第一話『may i help you?』
第一話
『May i help you? No thank you!』
夢を見ていた気がする。
カーテンの隙間から差し込む日の光をまぶたの裏に感じながら、軽く伸びをして思い出そうとする。
「まおー、朝よー」
下からお母さんの声が聞こえて、冬休みが終わった事を思い出した。
「んー起きてるー」
鏡に向かい、歯ブラシをくわえたあたりで、ようやく頭がクリアになってきた。
「何あんた、またごはん食べないの」
いちいちうるさい。
「朝は無理ー。大学で食べるから」
「大学生になってから益々だらしなくなったわね」
「へいへい」
ねえ、とテーブルでトーストをかじる弟に同意を求める。
二つ下の弟は高校野球部のキャプテンで、体育祭の応援団長で、生徒会長で、春から私の通う大学に入学することになっている。推薦で。
私なんか一般入試でギリギリだったのに。
なんかもう出来が良すぎて嫌になる。
私とは正反対。
昔は小さくて、お姉ちゃんお姉ちゃんと言ってどこでもついてきて可愛かったが、近頃は身体もでかくなり、高校でファンクラブが出来たりして調子にのってやがる。
だいたい、なんで私と同じ大学受けんだか。嫌がらせか。
この弟と私の間に、もう一人妹がいる。
昨日から友達の家にお泊まりに行っているため今朝はいないのだが、そっちも憎たらしいことこの上ない。
肉親の私が言うのもなんだが、可愛い。モテる。ああ忌々しい。
友達の家ってのも、どこまで本当なんだか。男の家じゃないのか。
しかもこいつも同じ大学の一年生だ。
私は家族から離れられない呪いにでもかかっているのか。
まぁ大学で出くわすことはほとんどないのだけど。
「そんなんだから彼氏もできねんだろ」
まったく失礼極まりない弟に、チョップを食らわした。
「あんたはうるさいっ」
「いってぇ。まじ女の力じゃねぇって」
「高校の時はいたわよ。一応。
あんただってチェリーでしょうが」
「ほっとけ。選び放題で逆に困ってるんだよ、俺は」
「あ、お母さん。私今日遅くなるからね。ごはんいらないから」
「聞いてねぇし」
「行ってきまーす」
あと少しの辛抱だ。
電車の中で、春に会った。大学の同期だ。
「えー、初詣行ってないのー?なんで」
「あーまぁなんとなく。面倒臭くて」
「なんか真央ってだらしないよねぇ」
今日二度目の台詞だ。
午前中の短時間に違う人物から同じ事を言われるということは、私はどうやらやはりだらしないらしい。
まあ確かに。と納得してしまう私も私だ。
「そんなんじゃ永田っちに好かれないよー」
「だから違うって言ってるじゃない」
永田は、大学の同じゼミの男で、春はことある毎に私たちをいじってくる。
ゼミが同じだから一緒にいる事が多いだけだってのに。
「またまたぁ。真央の顔見てればわかるよぅ。何年付き合ってると思うの」
「五年でしょ。いやホントに違うから。永田とは…」
もう、やめとこう。
きっと何を言っても無駄だろうから。
「しっかし、よく一人暮らしOK貰えたね」
「ここが違うのよ、ここがっ」
と、大袈裟に自分の腕を叩いて見せた。
そう。私は春から、大学の近くのアパートで一人暮らしをするのだ。
親には、まず大学までの定期代とアパートの家賃の対比、それから通学にかかる往復時間のロスタイムでもっとバイトも勉強も出来るようになる事などを並べ立て、丸め込んだのだ。
親からの仕送りと、時間を増やしたバイト代で充分な暮らしが見込めている。
何より、あの小うるさい家族から解放されるのだ。
鬱陶しいこの生活も、あと三ヶ月の辛抱だ。
午前十時半。
