二話 落ちこぼれリジー(5)○
翌朝、早くにリジーは目を覚ますと、両親を起こさぬようにそっと家を出た。
朝靄でしっとりとした空気の中をリジーは川縁へと駆けていく。
途中から、どこか違和感があった。昨日までとは違う音が聞こえていたのだ。その違和感の正体に、リジーは息を呑んだ。
「川が……元に戻ってる」
川縁に立つリジーの目の前には、昨日までの凪いだ水面ではなく、かつての水量を取り戻した清澄な流れがあった。水源から、水が流れるようになったのだ。
これで、村が凶作に悩まされることはなくなる。
「次はあなたの番よ」
呆然と立ち尽くすリジーの耳に、力強い声が響く。リジーは慌てて辺りを見回したが、昨日の女性の姿はどこにもなかった。
けれど、確かに約束を守ってくれた。リジーの涙の原因を、除いてくれた。
だったら、次はわたしの番。
リジーは村に駆け戻って、みんなに報せて回った。
最初は半信半疑だった人たちも、川の流れを目にして驚き、そして喜んだ。しかし、
「……凶作の心配はなくなったが、今からじゃあ、お祭りはできんなぁ」
ぼそり、と誰かが呟いた言葉に、みんなが表情を曇らせる。
例年一ヶ月前から準備に取り掛かるお祭りで、開催までもう数日しか残っていなかったのだ。諦めの空気が漂い、みんなが俯くなか、ただ一人リジーはキッと顔を上げた。
わたしが、みんなの心の涙を拭うんだ。
「――っ、お祭り、やろうよ!」
リジーは笑顔で、そう言い放った。
「でもなぁ、リジー、今からじゃ間に合わないだろ……」
「そうだな、無理だ……」
みんなが否定の言葉を口にした。けれど、リジーはなおも言い募った。
「たしかに出し物や出店は無理かもしれない。でも、それなら、村中を飾り付けて、ご馳走を用意して、当日にはみんなで踊ればいいんだよ! それだって立派なお祭りじゃない?」
真剣なリジーの眼差しに、徐々にみんなの心は動き出した。
「まぁ、それくらいならなんとかなるかもな……」
「そうね。それじゃあ張り切ってご馳走を用意しなくちゃ!」
いつのまにか、みんなはお祭りの準備に向けて、口々に話し出す。
もう誰も、暗い顔などしていない。
リジーは、きょとんとしてそれを眺めた。
「おーい、リジー! 何ボーッとしてる? お前が言い出しっぺなんだから、子どもでもしっかり働いてもらうぞ!」
「――、うんっ!」
そしてリジーもまた、笑顔で頷いていた。
*
その三日後、お祭りは盛大に行われた。村の人々は準備で大忙しだったけれど、みんな楽しそうに笑っていた。その光景を見て、リジーも嬉しさで胸が膨らんだ。出店も、華やかな出し物もないけれど、リジーは今日のお祭りが今までで一番だと思った。
お祭りは夜遅くまで続いた。この日ばかりは少しの夜更かしを許されていたリジーは、野菜や果物のランタンに照らされて村の通りを歩く。
「お、今回の立役者、リジーじゃないか。鹿肉のロースト食うか?」
「リジー、このレースの飾りをつけて踊ったら、きっととても綺麗よ」
行く先々で笑顔で迎えてくれる人たちに、リジーはなんだかくすぐったくなって、ずっと笑っていた。
笑って、食べて、踊って、とうとうくたびれたリジーは、お祭りの中心から少し離れたところで、みんなの様子を眺めていた。すると。
ぽぅ、と光の球が誘うようにリジーの目の前を流れていった。
その小さな光が闇に溶けて見えなくなる前に、とリジーは急いで駆け出す。
追いかけていった先は、あの赤毛の女性とリジーが出会った川縁だった。
そこにはあの女性がいた。無数の光の球体に照らされて幻想的に夜の闇から浮かび上がるその姿に、リジーは目が離せなくなった。
彼女は、リジーの姿に気づくと密やかに笑った。
「約束、守ってくれたのね。小さな泣き虫さん」
その言葉でリジーははっと我に返った。
「わたしっ、あの、あなたにありがとうって言いたくて、その」
言いたいことがまとまらないまま口ごもるリジーを、女性は優しく手招きした。誘われるまま、リジーはその隣に腰を下ろす。
「お礼を言われるようなことなんてしてないわ。みんなの涙を拭ったのはあなただもの。私はただ、その手助けをちょびっとしただけ」
赤毛の女性は悪戯っぽく片目を瞑る。
それでもリジーは、この人のおかげだ、と思った。
「でも、あなたが川を元に戻してくれたんでしょ? あなたがいなかったらわたしっ、何もできなかった。今だって、きっと泣いたままだった」
だから、お礼を言わせて。
幼い瞳に真剣な色を浮かべるリジーに、彼女は優しげに目を細めた。
「わかったわ。でも、私がしたくてやったことだから、そのお礼は受け取れない。その代わり、私のお願いを聞いてくれる?」
「うんっ、聞く。なんでも聞く」
「うはは、言う前から聞いちゃダメでしょ。……ま、いいや。私のお願いはね、これからあなたが、誰かが泣いているのを見つけた時、その涙を拭ってあげてほしいってこと」
私が、あなたにしたように。
その女性の言葉に、リジーはためらうことなく頷いた。
「ふふ、ありがと」
その瞳に確かな光が宿るのを見た女性はゆっくりと夜露を払い立ち上がる。
「じゃあ、私はそろそろ旅を続けるとするよ。元気でね、小さな泣き虫さん――いや、この呼び方はもう似合わないわね。あなた、名前は?」
「リジー。お姉さんは?」
女性は少し考えるように顎に指を添え、そして、茶目っ気たっぷりに笑った。
「リジー、図太そうないい名前ね。私は、流離いの魔法師」
「さすらい、って?」
「旅をしてる、ってこと」
「どうして旅をしているの?」
リジーの問いかけに、彼女ははっとするほど美しくて、そしてどこか哀しげな色をその瞳に浮かべた。リジーの脳裏に昨夜の彼女の言葉が木霊する。
『大人は子どもに気づかれないように、心で泣いているものよ』
その、儚げでとても尊いもののような笑顔を、無数の光に仄かに反射する彼女の赤毛の輝きを、リジーは忘れられないと思った。
夜の底で光を放つ彼女の、その言葉を。
「探しているの。どんなに悲しい涙も拭えるような、そんな魔法を」




