一話 涙を拭うための魔法(1)☆
アカデミーの教室は、どこも明るくて居心地が悪い。
広いアーチ窓から射し込む陽の光から逃れる場所がないから、きっとここはわたしみたいな子が自生するのに適さないんだ。陽性の子が育つ環境に紛れ込んだわたしは、その明るさに目が眩んで、自分の居場所さえも見つけられずにいる。
「カナ、次あんたの番だけど」
ぶっきらぼうなラシェーラの声に、わたしはびくっとした。
「何ビビってんのさ」
じろり、と睨まれると、わたしはじわじわと顔が火照るのを感じた。うぅん、なんでも、と言おうとして口を開いても、それはぼそぼそとした不明瞭な響きにしかならなくて。余計にラシェーラの顔が険しくなったのを見て、わたしは口をつぐんだ。
気を取り直して、机の上のフラスコに顔を向ける。今日の魔法学概説の課題は、このフラスコに入った水を沸騰させること。簡単な魔法式を構築して詠唱すればいいだけの、誰にでもできるような課題だ。
わたしは手元の羊皮紙に書きつけた魔法式をたどたどしく読み上げる。緊張して上ずった声は、まるでわたしの意志に従う気などないように震えたり、裏返ったりする。
そんなわたしを面白がるかのように、周囲からくすくすと笑いが漏れる。みんなの視線に炙られて、わたしは顔中がどんどん熱くなった。周囲の視線と嘲笑に怯えたネズミのように縮こまった心臓は、そのくせどくどくとうるさく泣いて息苦しい。
息苦しさと恥ずかしさで小さく喘いだその時、わたしは魔法式の一節を間違えて唱えてしまった。
途端、鋭い音がしてフラスコが弾けた。たっぷりと入っていた水が、一番近くにいたわたしとラシェーラの制服をべっしょりと濡らす。
くすくす笑いが、密やかにその密度を増してわたしの体にまとわりつくような、そんな感覚になる。脳みそまで水に浸ってふやけてしまったみたいに、ぼんやりと立ち竦んだ。
「まあまあまあ、ミス・スキレット! またあなたなの? 魔法式を唱える時は慎重に、って言っているでしょう」
ふやけた脳につんざくような先生の声が響く。名指しでわたしを非難するその声に、みんなはお許しが出た、とばかりに口々に喚き立てた。
「こんな簡単なの間違えるとか、ありえなくない?」
「あーあ、ラシェーラびしょびしょじゃん」
「ていうか、こっちまで濡れてんだけどー」
あちこちでフラスコみたいに弾けるみんなの声、声、声。小さくて鋭利なその破片たちが突き刺さるたび、眼球が熱くなって涙が零れそうだった。俯いて必死に堪える。
だって、みんなは間違ってない。悪いのはわたしだ。誰にでもできるはずのことができないわたし。それでいつも周りの人に迷惑をかけている、どうしようもないわたし。
今だってボーッと突っ立っているわたしの代わりにラシェーラが割れたフラスコを片付けようとしていて、それに気づいたわたしは、ご……とか、め……とか、意味を持たない呻き声を上げることしかできない。謝りたいのに、『ごめん』の一言すらまともに言えない自分が本当に情けなかった。
「触んないで。あんた、危なっかしいから」
せめて手伝おうと、割れたフラスコに伸ばした手をラシェーラに軽く払われる。行き先をなくした手はふらふらと彷徨った挙句、ぱたり、と力なく垂れた。その腕をかき抱くように、わたしは痛いほど強く握る。
そう、これは痛みのせい。どうしようもなく滲んでくる視界に映る床を眺めて、わたしはそう思い込もうとした。でも、腕の痛みだけじゃ足りなくて、わたしは唇を噛みしめる。すると、び、と下唇が小さく裂けて舌の上に血の味が広がった。