見慣れた大学のキャンパスが、何故だろう、春からのエンジョイライフの事を考えただけでキラキラと輝き、まったく違う景色に見えてきた。
「さ、いきますか!真央、これ心理学のレジュメね」
「サンクス!春」
と、私は当てにしていた試験範囲の資料を受けとる。
うちの大学は少し変わっていて、十二月後半に一度冬休みに入ってから、一月の後半から三週間ほどの試験期間がある。
そして試験の終わった者から、順次春休みとなるわけだ。
こうしてよくよく考えてみると、大学には一年の内、半年しか行っていないことになる。
四月頭から七月半ばまでの三ヶ月と、夏休み明けの九月後半から十二月後半までの三ヶ月だ。
大学の学費って、ほんとバカにならないなと思いつつも、嗚呼、大学生最高!と両手を広げずにはいられないのだった。
で、三週間後。
無事(疑)、試験も終わりを迎え、私は春休みに入った。
来月から、私のニューライフが始まると思うと、居ても立ってもいられない。
三月にアパートに入居の予定だ。
それから大学が始まるまでの約一ヶ月間はどうやって過ごそうか。などと考えていると、ワクワクしてくる。
春や他の友達も誘って、ホームパーティをしよう。
そうそう、家具家電を揃えるのも、なにげに楽しみだ。
むしろ、それが一番楽しみかもしれない。初めての、自分だけの家だ。
で、もう三月。
バイトもなく居間でゴロゴロしている所にやって来た父から、とんでもない朗報だ。
「お前の部屋な、お前が言ってたのと別の所にしたからな」
「え?なに、もう契約してきたの?私も行きたかったのに!」
悪い悪いと笑う父にイライラしてきた所だったが、次の言葉を聞いて綺麗さっぱり水に流した。
「違う所って何処よ。私あそこが気に入ったのに。なんで勝手に変えるの」
「まあまあ、もっといい所だから。実は昨日、お前達の大学の近くまで下見に行ってな。で、川沿いのマンションあるだろ。アブニールって所」
知っていた。
白塗りで、黒いくるんとした柵のお洒落なバルコニーがある、あそこのことなのか。
「え?あそこ?まじ?高いんじゃないの?なんで?」
本当に?あそこに住めるのか。
あんな良い所に。
「まあ、なんとかなるさ」
そう言って微笑む父の横顔は、以前より皺が増えたように見えた。
なんだか急に申し訳ない気持ちになってくる。
出来の悪い長女の我が儘を。
「私、やっぱりあのアパートでいいよ。別にボロってわけじゃないし。嬉しいけどさ、本当にあそこ、気に入ってるんだって」
「もう契約しちまったんだ。無理無理」
その夜、私は珍しく夕食にハンバーグを作った。
「真央が料理なんて珍しいわね。なんかあったの」
「別に。気まぐれシェフだから」
私は親孝行なんて、したことがなかった。
「うお。まじ?俺、姉ちゃんのハンバーグ、実は結構好きだぜ」
匂いを嗅ぎ付けたのか、弟が部屋から下りてきた。
「真央ちゃんどうしたのー?料理なんて。彼氏でも出来た?」
妹の憎たらしさも、今夜ばかりは愛せる気がする。
父は私が台所にいる間、ダイニングテーブルに着いて、テレビを眺めていた。
いつものビールを、まだ飲んでいなかった。
そしてとうとう、私の引っ越しの日が来た。
荷物は全て業者に頼んだので、私は僅かな私物の入ったバッグを抱えて、父の運転する車に揺られていた。
その間、大学の事やバイトの事をあれこれ聞かれ、それにぽつぽつと答える、という感じのやりとりが続いたが、絵に描いたような良い娘にはやはりなれなかったと思う。
あんなに離れたいと思っていた家族が、今は少しだけ恋しい。
車から降り、父と並んでマンションのエントランスに向かっている時、バッグに何かが当たった気がした。
上から?
