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五話 「愛している」とアップルパイ(1)☆

 ***


 きっかけはアップルパイだった。


 あたしの十一歳の誕生日にテーブルの上に置かれたものを見て、あたしは、あれ、と思ったのだ。

 アップルパイじゃないんだ、と。


 それは近所で人気のパティシエのケーキで、これまでずっとあたしの誕生日の一部として鎮座ましましていたものだった。だから、そういった点で見れば何もおかしなことなんてないはずなのに、でもやっぱり、その年の誕生日にはひどく不似合いに思えたのだ。


 その理由はきっと、そのケーキを初めて買ってきたのがあたしの母だったからだ。


 今では随分とおぼろげな記憶を辿ると、初めて見たそのケーキの箱と一緒に輪郭のぼやけた母の笑顔が映る。


 それ以来、母がいなくなってからも――あたしが母の顔を鮮明に思い出せなくなってからも――誕生日にはそのお店のケーキがあった。それがまるで母の代わりであるかのように、ずっと。


 だから十一歳の誕生日を迎えたあたしは戸惑ってしまった。


 その年、あたしには新しいおかあさんができたから。


 あたしが幼い頃に母を亡くしてからずっと男やもめであった父が、その年の春にとうとう再婚したのだ。


 父が連れてきたエレナというその女性は、さらに三歳と五歳の子どもを連れていた。


「初めまして、ラシェーラ。これから仲良くしていけたら嬉しいわ」


 エレナはそう言って人の良さそうな笑みを浮かべた。小さな弟たちは彼女の後ろできょときょとと家の中を見回していた。


 あたしにもそんな彼らのそわそわが移ったみたいで、落ち着かなく視線を彷徨わせていると、エレナは唐突にあたしの肩を抱き寄せた。脈絡も何もないその行動にあたしは面食らって息が詰まった。


「あなたのことを愛してもいいかしら」


 そう言われて、あたしは何も返せなかった。

 嫌、とかじゃなく、わからなかったのだ。

 どういうつもりで彼女がそんなことを言ったのか。


 だって会ったばかりの、正直なところ他人でしかないあたしを、どうやって愛せるというんだろう。


 決して彼女の言葉が嘘くさいとか、そういう反発を覚えたわけじゃなかった。むしろ、本当にそう思っているんだろうなぁ、と思わせる温度のようなものが、彼女の言葉には込もっているのがわかって、居た堪れないような気持ちになったのだ。


 エレナはあたしの父が好きで、愛していて。

 その父にたまたま娘がいて、それがあたしだったってだけだ。

 エレナが父を愛している、その延長線上にいるのがあたしだ。


 そんなことが、彼女の胸に抱き寄せられたあたしの頭の中をぐるぐると巡った。




 それまで仕事がちの父と二人暮らしだったあたしは、突然家族が増えて賑やかになった家にびっくりしていた。まだ幼い弟たちはいつだって騒がしく家の中で暴れまわり、エレナと一緒に彼らの面倒を見るのは、慣れないうちはかなり骨が折れた。


