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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

天満の二度打ち

作者: としのしゅんじ
掲載日:2026/10/30


一 噂

天満の「二度打ち」という話を最初に聞いたのは、去年の秋、天神橋筋三丁目の居酒屋だった。

話してくれたのは後輩の千早である。私が勤める損害保険会社の調査課で、事故現場の写真を整理するのが彼女の仕事だ。ハイボールを半分ほど空けたところで、彼女は声を落とした。

「川崎橋って、あるでしょう。天満橋と天神橋の間の、歩行者専用の。あそこで夜に誰かを本気で恨むと、橋の下から『こつ、こつ』って、硬いものを二回打つ音がするんやて。その音が聞こえた相手は、一週間以内に必ず不幸な目に遭う。通称、二度打ち」

「木槌みたいやな」

「そう、裁判の。天神さんの土地やから、道真公の祟りやって言う人もおるよ」

天満は天満宮の門前に栄えた町で、祭神の菅原道真は、讒言で左遷され、死後に雷を落として都を震えさせた祟り神でもある。怪談の土壌としては申し分ない。だが私は笑った。

「千早ちゃん、その手の話には必ず穴がある。不幸な目に遭わへん人間なんかおらん。一週間もあれば誰でも指は挟むし財布も落とす。後から当てはめたら、全部『二度打ち』になる」

「宗一さんは夢がないなあ」

渡会宗一、三十四歳。事故の因果を疑うのが商売の人間である。偶然を偶然と見抜く目には自信があった。そういう人間を、世間では常識人と呼ぶのだと思っていた。

千早がこの噂を口にするとき、少し妙な顔をするのには理由がある。十年前、彼女につきまとっていた男が、天神橋筋で看板の落下に遭い重傷を負った。彼女はそれを二度打ちの仕業だと信じていて、恐れと感謝の混ざった複雑な声で、その話をするのだ。

その夜、千早の隣の席では、前の部署の課長が酔って彼女の肩に手を回し続けていた。千早は笑って躱していたが、グラスを持つ指先が震えているのが見えた。私は枝豆を剥きながら、右手の指二本でこめかみを二度叩いた。考えごとをするときの、子どもの頃からの癖である。

「ええ加減にせえよ、ほんまに」

独り言は、誰にも聞こえない程度の声だった。翌週、その課長は駅の階段で足を滑らせ、大腿骨を折った。私は事故状況報告書を、他人事として読んだ。

二 岩佐

岩佐誠は調査課の先輩で、私より七つ上になる。無口で、いつも冷めたコーヒーを持っている男だった。その岩佐が、二度打ちの話が課内に広まった翌日、私を会議室に呼んだ。

「渡会。あの話、詳しく聞かせてくれ」

意外だった。岩佐は噂話の類を最も嫌う人間のはずだ。彼は窓の外の大川を見ながら、ぽつりと言った。

「十七年前、啓介が川崎橋の下で死んだ。あの夜、橋のあたりで『こつ、こつ』という音を聞いたと言う人間がおった」

岩佐の弟の啓介は、当時二十歳。大川の護岸から落ちて溺れ死んだ。事故として処理され、現場に居合わせた唯一の目撃者として警察に通報したのが、当時十七だった私である。それが縁で、私が入社したとき、岩佐のほうから声をかけてきた。彼は私を、弟の最期に付き添ってくれた少年として、ずっと気にかけてくれていた。

「俺はな、あれが事故やったとは思てへん。何かがおる。そいつを見つけて、潰す」

静かな声だった。静かな分、本気だとわかった。

私は反対しなかった。調査課の権限で閲覧できる事故記録を洗い、天満周辺の似た事例を拾い出す作業なら、仕事の延長として引き受けられる。二人で三週間かけて、十七年分の記録を地図に落とした。

拾えた案件は九件。啓介の転落。二〇一三年、泥酔運転の男が南森町で大川に突っ込み死亡。二〇一六年、天神橋筋で若い女性につきまとっていた男が看板の落下で重傷。二〇一九年、天満の雀荘で客から金を巻き上げていた男が階段から転落して死亡。いずれも、被害者の側に何らかの前歴があった。