うん、痛い。すごく、痛い。だから涙が出るのは、きっとそのせいだ。何もできなくて、人に迷惑をかけて、その尻拭いすらできない自分に泣いているわけじゃない。だって、わたしはそういう人間なんだから。泣いたって何も変わらない。
だから、涙、止まってよ。
想いとは裏腹に、堪えきれなくなった涙が一粒、零れ落ちた。
どんなにごまかしたって、わかってた。
一番痛いのは、この小さくて薄っぺらな胸の奥の、弱っちいわたしの心だ。
*
わたしはアカデミーの端っこの方にある厩舎の陰にハンカチを敷いて座り込んだ。
ここは薄暗くて落ち着く。それに、お世辞にもいい匂いとは言えない厩舎に近づく人はそういないし、ここでならわたしは遠慮なく涙を流すことができたから。
教室で同級生と一緒にいるよりも、臭い厩舎の側が落ち着くなんて、わたしはきっと向いていないんだろう。魔法師になるのにも、そもそもこのアカデミーでやっていくことにも。
わたしは、傍らでひっそりと伸びる陰生植物に親近感を覚えた。
わたしはこの地味な草と花の中間みたいなのと同じ。日向では生きられない。
このメザウィッヂ魔法アカデミーに入ってまだ一ヶ月、けれどもう一ヶ月だ。それは、わたしが自分のことを落ちこぼれだと自覚するには十分過ぎる時間だった。
友達もいない、授業にもろくについていけない、ぼっちで落ちこぼれのカナ・スキレット。それがわたしだ。
「あれっ、こんなとこに誰かいるなんて珍しいっ」
惨めな自分を再確認していたわたしは、突然頭上から降り注いだ騒々しい声に慌てて掌で目の辺りをごしごしと擦った。
見上げると、濃いメープル色の髪が二房、視界の中で揺れた。
厩舎の中から窓の外に乗り出した少女と目が合う。
綺麗な翡翠のような瞳だ、と思った。
「泣いてたの?」
その澄んだ瞳に見つめられて、わたしは何も言えなかった。そんな質問をされて「はい、そうです」なんて答えるくらいなら、そもそもこんな陽も当たらないアカデミーの片隅で泣いたりしない。けれど、そのくらい察してよ、と口に出せるわけもなく、わたしは黙ったまま膝の間に顔を埋めた。
「わたしはねー、今日もちょっと失敗しちゃって。罰として厩舎の掃除をやらされてるの」
放っといて、という意思表示が伝わらなかったのか、翡翠の瞳を持つ少女は嬉々として語りだしてしまった。うわぁ、反応した方がいいのかな、これ……。
「ねぇ、あなたはどうして泣いてたの?」
ど直球で尋ねてくる少女に、わたしは観念した。無視し続けるのは臆病なわたしには到底無理だし、彼女のちょっとした失敗、というのも少し気になったのだ。自分以外にも失敗する人がいることに、少しだけ安堵したのかもしれない。
「……わたしも、その、失敗しちゃって」
そう言うわたしの声は小さく、しかも泣いていたせいで若干掠れていた。恥ずかしさでまた俯いてしまう。
わたしは自分の声が嫌いだ。わたしがしゃべるとみんな、ん? という顔をするから。あの子の声って小さくて、ぼそぼそしてて聞こえないよねー、とクラスの女子たちが言っているのを聞いた時にも、やっぱりわたしはこの場所で泣いていた。
好きでこんな声やしゃべり方をしているわけじゃない。わたしだって、できるなら他の子たちのように明るくはきはきとしゃべれたら、って思っている。でも、無理なんだよ。
「そっか。じゃあ、わたしたち仲間だねっ」
恐る恐る上を見ると、嬉しそうな笑顔がわたしに向けられていた。
こんな近くで誰かの笑顔を見たのなんて、いつ振りだろう。
わたしは驚いてしまって、でもそれと同時になんだかおかしくもなった。だって、失敗した仲間を見つけて喜ぶなんて。それって、なんて言うんだっけ――傷の舐め合い? みたいな、とりあえず喜ぶようなことじゃないなぁ、って思って、わたしは少しだけ笑ってしまった。