 そんなふうに変わっていった我が家で初めて誕生日を迎えたのは三歳の弟、ジョンだった。


 その日、リビングのテーブルには所狭しとご馳走が並び、その真ん中にはどデカくて艶々のアップルパイが湯気を上げていた。


「ケーキじゃないんだ」


 エレナの切り分けたアップルパイを受け取りながらあたしが言うと、彼女はふふ、と幸せそうに笑った。


「私の家では、お祝いごとの時はアップルパイを焼く、っていう習慣があってね。だから私も子どもたちの誕生日にはアップルパイを焼くことに決めてるの」


 とりわけ大きく切ったアップルパイをジョンの前に置くエレナの姿に、あたしは思った。


 これは愛だ。


 このバカみたいに大きくてとても一日じゃ食べきれないようなアップルパイは、エレナの愛情がそのまま形になったものなんだ。


 幸せそうな顔でアップルパイを食べる親子を見て、あたしはそんなふうに感じた。


 だから少し躊躇ってしまった。


 この愛情の一欠片をあたしがもらってもいいのか、と。

 自信がなかったのだ。エレナたち親子とあたしは所詮は他人で。


 他人のあたしが、ジョンやその兄のケビンのように彼女から愛されようだなんて、なんだか図々しい気がした。


 だから、あたしはいつも少しだけ身を引いていた気がする。


 毎晩寝る前に弟たちはおでこにおやすみのキスをしてもらうけど、あたしはハグだけに留めたり、わがままなことは言わないように気をつけたり、そんな些細なことだけれど。




 そんな気持ちがあったから、自分の誕生日にテーブルの上に置かれたものを見て、あれ、と思ったのだ。


 でもその後にはすぐ、やっぱり、という気持ちがひたひたと押し寄せてきた。


 エレナはいい人だ。その子どもたちも屈託なくあたしに懐いてくれている。

 けれど、違うのだ。


 エレナにとってあたしの誕生日はアップルパイじゃない。


 その年の誕生日、ずっと好きだったケーキを、あたしは初めて寂しいと思った。


 *


 アカデミーの夏休みに合わせて、十四歳の誕生日を間近に控えたあたしは四ヶ月振りに実家に帰ってきた。


 久し振りの家の扉の取っ手はなんだかよそよそしくひんやりとしていて、それを回して入っていくのに、一呼吸余分に立ち止まる。


 カチャリ、と小さな音と共に取っ手が回り、玄関が見えた。誰かいないかと遠慮がちに奥を覗くと、「はいはーい」とパタパタとした足音を響かせてエレナがやってきた。その顔が、あたしを見て柔らかな表情を浮かべる。


「あら、ラシェーラ。早かったのね」

「あ、うん。一本早い汽車に乗れたから」


 突っ立ったままぎこちなく答えるあたしが面白かったのか、エレナは口許に手を添えて笑った。


「もう、いつまで玄関口でボーッとしているの? あなたの家なんだから早く入って」


 あたしの手から荷物を奪いながらエレナは目を細める。


「おかえり、ラシェーラ」


 ただいま、と言おうとして、けれど言えなかった。


 それは、直接的には奥から奇声を上げて駆け寄ってきた幼い弟たちにタックルをくらったせいだったけれど、それがなくてもきっとすんなりとは言えなかったと思う。


 一度離れたせいか、以前よりもこの家はあたしの家というよりも、エレナたち親子の家のように感じられた。


 弟たちに手を引かれて家の中に足を踏み入れながら、あたしは頭に浮かんだその考えを振り払う。エレナも、ケビンもジョンも、こんなにもあたしの帰りを歓迎してくれているのに。


 それなのに、なんであたしはこんなにも隔たっている気がするんだろう。


 ふと、エレナのアップルパイが脳裏をよぎる。


 今年の誕生日はどうなのかな。

 あたしはリビングの壁に貼ってあるカレンダーに視線を向けた。


 八月十八日。

 二週間後のその日付けには、丸印と「ラシェーラ 誕生日」という、エレナの丁寧な文字が書かれていた。


 *


 家に帰ってからの一週間は瞬く間に過ぎていった。

 まだ六歳のジョンは言わずもがな、同じく夏休み中のケビンも家にいる時間が多く、あたしはこの遊びたい盛りの二人の相手をするのにてんてこ舞いだったのだ。


 ある時はジョンがブロックで遊びたいと言うのであたしが気合を入れて恐竜を作ってやると、ジョンは「隕石がおちましたぁ! ドーンッ」と拳の流星群を降らせてあたしの力作の恐竜を誕生からわずか三秒で絶滅に追いやった。


 またある時はケビンが博物館に行きたいと言うので連れて行ってやると、「ここの恐竜、骨しかない!」と不機嫌になったので、あたしは売店で骨格だけじゃなくてちゃんと身のついている恐竜のオモチャを買ってやらなければならなかった。