「悪さをした人間ばっかりやな」と岩佐が言った。

「悪さをする人間は、そうでない人間より事故に遭いやすい。注意力も酒の量も違う。統計の偏りです」

私は答えた。それは本心だった。

もう一つ、記録の中に、天満とは無関係の奇妙な束があった。和歌山の紀ノ川沿いで、男が三人、相次いで死んでいる。三人とも、左手の小指に赤い糸が結ばれていた。保険金の支払い調査として、紀州支店から回ってきた件である。

「こっちは別もんやな」と岩佐は言った。「天満の『音』とは手口が違う。別におるんかもしれん」

私もそう思った。怪異というものがもしあるとして、この世にそれが一つきりだと考える理由もない。

三 地図

三週間目の夜、一人で残業しながら、私は九件の地図を眺めていた。そして、ある違和感に気付いた。

印の位置が、私の生活圏とほとんど重なっているのだ。

私は天満橋の近くに生まれ、今も南森町に住んでいる。通勤路は川崎橋を渡る。印はどれも、その徒歩圏内に収まっていた。偶然ではない、と思った次の瞬間、私は自分の思考を笑い飛ばした。

「当たり前や。地元の調査員が、地元の案件ばかり拾うとるだけや」

それでも、念のためと言い訳をして、私は個人の手帳を引っ張り出した。日記に近い、仕事の備忘録である。九件の日付を、手帳に当てていく。

二〇一三年、泥酔運転の件。その前夜、私は終電で、運転席から怒鳴り散らす男に絡まれていた。二〇一六年、看板の件。千早がつきまとわれていると相談してきた、その二日後。二〇一九年、雀荘の件。大学時代の友人が巻き上げられたと聞いた、その夜。

九件のうち七件で、直前に私は誰かに腹を立てていた。

馬鹿馬鹿しい、と声に出した。記憶は後から物語を作る。因果を読み込むのは人間の悪い癖で、それを正すのが私の仕事だ。第一、仮にそうだとして、私が何をしたというのだ。ただ腹を立てただけだ。腹を立てただけで人が死ぬなら、世の中は死体だらけになる。

見ないことにしたものも、もう一つある。三年前、千早が橋の上で車に轢かれかけた件だ。車は彼女の三十センチ手前で、見えない壁に当たったように停まった。居合わせた私は、あのとき「頼むから無事でいてくれ」と思いながら、こめかみを叩いていた。停まった理由は、ブレーキの不具合と運転手の反射で説明がつく。説明をつけたのは私だ。

ただ、その夜、私は手帳の端に小さく書き込んだ。「祭に近づくな」。七月の天神祭。人が一番集まり、酒が入り、誰もが苛立つ夜。何かが起こるならあの夜だ、という、根拠のない予感だった。根拠がないので、私は予感のほうを忘れることにした。

四 十七年前

私は岩佐に、一つだけ話していないことがあった。

十七年前の夏の夜、私は啓介に金をせびられていた。年下から小銭を巻き上げる類の青年で、その夜も私は護岸の上で財布を取り上げられ、頭を小突かれていた。私は耐えていた。いつものように、こめかみを二度叩きながら。

「ええ加減にせえよ」

啓介は笑った。その二秒後、彼は足を滑らせて川に落ちた。私は護岸を降りて手を伸ばしたが届かず、携帯で一一九番にかけた。

弟の不名誉を、わざわざ兄に聞かせる必要はない。私はそう考えて口を閉ざし、十七年間、それを善意だと信じてきた。

調査は年を越え、六月の終わりに、岩佐が私を呼び出した。

「啓介の昔の連れに会うた。あいつ、あの頃、高校生を一人脅しとったそうや。お前やな」

私は否定しなかった。岩佐は責める顔ではなかった。

「責めてへん。ただな、啓介は水泳部やった。あの浅さで、落ちて溺れるはずがない。頭を打った言うても、あの護岸の角度では打たれへん」

「何が言いたいんです」

「七月二十五日、天神祭の夜。川崎橋の真ん中で待ってる。あの夜のことを、あそこで、全部話してくれ」

疑われている、と私は感じた。腹の底が、冷たく煮えた。

帰宅して、手帳の「祭に近づくな」を見た。私は少し笑って、その一行を線で消した。岩佐を失望させたくなかったし、何より、正体のわからぬものを恐れて逃げる男になるのは、私の矜持が許さなかった。人は祭では死なない。常識がそう言っていた。

