悪いのはあたしじゃない、あなたでしょ。


「……別に。関係ないでしょ」

「関係ないなんてそんな……私たち家族じゃない。心配するでしょう」


 家族。


 その言葉を聞いた瞬間、あたしはカッと顔中が熱くなってもう頭の中までグラグラと煮立ったみたいになった。


 有り体に言ってしまうと、キレたのだ。


 家族。家族って何? 他人行儀な気遣いをしたり、隠し事をしたりするのが家族なの?


 頭の中は言いたいことで溢れているのにそれをうまく言葉にすることができなくて、どんどん血が上った。


「…………じゃあなんで黙ってたの。具合悪いのは、エレナの方でしょ。薬もあんなにたくさん飲んでて」


 あたしの声は自分でも驚くほど非難を孕んでいて。息を呑む気配を背後に感じようやっと振り返って体を起こすと、エレナはバツが悪そうに立ち尽くしていた。


「別に――黙っていたわけじゃないのよ……」

「黙ってたわけじゃない? 父さんに口止めまでしておいて? 嘘ばっかり!」


 知らずのうちに声のトーンが跳ね上がって、自分でもびくりとした。エレナはもっとずっと傷ついたような顔をした。


 思えば彼女に対してこんなふうに声を荒げるなんて初めてだ。彼女はいつも優しくて、気遣いができて、良い人だから。


 でもつまりそれって、全然家族なんかじゃないってことじゃないの?


 ジョンとケビンには怒ったり、うんざりしたような顔を見せるくせに、あたしにはいつも明るく笑いかけて、それって偽善じゃないの。家族ってもっと――うまく言えないけど、もっと自然なものなんじゃないのかな。


 エレナは腕を庇うように抱きながら微笑みを浮かべようとした。明るくて眩しい、うんと他人行儀なやつを。


「あなたに余計な心配かけたくなかったの」


 その言葉にあたしはまたはらわたが直火で炙られたみたいに熱くなった。


「余計な心配? 家族なら心配するのは当たり前なんじゃないの!? あたしが心配するのは余計なんだ? それってあたしなんか――、家族じゃないってことじゃん」


 ひゅっ、と息が詰まる音が部屋に響いた。その音で一瞬、あたしは我に返る。


 エレナは笑っていなかった。


 銅像のように、ピクリとも表情を動かさずにあたしを見つめている。


 その顔はあたしを責めているように見えて、あたしは急に狼狽えてしまった。だってそんな顔、見たことない。薬の入っていた引き出しを開けた時の、見てはいけないものを見てしまったような気持ちが胸の内側で首をもたげる。


 でも、もう後戻りできなかった。言ってしまったことは取り消せない。


 あたしがそう思っていたってことをエレナは知ってしまった。


 そう思うと歯止めがきかなくなって、つんのめるようにあたしは言葉を吐き出した。


「そりゃそうだよね。エレナが結婚したのは父さんで、父さんの家庭とじゃないし。わかってるよ、あたしだって。自分が邪魔なことくらい」


 なんでもないことのように言おうとしたけど、無理だった。息を吸うたびに目頭が熱くなって、声が震える。


「ラシェーラ……そんなこと……」

「そんなことなくないじゃん……! エレナは父さんが好きだから、しかたなく父さんの娘のあたしと家族の振りをしてるだけでしょ……!」


 あたしが何か言う度に、エレナは苦しげに首を振った。そんな弱々しい彼女を見ると、まるで自分がひどい悪人のような気分に襲われる。そんな自分を弁護するみたいに、あたしは必死に言葉を重ねた。自分でももう何を言いたいのかよくわからなかった。


「…………あたしだって頑張ったよ。頑張ってたじゃん……。エレナの助けになればと思ってジョンやケビンの面倒も見てた……」


 そうしていれば家族になれると思っていた。期待した。


「でも、いつだってエレナは、あたしの誕生日にはアップルパイを焼かないでしょ……」

「え……」


 ぽとり、と零れたあたしの最後の言葉にエレナは虚を突かれたような顔をした。


 意味がわからない、という顔だった。


 なんでそんな顔をするの。そんな、どうでもいいことみたいな顔。まるであたしばっかりつまらないことにこだわっているみたいじゃん。


 もどかしくて歯がゆくて、あたしはぐしゃりと顔を歪めた。


 エレナは恐々といったふうに口を開く。


「アップルパイが食べたかったの……?」

「…………そうじゃない」


 それは違う、と思った。


 そうじゃないんだ。アップルパイはただの形で、あたしが欲しかったのはその形に込められたものだ。


「なんでわからないの……? あなたが言ったんだよ、『家族のお祝いごとにはアップルパイを焼くんだ』って」


 あたしが欲しかったのはアップルパイじゃない。


 その艶々と輝いて温かい、彼女の愛の証が欲しかったんだ。あたしに向けられたそれを、望んでいた。それだけだ。


「……結局、エレナはあたしのことを愛そうとなんてしてないんでしょ。あたしは、ただの父さんのおまけでしかないんでしょ――」

「――いい加減にしてッ」


 鋭い声があたしの震える声を切り裂いた。


 エレナが声を荒げたのだ。


 あたしはもちろんびっくりしたけれど、彼女も同じくらい驚いていた。


 二人してしばらく黙りこくったまま見つめ合う。

 やがて、ふ、と小さく息を漏らすとエレナは寂しげに微笑んだ。


「……私だって、あなたのことを愛したいと思っていたのよ、ラシェーラ。でも……」


 エレナは躊躇うように言葉を切った。

 あたしは無言で彼女を見る。


 もう一度、今度は大きく息を吸うと、エレナは呼吸と一緒に想いを吐き出した。


「でも、あなたは私を愛したいと思っているの?」


 その問いかけはまったく思いがけないもので、あたしは息をするのも忘れた。


 答えられなかった。


 あたしは彼女を愛したいのだろうか?


 傷ついたような小さな雫が彼女の目尻に浮かぶ。その目の中を探しても、答えはどこにもなかった。




 その晩の豪華な夕食はとても味気なかった。

 押し黙ったままのエレナとあたしを、小さな弟たちは不思議そうに見ていた。

 翌日の朝早く、あたしは家を出てアカデミーへと戻った。

 エレナの問いには答えられないままだった。

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