 これも年長者の務めなのだろう、と諦め、彼らに振り回されるあたしを見ると、エレナはいつも「ラシェーラが良いお姉ちゃんで助かるわ」と微笑んで言うのだ。


 あたしとしてはお姉ちゃんというよりもベビーシッターのアルバイト(しかし賃金は発生しない。なんてブラック!)でもしているような気分だったけれど。


 それでも、そうやってお姉ちゃんをやっている間は余計なことを考えずに済んだ。


 父親は単身赴任で今この家にはあたしと血の繋がった人は誰もいないことだとか、長年見慣れていたはずの傷だらけの箪笥がなくなっていることだとか、そんなことを。


 理由が欲しかったんだと思う。あるいは名分が。


 あたしがここで、この人たちと一緒にいることを自分に納得させるための。


 それに丁度良かったのがお姉ちゃんという肩書きだったというだけ。

 お姉ちゃんて便利だ、と思う。実際のお姉ちゃんじゃなくても呼んでもらえる。親戚のお姉ちゃん。近所のお姉ちゃん。街で見かけるお姉ちゃん。


 そこに血の繋がりなんかなくたって、どんなに希薄な関係だとしても、あたしより歳下の子たちからすればあたしは紛うことなくお姉ちゃんなのだ。


 けれど、エレナに対してはあたしは『誰』でいればいいのかわからない。血の繋がりもないのに娘と言うのは憚られるけど、他人と言うには近い距離感。ただでさえ微妙なそれを測ろうとすると、またアップルパイが、でん、と現れ頭の中に居座るのだ。


 お前にこれを食べる資格があるのか、と無言であたしを威圧する。パイの分際で、と思うけれど、あたしは自分で思っている以上にそれに囚われているのだろう。


 一度エレナに聞いてみたことがある。どうしてあたしの誕生日にはアップルパイを焼かないのか、それとなく。


「だって、ラシェーラはあのお店のケーキの方が良いでしょう」


 エレナは躊躇なくそう言い切った。笑顔で。それがあたしのためだと信じて疑わないように。


 確かにあのケーキには思い入れがある。けれどそれは母とあたしを繋ぐものであって、エレナまでがそうするのはなんだか違う気がした。


 でもそんなふうに言われたら、あたしも笑って頷くしかなかった。「あたしのためを思ってくれたんだね。ありがとう」って。


 エレナはあたしを尊重してくれる。それはとてもありがたいことだ。実際、他人であるあたしたちが一緒に暮らすようになってから何事もなく平和にやってこられたのは、エレナの気遣いがあったからこそだ。


 ただ一年二年と経つうちに、いつからだろう、その気遣いが隔たりのように感じられるようになったのは。


 初めて会った時の彼女の「愛してもいいかしら」という言葉。

 そしてあたしの誕生日には焼かれないアップルパイ。


 その二つが、あたしの心の中を入れ替わり立ち替わりかき乱していくのだ。


「ラシェーラーッ!」


 子供部屋から泣き声混じりのジョンの悲鳴に呼ばれ、あたしははっとした。多分、またケビンとオモチャの取り合いでもしたのだろう。


「はいはーい。今いくよー」


 あたしはお姉ちゃんの顔に戻ると、二人のもとへ駆けて行った。


 *


 それからまたさらに平和な一週間が過ぎ、あたしの十四歳の誕生日がやってきた。


 ここで言う平和とは、あくまで表面上のことに限る。平静を装ってお姉ちゃんの顔をしながらも、誕生日が近づくにつれ不安と期待で四肢がもげそうな気分だった。


 八月十八日の朝、エレナはリビングに入ってきたあたしに輝くような笑みを向ける。眩しすぎて家のキッチンに朝日が昇ったのかと思った。


「おはよう、ラシェーラ。今日のご予定は?」


 ベーコンの焼けるじゅうじゅうという音に負けない元気な声でエレナは問いかけた。


「ううん、何も」

「そう。それならケビンとジョンをどこか遊びに連れて行ってくれない? お願い」


 ここまでがお約束のやり取り。

 エレナは今日あたしが予定を入れていないことをわかっているし、あたしも今日ケビンとジョンを連れて行くところを三日前くらいには決めている。


 誰かの誕生日、エレナはサプライズで準備をしたがる。毎年同じ手口を使うから、全然驚きなんてないんだけれど、そのための「お願い」だ。あたしが弟たちと一緒に出ている間に、エレナは心ゆくまでサプライズパーティーの準備に勤しむのだ。


「わかった。いいよ」

「ありがとう。ラシェーラは良いお姉ちゃんね」


 良いお姉ちゃん。そう、あたしはそうなんだ。

 じゃあエレナにとっては、あたしは何?