五 天神祭

七月二十五日の夜、天満は人で溢れていた。

大川には船渡御の船が灯りを連ね、鉦と太鼓の音が水面を渡ってくる。川崎橋は見物の人垣で、欄干に沿って肩と肩が触れ合っていた。蒸し暑さと酒の匂いの中、私は人波を縫い、橋の中ほどで待つ岩佐を見つけた。

「来たな」

「来ましたよ。常識的な人間は、約束を守りますから」

岩佐は橋の下の暗い水を見つめたまま言った。

「十七年前、お前は嘘をついた。啓介は泳げた。お前が突いたんやろ。責めへん。ただ、本当のことを聞かせてくれ」

「突いてへん」

自分でも驚くほど硬い声が出た。

「あの人が勝手に落ちたんや。私は十七年、啓介さんの恥を思て黙ってきた。それを疑うんですか。ほんまに、ええ加減にしてくれ」

指がこめかみに伸びていた。こつ、こつ。

岩佐の顔が、一瞬、何かに気付いたように動いた。

「お前、その癖……」

その時、最初の花火が頭上で割れた。

地鳴りのような歓声。人の波が一斉に動いた。橋の階段を下りようとする流れと、遊歩道から上がろうとする流れが正面からぶつかり、足元から悲鳴が上がる。背筋が冷えた。この密度。この圧。手帳に書いた予感は、これだったのだ。

だが私は、馬鹿馬鹿しい、と思い直した。大きな祭だ、誰かが誘導しているはずだ、と。そして階段の前で、酔った若い男たちが、老女や子どもを肩で押しのけて割り込むのを見て、また指を上げた。

「どいつもこいつも、ええ加減にせえよ」

こつ、こつ。

次の瞬間、階段の途中で誰かが倒れた。その上に人が重なり、轟音のような悲鳴が橋を包んだ。私は足元で泣いていた男の子を抱き上げ、欄干の柱の陰へ押し込んだ。頼む、この子だけは、と思いながら、また指が動いていた。

岩佐の声が、人の渦の底から聞こえた。「手ぇ離すな!」。彼は転んだ女の子を庇って、階段の下へ呑まれていった。

六 証明

死者は三人。岩佐誠と、階段に割り込んだ若い男二人だった。重軽傷者は三十七名。私が柱の陰に押し込んだ男の子は母親と再会し、擦り傷ひとつなかった。警察は群衆事故として処理し、運営の責任が議論された。

葬儀で、岩佐の母は私の手を握って泣いた。「啓介の最期を看取ってくれた子が、今度は誠まで」と。私は頭を下げることしかできなかった。

帰宅し、手帳を広げた。調査員の習慣で、感情を抜いて表を作った。縦に、九件に今回の三件を足した日付と場所。横に、私の所在、直前の私の感情、こめかみを叩いたか。

十二件のうち十二件で、私はその近くにいた。十二件のうち十二件で、私は怒っていた。十二件のうち十二件で、私は指を二度打っていた。

こつ、こつ。

音を聞いたという証言者は、皆、橋の下ではなく、私のすぐそばにいた。啓介の夜も、橋の上の通行人が聞いたのは、護岸で私が頭を叩いた骨の音だった。橋の下から響く木槌は、私の指だった。

それでも私は、まだ偶然を疑おうとした。だから実験をした。翌朝、北浜の交差点で、赤信号を前に「変われ」と思いながら二度叩いた。変わった。三回繰り返して、三回変わった。四回目は叩かずに待った。変わらなかった。

もっと厭な実験もした。向かいの歩道で、携帯を見ながら歩く男に、苛立ちを込めて二度叩いた。男は縁石に躓き、携帯を側溝に落とした。ただそれだけの事象だった。だが、ただそれだけの事象を、それだけで終わらせたのが私だということは、わかってしまった。

繋がった。啓介も、泥酔運転の男も、看板も、雀荘も。課長の足も。千早の前で停まった車も。私が怒れば確率は悪い方へ傾き、私が案じれば良い方へ傾く。誰も気付かなかった。私自身も。怪異は噂に宿るものだと思っていた。違った。怪異は、一人の男の無自覚な癖の中にいた。