「どうした」
「ん、鳥の糞かと思ったけど。
なんでもないみたい」
大きな雲が一つ、頭上に浮かんでいた。
雨粒が一粒だけ、落ちて来たのかもしれない。
黒い、くるんとしている柵のバルコニーから私が下を覗くと、父が見上げて手を振った。
私もそれに返す。
車に乗り込み、川沿いを走り去っていくのを見届けてから、荷物の置かれた部屋を見渡す。
がらんとした、寂しい部屋を。
なぜ寂しいなどと感じるのだろう。
六階建ての最上階。
3LDK。
一人暮らしには広すぎる。
なんでも、父の知り合いの親戚かなんかの建物らしく、仕事の付き合いもあって特別に少しだけ安くしてもらえたのだとか。
それにしても、贅沢過ぎるんじゃないか。
あんなアパートじゃ安心できん、と言っていた父の顔を思い出す。
ああ、そうか。
私は今やっと、寂しいんだ。
その夜、春を部屋に呼んでお酒を飲んだ。
次の日。
目覚めるともう昼だった。
携帯に、春からメールが来ていた。
「彼氏と約束があるから、帰るぜ。鍵はポストに入れといたぜ」
朝まで一緒に飲み明かした友人が起きたらいない、というのはなかなか寂しいものがある。
とりあえずおしっこ。
のそのそと起き上がってトイレのドアを開けると、知らない男が入っていた。
「うわ」
「ぎゃ」
ばたん!と勢いよく閉めたドアの向こうから声がする。
「ノックしろよ」
いる!
間違いなくいる!
だれ!
ドアを体全体で力いっぱい押しながら、考える。
どうしよう。
誰よあれ。
背中に、ドアを押してくる力は感じないかった。
部屋を見回す。
携帯は、どこだっけ。
テーブルだ。さっき見た。
は!
春がポストに鍵を入れたと言っていた。
まさかそれを使って侵入した?
しかしどうやってポストの中の鍵を。
春が閉め忘れた?
あぁもう。
なんで引っ越し初日にこんな…。
とにかく、警察。
いや、まず逃げよう。
でも体を離した瞬間にドアが開いて捕まるかも。
女の力じゃ、勝てない。
初めて、男の腕力に恐怖を感じた。
どうしよう。
どうしよう。
玄関まで走って、鍵を開けて、外に出る。イメージする。
うん、出来る!
きっと出来る!
「おい」
顔を上げると、目の前にさっきの男がいた。
「ぎゃーっ!」
首を掴まれ、口を塞がれた。
「おい、騒ぐな」
恐い。
恐い。
「ぐおっ」
思いっきり、股に膝蹴りを食らわした瞬間、男は目の前から消えた。煙のように。
私は呆然としてその場にへたりこんだ。
なんだったんだ、今のは。
白昼夢?
首を掴まれた感触が、まだ残っている。
またトイレに逃げ込んだ?
しかしトイレのドアは、私の背中で押さえられている。
やっぱり幻覚なのか。
玄関はここから見える。
開閉した気配はなかった。
それに、結構大きな音がするので、玄関から出て行ったなら音でわかったはずだ。
部屋のどこかに隠れたのかもしれない。
気が動転していて、私が見ていなかっただけで。
とにかく、外に出たい。
人のいる所へ。
私はなんとか抜けた腰を入れ直して、テーブルの上の携帯と、財布の入ったバッグを掴んで玄関に走った。
その一連の動きはボルトより速かったかもしれない。
たぶん三秒くらい。
着替えてなんかいられない。
その時、私の動きは止まった。
パンツが濡れている事に気がついたのだ。
勘弁してよ、もう!
泣きそうだった。
というかすでに泣いていた。
次の瞬間、後ろから太いものが首に巻き付いて、もの凄い力で締め上げられた。
ああ、やっぱりまだ部屋の中にいた。
さっさと玄関を開けていれば…。
そのまま、私は意識を失った。
体がうまく動かない。
縛れている。
手も、足も。
ここは、昨日の夕方にとりあえずベッドだけ置いた寝室だ。
起き上がって、口の所に布が巻いてあることに気がついた。
「お、起きたな」
あの男が、足を組んで椅子に座っている。
黒のスーツを着ているが、無造作に伸びた髪を見るからに、サラリーマンではなさそうだ。ホストって、こんな感じだろうか。
若い。
おそらく私より少し上。
きっとヤクザとか、なんかそういう危ない奴だ。
「お前な、男じゃないからわからんだろうが、あんなことは二度とやるなよ。
くそっ、まだ少し痛いぞ」
ああ、私はどうなるのだろう。
どこかに売られるのか。もしくは…。
嫌だ。
考えたくない。
「落ち着いて聞け。俺はお前をどうこうしようって気はない。ただ、返して欲しいんだけなんだ」
返す?
なにを?
