忘却の運命ー4月6日
鬼桜の花弁が舞い散る景色の中で私は彼女に出会った。濃く、儚く、希望と絶望が入り混じった鬼桜の花びらよりも、悲哀に満ち、感傷に入り浸った一輪の不思議な花に私は一瞬で心奪われた。
4月6日、入学式当日。
ケータイのアラームではなく、小鳥のさえずりで目を覚ました私。アラームが鳴る5分前の午前6時25分。
2週間前は引越しの荷物で溢れかえっていた部屋も今ではすっかり片付き、女の子らしさを微塵も感じさせないいたってシンプルな部屋が出来上がっていた。窓際に置かれたシングルベッド。部屋の中心には小さな丸テーブル。壁際にはホワイトカラー調の勉強机があり、机上にはノートパソコンとスタンドライト、メモ帳にペン立てがきっちり整理整頓されて置かれている。その机の隣にはファンタジー小説や映画のパンフレット、少年・少女漫画がびっしり収納されたカラーボックスが2つ縦に積まれて置かれている。実はこのカラーボックス、教科書を収納するために中学時代に買ってもらったのだが、テスト期間以外は学校に教科書を置いて帰るため、教科書がここに収納されることは全くと言っていいほどなかったため、教科書の代わりを務めたのがあれだ。肝心のこれから使う高校の教科書は、今はまだクローゼットの中で眠っている。
私はベッドから起き上がると、いつものようにカーテンと窓を開け、部屋のこもった空気を入れ替えると同時に、朝の新鮮な空気を深く吸い込み伸びをした。
そもそも女の子らしさとは何だろう。なんて考えながらベッドから降り、スリッパを履き、制服へ着替えを済ませ、入学式に必要な持ち物を高校指定の通学カバンに詰め込み終えると、私はそれを持って部屋の扉へと近づいた。扉には、ハリウッド女優「エマ・グレース」が12歳の時に映画「ジュエリー・ジェリー」で演じた暗殺少女「クリオネ」のポスターが貼ってある。彼女に「いってきます」と心の中で挨拶をしてから、ドアノブに手をかけ扉を開き、一階へと降りていった。階段の下段近くになるとリビングからテレビの音が流れ聞こえてくる。リビングへは行かず、そのまま洗面台へと向かう。洗面台で顔を洗い、歯磨きを済ませ、寝癖を直し、髪型を整え、学校へ行くための身支度を済ませる。後は時間がくるまでリビングでテレビを見ながら朝食を食べて過ごす。
リビングに行くとダイニングテーブルの上にはハムエッグとトースト、ティーカップが用意されてあった。席に着く前に、キッチンに立つ母に「おはよう。」と声をかけた。母から「おはよう。珍しいわね。美琴が一人で起きてくるなんて。」と嫌味混じりの挨拶が返ってくる。私は「今日から高校生だからね。」と前までの私とは違うんだと言わんばかりの口調で母に言葉を返し、椅子に腰かけた。用意されてあるティーポットを手に取り、カップへと注ぎ、その上にレモン果汁を数滴落とし、シロップを入れ、レモンティーを完成させた。こんがりと焼けたトーストにバターを塗り、その上にハムエッグを乗せ、お決まりの朝の情報番組をぼーっと見ながらそれを頬張る。今はお笑い芸人が様々な町を散策しながら、地元民と触れ合い、地元名物やご当地料理を紹介、最後は温泉に入り1日の感想と反省をするといった町散策のコーナーが流れている。
「あの小さかった美琴が今日から高校なんてねぇ。」
私に話しかけているのかな?まるで独りでボヤくように母は言った。感傷に浸るような表情の母。
「それ、中学の時も言ってたよね。」
ハムエッグトーストを頬張りながら、母に返す。
「あら?そうだっけ?」
間が抜けているというか、なんというか。私はハムエッグトーストを完食する。
「[光陰矢の如し]というか、[歳月人を待たず]というか…、」
母は何かを言おうとして止めた。そして、
「美琴。」
改めて私を呼ぶ母。
「なに?」
レモンティーを飲みながら返事をする私。
「せっかくだから写真、撮る?」
母は肩からぶら下げていた一眼レフのカメラを手に取り満面の笑みで私に聞いた。
「…撮る気満々じゃん。」
断る余地すらなく、玄関の前まで連れ出され、高校入学記念写真を撮った。確か、中学の入学式の時も同じような流れで写真を撮ったような気がする。
私は写真を撮り終えた後、登校するにはまだ早いがそのまま学校へと向かった。
「いってらっしゃい!最初が肝心だからねぇー!愛想よくするのよー!」
「うるさいッ!…ったく、いってきます。」
嫌味混じりの見送りの言葉。けど、図星だから仕方がない。まったく嫌な母親だ。そんなことを思いながら家を後にする。振り返ると、母が笑顔で手を振ってくれた。まだ見送ってくれていた母に私も笑顔で手を振り応えた。
心地よい快晴の下、住宅街を歩いていく。外の空気は清々しく、澄んだ風が小さな紅色の花弁を舞い散らせている。北へ道を抜けていくと、春だというのに紅一色に染まった町外れの山が見えてくる。そして、住宅街を抜け切ると…、「鬼門並木」と呼ばれる紅色の花を満開に咲かせた桜の並木道が姿を現わす。紅色に咲いた桜の花が優しく穏やかな春の風に吹かれ、幾千の散りゆく花弁となり、私の視界を赤く染める。その幻想的な風景を目の前に私は立ち止まった。
引っ越してきてから今日までの二週間という時間があったにもかかわらず、私がここへ来たのは初めてだった。ここだけはどうしても来ることができなかった。というよりも行くことを許されなかった。
許されなかった…。
誰に?
わからない…。
なぜ?
何も覚えていないから。
ただ…。
ただ?
ここに来れば何かわかる気がしてた。
だけど、それは許されなかった。
…。
じゃなぜ今日はここへ来れたの?
誰かに呼ばれた…。
誰か…ってさっきとは違う知らない人?
うん。違う人。でも…。
でも?
その人は知ってる。知らないけど知ってる。ずっと前から…。
気がつくと私はいつ間にか並木道のちょうど中間地点辺りまで歩み来ていた。まるでどこか不思議な世界に迷い込んでしまったかのようなそんな感覚になった。辺り一面に赤い花弁が降り注ぐ中を見渡す。すると山の奥へと続く階段を見つけた。私は階段の方へと無意識に近づく。そして、階段をゆっくり見上げた私の視線の先に、彼女はいた。
彼女との出会いが、一体何を意味するのかなんて、この時の私はまだ知る由もなかった。