岩佐の、最後のあの顔を思い出した。お前、その癖……。彼はあの瞬間に、気付きかけていたのだ。

七 天神

自首の文面は、三度書いて三度破った。

誰が信じるだろう。信じたところで、どの法がこの指を裁くだろう。それに、拘置所の中でも私は怒る。怒れば誰かの足が滑る。看守か、同房者か。私を閉じ込めること自体が、新しい死者を生む。

指を縛ればいいのか。癖は意識で縛れる、と最初は思った。右手をポケットに入れ、三週間、苛立つたびに握りしめた。だが三週間目、満員電車で足を踏まれたとき、私は無意識に左手で同じことをしていた。足を踏んだ男は、乗り換えの階段で転んで前歯を失った。止められない。これは私の体質なのだ。

行き詰まって、私は初めて天満宮に足を運んだ。

境内で由緒書きを読んだ。左遷された道真は、大宰府で怨みを呑んで死に、都に雷が落ち、人が死んだ。朝廷は恐れ、位を追贈し、社を建て、名を与えて祀った。祟りは、その瞬間から天神になった。学問の神、守りの神。同じ力が、形と名と作法を与えられて、反転した。

消すことはできない。ならば、名と作法を与えればいい。怒りで無自覚に振るうのではなく、自覚して振るえばいい。

私は決めた。苛立ちで指を動かすのをやめる。動かすのは、私が選んだときだけ。橋の上で、相手の名を口にして、二度。「ええ加減にせえ」としか言わない。生死は私が決めない。私の意思が偶然に傾きを与え、その先は世界が選ぶ。天神の木槌である。

最初の裁定は、天神橋筋商店街で、独り暮らしの老人から現金を騙し取っていた男だった。夜の川崎橋で名前を呟き、二度打った。三日後、男は自転車ごと側溝に落ち、肋骨を三本折って、盗んだ金の入った封筒を道に散らした。通りがかりの人がそれを老人に届けた。

次は、取り立てで人を追い詰めていた男だった。彼は二ヶ月後に心臓を止めた。私は何も感じなかった。胸に手を当てても、岩佐の最後の顔を思い出しても、痛みは来なかった。私の中で、何かが、水に沈むようにゆっくりと消えていった。

八 反転

翌年の春には、二度打ちの噂は形を変えていた。

「悪い人しか打たれへんらしい」「天神さんが二人おる。一人は昔の、もう一人は橋の」。千早はそう話し、ハイボールを置いて笑った。

「怖い話のはずやのに、最近ちょっと安心するんです。夜、橋を渡るのが」

「そうか」と私は言った。

彼女は少し黙ってから、私の顔を覗き込んだ。

「宗一さん、最近、笑わへんね」

私は笑ってみせた。彼女は安心したように目を逸らした。その様子を、私は街の灯りを眺めるように眺めていた。彼女が車に轢かれかけた夜のことを思い出す。あれは私の救いだったのか、それとも領地の中の石を一つ守っただけだったのか。区別がつかなくなっていた。

その夜、一人で川崎橋に上がった。川風が冷たい。欄干に手をかけ、暗い水を見る。岩佐がここに立っていた。啓介がここで落ちた。ここは私の場所だ。

遠くで酔客が女性に絡んでいる声がした。私はその背中を見て、こめかみに指を当てる。

こつ、こつ。

秋の終わり、紀州支店から報告書が回ってきた。橋本市の紀ノ川沿いで、また男が一人死んだ。左手の小指には赤い糸。聞き取りの末尾に、近所の八十近い女性の言葉が記されていた。

「約束を破るもんは、あきませんやろ。指切りしたんやから」

彼女は穏やかに笑っていた、と調査員は付記している。私は頁を閉じ、「事故性、判断保留」と書いた。彼女は私より先に、自分が何であるかを知っていたのだろう。そして彼女は、私よりずっと迷いがない。同じ国の別の川のほとりで、別の誰かが、別の正義で、同じことをしている。この国にはきっと、あちこちに、誰にも気付かれぬ橋があり、誰にも気付かれぬ誰かが立っている。

窓の外に、大川の暗い流れが見える。

明日も、橋の上で、私は二度打つ。



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