「これ、お前のバッグ」
そう言って、男は私のバッグを投げてよこした。
「その中に、俺の大切な物が入っている。それを取り出せ。訳あって、俺には触れる事ができない」
何を言っている、この男は。
「それを受け取ったら、俺は消える。二度とお前の前に姿を見せないし、危害も加えない。だから大人しく、言う通りにしろ。いいな。
今から腕の縄を解くから、お前はバッグから黒い手帳を取り出して、そしてあなたにお返しします、と言って俺に渡すんだ。それでぜんぶ解決だ」
何を言っているのか理解出来ない。バッグに手帳?
は。
目の前に転がったバッグの口から、何か黒い本のような物が見えている。
私のじゃない。
いつから入っていた?
気付かなかった。
これを、返せと言う。
なぜ自分で取らない。
訳あって触れられないと言っていた。
なんなの、こいつ。
わけわかんない。
「いいか。本当は俺だって、こんな手荒な真似はしたくないんだ」
そう言って男は私に近付いて、後ろ手に縛られた手首に触れた。
その瞬間、ふっと縄が解けた。
まるで手品のようだった。片手だけで固く結ばれた縄を解くなんて。
男はゆっくりと離れていき、椅子に座り直した。
手荒な真似をしない、というのは本当らしい。
だが、まだ油断は出来ない。
「あ、口の布もとっていいぞ。ただし、大声を出すなよ。その時は…」
切れ長の目が、鋭く睨みつける。
私は頷いてからそっと口元に手をやり、巻かれた布をずり下げた。
はあっ、と一呼吸する。
「余計な事は喋るなよ。あなたにお返しします、それだけだ」
バッグから取り出した手帳。
A5くらいのサイズ。
黒革の表紙で厚みのあるそれは手帳と言うより、最初に感じた通りやはり本に近い。
どう考えてもおかしい。
なぜ自分で取らない。
なぜこれに触れられないなんておかしな事を言うのか。
「よし。さあ、言う台詞はわかってるな」
「あ、あな、たに…」
声が震えている。
とにかく、言われた通りにしなきゃ。
こいつはどうかしている。
「あなたに、お返しします、だ」
「あなたに、お返しします」
そう言って、私は男の手元に本を差し出した。
しかし男がそれに手を触れた瞬間、バチン、と火花が散った。
「きゃあっ!」
思わず本を取り落とす。
男は椅子から転げ落ちた。
「くそ、なぜだ」
右手を押さえ、喚いている。
「おい、もう一度だ!」
「わ、わかったから、乱暴しないで」
くそう。
この私がこんな男に対して下手に出るなんて。屈辱だ。
「あなたに、お返しします」
そう言ってまた同じ動きをする。
バチン!
そして、また同じ事が起こった。
「こんな…なんということだ!これは…」
私には、一体何が起こっているのかさっぱりわからない。
ただ、本が男の手に触れる度に飛び散る幻想的な紫色の火花が、これが尋常ではないことを告げていた。
いや自分が縛られてベッドに投げ出されている今のこの状況自体がすでに尋常ではないのだけれど。
「お前、一体なんなんだ」
「も、もう一回…」
私は床に落ちた本に手を伸ばす。
「やめろ!俺に近付くな!」
男は急に怯えたように、私から距離を置いた。
「くそ!どうなっている!」
「あ、あの。一体何が起こって…」
男は暫く黙り込んで、やがておかしなことを話し始めた。
窓の外は、すっかり夕焼けに染まっていた。
「俺は、この世の者ではない。信じる信じないはお前の勝手だが。お前たちの世界で言う所の…そうだな、死神、と言うやつが最も相応しいかもしれん」
死神。
では、これはさしずめ、これから死ぬ予定の者が書かれた、死の手帳といったところか。
「その手帳には、これから死を迎える人間の名が記されている。使者をあの世へ導くのが、俺たちの役目だ」
やっぱり。どうかしている。
中二病というやつだろうか。
「俺たち、という表現が気になるか?」
気にしていないが、言われて気になった。