 喉元まで出てきそうになったモヤモヤした気持ちを、テーブルに出されたベーコンエッグと一緒に無理矢理飲み込んだ。




 朝食を済ませると、あたしと弟たちは郊外にある大きな公園に向かった。肩から提げたバッグには弟たちの遊び道具の他にペーパーバックを何冊か突っ込んである。今日くらいはあたしも自分の楽しみのためにのんびりしてもいいだろう。


 お目当ての公園に着いたあたしは弟たちにボールとフリスビーをそれぞれ渡すと、芝生の広場の木陰になっているところにレジャーシートを広げ座り込んだ。


 バッグからペーパーバックを取り出しページを捲る。風が吹く度にちらちらと活字の上で踊る木漏れ陽が心地良かった。とすると、アカデミーから帰ってきて今までずっと居心地が悪かったのだろうか。あたしはふとそんなことを思った。


 居心地が悪いのは、居場所がなくて居た堪れないからだ。

 だからあたしは大丈夫。ジョンとケビンのお姉ちゃんという居場所がある。

 フリスビーを投げ合う弟たちが遠くて、あたしは目を細めた。


 でも、それってあたしがあたしでいるだけではダメってことだ。ちゃんとお姉ちゃんをやらなければ居た堪れない。居られない。それが、ひどく窮屈なんだ。


 結局考え事ばかりしてしまったあたしは、持ってきたペーパーバックを一冊も読み終えることができなかった。




 夕暮れ時、遊び疲れた弟たちの手を引っ張りながら帰ると、家の窓から暖かそうな明かりが通りに落ちていた。家庭の温もりだ、と思う。


 ジョンとケビンはたちまち元気になると騒々しく家の扉を開けて入っていく。あたしも束の間躊躇ってその後に続いた。


 未だに躊躇してしまう。この家庭の温もりは本当にあたしのものなんだろうか、って。

 今日はあたしの誕生日だというのに。


 ちゃんと手を洗ってねー、というエレナの言葉に弟たちはドタドタとリビングから走り出ていった。


 それと入れ違いであたしがリビングに入ると、エレナの満面の笑みが飛び込んでくる。


「おかえり、ラシェーラ。誕生日おめでとう! びっくりした?」


 両腕を広げ、テーブルの上にこれでもか、と並べられた料理を示すエレナ。


「あ、うん。すごい、びっくりした。ありがと」


 笑って答えながらも、あたしはちゃんと笑えているのか不安になった。


 テーブルの真ん中、そこにはいつものお店のケーキが座っていて。

 それは、「びっくり」じゃなくて、「やっぱり」でしかなかった。


『私の家では、お祝いごとにはアップルパイを焼くの』


 記憶の中のエレナの声が、頭の中でひどく冷たく響いた。


 おかしい。目の前にはこんなに温かな光景が広がっているのに。


 アップルパイなんて、別に特別好きなわけじゃない。それなのに。


 それがないだけで、あたしはこんなにも寂しくて空っぽな気分になってる。


 あたしの誕生日は、エレナの家のお祝いごとじゃないんだ。家族じゃ、ないんだ。


 だから、アップルパイは焼かれない。


 本当はわかってたのに。それでも期待したんだ。

 今年こそ、って。


「――ラシェーラ? どうしたの? 具合でも悪いの?」


 心配そうなエレナの声が聞こえる。答えようとして、喉の奥から嗚咽がこみ上げてきそうでやめた。ダメだ。


 ふるふると首を振ると、あたしは急いで洗面台に向かった。


 蛇口を捻って勢い良く水を出すと、もう溺れ死ぬんじゃないかってくらい顔を洗う。


 全部、流れてしまえばいい。

 無性に湧いてくる涙も、諦めの悪い期待も、頭の中のアップルパイも、全部。


 息が苦しくなっても、じゃぶじゃぶと水を流し続けた。

 そうやって執拗に洗い続けた顔が痛くなってきた頃、ようやく水道を止める。


 顔を上げると、打ち上げられた溺死体みたいなひどい表情が鏡の中からあたしを見ていた。

 こんなことをしても何も変わらなかったけれど、少なくとも涙だけはどこかに流れていってくれた。


 リビングからエレナの呼ぶ声がして、あたしはびしょびしょの顔のまま口角を指で持ち上げる。


 大丈夫。あたしは、大丈夫だから。


 リビングに戻ると、エレナは眉間に心配そうな色を浮かべていた。


「ラシェーラ、大丈夫?」

「うん。ちょっと疲れただけ。お腹空いちゃった」


 言えるわけがなかった。


 どうしてあたしの誕生日にはアップルパイを焼かないの? 愛してくれるんじゃ、なかったの?


 口に出してしまえばひどく幼稚でバカみたいな気がして。わがままで身勝手な醜いあたしの願望なんて、言えるわけがない。


 だから、あたしは無理矢理お姉ちゃんの顔で笑った。


 そうやって今日も家族の振りをするんだ。


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