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彼女と私

彼女と飛行と潜水と

作者: 高見 和香

 朝早くに目が覚めた。奇妙な感覚が続いているのは、さっきまで見ていた夢のせいだろう。

 夢の中で、私は空を飛んでいた。

 その夢はいつも同じで、何かに追いかけられるところから始まる。必死で逃げようとするのに、走っても走っても前に進めない。いよいよ追い付かれそうになると空を飛ぶのだ。

 飛ぶと言っても鳥のように自由に飛べるわけではない。地面から二十センチほど上に浮かび、その高さを保ったままバンザイの姿勢で進む。スピードが落ちてくると、手を胸のあたりにグイと引き寄せ、再びバンザイのポーズをとる。そうするとまた前に進める。

 壁が目の前に迫ってくることもある。そうすると今度は上に向かって飛ぶ。壁からはやはり二十センチの距離を保ったままだ。


 ずっと不思議だった。人は空を飛ぶことができない。未経験のことを自分の感覚として夢で体験することは、可能なのだろうかと。

 子供を連れてプールに行った時にわかったのだが、その感覚はプールの底を潜水する時に似ている。私自身、泳ぐことが子供の頃から好きで、両親に頼んでスイミングスクールに通わせてもらっていた。その日のレッスンが早く終わると、自由に泳いでいい時間をもらえることがあった。そういう時間に、私は必ず潜水をした。

 プールの端で体を丸く沈め、壁を思い切り蹴る。そしてプールの底を這うように進む。普通に泳ぐ時よりも楽に泳げる。

 プールの底に届く音は全てがぼやけて聞こえる。大きな音も、人の声も混ざり合って塊になる。私はその音の塊を聞くのも、とても好きだった。

 夢の中でもその音を聞いていた。いつの間にか追われていることを忘れ、飛行を続けながら何かを掴もうとしていた。誰かが私の目の前にいて、私はその人に向かって話しかけようとしているのに、声が出ない。

 私の気配に気付いたその人物が振り向いた。

 それは彼女だった。


 彼女も何か言っているように思うが、風のようなゴウゴウと鳴る音にかき消されて、聞こえなかった。

 去ろうとする彼女の背中に向かって「待って」と、ようやく言えたとたんに目が覚めてしまった。ゴウゴウと鳴る音の正体は、鼻づまりの息子のいつもより大きな寝息と、夫の低い鼾の音だった。

 髪の生え際が濡れていた。どうやら夢を見ながら泣いていたらしい。

 あんなに大好きだった彼女に会わなくなって、もう十年になる。私が結婚したことで生活のサイクルが変わり、彼女もまた仕事を変え、忙しくなり会わなくなってしまった。

 でも、それだけではない。避けられていることに気付かない程、私は鈍感ではない。だがその理由を聞き出すのは怖くて、気付かない振りをしていた。


 夕べ寝る前に、六歳になったばかりの息子が、仲良しの友達のことを話してくれた。彼女の夢を見たのは、それがきっかけになったのだろう。

 息子と友達の二人だけの暗号の話や、友達が集めている綺麗な石のこと。毎日、楽しそうに過ごす息子がキラキラと眩しく感じた。

「お母さんは、シンユウおる?」

 息子が私にそう聞いた。昔はそういう人いたんだけどね、とは答えず

「お母さんの親友は、お父さん」と言った。

「えー、何それぇ。シンユウがお父さんって、おかしいやん」

「おかしい?お父さんとお母さんが結婚する前、恋人同志やったって知ってるやろ?恋人になる前は、親友やってんで。大の仲良しやってん」

 幼い息子はちょっと納得いかないような顔をしていたが

「まーくんと、小学校に入ってもずーっと仲良しでおれたらええね」

 そう言うと、安心したのかそのまま眠りについた。

 それは本当に祈るような気持ちだった。息子が親友を失いませんように。

 

 ふわふわと体が浮かぶような感覚の中で、ぼんやり天井を眺めていた。私の隣で鼻をつまらせた息子の寝息が苦しそうになったので、体の向きを変えてやった。少しましになったようだ。

 反対側で低い鼾をかいていた夫が、目を覚ました。

「ん?どうした?」

「鼻がつまって苦しそうやったから、横向きにしてやったわ」

「そうか。あれ?・・・泣いた?」

 涙は拭ったつもりだったが、夫はそれを見逃さなかった。

「あ、うん。何でもないねん。変な夢見たから・・・」

「どんな夢?」

 私は本当のことを言おうかどうか、一瞬迷った。

「・・・浮気する夢」

「浮気?僕が?」

「うん。ひどい目におうたわ」

 夫が私を抱き寄せて、頭を撫でてくれた。

「まだ早いから、もう一回眠ったら?今度はいい夢を見れるよ」

「うん。寝てみる」


 夫の腋の下にゴソゴソと潜り込んで、顔を埋めてみた。微かに香る夫の体臭が、私の鼻腔をくすぐる。私の落ち着ける場所だ。

 少し眠って朝が来たら、彼女の夢を見たことを忘れているに違いない。それどころか、彼女のことや、彼女と過ごした日々のことさえ思い出さなくなるかもしれない。

 日々の忙しさに紛れ、記憶の底に深く沈んでいくことだろう。

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