「そうだ、我々は複数存在する。だが普段はお互いに姿は見えないし、干渉もしない。何人いるのかもわからない。ただ、与えられた役目を全うする、それが俺たちだ」
しかたない、話に付き合うほかはないようだ。
ここは穏便に事を済ませたい。
「で、この本を、なんで私が?」
「俺が落っことした」
あ。
その時、ふと昨日の出来事を思い出した。
空から、何かが降ってきたと思った、あの感覚を。
いやいやいや、何を私までバカなことを。
そんな事があるわけ…。
「俺があんなクソミスするとは。
とにかく、それには一度人間の手に渡れば我々には触れられなくなるという呪いがかかっている。それだけ大事にしろって事だ。
そして手に入れた人間からそれを取り返す方法はただ一つ。そいつにお願いして例の言葉を言ってもらわなければならん。さっきお前に言わせたやつだ。
それで、俺たちの間の呪縛は解除される」
「私たちの、呪縛?」
男はまた少し黙り、腕を組んで視線を宙に漂わせた。
どこまで話して良いか吟味するように。
「死の手帳の所有者は、死神を使役できる。例えば、そう、ある悪い政治家がこれを手に入れ、自分の邪魔者を殺す、とか。
或いはどっかの国の大統領が所有者になり、敵対するテロリストの首謀者を抹殺する、とかな。
拾っただけでも、その者は所有者としての契約を完了する。おっと、だからって変な気を起こすなよ。俺がお前に従うなんて事はないんだからな。
死神の使役には条件がある。そいつの魂を差し出すこと。つまり死神に何か仕事をさせた後で、そいつ自身も死ぬって事だ。お前に、そんな悪魔の取り引きみたいな真似は出来ないだろう?」
まったく荒唐無稽な話だが、気が付くと、私はこの男にあまり恐怖を感じなくなってきていた。
なぜだろう。
相変わらず私は縛られたままで、さっきと状況が変わったわけではないのに。
「契約って、誰かを殺すことだけ?」
男は意外そうな顔をした。
「それ以外に、死神を何に使う。
なんだ、本当に殺して欲しい人間がいるのか?命と引き換えに?
だったらここからはビジネスの話だ。例えお前のような小娘だろうと、契約は契約だからな」
「じゃあ、私が本を返さずに、あなたを使役することもしないとしたら?」
「…は?」
「命はとられないでしょう?あなたには何も頼んでいないんだから。私には殺して欲しい人なんていないし。
でもこの本も返さないとしたら、あなたはどうなるの?」
「………」
男は黙りこくってしまった。
「ねえ、ちょっと」
「………」
ちょっと試してみたい事ができた。
「これ、ほどいてくれない?痛くて」
「……ああ。そうだな」
男は素直に私の縄を解いた。
さっきと同じように、手を触れただけで縄はするりとほどけた。不思議だ。
しかし、おやおや。これはもしや。
「あなた、もしかして私の言った事に逆らえないの?契約してるから」
「………」
答えない。
「ねえ、死神って言うならなんか魔法みたいの使えるわけ?今縄を解いたみたいなやつ。ちょっとやって見せてよ」
「なんだと」
「あ、ごめん。やっぱ出来ないのか」
「なんと無礼な」
そう言って男はベッドの上に置かれたバッグに手をかざした。
ふわり。
とバッグが宙に浮いた。
「やだっ!」
思わず声が上ずってしまった。
「おいなんだ、すでに信じたと思ったが、やはりまだ信じていなかったのか」
そしてゆっくりと、バッグは私の膝に乗っかった。
「嘘でしょ。なにこれ」
「おい、お前。さっきの話は本気か」
信じられない。
だけど信じざるを得ない。目の前でこんなものを見せられては。
「おいお前、無視してるんじゃあないぞ」
「え?ああ、うん」
「さっきのお前の言葉だ。本気かと聞いている。お前、本気で俺を…」
「いや、なんて言うか、まだ半信半疑って言うか」
どういう状況だ?これは。
少なくとも、私に不利な状況ではないのではないか。
「くそっ、なんて女だ。
だがしかし、例の言葉を言わせたのに、手帳が取り戻せない理由もわからない。ただ言わせるだけでは駄目だということか?