「あ、笑った。よっし」
変な少女はなんかガッツポーズとかしてて、またおかしくて笑ってしまう。
「笑ってる方が可愛いよ」
満面の笑みでそんなことを言われて、恥ずかしさのあまりわたしは俯いた。可愛い、なんて言葉を真に受ける気はない。人前で声を出して笑うなんて、普段のわたしからは考えられないことが自然とできてしまったことがなんだか恥ずかしくて、でもちょっとだけ嬉しかったのだ。
「あなたの笑い声、小さくて綺麗な鈴が転がっているみたいで、わたしは好きだよ」
ふいに、どきりとした。
わたしは自分の声やしゃべり方が嫌いなのに。
それを彼女は、邪気のない笑顔で好きだなんて言うから。
「全然、そんなこと、ない……です」
そう言うわたしの声はやっぱりぼそぼそと聞き取りづらかった。
「そんなことなくないよっ。わたしなんかいつも笑い方がガサツだー、とかうるせー、とか言われるんだよ? ひどくない?」
あっははー、と笑う彼女は、確かにうるさくてガサツそうだった。
けれど、わたしにはそっちの方が羨ましく思えた。
だって彼女は日向で生きていけるタイプの人に見えたから。
「……さっき、ちょっと失敗した、って……?」
そんな明るい彼女がこんな陰性な自分と仲間だなんて、そんなことあるはずないって思ったけれど、聞かずにはいられなかった。
「あー、うん。実は、授業中に間違えて先生の帽子を爆破しちゃってボヤ騒ぎになりまして……」
少女はてっへへ、と頭をかいた。
それ、ちょっとした失敗というか割と大惨事じゃ……? 少なくともわたしがそんな失敗をしたら、いたたまれなくてアカデミーを辞めるレベルだと思う。
「なんとか収まったと思ったら、今度爆発したのは先生のお怒りだったのです」
そんな小噺みたいに言われても。
「ほら、ここ先生の鉄拳制裁をくらったところー。こぶになってるでしょー」
わたしは若干呆れた気持ちで、楽しそうに話す少女を見遣る。目が合うと、にへら、と笑いかけてきた。ただ図太いだけなのかもしれないけれど、なんだかいいなぁ、とも思ってしまう。
この人は自分の失敗もそうやって笑い話にできるんだ。
わたしには、できないなぁ。
わたしにはこうやって一人で塞ぎ込むことしか、できない。
「ねぇ、あなたは」
少女が口を開いて、わたしは身構えた。自分から彼女の失敗談を聞いておきながら、わたし自身は自分の失敗をあまり言いたくはなかった。
恥ずかしい、と思ったのだ。わたしよりもすごい失敗をしている彼女が笑っているのに、こんなふうに泣いていた自分が。
でも、彼女が訊いてきたのは別のことだった。
「あなたはよくここにくるの?」
身構えていたわたしは拍子抜けする。
「……ちょっと、落ち込んだ時とかは、割と」
そう答えると彼女はにぱっ、と笑った。
「そっかー。じゃあわたしも、また何か失敗しちゃった時にはきてもいいかなぁ?」
「別に……いいですけど」
でも、なんで? わたしなんかと話してても楽しいなんて思えないのに。
「やった。今日は話、聞いてくれてありがとねっ。えーっと……」
「あ、あの……、カナ、です……カナ・スキレット」
「カナ、いい名前だね。わたしはリジー、リジー・ホールワース。二年生だよ」
そう言って彼女――リジーは、厩舎の窓からぐぐー、と身を乗り出して片手を差し出した。ためらいがちにその手を握ると、柔らかい温もりが伝わってくる。
「あ、二年生ってことは先輩……ですね」
「ということは、カナは一年生かぁ。後輩だねぇ」
ほにゃり、と溶けるような笑みを頬に浮かべるリジー先輩。
よく笑う人だ。
それがわたしの、彼女に抱いた印象だった。