ふむ、俺の方もひとまずは様子を見る以外にはないようだ」
「結局、どうなるの?」
「わからん!こんな事は初めてだ。手帳を落とすなんてバカをやったのも初めてだし、こんな滅茶苦茶な提案をしてくる所有者も聞いた事がない」
「と、とりあえず今日は帰ったら?」
「そんなわけにいくか。契約者から離れる事はできん」
それって、どういう意味だ?
「つまり、私が誰かを殺すまで、私の側から離れないってこと?」
「そういうことだな。
嫌ならさっさと誰かの抹殺を俺に命じろ」
「馬鹿じゃないの!?
そんなことできるわけないでしょう」
「なにが馬鹿か!それが最もお前のためだろうが」
できるわけがない。
誰かを殺すなんて。
そんなこと。
考えたくもない!
「とにかくさ、あんた、今日はうちに泊まっていくってこと?」
「今日はじゃない。お前が契約を終了させるまでだ。
ああ、なぜこんなことに…」
「それはこっちの台詞だっての。
こんな奴がうちに」
気が付けぱ、窓の外はすっかり暗くなっていた。
「おなか、すいた」
「うむ。外食がよかろう。
この部屋を見るに、調理が出来る環境ではなさそうだ」
「昨日越してきたばかりなんだって」
「お前も、料理が出来る女には見えん」
キレた。
さっきの恐怖からの反動で、もうとにかくキレた。
「お、おい、落ち着け!
それは駄目だ。人として、それだけはやっちゃあいけない」
私は両手で引きちぎろうとした本をベッドの脇に置いた。
「あなた、ちょっとそこへ正座なさいな」
「小娘が、俺の魔力を試されたいか」
「せ・い・ざ」
私が再び本を手に取り、ヒラヒラと鼻先にちらつかせると、
「くっ…!おのれ、なんたる屈辱」
と言いつつも、男は眉間に皺を寄せながら、渋々とフローリングの床に居直る。
どうやらこの本が手元にある限り、私の身は安全。それどころか、こいつは私の命令に逆らえないらしい。
「あんたの処遇は後で考えるとして、とにかく何か食べなきゃ。今日はまだなんにも食べてないもの」
言いながら、正座する男の頭にバッグを乗せてみた。
「おのれ、小娘ぇ」
さっき散々私を怯えさせた罰よ。
でもこいつの言う通り、外で食べるしかないかな。
もうコンビニ弁当でもいいか。
調理器具どころか冷蔵庫や電子レンジもまだ無いので、そもそも食材を買ってきても保存も何も出来なかった。
ここへ越して来る前に、親がいろいろ買い揃えてくれようとしたのだが、自分で揃えていくのが楽しみだからと、私が断ったのだった。
「私は隣の部屋で着替えてくるから、あんたはその間ずっとそのまま正座でいなさい。覗いたりしたら、殺すわよ。バッグを落としても殺す」
「お前、悪魔よりも悪魔らしいぞ」
憎まれ口を叩く男を放置して、部屋を出ようとする。
よし、とりあえず着替えて…。
「ちょっと待って…」
嫌な記憶が甦る。
さっき、私は…。
その…おもらしを…。
「ぱっ、ぱ、ぱ……」
今は、パンツは濡れていない。
というか、なぜかスウェットに履き替えている。
なんで。
だれが。
まさか。うそでしょ!?
「ぱ、パンツ…。私のパンツ、どうしたのよっ?」
ここには私以外には一人しかいない。
「ん?ああ、俺が履き替えさせたぞ」
うそだぁぁぁ!
「こ、こ、こ」
なんということでしょう。
ああ。神様。
どうか嘘だと言って。
「なんだ?
まああの時は余程怖かったんだろう。仕方あるまい。あまり自分を卑下するなよ」
こ、この男は…。
「まったくもって不本意ではあるが、目下のところ、俺はお前に使役される身だ。
俺の力が必要な時は、なんなりと申し付けるがいい」
なんという…。
「こ、この!
ばかあああぁぁーーーっ!!」
その後の顛末は、割愛する。
寂しい思いをしたり、怖い思いをしたり、とんでもない恥ずかしい思いをしたり、長いようで短い一日が終わりを迎える。
まだ信じられないこともたくさんあるが、そして信じたくないこともたくさんあるが、こうして、私たちの奇妙な共同生活が始まったのだった。